戦争、供儀、笑、交感(コミュニカシオン)、そして死。バタイユ思想には繰り返し出てくるこれらの言葉は、まさに「有用性の限界」において「消尽」そのものを表す概念なのである。そして、その先にあるものは、ほとんど「無意味」といっていい「呪われた部分」なのだ。ついでに言っておくと、この「消尽」へと向かうベクトルの延長線上にあの秘密結社「アセファル」があるとみれば、これまで不可解さにおいてバタイユ思想の最大の謎であった「アセファル」の意図もおぼろげながら感知できるのである。
思想
戦争、供儀、笑、交感(コミュニカシオン)、そして死。バタイユ思想には繰り返し出てくるこれらの言葉は、まさに「有用性の限界」において「消尽」そのものを表す概念なのである。そして、その先にあるものは、ほとんど「無意味」といっていい「呪われた部分」なのだ。ついでに言っておくと、この「消尽」へと向かうベクトルの延長線上にあの秘密結社「アセファル」があるとみれば、これまで不可解さにおいてバタイユ思想の最大の謎であった「アセファル」の意図もおぼろげながら感知できるのである。
★公開対談のお知らせ★
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■対談 いかにして消尽したものになるか……死の贈与と生の贈与
パネリスト
●澤野雅樹氏 明治学院大学社会学部教授
●萱野稔人氏 津田塾大学国際関係学科准教授
『談』no.80 特集「「無意味の意味/非-知の知」〈07年11月末発行に収録予定〉
・人々は、なぜこうまで有用性や合理性にこだわるのでしょうか。意味のあること、役に立つこと、価値のあることを金科玉条のごとく死守する私たち。まるで取り憑かれたように理性を最大限発揮し、知力も体力も、そして感性までもすり減らしながら意味生産のレールをひたすら走り続けます。そして、意味がない、役に立たない、価値がないものに対しては、容赦なく切り捨てる。無意味であることは、それだけで悪であるような空気すら世の中には漂っています。しかし、本当にそうでしょうか。有用でないもの、役に立たないものは、本当に無意味なのでしょうか。
現代人のこの有用性、合理性への信仰(!)は言い換えれば「意味の病い」です。意味の病い、それは知、理性への隷属であり、本源的な意味での生きる自由からの退却です。今こそ、無意味を志向することの自由、無意味なるものの意味を考え直す時ではないでしょうか。
・澤野氏は、「使えないから面白い」、20世紀の偉大なる使えない作家たちと共に、「不毛」の素晴らしさを完膚なきまでに論証し、「有用性」ではなく、「情欲」の資本主義を提唱します。消尽したものの優美さ、役立たずのエレガントこそ、21世紀を生き抜く者たちの倫理であると。
一方、国家をなりたたせ存在させているのは、〈権利〉をめぐる暴力の運動であり、その運動が最初におこなうのは、〈権利〉にもとづかない暴力を取り締まるためにみずからに〈暴力への権利〉を付与することだと萱野氏は言います。暴力装置としての国家から、われわれはいかにして逃走しうるか。贈与/消尽に、その突破口を見出せるとしたら……。
・ドゥルーズ、ガタリ、そしてフーコーを参照しながら、無償性、消尽、暴力、贈与を手掛かりに、「無意味なるもの」「かそけきもの」「寄る辺無きもの」について、徹底的に語り合っていただきます。
■日時 2007年10月2日(火)19時スタート(開場18時より)
■会場 サウンド・イメージ研究所ラボ・カフェ・ズミ
武蔵野市御殿山1-2-3 キヨノビル7F(1階が自転車です)
吉祥寺駅公園口から徒歩5分
地図 →
■入場料 無料 ただしドリンクを注文していただきます。
■定員 15名 先着順(定員に達し次第締め切らせていただきます)
■受付 メールにてお申し込み下さい。
対談参加希望とお書きの上、お名前、ご連絡先を明記して→oubo@dan21.com へ
次のは自分で言うのもなんなんですが、すっごく面白いですよ。乞うご期待です。コンテンツについては、随時アナウンスしていきますが、今回一つ新しいことをやります。愛読者サービスとしまして、公開の対談をやろうと思っています。もちろん、『談』掲載を前提とするものなので、公開といっても少人数を対象とするものになりますが。で、誰と誰がやるの? と当然みなさん興味津々だと思いますが、それはまだ秘密。ものすごくチャーミングなトークセッションになることは、間違いありません。そして、場所がまたサプライズ。ブログでの告知のみになりますので、ぜひ日々のチェックを怠りなく、なんて。
すでにみなさんには、原稿はお渡しして読んでいただいているので、発表しないでもいいような雰囲気だった。でも、予習をしたので(自分の原稿を予習してどうするというツッコミはいれないで)、発表させてもらった。みなさんの印象はというと、意外な反応が……。今回はそれぞれのインタビューは分かりやすかったのに、editor's noteが難解だというのである。難しい先生の話を、誰にも解るように説明するのがその役目だったのではないか。それが、インタビューより難しいとは。前号は、分かりやすくてよかったのにと。どうしても専門的な言葉を使わざるを得ないということもあるんですけどね。「まぁ、いろいろな意見があるのはいいことではないでしょうか」とまとめたら笑われてしまった。
木原千春さんの表紙画、神山貞次郎さん撮影の上杉満代さん舞踏、共にOKが出て、あとは発行するのみ。8月20日発行予定。
『思想』に三脇康生さんの「精神科医ジャン・ウリの仕事」という興味深い論文が載っていたので、ひさしぶりに書庫からジャン・ウリらが執筆している『精神の管理社会をどう超えられるか?』を持ってきた。空間管理という点に注目すれば、まさにこの本は、その現状を、精神医療という場面に則して徹底的に批判している。今度の座談会のヒントになりそうだ。
その本のとなりに『太陽』の熊楠特集があった。『ひたち』の表紙に熊楠の「十二支考」のスケッチを載せたが、熊楠はほかにも沢山の手書きスケッチを残している。粘菌関連のスケッチにも面白いのがいっぱいある。今度、どこかでまた使えるかもしれない。またそのとなりには、『The Secret Scrapbooks of Professor A.J.Copperthwaite』が並んでいた。19世紀から20世紀初頭にかけて奇想建築物のプランをたくさん考え出した天才コッパースウェイト教授のスケッチ集。これは、『ひたち』に使えそうだ。提案してみよう。
よしながふみの「フラワー・オプ・ライフ3」を読む。なんていい話なんだろう。こういう高校生ものがぼくは好きだ。吉田秋生の「蝉時雨のやむ頃」が涙ちょちょぎれたので、そのエピソード1にあたるであろう「ラバーズ・キス」を十数年ぶりに引っ張り出してきて読み直す。これも高校生ネタで、垂涎ものだ。そういえば、集英社コバルトシリーズの作家になろうとマジで思っていた頃がぼくにもあったことを思い出して、ちょっと恥ずかしくなった。
スピノザは「良心の呵責」について、「悲しみ」という情動に解消したと言われている。そのことが、人間の社会的・倫理的な行動契機を奪うことにつながりかねないと研究者から指摘されていた。浅野さんは、そこに注目して、「その考えが従来型の良心論が持つ、個人という枠内の自意識の問題にそれをとどめてしまう傾向を突破して、汎化された〈環境に対する能動的な関心と反応能力〉を私たちにもとめていくものではないか」と、むしろそこにこそ可能性を見出そうというのである。
「今日の様々な社会闘争の直接のきっかけとそれを持続する意志に力をあたえているのは、〈悲しみ〉という情動なのではないだろうか。言い換えれば、自己や他者の生命が何らかの形で傷つけられていくことに対する、ほとんど身体レベルから発せられる異議申し立てーーすなわち媒介を経由しない直接的・一時的かつ否定することの不可能な情動ーーなのではないだろうか。しかもそれは同時に、能動的な〈喜び〉の情動の増殖を求めて自らを貫通する関係性を構成し直し、新しい共同体を構築しようとする、個人性にはけっして限界づけられない集団的欲望なのではないだろうか」
浅野さんはこの論文で、『談』インタビューのその次を展開しているのである。
サウンドイメージ研究所/Laboratory Cafe dzumiへ。泉さんすっかりマスターになっている。今日、このスペースをお借りして弘前大学の冨田晃さんにインタビューをするのだ。窓際のテーブル席でインタビュー開始。冨田先生はサックス奏者でスティールパン奏者で三味線弾きで彫刻もやる、文化人類学者にして美術の先生。生きながら死んでいくより、死んだように生きていく方をとると言い、つまらないものを守るよりも、身体が感じているものを守りたいと強い調子で言い切る。クリエイティヴであり続けるための戦略と戦術にたけてるひと。カーニバルとは本来目的がないから面白いのであって、その意味では遊びと同じだ。ラテンの感覚を強くもつとても気さくな人だった。道を挟んだ向かいにあるフレンチの店、芙葉亭で食事。2時15分を回ってしまったので、タクシーで次なる目的の場所、日体大へ。15時15分。ドアを開けるとすでに研究会は始まっていた。思ったより沢山の参加者がおられる。ちょうど稲垣正浩先生が発言中。これは前の発表者に対するコメントだった。われわれを加えて、いよいよ稲垣先生の発表。「スポーツと暴力」は、興味を引くテーマだ。先生の発表は、休憩を挟んで、2時間以上に及んだ。内容は、ソレルとベンヤミンの暴力論を手がかりに、暴力そのものが両義的な概念であり、スポーツは暴力ではないかという仮説に基づいて、検討していくというものであった。近代スポーツがドーピングという事態を引き起すのは、論理的にみれば必然である、という議論はとても興味のあるところだ。この講演会をもとにインタビュー記事にするという目論見。さて、はたしてうまくまとめることができるだろうか。
「差別。確かにそれは、差別する者の行為や意識に宿っており、差別を受ける人々のこころや日常を侵害していくものだ。これは間違いないだろう。しかし、この発想だけで差別を考えるとき、差別は「事件」となり、私たちの日常生活からは、確実に離れたものとなるだろう。そうではない、差別は常に、私たちが生きている日常で起こっていることであるし、これまで生きてきた歴史の中で、起こってきたことなのである」。「とりあえず、こう考えを変えておきたい。差別は「してはいけないこと」「あってはならないこと」ではない。差別は、「してしまうもの」であり、「あってはならないと思うが、そのためには、何をどのようにし続けたらい(ママ)のか」と自らが日常生活のなかで考え、いろいろと実践するうえでの"意味ある手がかり"であると」(本文より)。
差別とは、自分と世の中をつなぐひとつの形ではないか。私が、差別といかにして出会えるか。そこから、具体的な差別とのつきあい方を立ち上げようと提言します。そのための一歩は、まず「決めつけ」「思い込み」を崩すこと。すべてはそこから始まります。

『談』no.76の対談ご登場の酒井隆史さんと『TASC monthly』2006年12月号のサロンにご寄稿いただいた廣瀬純さんのトークセッションが開催されます。以下は主催の人文書院編集部からの情報です。
闘争の最小回路??運動・メディア・共同体
酒井隆史×廣瀬純
[司会]櫻田和也(remo)
ひとりひとりの内にある「政治」を可能にするパワー、
行為と力のクリスタル=闘争の最小回路を刺激するメディアとは何か、
そして、共同体と政治・運動の関係とは?
ラテンアメリカ社会運動の最前線から考える、
気鋭の論客による注目の初対談!
日時
2007年4月14日(土曜日)午後6時30分〜(開場:午後6時)
入場無料、予約不要
場所
新今宮・フェスティバルゲート4階 remo
(最寄駅)JR環状線「新今宮」下車すぐ、
地下鉄御堂筋線・堺筋線「動物園前」5番出口直結、
南海本線・高野線「新今宮」徒歩5分、市バス「地下鉄動物園前」
(地図)
新今宮・フェスティバルゲート4階
remo[NPO法人 記録と表現とメディアのための組織]
文理シナジー学会に所属していたこともあって、日頃から文系、理系の間に横たわる深くて暗い川(野坂昭如?)の存在が悩ましく感じられていた。ほんとに文理の融合、文理の総合なんてできるのかと問うことは重要だけれど、その埋めがたい溝がではどうして生まれたか、ぼくにはむしろそっちの方に関心があったのだ。昨夜アーティストの木本圭子さんと話していた時に、ふとこんな仮説が浮かんだ。両者を分かつのは、じつはその見方そのものにあるのではないかということ。どちらの立場から見ているのか、ということ自体が、両者を分けてるいるのではないか。以下がそのアイデア。『談』no.73で広井良典さんがアメリカでは、保守主義が右でリベラルが左、ところが欧州では、リベラルは右で左にあるのは社会民主主義。つまり、社会民主主義ーリベラリズムー保守主義という図式になっていて、この図式が正しく理解されていないと大変な誤解が生じるというものだった。これはそのまま、科学、工学、人文科学の区分けにいかせるのではないかと思ったのだ。つまり、理系では、最も人間の営みから遠くにあるのが科学。さしあたって数学がその権化だろうが、図式で言うと理系の世界の最右翼に位置する。その逆に、人間の生活、生き方に最も近いのは工学。端的に人間、社会に役に立つ、利用可能なのが工学である。工学とは、その意味でまさに応用科学である。したがって、理系の世界では、最左翼に位置付けられる。一方、文系ではどうか。じつは、人間の活動、生活を表象のレベルでみる限り、最も遊離しているのが工学である。まさにそれは機械が活動する領域であって人間が入る余地がない。だからこそ、逆に工学ではヒューマンスケールということが声高にいわれたりもするわけである。つまり、文系の世界では、工学は最も右に位置付けられる。反対の極にあるものはなにか。人文科学である。人間の営み、生活、生き方に最も接近している領域こそ人文科学である。哲学、社会学、精神分析とかがその代表である。
下のような図式になっているのではないか。
理系の世界 工学(engineering) 左←[人間、社会]→右 科学(science)
文系の世界 人文科学(liberal arts) 左←[人間、社会]→右 工学(engineering)
この図式は、理系からみた場合の工学の位置づけ、文系からみた場合の工学の位置づけを表している。さて、どうだろうか。 『談』の最新号のeditor's noteにも記したように、岡田節人さんが、生命科学は、再び生物学に回帰するべきだという言葉をもう一度噛みしめてみたい。理系の世界に棲む人々にとって生命とは物質そのものであり、工学的な操作可能なモノなのだ。ところが、文系に棲む人々は、生命とはスピリチュアリティであって、工学を寄せ付けない「いのち」あるものとして理解している。だからこそ、理系では、その生命に「いのち」あるものを再発見して、再び生物学へと回帰しようとしているのてはないか。だとしたら、文系の人々は、「いのち」をどう捉えているのか。ひょっとすると、理系とはまったく反対の方向に向かいつつあるのではないか。この問題は、少し立ち入って考えてみたいと思っている。
特集は、「「いのち」を記録する---生命と時間」
「時間」を組み込んだ、新たな生命科学の可能性を探ります。

西洋美術に深く入り込む「生-政治」を批判し、記憶と時間、脳と意志の関係に大胆に切り込み、枚挙主義に陥る現在の生命科学を、「ゆらぎ」、「よどみ」から検討します。
●岡田温司 いのち(ビオス)としての芸術作品……保存・修復の「生-政治」
●池谷裕二 時間(とき)は脳の中でどう刻まれているのか……生命、複雑性、記憶
●金子邦彦 生命システムをどのように記述するか
非線形数理モデルによる驚愕のヴィジュアル表現!!
平成18年度(第10回)文化庁メディア芸術祭アート部門大賞に輝いた木本圭子さん (メディア・アーティスト)の、受賞後最新作「Imaginary Numbers」を3点掲載!!
定価800円+税
表紙 木原千春
詳細は左のナビゲーション・バー「最新号」をクリック
『知らずに他人を傷つける人たち』(ベスト新書)は、職場や家庭でいじめや嫌がらせを表すことばとして新たに登場した「モラル・ハラスメント」、略称モラハラについて。それははたして病気か。モラハラをなくすにはどうしたらいいか。モラハラをしないようにするには何に気をつけるべきか。香山さんが指南する。
『頭がよくなる立体思考法 RIFの法則』(ミシマ社)は、香山さん自らが編み出し、実際の臨床に活かしているという思考法の奥義書。Rは、reality(現実)、I は、inteligence、imagination(知識、情報、想像)、Fは、fantasy(空想、妄想、創造、直感)。ビジネスの法則や経験から導きだされたものではなく、精神医学の知識やこれまでの精神科臨床で得た経験から生まれたもので、香山さん自身が、初めて会う患者さんの診断を猛スピードでしなくてはならない時に、知らず知らずにこのRIF立体思考法」を使っているのだという。
いずれもまだ斜め読みしかしていないので、とりあえず出版されたことをご報告します。


まだ、10時30分です。でも、勧められればやっぱり飲んじゃいますよ、第一口をつけないなんて失礼ですものね。これまで沢山の方にお話を伺ってきましたが、インタビュー相手のお宅におじゃまして、朝からアルコールをご馳走になるなんてはじめて。なんと楽しいインタビューでしょう。
さて、その内容はというと、ジェイコブスの何がそんなにすばらしいのか、彼女の都市の思想について、「いいまちをつくる4つの原則」を軸にお話いただきました。コルビュジェの「輝ける都市」に真っ向から異を唱えたジェイコブス。彼女の主張は一つ、都市とは人間的でなければいけないと。先生は、筑波大学とルーヴァン大学の新キャンパス(ベルギー)を比較して、前者がコルビュジェの思想によってつくられたためにいかにダメか、逆に後者がジェイコブス的視点を取り入れているためにどんなにすばらしい大学になっているか、実感を踏まえて説かれました。詳しくは、『city&life』の83号に掲載しますので、それをお読みいただくとして、余談を少し。じつは先生、東大が大嫌いなのです。心底嫌らしく、ぼくらが東大卒業でないというと、顔を赤らめて喜ばれました。それから、生前のジェイコブスを初めて訪ねたときのこと。先生はどんな感想をおもちになったと思いますか。それがじつは……、いやいや、これはオフレコでした。それを聞いて、ぼくらは腹の底から大笑い、とだけ言っておきましょう。それから若尾文子さんと初めて会ったときに、彼女を……、おっとこれも言ってはいけないことでした。若尾さんといえば、黒川紀章夫人。そうです、ジェイコブスの訳者の……、おっと、こいつもダメ。あぶないあぶない。いずれにしても宇沢先生、本当に楽しい時間をありがとうございました。
インタビューのあと、銀座の魅力である路地を駆け足で見て回る。4丁目の宝童稲荷神社の置かれているL型の路地。こんなところにお稲荷さんがあるなんて。それと、7丁目の直線にして100mのビルとビルの間に挟まれた路地。ここは途中ビルを中を通り抜けるもの。その入り口と出口にはなんと自動ドアがあって、ビル内路地の両脇の店舗が閉まる夜間でも、24時間通行が可能という驚くべき仕掛けつき。しかもその出口付近に直行するもう1本の路地は、明治の煉瓦街にできた時の名残りだ。歴史が重層する小さな極小の都市空間としての路地。もう一度、写真撮影に来るので、詳細はその時に報告しましょう。
ところで、本書に収められた最初の6のエッセイは、ぼくらが編集していた雑誌『SNOW』の連載記事の再録である。あの事件さえなければ、たぶんあと2年は続き、もしかすると一冊の独立した本になったかもしれない。編集者としては、ちょっと悔しいですね。

特集は、『情動回路…感情、身体、管理」
認知論的転回を経て、脳科学とのコラボレーションによって起こった心理学における情動論的転回。
今新たな関心を呼ぶ「情動機能」について、オートポイエーシス論、システム論的精神分析、スピノザ哲学、情動労働論、ドゥルーズ哲学…から迫ります。
●河本英夫×十川幸司 〈対談〉情動の回路……精神分析とシステム現象学
●浅野俊哉 「喜び」とアソシエーションの理論……スピノザの「情動」、触発、コナトゥス
●酒井隆史×松本潤一郎〈対談〉情動の政治学……身体は何を欲しているのか
定価800円+税

表紙 牛腸茂雄
テーマ・切り口の斬新さと、下條さんの名司会(しゃべりすぎという話もあるが)で進行する、シンポジウムというよりは一種の「お勉強ショウイング」。今回のテーマは「悪/善 人はなぜ人を殺すのか」。監修者のお二人の他に、ゲストスピーカーとして、筑波大学大学院人間総合研究科教授(司法精神医学)・中谷陽二さん、京都大学大学院理学研究科助手(霊長類学)・中村美知夫さん、千葉大学人文社会科学研究科教授(哲学)・永井均さん。それと、パフォーマンス(テキスト・リーディング)としてミュージシャン・金剛地武志さん。
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「自分探し」の旅に出て、仮に自分が探せてしまったら、その時どうなるのだろうか。その瞬間、「自分探し」の自分は消滅してしまう。すなわち、自分がいるということに気付くだけだ。そして、きれいさっぱりそれ以前の自分は忘却されてしまうに違いない。探されている自分がもうどこにもいないのだから。
どんなにがんばっても逆上がりができずにいた自分。ところが、ある時なにかのはずみで逆上がりができしまった。その瞬間、もはや逆上がりができなかった自分に戻ることはできない。なぜ逆上がりができなかったのかすらわからない。逆上がりができてしまった自分になった時から、逆上がりができるようになりたいという自分は消滅するのだ。
河本英夫さんの「オートポイエシスの第四領域」は、「禅問答」と「自分探し」と「逆上がり」がじつは同じ経験を基盤にした「世界の獲得」であることを教えてくれた。われわれはいつのまにか何か別のものになっている。私がいる場所に、もう私はいない。私の不在こそ、私そのものにほかならない。ウィトゲンシュタインのいない、ウィトゲンシュタインの対話。
規律権力から生-権力へ、そして今や「情動」のダイレクトなコントロールが始まっているとする酒井隆史さんの問題提起を受けて、ブライアン・マッスミの容易な確実性としての「情動的事実」という概念に触れつつ、「欲望」/「快楽」の再定義、コミュニケーション批判としてのドゥルーズの管理社会批判、ランシエールの感性的なものの再配分、「可能的なもの」/「実在的なもの」、「潜在的なもの」/「現働的なもの」という可能性をめぐる二つの次元の区別、『ミル・プラトー』の情動による群れの構成などについて議論していただいた。
権力を求めることと権力から逃れることは紙一重である。そこに人間の情動機能が深く関わってくるのだ。「逃走線」とは、システムから逃れるものと考えられてきたが、じつはシステムを逃がすことなのではないか。コミュニケーションを積極的に断つ先にあるもの、それこそドゥルーズの「器官なき身体」である。「情動-触発」(スピノザ)という欲望する諸機械の生産力としての「器官なき身体」。今まさに、システムそのものが逃走/闘争する「情動の政治学」の地平が開かれようとしている…。
フーコー、ドゥルーズの言説を旋回しつづけるディスカッションって、思えば久しぶり。フランス・ポスト構造主義の思想が息を吹き返そうとしているのか。
スピノザについては、『談』では過去に2回取り上げている。故竹内良知さんにスピノザの異例性について、また、鷲田小弥太さんにスピノザの民主主義論について。今回は、スピノザ思想の革新性をその特異な「情動」論から解き明かしてもらった。
スピノザは、「〈私たちの身体の活動力を増大し、あるいは促進する感情〉を〈喜び〉と呼び、その逆の場合を〈悲しみ〉と呼んだ。それと同時に、〈喜びとは人間がより小さな完全性からより大きな完全性へと移行することである〉とも述べ、それが達成感や到達感のような、ピークの感情ではなく、移行の感情であることに注意を促している。スピノザにおいて〈活動力〉とは、(…)〈生命力〉と私たちが呼んでいるものと、ほぼ同義と考えてよい。つまり、〈喜び〉とは、〈生命力が、身体において、より全面的に展開する過程で生じる感情〉」であり、そして、「そうした〈喜び〉としての能動性を一個人のみならず、集団的なレベルで実現する場合にはいかなる条件が必要か」を問い続けた。浅野さんがここで言う〈喜び〉〈悲しみ〉こそ、「情動」のことである。管理社会は、「情動」管理社会のことだとすれば、われわれはそこからいかにして抜け出すことができるのか。
じつは、その手がかりは「情動」それ自体にあったのだ。ドゥルーズ=ガタリ、ハート・ネグリの思想を参照しながら、浅野さんはスビノザ思想の核心に迫る。約2時間半のインタビューであったが、間違いなく今回の特集の核心を突くものとなった。
十川幸司さんも言っておられたように、スピノザを知れば知るほど、ダマシオのスピノザ解釈の軽薄さが露になってくる。哲学は自然科学より、遥かに射程が深く鋭い。神経科学も脳科学もちゃんと哲学に耳を傾けるべきだと思う。「情動」の時代ならばこそ、情動に訴える科学を企図してほしい。
ところで、浅野俊哉さんの奥方は、「純情きらり」や「大奥」、「ラブ・ジェネレーション」の脚本家浅野妙子さんでした。「純情きらり」見てますよ! と言ったらとても喜んでくれました。
ところで、本書には編集を手伝っているWebマガジン「en」に寄稿いただいた「知から信へ」の一編が収録されています。思えば原稿依頼で立命館大学におじゃましたのは、04年の4月27日。その時に、ちゃっかり『談』のインタビューのお願いもしました。インタビュー後も、金森修さんとの対談をお願いしたり、それ以来すっかりぼくは小泉シンパです。今後も、いろいろ企画してますので、どうぞよろしく(この場を借りて)。
「負け組」の哲学
鷲田さんにスピノザ思想の異例さをお聞きしたのはもう20年も前のことだ。鷲田さんさんはこうおっしゃった。「スピノザは、人間の幸福はいかなる社会において可能かを徹底的に考え抜いた思想家だったが、その時スピノザの頭にあったのは大衆である。幸福とはスピノザにとっては、なによりも大衆の幸福でなければならなかったのだ」。スピノザは、それゆえに希有な思考者(デンケン)と言われたのだと。鷲田さん、20年前からぜんぜん変わってないですね。そこにおられるのは、一人のデンケンです。そうである限り、ぼくはずっと鷲田さんの著作を読み続けます。

これは、中沢新一さんの『はじまりのレーニン』(1994年)からの引用。たまたま書庫から引っぱりだしてきたら、こんなことが記されてあった。10年も前ではないか。こんな形でゾーエーという概念は僕の前にすでに登場していたのだった。しかもこの箇所に僕はしっかり線まで引いていた。確か、『ホモ・サケル』を一昨年はじめて読んで、ビオス/ゾーエーという概念に興奮したのだが、あれはいったいなんだったのだろう。僕のビオスは、健忘を促進させているのか。ゾーエーのレベルから記憶と忘却について一度じっくり考えてみることにしよう。

分裂共生論―グローバル社会を越えて
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『tasc monthy』て゛「シネマ・シガレッタ」の連載をお願いしている粉川哲夫さんのテキスト「もしインターネットが世界を変えるとしたら」(1996年)が公開されているので読む。少し読み進めてみて驚いた。現代の状況を適確に予測しているとかいうレベルではなくて、ガタリを援用しながら、その可能性と不可能性に言及し、それを自由ラジオ、ミニFMの延長で、いかにラディカルに使い倒すか、徹底的に掘り下げているのだ。先生の現在やっているワークショップも刺激的だが、それもこれもみな思考のプロセスから半ば必然的に生まれたものだということを改めて確認させられた。僕が学生だったら(じつはむかしむかし学生でした)、絶対に飛びつくなぁと思ったのだった。