思想

バタイユにとって「「アセファル」とはなんだったのか。

早稲田大学法学学術院教授・吉田裕先生にインタビュー。「無意味の意味/非-知の知」のテーマは、ジョルジュ・パタイユから借用させてもらったが、バタイユ思想の核心ともいえる「無意味」について、「非-知」との関連でお話していただこうというのが狙いだ。吉田先生は、ご著書『バタイユの迷宮』で、バタイユの思考についてこんな風に整理している。「『有用性の限界』と『有罪者』から始まり、『内的体験』を導き出し、再び最初の書物に戻り、さらに、『呪われた部分』を出現させるが、それは〈謎〉をめぐる転位として実行されている。『有用性の限界』が〈謎を解〉こうとする書物だとすれば、『内的体験』は〈謎を生き〉ようとする書物だった」のではないかと言うのだ。この過剰であり残余である「呪われた部分」を、バタイユのもう一つの重要な概念「非-知」とどう連接しているのか、おそらくそのつながりを追究することによって、「無意味」というものの「意味」を逆説的にあぶり出せるのではないかと考えてみたのである。「〈呪われた部分〉は、エネルギーの使途においてあらたな富を生み出さないために、功利性を原則とする社会から、無益なものとして排除された部分、すなわち〈非生産的な消費〉を指し、バタイユにとっては〈有用性の限界〉の主題をより広範囲にかつ象徴的に表す表現」となっているとしたら、さしあたって、われわれはこの『有用性の限界』を精確に読み解くことから始めなければならない。こうして、吉田先生は、『有用性の限界』を読むことによって、〈非生産的な消費〉をも含んだ問題系に、「消費(spend)」から「消尽(consumption)」への異同を確認するのである。
戦争、供儀、笑、交感(コミュニカシオン)、そして死。バタイユ思想には繰り返し出てくるこれらの言葉は、まさに「有用性の限界」において「消尽」そのものを表す概念なのである。そして、その先にあるものは、ほとんど「無意味」といっていい「呪われた部分」なのだ。ついでに言っておくと、この「消尽」へと向かうベクトルの延長線上にあの秘密結社「アセファル」があるとみれば、これまで不可解さにおいてバタイユ思想の最大の謎であった「アセファル」の意図もおぼろげながら感知できるのである。

公開対談のお知らせ!!

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★公開対談のお知らせ★
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■対談 いかにして消尽したものになるか……死の贈与と生の贈与

パネリスト
●澤野雅樹氏 明治学院大学社会学部教授
●萱野稔人氏 津田塾大学国際関係学科准教授


『談』no.80 特集「「無意味の意味/非-知の知」〈07年11月末発行に収録予定〉


・人々は、なぜこうまで有用性や合理性にこだわるのでしょうか。意味のあること、役に立つこと、価値のあることを金科玉条のごとく死守する私たち。まるで取り憑かれたように理性を最大限発揮し、知力も体力も、そして感性までもすり減らしながら意味生産のレールをひたすら走り続けます。そして、意味がない、役に立たない、価値がないものに対しては、容赦なく切り捨てる。無意味であることは、それだけで悪であるような空気すら世の中には漂っています。しかし、本当にそうでしょうか。有用でないもの、役に立たないものは、本当に無意味なのでしょうか。
現代人のこの有用性、合理性への信仰(!)は言い換えれば「意味の病い」です。意味の病い、それは知、理性への隷属であり、本源的な意味での生きる自由からの退却です。今こそ、無意味を志向することの自由、無意味なるものの意味を考え直す時ではないでしょうか。

・澤野氏は、「使えないから面白い」、20世紀の偉大なる使えない作家たちと共に、「不毛」の素晴らしさを完膚なきまでに論証し、「有用性」ではなく、「情欲」の資本主義を提唱します。消尽したものの優美さ、役立たずのエレガントこそ、21世紀を生き抜く者たちの倫理であると。
一方、国家をなりたたせ存在させているのは、〈権利〉をめぐる暴力の運動であり、その運動が最初におこなうのは、〈権利〉にもとづかない暴力を取り締まるためにみずからに〈暴力への権利〉を付与することだと萱野氏は言います。暴力装置としての国家から、われわれはいかにして逃走しうるか。贈与/消尽に、その突破口を見出せるとしたら……。
・ドゥルーズ、ガタリ、そしてフーコーを参照しながら、無償性、消尽、暴力、贈与を手掛かりに、「無意味なるもの」「かそけきもの」「寄る辺無きもの」について、徹底的に語り合っていただきます。

■日時 2007年10月2日(火)19時スタート(開場18時より)
■会場 サウンド・イメージ研究所ラボ・カフェ・ズミ
    武蔵野市御殿山1-2-3 キヨノビル7F(1階が自転車です)
    吉祥寺駅公園口から徒歩5分
    地図 

■入場料 無料 ただしドリンクを注文していただきます。
■定員 15名 先着順(定員に達し次第締め切らせていただきます)
■受付 メールにてお申し込み下さい。
対談参加希望とお書きの上、お名前、ご連絡先を明記して→oubo@dan21.com へ
                           





次号特集で新たな試み、乞うご期待。

TASCで『談』次号以降の企画検討会。3号分の企画案、ほぼOKで、いよいよ次号の編集開始です。
次のは自分で言うのもなんなんですが、すっごく面白いですよ。乞うご期待です。コンテンツについては、随時アナウンスしていきますが、今回一つ新しいことをやります。愛読者サービスとしまして、公開の対談をやろうと思っています。もちろん、『談』掲載を前提とするものなので、公開といっても少人数を対象とするものになりますが。で、誰と誰がやるの? と当然みなさん興味津々だと思いますが、それはまだ秘密。ものすごくチャーミングなトークセッションになることは、間違いありません。そして、場所がまたサプライズ。ブログでの告知のみになりますので、ぜひ日々のチェックを怠りなく、なんて。

立ち位置の違いは決定的ではない。

昨日、今日と二日間にわたる合宿に参加した。レギュラーの研究者の方々とゲストをお迎えしてのディスカッション、非常に中身の濃い議論ができた。今回のゲストは、池田清彦先生と河本英夫先生。池田先生は、構造主義生物学(科学論)からのアプローチ、河本先生は、オートポイエーシスからのアプローチ。一見両者は無関係に見えるけれども、ぼくには、立ち位置が違うだけでじつはお互い非常に近い間柄にあると見ている。もっとも、この立ち位置の違いこそが、ある意味では両者を決定的に別のものにしているとはいえるのだけれど。つまり、外部から、神の目でその事態を見るか、逆に内部から、いわば運動する等のものそのものになってみるか、という違い。立ち位置の違いこそ決定的じゃないか、といわれればそれまでだが、決定論か非決定論か、離散的世界か自己同一的世界かという二項対立の、それ自体を無効とする立場を貫いている、という意味で両者には強い親和性がある、と思うのだ。会議終了後、酒を飲みつつお二人の先生にじっくりと伺ってみたが、この考えに間違いはなさそうだという確信(といえるほどでもないが)を得た。ぼくにとっては、とても有意義な二日間だった。

先生の難解な話を翻訳するはずが、かえって難しくしてどうする!?

TASCで『談』の編集会議。何年かぶりで、editor's noteを書き上げて読み合わせをした。思い起こせば、西川さんが担当の時、途中から間に合わなくなって、プロットを書いて、それをもとに原稿にすべきプランを述べるという方法に変えてしまった。やはり、本来の姿にもどして正解。自分でもちゃんと目鼻をつけておかないと、発行したあと中身を忘れてしまう。
すでにみなさんには、原稿はお渡しして読んでいただいているので、発表しないでもいいような雰囲気だった。でも、予習をしたので(自分の原稿を予習してどうするというツッコミはいれないで)、発表させてもらった。みなさんの印象はというと、意外な反応が……。今回はそれぞれのインタビューは分かりやすかったのに、editor's noteが難解だというのである。難しい先生の話を、誰にも解るように説明するのがその役目だったのではないか。それが、インタビューより難しいとは。前号は、分かりやすくてよかったのにと。どうしても専門的な言葉を使わざるを得ないということもあるんですけどね。「まぁ、いろいろな意見があるのはいいことではないでしょうか」とまとめたら笑われてしまった。
木原千春さんの表紙画、神山貞次郎さん撮影の上杉満代さん舞踏、共にOKが出て、あとは発行するのみ。8月20日発行予定。

難解中の難解オートポイエーシスがたった15分で……

東洋大学の河本英夫教授の研究室へ。昨年十川幸司さんと対談をしていただいた文学部会議室で打ち合わせ。池田先生と同じある会合で講演をしてもらうための依頼。本論に入る前に、聴衆のためにオートポイエーシスについて軽く話してもらえないかと、恐る恐る尋ねると「わかった15分でやりましょう」と。えっ、ほんとうにそんなことできるのか。もしも先生の言う通り本当に15分で説明できたとしたら、ぼく絶対それ本にしますよ。『世界最速!! インド式〈オートポイエーシス〉論』。どこがインド式??

「ゲバゲバ90分!」はぼくの編集の原点かもしれない。

NHK「お宝TVデラックス〈笑の力〉」を見る。「頓馬天狗」「お笑い三人組」「おそ松くん」「ゲバゲバ90分!」の VTRとゲストによるトーク。今回のぼくにとってのハイライトは、楠トシエさん、前武さん巨泉さんがゲスト出演したことだ。「ハッチャン、おはなちゃん、う〜っ!」というあのあまりに有名なせりふのシーンを嬉しそうに見ながら話す楠トシエさんのお顔を見れただけでぼくは大満足。さらに、前武さん巨泉さんの掛け合いは、昔とまったく変わらなかった。「ゲバゲバ90分!」では、あの名プロデューサー井原高忠さんをインタビューしていた。じつは、ぼくは伊原さんの大ファンなのだ。ぼくのものの考え方は、どうも、この人に教わったところが多いように思う。「面白ければなんでもあり」、「不条理からアイデアは始まる」、「シチュエーションと配役の妙」。伊原さんの番組づくりの哲学は、そのままぼくの編集のノウハウに引き継がれていると思っているからである。

人選でほぼ決まるのは、サッカーも研究会も同じだ。

『談』に登場していただいた現代思想の専門家で言語学、とくに日本語についての著作も多い先生をゲストにお呼びしたとある研究会。これが大成功。当を得た話題を提供してくれたこともあるが、後半の質疑応答では、まさに立板に水のごとく、どのような角度から質問がきても、スパッと切り返す。ディスカッションは、終了後の懇親会にも引き継がれた。常に研究会がこういう形で行われればいいのだが、経験からいうと、滅多にないことである。やはり、初発での人選でほぼ成功か不成功かは決まるといっていい。帰宅後、録画しておいたキリンカップを見る。海外組が機能しなかった前半の戦いぶりに業を煮やしたオシム監督は、後半羽生を投入。この采配がズバリ効いて、点こそ入らなかったが、後半は別のチームじゃないかと思えるような、いい試合運びだった。やはり、すべては人選だ。誰をどこで使うか。講演もスポーツもこれにつきるような気がした1日であった。

天才コッパースウェイト教授のスケッチ集は使えるぞ

BSで、状況劇場「ジャガーの眼」(1985年)を2時過ぎまで見ていたので眠い。「下町ホフマン」「蛇姫様」を観た頃からなんとなく状況劇場からは足が遠のいていた。唐十郎の芝居はその頃と全く変わっていなかった。最近観た友人によれば、今も変わらないらしい。歌舞伎の様式美の域に達しているということか。
『思想』に三脇康生さんの「精神科医ジャン・ウリの仕事」という興味深い論文が載っていたので、ひさしぶりに書庫からジャン・ウリらが執筆している『精神の管理社会をどう超えられるか?』を持ってきた。空間管理という点に注目すれば、まさにこの本は、その現状を、精神医療という場面に則して徹底的に批判している。今度の座談会のヒントになりそうだ。
その本のとなりに『太陽』の熊楠特集があった。『ひたち』の表紙に熊楠の「十二支考」のスケッチを載せたが、熊楠はほかにも沢山の手書きスケッチを残している。粘菌関連のスケッチにも面白いのがいっぱいある。今度、どこかでまた使えるかもしれない。またそのとなりには、『The Secret Scrapbooks of Professor A.J.Copperthwaite』が並んでいた。19世紀から20世紀初頭にかけて奇想建築物のプランをたくさん考え出した天才コッパースウェイト教授のスケッチ集。これは、『ひたち』に使えそうだ。提案してみよう。
よしながふみの「フラワー・オプ・ライフ3」を読む。なんていい話なんだろう。こういう高校生ものがぼくは好きだ。吉田秋生の「蝉時雨のやむ頃」が涙ちょちょぎれたので、そのエピソード1にあたるであろう「ラバーズ・キス」を十数年ぶりに引っ張り出してきて読み直す。これも高校生ネタで、垂涎ものだ。そういえば、集英社コバルトシリーズの作家になろうとマジで思っていた頃がぼくにもあったことを思い出して、ちょっと恥ずかしくなった。

〈悲しみ〉という情動のもつ意味

浅野俊哉さんより『思想』6月号を贈呈していただく。浅野さんの論文「〈良心〉の不在と遍在化」が掲載されている。今日「良心」という言葉を自ら口にすることも、また他者の口から聞くこともほとんどない。こうした「良心」の不在という状況において、スピノザの論究する「良心」について、あらためて問い直そうというもの。
スピノザは「良心の呵責」について、「悲しみ」という情動に解消したと言われている。そのことが、人間の社会的・倫理的な行動契機を奪うことにつながりかねないと研究者から指摘されていた。浅野さんは、そこに注目して、「その考えが従来型の良心論が持つ、個人という枠内の自意識の問題にそれをとどめてしまう傾向を突破して、汎化された〈環境に対する能動的な関心と反応能力〉を私たちにもとめていくものではないか」と、むしろそこにこそ可能性を見出そうというのである。
「今日の様々な社会闘争の直接のきっかけとそれを持続する意志に力をあたえているのは、〈悲しみ〉という情動なのではないだろうか。言い換えれば、自己や他者の生命が何らかの形で傷つけられていくことに対する、ほとんど身体レベルから発せられる異議申し立てーーすなわち媒介を経由しない直接的・一時的かつ否定することの不可能な情動ーーなのではないだろうか。しかもそれは同時に、能動的な〈喜び〉の情動の増殖を求めて自らを貫通する関係性を構成し直し、新しい共同体を構築しようとする、個人性にはけっして限界づけられない集団的欲望なのではないだろうか」
浅野さんはこの論文で、『談』インタビューのその次を展開しているのである。

『談』のインタビュー、今日は、ダブルヘッダー。

サウンドイメージ研究所/Laboratory Cafe dzumiへ。泉さんすっかりマスターになっている。今日、このスペースをお借りして弘前大学の冨田晃さんにインタビューをするのだ。窓際のテーブル席でインタビュー開始。冨田先生はサックス奏者でスティールパン奏者で三味線弾きで彫刻もやる、文化人類学者にして美術の先生。生きながら死んでいくより、死んだように生きていく方をとると言い、つまらないものを守るよりも、身体が感じているものを守りたいと強い調子で言い切る。クリエイティヴであり続けるための戦略と戦術にたけてるひと。カーニバルとは本来目的がないから面白いのであって、その意味では遊びと同じだ。ラテンの感覚を強くもつとても気さくな人だった。道を挟んだ向かいにあるフレンチの店、芙葉亭で食事。2時15分を回ってしまったので、タクシーで次なる目的の場所、日体大へ。15時15分。ドアを開けるとすでに研究会は始まっていた。思ったより沢山の参加者がおられる。ちょうど稲垣正浩先生が発言中。これは前の発表者に対するコメントだった。われわれを加えて、いよいよ稲垣先生の発表。「スポーツと暴力」は、興味を引くテーマだ。先生の発表は、休憩を挟んで、2時間以上に及んだ。内容は、ソレルとベンヤミンの暴力論を手がかりに、暴力そのものが両義的な概念であり、スポーツは暴力ではないかという仮説に基づいて、検討していくというものであった。近代スポーツがドーピングという事態を引き起すのは、論理的にみれば必然である、という議論はとても興味のあるところだ。この講演会をもとにインタビュー記事にするという目論見。さて、はたしてうまくまとめることができるだろうか。

差別とは、自分と世の中をつなぐひとつの形ではないか。

少し時間がたってしまいましたが筑波大学大学院人文社会科学研究科教授・好井裕明さんから『差別論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』(平凡社新書)を贈呈していただきました。好井さんには、『談』no.39「理論のプレシオジテ」という特集でインタビューをさせていただいただきましたが、昨年『TASC monthly』への原稿執筆のお願いで20年ぶりにお会いしました。(「日常的な差別や排除を考えること」というタイトルで、『TASC monthly』no.372号に掲載)。本書は、その原稿ももとになっていると「あとがき」に記されています。
「差別。確かにそれは、差別する者の行為や意識に宿っており、差別を受ける人々のこころや日常を侵害していくものだ。これは間違いないだろう。しかし、この発想だけで差別を考えるとき、差別は「事件」となり、私たちの日常生活からは、確実に離れたものとなるだろう。そうではない、差別は常に、私たちが生きている日常で起こっていることであるし、これまで生きてきた歴史の中で、起こってきたことなのである」。「とりあえず、こう考えを変えておきたい。差別は「してはいけないこと」「あってはならないこと」ではない。差別は、「してしまうもの」であり、「あってはならないと思うが、そのためには、何をどのようにし続けたらい(ママ)のか」と自らが日常生活のなかで考え、いろいろと実践するうえでの"意味ある手がかり"であると」(本文より)。
差別とは、自分と世の中をつなぐひとつの形ではないか。私が、差別といかにして出会えるか。そこから、具体的な差別とのつきあい方を立ち上げようと提言します。そのための一歩は、まず「決めつけ」「思い込み」を崩すこと。すべてはそこから始まります。
差別原論?〈わたし〉のなかの権力とつきあう

スポーツを現代思想する先生

日本体育大学教授・稲垣正浩先生の研究室へ。先生はお食事中だった。さっそく、打ち合わせに入る。僕のことばが少なかったことをあらためて詫びて再度正式に依頼をする。先生は話し好きだ。こちらの話をちゃんと聞いて、それから、口を開くと湯水のように言葉が湧き出てくる。お面の話から太極拳の話へ、西谷修さんの話から、スポーツそのものの話へ。気がつくと1時間30分はしゃべっておられた。これならテープを取っておけばよかったと後悔。それでも、来週あらためてインタビューにうかがうと約束し研究室を後にする。今度の企画、予想以上に面白いものになるかもしれない。

酒井隆史さんと廣瀬純さんのトークセッション

お知らせです。
『談』no.76の対談ご登場の酒井隆史さんと『TASC monthly』2006年12月号のサロンにご寄稿いただいた廣瀬純さんのトークセッションが開催されます。以下は主催の人文書院編集部からの情報です。

闘争の最小回路??運動・メディア・共同体
酒井隆史×廣瀬純
[司会]櫻田和也(remo)

ひとりひとりの内にある「政治」を可能にするパワー、
行為と力のクリスタル=闘争の最小回路を刺激するメディアとは何か、
そして、共同体と政治・運動の関係とは?
ラテンアメリカ社会運動の最前線から考える、
気鋭の論客による注目の初対談!

日時
2007年4月14日(土曜日)午後6時30分〜(開場:午後6時)
入場無料、予約不要

場所
新今宮・フェスティバルゲート4階 remo
(最寄駅)JR環状線「新今宮」下車すぐ、
地下鉄御堂筋線・堺筋線「動物園前」5番出口直結、
南海本線・高野線「新今宮」徒歩5分、市バス「地下鉄動物園前」
(地図)
新今宮・フェスティバルゲート4階
remo[NPO法人 記録と表現とメディアのための組織]

工学は理系では左翼、しかし、文系では右翼。

文理シナジー学会に所属していたこともあって、日頃から文系、理系の間に横たわる深くて暗い川(野坂昭如?)の存在が悩ましく感じられていた。ほんとに文理の融合、文理の総合なんてできるのかと問うことは重要だけれど、その埋めがたい溝がではどうして生まれたか、ぼくにはむしろそっちの方に関心があったのだ。昨夜アーティストの木本圭子さんと話していた時に、ふとこんな仮説が浮かんだ。両者を分かつのは、じつはその見方そのものにあるのではないかということ。どちらの立場から見ているのか、ということ自体が、両者を分けてるいるのではないか。以下がそのアイデア。『談』no.73で広井良典さんがアメリカでは、保守主義が右でリベラルが左、ところが欧州では、リベラルは右で左にあるのは社会民主主義。つまり、社会民主主義ーリベラリズムー保守主義という図式になっていて、この図式が正しく理解されていないと大変な誤解が生じるというものだった。これはそのまま、科学、工学、人文科学の区分けにいかせるのではないかと思ったのだ。つまり、理系では、最も人間の営みから遠くにあるのが科学。さしあたって数学がその権化だろうが、図式で言うと理系の世界の最右翼に位置する。その逆に、人間の生活、生き方に最も近いのは工学。端的に人間、社会に役に立つ、利用可能なのが工学である。工学とは、その意味でまさに応用科学である。したがって、理系の世界では、最左翼に位置付けられる。一方、文系ではどうか。じつは、人間の活動、生活を表象のレベルでみる限り、最も遊離しているのが工学である。まさにそれは機械が活動する領域であって人間が入る余地がない。だからこそ、逆に工学ではヒューマンスケールということが声高にいわれたりもするわけである。つまり、文系の世界では、工学は最も右に位置付けられる。反対の極にあるものはなにか。人文科学である。人間の営み、生活、生き方に最も接近している領域こそ人文科学である。哲学、社会学、精神分析とかがその代表である。

下のような図式になっているのではないか。

理系の世界 工学(engineering) 左←[人間、社会]→右 科学(science)

文系の世界 人文科学(liberal arts) 左←[人間、社会]→右 工学(engineering)

この図式は、理系からみた場合の工学の位置づけ、文系からみた場合の工学の位置づけを表している。さて、どうだろうか。 『談』の最新号のeditor's noteにも記したように、岡田節人さんが、生命科学は、再び生物学に回帰するべきだという言葉をもう一度噛みしめてみたい。理系の世界に棲む人々にとって生命とは物質そのものであり、工学的な操作可能なモノなのだ。ところが、文系に棲む人々は、生命とはスピリチュアリティであって、工学を寄せ付けない「いのち」あるものとして理解している。だからこそ、理系では、その生命に「いのち」あるものを再発見して、再び生物学へと回帰しようとしているのてはないか。だとしたら、文系の人々は、「いのち」をどう捉えているのか。ひょっとすると、理系とはまったく反対の方向に向かいつつあるのではないか。この問題は、少し立ち入って考えてみたいと思っている。

『談』最新号、本日全国一斉発売!!

『談』no.77号が発行になりました。2月27日全国書店にて一斉発売!!
特集は、「「いのち」を記録する---生命と時間」

「時間」を組み込んだ、新たな生命科学の可能性を探ります。
談no.77表紙.jpg


西洋美術に深く入り込む「生-政治」を批判し、記憶と時間、脳と意志の関係に大胆に切り込み、枚挙主義に陥る現在の生命科学を、「ゆらぎ」、「よどみ」から検討します。

●岡田温司 いのち(ビオス)としての芸術作品……保存・修復の「生-政治」
●池谷裕二 時間(とき)は脳の中でどう刻まれているのか……生命、複雑性、記憶 
●金子邦彦 生命システムをどのように記述するか



非線形数理モデルによる驚愕のヴィジュアル表現!!
平成18年度(第10回)文化庁メディア芸術祭アート部門大賞に輝いた木本圭子さん (メディア・アーティスト)の、受賞後最新作「Imaginary Numbers」を3点掲載!!

定価800円+税 
表紙 木原千春

詳細は左のナビゲーション・バー「最新号」をクリック

1月間に3冊の出版! 執筆も立体法ですか。

香山リカさんから、またまた新刊を贈呈していただきました。それも、別の版元から2冊。1年に3冊出したといったら、「今年は飛ばしてますねぇ」と言われるだろうに、香山さんたら2月(1月間)だけで3冊!! 
『知らずに他人を傷つける人たち』(ベスト新書)は、職場や家庭でいじめや嫌がらせを表すことばとして新たに登場した「モラル・ハラスメント」、略称モラハラについて。それははたして病気か。モラハラをなくすにはどうしたらいいか。モラハラをしないようにするには何に気をつけるべきか。香山さんが指南する。
『頭がよくなる立体思考法 RIFの法則』(ミシマ社)は、香山さん自らが編み出し、実際の臨床に活かしているという思考法の奥義書。Rは、reality(現実)、I は、inteligence、imagination(知識、情報、想像)、Fは、fantasy(空想、妄想、創造、直感)。ビジネスの法則や経験から導きだされたものではなく、精神医学の知識やこれまでの精神科臨床で得た経験から生まれたもので、香山さん自身が、初めて会う患者さんの診断を猛スピードでしなくてはならない時に、知らず知らずにこのRIF立体思考法」を使っているのだという。
いずれもまだ斜め読みしかしていないので、とりあえず出版されたことをご報告します。
知らずに他人を傷つける人たち

頭がよくなる立体思考法?RIFの法則?

トレードマークの赤いベレーと長〜い顎髭の大先生にお会いしました。

経済学者の宇沢弘文さんにご自宅でインタビュー。門の呼び鈴を鳴らすと、先生自ら外の玄関まで出てらして扉を開けてくれました。トレードマークの赤いベレーを自宅でも着用。うかがえば、これはバスク民族へのリスペクトなのだとおっしゃる。そうでしたか、納得。奥様が入院なさっているとのことで、コーヒーとお菓子などをせっせと運んでくださるのです。しばらく外に出ていかれて戻ってこられた時には、焼酎とビールの入った袋をぶら下げておられました。「そうそうワインが残っていた」と、ぼくたちに仏ワインを注ぎ、ご自分は焼酎のお湯割り。まあ、ゆっくりやりましょうと、そしてニコニコしながらインタビューは始まったのでした。
まだ、10時30分です。でも、勧められればやっぱり飲んじゃいますよ、第一口をつけないなんて失礼ですものね。これまで沢山の方にお話を伺ってきましたが、インタビュー相手のお宅におじゃまして、朝からアルコールをご馳走になるなんてはじめて。なんと楽しいインタビューでしょう。
さて、その内容はというと、ジェイコブスの何がそんなにすばらしいのか、彼女の都市の思想について、「いいまちをつくる4つの原則」を軸にお話いただきました。コルビュジェの「輝ける都市」に真っ向から異を唱えたジェイコブス。彼女の主張は一つ、都市とは人間的でなければいけないと。先生は、筑波大学とルーヴァン大学の新キャンパス(ベルギー)を比較して、前者がコルビュジェの思想によってつくられたためにいかにダメか、逆に後者がジェイコブス的視点を取り入れているためにどんなにすばらしい大学になっているか、実感を踏まえて説かれました。詳しくは、『city&life』の83号に掲載しますので、それをお読みいただくとして、余談を少し。じつは先生、東大が大嫌いなのです。心底嫌らしく、ぼくらが東大卒業でないというと、顔を赤らめて喜ばれました。それから、生前のジェイコブスを初めて訪ねたときのこと。先生はどんな感想をおもちになったと思いますか。それがじつは……、いやいや、これはオフレコでした。それを聞いて、ぼくらは腹の底から大笑い、とだけ言っておきましょう。それから若尾文子さんと初めて会ったときに、彼女を……、おっとこれも言ってはいけないことでした。若尾さんといえば、黒川紀章夫人。そうです、ジェイコブスの訳者の……、おっと、こいつもダメ。あぶないあぶない。いずれにしても宇沢先生、本当に楽しい時間をありがとうございました。

銀座の煉瓦街の歴史が、ビルとビルの間の路地に堆積していた。

銀座・松崎煎餅店の2階喫茶室へ。法政大学大学院エコ地域デザイン研究所・岡田哲志さんインタビュー。銀座のフィールドワークから得た銀座の場としての底力を、ジェイコブスの残した宿題に絡めながら語ってもらった。場所性をどう論理化するか、都市のプロパーに求められているものは、それに尽きるような気がする。岡田さんの銀座400年の実証的研究こそ、まさにその論理化の豊かな成果だと言える。ご著書『銀座400年 都市空間の歴史』(講談社メチエ)をぜひお読み下さい。
インタビューのあと、銀座の魅力である路地を駆け足で見て回る。4丁目の宝童稲荷神社の置かれているL型の路地。こんなところにお稲荷さんがあるなんて。それと、7丁目の直線にして100mのビルとビルの間に挟まれた路地。ここは途中ビルを中を通り抜けるもの。その入り口と出口にはなんと自動ドアがあって、ビル内路地の両脇の店舗が閉まる夜間でも、24時間通行が可能という驚くべき仕掛けつき。しかもその出口付近に直行するもう1本の路地は、明治の煉瓦街にできた時の名残りだ。歴史が重層する小さな極小の都市空間としての路地。もう一度、写真撮影に来るので、詳細はその時に報告しましょう。

永遠のサウダージを変奏するブラジル

管啓次郎さんより『ホノルル、ブラジル 熱帯作文集』を贈呈していただく。「そこにブラジルの美しさがあった。広大さ、不均衡、極端な対立、対立物の一致、すべてを浸すさびしさ。熱帯のマンハッタンみたいなリオの海岸通りにだって、交通の喧騒や人々のざわめきが一瞬止まり、なんともいえない静寂がふわりと漂うときがある。そのとき、ぽっかりと、ある扉が開く。ぼくらは、そこから広大さへと出てゆく。すると永遠のサウダージ(郷愁)を変奏するブラジルがはじまり、ブラジルは誰の人生にとっても、一度はじまったらもう終りをしらない」(本文/おびより)。ブラジルを何度か旅した者にとって、この言葉はとても腑に落ちる。あの終りのない強烈な騒ぎの真っただ中で唐突にやってくる切なさ、そんな時間を誰でも一度は経験することになる。それがブラジルという場所でのみ許された特権的な知覚体験、サウダージュなのだ。イパネマ海岸やアマゾン流域の都市マナウスの忘れがたい相貌。遠いはずの記憶が現在只今この一瞬に身体を貫通していく。粘ついた空気と混じり合うような体温。ぼくはいまどこにいるのか。管さんの本を読むことが、じつは僕にとってすでにもう一つの旅なのである。こうして、またぼくはブラジルの地を踏むことになるのだ。
ところで、本書に収められた最初の6のエッセイは、ぼくらが編集していた雑誌『SNOW』の連載記事の再録である。あの事件さえなければ、たぶんあと2年は続き、もしかすると一冊の独立した本になったかもしれない。編集者としては、ちょっと悔しいですね。
ホノルル、ブラジル?熱帯作文集

虹色に輝く球体エル・アレフで始まる1年って…

年の始めにあたって、書庫から一冊持ち出して読むということがここ数年のならいになっている。といっても、年末年始と妻の実家に帰省するので、出がけにあわてて取り出してくることになるのだが。で、今年の栄誉ある一冊は何か。ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『エル・アレフ』。学生時代に旧訳で読んでいたが、一昨年、木村榮一さんの訳で平凡社ライブラリーの一冊として刊行されたのを知って買っておいたのだ。短編集である本書の最初の短編「不死の人」も好きだが、やはり、表題にもなっている「エル・アレフ」が面白い。地下室に存在する直径2、3センチメートルの虹色に輝く球体エル・アレフ。その中に宇宙空間がそのまますっぽり収まっていて、一つ一つの事物が重なり合うようにして無限にあり続ける。夜明けやたそがれや、アメリカの群衆や壊れた迷宮、ピラミッドに巣をつくる銀色の蜘、たばこや雪や鉱脈や胸に癌を患った女性やプリニウスの書物……、とにかく森羅万象ありとあらゆるものがこの球体の中に存在するのである。さらに驚くべきことに、それをのぞき込んでいる自分自身の視線までもそこにはある。しかもそれが無数にあることを、自らの目によって確認できるというのである。乱歩の無限地獄もマンディアルグのプラトン立体も、「エル・アレフ」にとってみれば、その部分でしかないような絶対球体。しかし、なんで今年は『エル・アレフ』だったのか。ほとんど無意識に選んでもってきたので、これを今読みたいと意識したわけではなかった。なんであれ、何かを象徴しているような気もするわけで、今年は波乱万丈な一年になりそうな気配だなあ。

『談』no.76号 12月1日全国書店にて一斉発売!!

『談』no.76号がようやく発行になります。12月1日全国書店にて一斉発売!!
特集は、『情動回路…感情、身体、管理」
認知論的転回を経て、脳科学とのコラボレーションによって起こった心理学における情動論的転回。
今新たな関心を呼ぶ「情動機能」について、オートポイエーシス論、システム論的精神分析、スピノザ哲学、情動労働論、ドゥルーズ哲学…から迫ります。

●河本英夫×十川幸司 〈対談〉情動の回路……精神分析とシステム現象学
●浅野俊哉 「喜び」とアソシエーションの理論……スピノザの「情動」、触発、コナトゥス 
●酒井隆史×松本潤一郎〈対談〉情動の政治学……身体は何を欲しているのか
定価800円+税

談表紙 2006 76 小.jpg
表紙 牛腸茂雄

人々は二つの価値観を値踏みして選好しているらしい。

専修大学文学部教授・下斗米淳さんを訪ねる。某プロジェクトの調査についての相談のため。詳しいことはかけないのだが、社会調査のいろはを教えていただいたみたいでぼく個人としてはとても有意義だった。一つだけいうとなぜそう思うのかという質問の根拠が、なぜそう思わないかという回答の根拠と、しばしば一致してしまう場合がある。逆の場合もあって、根拠はまったく別にあるのに、そう思うという同じ回答になることもある。あるものについて好感度をさぐる場合、「○○はとんな時によい感じを持ちますか」という質問事項では、ポジティヴな回答は得られても、ネガティヴな回答は引き出しにくい。なので、こういう場合は、「○○をよいと思う時は」「○○をよいと思わない時は」という正反対の二つの軸を置いた方がいい。われわれが意思決定する時というのは、あることに対して「良い/悪い」の二つの相反する価値観をはかりにかけて、そのバランスで判断することが多いというわけだ。??、いったい何を言いたいの? と言われそうだけれど、なんとなく言いたいことはわかりますよねぇ。まあ、そういうことなんですよ。

「悪/善 人はなぜ人を殺すのか」というシリアスなテーマのシンポジウム

草月会館で開催される「ルネッサンス・ゼネレーション06」へ。今年で10回目を数えるが、今回が最後になるらしい。カリフォルニア工科大学凖教授・下條信輔さんとビジュアル・アーティスト・タナカノリユキさんの監修で、毎回ゲストが多彩なうえに無料ときている。いつも大盛況だ。
テーマ・切り口の斬新さと、下條さんの名司会(しゃべりすぎという話もあるが)で進行する、シンポジウムというよりは一種の「お勉強ショウイング」。今回のテーマは「悪/善 人はなぜ人を殺すのか」。監修者のお二人の他に、ゲストスピーカーとして、筑波大学大学院人間総合研究科教授(司法精神医学)・中谷陽二さん、京都大学大学院理学研究科助手(霊長類学)・中村美知夫さん、千葉大学人文社会科学研究科教授(哲学)・永井均さん。それと、パフォーマンス(テキスト・リーディング)としてミュージシャン・金剛地武志さん。
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長らく待ち望んでいた「美味しさ」の〈思考〉への批評

「美味しさの非有機的な力」という原稿が届いた。な、なんというチャーミングなタイトル!! そしてそして、内容がまたとんでもなくぶっ飛んでるのだ。長らく待ち望んでいた料理の批評にこういうかたちで遭遇できるとはなんとも幸せ。さて、この著者はいかなる人物か?  ふふふっ、『TASC monthly』の12月号をお楽しみに。

ウィトゲンシュタインの「自分探し」

最初から答えのない「問い」を、問い続けること。イメージだけを頼りにして、とにもかくにも「問い」を問い続ける。答えのない「答え」を答え続ける。答えが用意されていない「問い」にとにかく答え続ける。禅問答のような対話。禅問答へと向かう自分。
「自分探し」の旅に出て、仮に自分が探せてしまったら、その時どうなるのだろうか。その瞬間、「自分探し」の自分は消滅してしまう。すなわち、自分がいるということに気付くだけだ。そして、きれいさっぱりそれ以前の自分は忘却されてしまうに違いない。探されている自分がもうどこにもいないのだから。
どんなにがんばっても逆上がりができずにいた自分。ところが、ある時なにかのはずみで逆上がりができしまった。その瞬間、もはや逆上がりができなかった自分に戻ることはできない。なぜ逆上がりができなかったのかすらわからない。逆上がりができてしまった自分になった時から、逆上がりができるようになりたいという自分は消滅するのだ。
河本英夫さんの「オートポイエシスの第四領域」は、「禅問答」と「自分探し」と「逆上がり」がじつは同じ経験を基盤にした「世界の獲得」であることを教えてくれた。われわれはいつのまにか何か別のものになっている。私がいる場所に、もう私はいない。私の不在こそ、私そのものにほかならない。ウィトゲンシュタインのいない、ウィトゲンシュタインの対話。

健康のオタク化現象はいつから始まったか。

國學院大学経済学部教授・野村一夫さんの研究室へ。新留さんと弊社で待ち合わせて行く。國學院大学は歩いて5分ほどの距離なので。若木タワーという高層ビルに研究室。昨年お会いした研究室棟のあったところは、ブルトーザーが入ってすっかり整地されていました。野村さんに座談会の件でお願いする。「TASC Monthly」で掲載を予定している『健康のオタク化現象はいつから始まったか」というテーマの座談会。『談』no.74の佐藤純一さんとの対談が非常に面白かったので、こんどは健康そのものを俎上に乗せて論じてもらおうというもの。こちらもかなり面白いものになると思います。「TASC Monthly」はTASCの会員に配布している月刊雑誌。興味がおありの方は、TASCへぜひご一報ください。最近号では、『談』にご登場いただいた粥川準二さんや澤野雅樹さん、八岩まどかさんらが執筆しておられます。今後も『談』でお世話になった方が続々登場する予定。

科学と疑似科学、ホントらしいのはどっち?

エスタシオン・カフェでTASCの新留さんと一緒に帝京大学経済学部助教授・小島寛之さんと打ち合わせ。『TASC Monthly』掲載予定の座談会について。「科学と疑似科学どっちがホントっぽい? …科学的正しさの機能不全」というテーマでやろうと思っている。人選を含めてご相談する。ハードなテーマだけど、楽しくざっくばらんに語り合っていただきたい。うまくいくときっと面白いものになると思う。ぼく自身じつは半分はオカルティストなので、このテーマけっこう切実だったりする。

霊の存在を信じないぼくには…

はっきりしない天気に小泉首相は靖国神社を公式参拝。小泉劇場、その最後を飾るパフォーマンスか。夜NHKで終戦記念日と靖国に関連した特集番組「日本のこれから」を見る。討論を聞いていてはっと思ったこと。賛成派も反対派も御霊、英霊が存在することになんの疑いももっていないようだ。会場のどこにも自然科学者がいないのだ。ぼくは、そもそもそんなものなどこの世に存在しないと思っているので、その存在をアプリオリに信じるところから議論を始めていること自体にものすごい違和感を覚えた。「死」とは実体概念の何物でもない。発言者はただ自分の想念を語っているに過ぎない。御霊も英霊もどこにもいないしそんなものないのだからどうでもいい、というのではもちろんない。ないのだから、今問われている靖国問題は100パーセント外交問題であり、合祀されているA級戦犯の戦争責任を当うか否かだけが問題。歴史的事実に照らし合わせて、戦争を指導したことで極東軍事裁判で裁かれたA級戦犯を合祀することはおかしい。それを承知の上で参拝する小泉首相。ほんとうに心の問題だと思っておられるなら、その方がよっぽど重大だと思いけど。どうでしょう。

ソクーロフはヒロヒトをなぜ好意的に描いたのか。

銀座シネパトスでソクーロフ監督の『太陽』を見た。毛利嘉孝さんが国内での上映はありえないのではないかと言われたあの天皇ヒロヒトの映画である。なんと毎回満員御礼。こういう映画が満員になること自体うれしいことだ。年配の人より若い人、とくにカップルの姿が目立つ。映画は退避壕で一人洋食を食べるシーンから始まる。現人神であるヒロヒトが、それも連合国の料理をナイフとフォークをつかって食すシーン。そのあと向かった御前会議では周囲を唖然とさせる発言をする。皇居の中にあった生物学研究所。戦争のさなか、それも敗戦色濃い終戦間際に研究所で優雅にヘイケガニを愛でていたヒロヒト。この映画はどこまでが真実でどこからがフィクションなのか、そんなことはどうでもいい。ぼくは、ヒロヒトについて、じつは何も知らなかったということをこの映画を見てあらためて思い知らされたのである。天皇ヒロヒトは神様ではない。しかし、ヒロヒトはなぜ神様でなくなったのか。そもそもヒロヒトとはどういう人物であったのか。『太陽』はヒロヒトを真正面から扱ったおそらく世界でただ一つの映画である。続きを読む

息を吹き返すフランス・ポスト構造主義

お茶の水・山の上ホテルで、大阪府立大学人間社会学部助教授・酒井隆史さんと立教大学大学院フランス文学研究科後期博士課程在籍・松本潤一郎さんに「情動の政治学……身体は何を欲しているのか」というテーマで対談をしていただいた。
規律権力から生-権力へ、そして今や「情動」のダイレクトなコントロールが始まっているとする酒井隆史さんの問題提起を受けて、ブライアン・マッスミの容易な確実性としての「情動的事実」という概念に触れつつ、「欲望」/「快楽」の再定義、コミュニケーション批判としてのドゥルーズの管理社会批判、ランシエールの感性的なものの再配分、「可能的なもの」/「実在的なもの」、「潜在的なもの」/「現働的なもの」という可能性をめぐる二つの次元の区別、『ミル・プラトー』の情動による群れの構成などについて議論していただいた。
権力を求めることと権力から逃れることは紙一重である。そこに人間の情動機能が深く関わってくるのだ。「逃走線」とは、システムから逃れるものと考えられてきたが、じつはシステムを逃がすことなのではないか。コミュニケーションを積極的に断つ先にあるもの、それこそドゥルーズの「器官なき身体」である。「情動-触発」(スピノザ)という欲望する諸機械の生産力としての「器官なき身体」。今まさに、システムそのものが逃走/闘争する「情動の政治学」の地平が開かれようとしている…。
フーコー、ドゥルーズの言説を旋回しつづけるディスカッションって、思えば久しぶり。フランス・ポスト構造主義の思想が息を吹き返そうとしているのか。

スピノザの「情動」から「情動管理社会」を逆照射する

関東学院大学法学部教授・浅野俊哉さんを小田原キャンパスに訪ねる。「〈喜び〉と集団的協同(アソシエーション)の理論……スピノザの「情動」から考える」というテーマでインタビュー。浅野さんは、先頃『スピノザ 共同性のポリティックス』(洛北出版)を上梓されたばかり。それがめっぽう面白く、今回の『談』特集「情動回路」で取り上げようとしていたことと、まさに問題を共有していたので、さっそくお話を伺うことにしたのだ。
スピノザについては、『談』では過去に2回取り上げている。故竹内良知さんにスピノザの異例性について、また、鷲田小弥太さんにスピノザの民主主義論について。今回は、スピノザ思想の革新性をその特異な「情動」論から解き明かしてもらった。
スピノザは、「〈私たちの身体の活動力を増大し、あるいは促進する感情〉を〈喜び〉と呼び、その逆の場合を〈悲しみ〉と呼んだ。それと同時に、〈喜びとは人間がより小さな完全性からより大きな完全性へと移行することである〉とも述べ、それが達成感や到達感のような、ピークの感情ではなく、移行の感情であることに注意を促している。スピノザにおいて〈活動力〉とは、(…)〈生命力〉と私たちが呼んでいるものと、ほぼ同義と考えてよい。つまり、〈喜び〉とは、〈生命力が、身体において、より全面的に展開する過程で生じる感情〉」であり、そして、「そうした〈喜び〉としての能動性を一個人のみならず、集団的なレベルで実現する場合にはいかなる条件が必要か」を問い続けた。浅野さんがここで言う〈喜び〉〈悲しみ〉こそ、「情動」のことである。管理社会は、「情動」管理社会のことだとすれば、われわれはそこからいかにして抜け出すことができるのか。
じつは、その手がかりは「情動」それ自体にあったのだ。ドゥルーズ=ガタリ、ハート・ネグリの思想を参照しながら、浅野さんはスビノザ思想の核心に迫る。約2時間半のインタビューであったが、間違いなく今回の特集の核心を突くものとなった。
十川幸司さんも言っておられたように、スピノザを知れば知るほど、ダマシオのスピノザ解釈の軽薄さが露になってくる。哲学は自然科学より、遥かに射程が深く鋭い。神経科学も脳科学もちゃんと哲学に耳を傾けるべきだと思う。「情動」の時代ならばこそ、情動に訴える科学を企図してほしい。
ところで、浅野俊哉さんの奥方は、「純情きらり」や「大奥」、「ラブ・ジェネレーション」の脚本家浅野妙子さんでした。「純情きらり」見てますよ! と言ったらとても喜んでくれました。

グローバリゼーションというゲームをいかに変えるか

小泉義之さんの新刊『「負け組」の哲学』(人文書院)を贈呈していただきました。グローバリゼーションが猛威をふるう中で、このゲームに負けないというのではなく、いかにして「勝ち負けの無いゲーム、得失の分配の無いゲームに変えること」がてきるか、そのための理論的、実践的闘争を準備するのが本書の趣旨だと書かれています。いくつかのメディアに書かれたものを一冊にまとめられたのが本書ですが、共通するのは「(…)愚劣なものに対する憤りであるが、それ以上に、外部の他者に対する信頼であると言っておきたい」。「(…)外部の他者たちが相互に取り交わしている絆、それを信頼し、それに学び、それを守り広げることだけが、われわれに課せられていることである。われわれが、外部の他者を解放するのではない、外部の他者こそが、われわれを解放するのである」(序より)。常に、ロジカルかつプラトリカルな方法を模索し続ける小泉さんの快心の一冊。ぜひ書店でみつけたら、手に取ってみて下さい。
ところで、本書には編集を手伝っているWebマガジン「en」に寄稿いただいた「知から信へ」の一編が収録されています。思えば原稿依頼で立命館大学におじゃましたのは、04年の4月27日。その時に、ちゃっかり『談』のインタビューのお願いもしました。インタビュー後も、金森修さんとの対談をお願いしたり、それ以来すっかりぼくは小泉シンパです。今後も、いろいろ企画してますので、どうぞよろしく(この場を借りて)。
「負け組」の哲学

ひさしぶりにサドッホの文章が読めそうだ

TASCの新留さんと明治学院大学教授・澤野雅樹さんの研究室へ。私はなぜ歴史から何も学ばないのだろうか。またしても同じ過ちを繰り返してしまった。研究室を失念して、稲葉振一郎さんのいる研究棟へ行ってしまった。澤野さんの研究室はヘボン館。その7階、よくおぼえておけ!! 澤野さん、粥川さんではないけれど、あいかわらず飛ばしていました。エリクソンのブリーフセラピーの話や貴族の女性が毎日午前中うんち玉をつくって丁寧に小さい方から大きい方へ並べていくというフーコーの『異常者』に出てくる話。フーコーの笑いをわれわれは忘れるべきではない。サドッホに発表の依頼があったこと。小泉義之さんがやっている「ドゥルーズ=ガタリ研究会」でのことで、3人揃い踏みははじめてのことだったらしく、参加者は感激していたらしい。また、サドッホのもとに『思○』と『イン○○ション』から原稿依頼がきている話。『思○』に載ってしまえば怖い物なし、どこでもOKになる。それより、表紙に有名学者と共にサドッホという名前が並ぶって面白いでしょ、だって。ところで、こっちがお願いした原稿、締め切り日を間違えてもっとずっとあとだった。「えっそうですか、8月の締め切りだったら逆に受けなかったかもしれない。たまたま今余裕があったから受けたのに」とおっしゃので、「じゃ、今の暇な時に先に書いて下さっても…」といったら、「はいそうします、なんて言うわけないじゃないですか」だって。おもろい人じゃ。催眠療法の封印をそろそろ解こうかなんてうれしいこともおっしゃった。BGMにレッチリの新譜がかかっていて、澤野さんやっぱり飛ばしやさんかも。

哲学は趣味でやるかセレブがやるもの

玉川学園へ。駅で「en」編集部の清水さん神取さんと待ち合わせ。玉川学園大学文学部教授・岡本裕一朗さんに面会。岡本先生のご著書『ポストモダンの思想的根拠』を読んで、そのあまりに平易な現代思想・ポストモダン入門に感激してぜひ「en」にご寄稿をお願いしたいと思ったからだ。玉川学園大学の奥まで行ったのははじめて。ゆるやかに続く坂を上りきった所に文学部棟。すごくいい環境だ。建物がまた、アルヴァ・アアルトの作品のようなただずまい。たっぷりとった床面積。窓やドアが木製。木のぬくもりを活かした明るい室内。空間そのものに余裕がある。さて、岡本先生は気さくなかただった。ぼくと同学年。なかなかのオシャレさん。体格がぼくと似ているところに共感(?!)。ひとしきり雑談。今年から大学院の哲学研究科も担当されている。定員20人に3人ほどしかいない。そのうち一人は○才の女性で悠々自適。若い方は裕福な家庭の子らしい。とにかく、哲学科を出たって就職先なんてまったくといってない。50才まで就職はないものと思え、それでもいいい? と聞くらしい。哲学は趣味でやるかセレブがやるもの、とこれはぼくの持論。どうも院生の顔ぶれを見るとほんとうにそうなっているようだ。ぼくも、先生のところで生活なんか考えずにじっくりとデンケンしたいもの。セレブと金持ちにはまったく縁のない男の夢物語。

『談』no75の表紙は、牛腸茂雄さんのインクブロットの作品

デザイナーの河合千明さん来社。『談』のレイアウトをもってくる。計算違いか、対談がおそろしく長くなってしまい、全体ですでに100ページを超えてしまっている。editor's noteすら入らない計算。対談だけ2段組にすることに変更。表紙のデザインもあがってきた。牛腸茂雄さんの作品、今回はインクブロットのもの。あのロールシャッハ・テストに使用されるデカルコマニーから着想された作品。単純に美しい。かなりいいかも。午後、このレイアウトと表紙案をもってTASCにて編集会議。「生-権力」に焦点をあてて、before、afterの骨子について約1時間弱話す。杉田敦さんが強調された「一部を犠牲にして大多数が生き残るのが生-権力」を、暴力の運動と関連づけて、ポスト国家と権力のメカニズムへと展開させた。ドゥルーズ=ガタリが『ミル・プラトー』で指摘した条理空間から平滑空間へというシェーマは、生-権力を焦点にした権力メカニズムの分析にも十分応用可能だ。TASCの担当者新留さんの編集後記をいただく。これがじつに当を得たいい文章。かつての担当者下田さんに匹敵する文章の達人とみた。表紙案と『shikohim world/酒』の束見本のプレゼン。両方ともOKが出る。shikohim worldは毎回判型、ページ数を変えているが、今回の『酒』は、ちょっと驚くような造本にした。期待していただきたい。

ル・クレジオ氏の講演会&シンポジウム

ル・クレジオ氏が来日、1月29日(日)東京外国語大学で講演をされます。
以下は、今福龍太さんからのmalより。
1月29日(日)に東京外国語大学にて、ほぼ40年ぶりに来日するル・クレジオを迎えて饗宴=シンポジウムを開催します。ゆるやかな演劇的仕掛けのなかで、一日、この奇蹟のような邂逅と響き合いの場をお愉しみください。
ル・クレジオ来日

「生活の質」って、ほんとはなんだろうか。

武蔵工業大学環境情報学部教授・岩村和夫さんのインタビュー。中目黒のアトリエを訪ねる。『City&Life』の特集「都市の〈良質な〉居住環境」で、「サスティナブル建築がつくる良質な町並み……CASBEE評価の可能性」という記事をつくるための取材。CASBEEとは、建築物総合環境性能評価システムのことで、国土交通省主導で開発が進められているが、岩村さんは建築家の立場からそのシステムづくりに関わってこられた。97年に建て替えられた世田谷区深沢環境共生住宅の設計で注目され、エコロジー住宅の第一人者として活躍されている。集合住宅、戸建住宅にCASBEE評価を導入することによって、居住環境にどのような変化が生じるか、簡単に言えばそれでほんとうに〈良質な〉町並みができるようになるのか。ズバリお聞きした。続きを読む

ディオニュソスとは何もの?

横浜の朝カルで作家の楠見千鶴子さんから依頼していた原稿をいただく。やった!! 神楽坂山田製の400字づめ原稿用紙に万年筆書き。物書きの原稿はこうでなくっちゃ。さて、原稿はというとこれがとても面白かった。「葡萄の樹・狂気の神ディオニュソス」というテーマで、酒神といわれるディオニュソスはそもそもどのような神だったのか、ギリシア神話に則して紹介してほしいとお願いした。その内容は本誌で読んでいただくとして、ひとことだけいうと、ディオニュソスは生まれながら酒神だったのではなく、もしかすると神という存在であったかどうかも疑わしいというのである。その生誕から成長過程に至る過酷な神話(八つ裂きにされ殺され、母を替えて再生する)は、極端にディフォルされた人間社会そのものかもしれない。ディオニュソスという存在が「酒」のもつ両義性、陶酔性をじつによくあらわしているのだ。楠見さんの原稿が入ったことで、いよいよ「アルコオロジィ」らしくなってきた。

大衆の論理、自律の思考

鷲田小弥太さんから最新刊『現代思想の「練習問題」 キーワードの発見と使用方法』を贈呈していただく。「かつて思想とは、知的態度決定のための必需品であった。何かの〈看板〉を自分の頭上高く掲げなければ、自分に対しても、他人に対しても、態度表明がしにくかったのである。この知的〈儀礼〉、〈仕切〉としての思想が必要でなくなった。しかし、私たちの大部分、つまり大衆は、自分の態度表明を、明かな言葉と論理で表現しなければならない現実のなかにいるのである。知的アクセサリーとしての思想ではなく、ビジネスでも、学校でも、家庭でも、誰にでも通じる思考と論理を発揮しなければならない場面に、常に立たされているのである。/考えるとは、自分の足で立つことだ。私たちの時代の大衆が、初めて、この思考の自律を生きはじめたのである」。
鷲田さんにスピノザ思想の異例さをお聞きしたのはもう20年も前のことだ。鷲田さんさんはこうおっしゃった。「スピノザは、人間の幸福はいかなる社会において可能かを徹底的に考え抜いた思想家だったが、その時スピノザの頭にあったのは大衆である。幸福とはスピノザにとっては、なによりも大衆の幸福でなければならなかったのだ」。スピノザは、それゆえに希有な思考者(デンケン)と言われたのだと。鷲田さん、20年前からぜんぜん変わってないですね。そこにおられるのは、一人のデンケンです。そうである限り、ぼくはずっと鷲田さんの著作を読み続けます。

現代思想の「練習問題」―キーワードの発見と使用法

萱野稔人さんと仲正昌樹さんの対談

『談』no.75号の特集は、「バイオ・パワー」。生-権力論を真正面から取り上げる。その一つ「暴力とセキュリティー」をテーマに、萱野稔人さんと仲正昌樹さんに対談をしていただいた。『国家とはなにか』が話題になっているので、問題提起をふまえて萱野さんから口火を切ってもらった。国家を暴力をめぐる運動から捉え直すという視点は、現代においてはかえって新鮮に見える。国家、および暴力がなぜ今問題とされなければならないか、萱野さんの動機は明快だ。暴力でサンクションができるのは唯一国家だけである。ポストモダン以降の潮流として、国家を相対化しようという言説がはびこるなかで、暴力装置として国家を見直してみることの方がずっとリアリティがあるのではないか。しかし、これまでのように国家論から暴力を見るのではない。逆に暴力の側から国家を見る。暴力の歴史から、暴力をめぐる運動から国家を捉え直すということだ。「暴力のエコノミー」がキーワードになる。仲正さんから生-権力、また、グローバリズム、アメリカの軍事戦略との関係をどう見るかという意見が出され、暴力の予見不可能な状態が現代という時代なのではないかという議論へと発展した。たっぷり3時間、実りある対談となった。萱野さんは、「暴力のエコノミー」といっしょに数回「暴力の生態学」という言葉を使われた。ぼくも社会を捉える視点として生態学的アプローチに注目してきたが、萱野さんがいみじくも「暴力の生態学」といわれたので、我が意をえたりという気持ちになった。

萱野稔人さんと仲正昌樹さんの対談

『談』no.75号の特集は、「バイオ・パワー」。生-権力論を真正面から取り上げる。その一つ「暴力とセキュリティー」をテーマに、萱野稔人さんと仲正昌樹さんに対談をしていただいた。『国家とはなにか』が話題になっているので、問題提起をふまえて萱野さんから口火を切ってもらった。国家を暴力をめぐる運動から捉え直すという視点は、現代においてはかえって新鮮に見える。国家、および暴力がなぜ今問題とされなければならないか、萱野さんの動機は明快だ。暴力でサンクションができるのは唯一国家だけである。ポストモダン以降の潮流として、国家を相対化しようという言説がはびこるなかで、暴力装置として国家を見直してみることの方がずっとリアリティがあるのではないか。しかし、これまでのように国家論から暴力を見るのではない。逆に暴力の側から国家を見る。暴力の歴史から、暴力をめぐる運動から国家を捉え直すということだ。「暴力のエコノミー」がキーワードになる。仲正さんから生-権力、また、グローバリズム、アメリカの軍事戦略との関係をどう見るかという意見が出され、暴力の予見不可能な状態が現代という時代なのではないかという議論へと発展した。たっぷり3時間、実りある対談となった。萱野さんは、「暴力のエコノミー」といっしょに数回「暴力の生態学」という言葉を使われた。ぼくも社会を捉える視点として生態学的アプローチに注目してきたが、萱野さんがいみじくも「暴力の生態学」といわれたので、我が意をえたりという気持ちになった。

10年前にゾーエーと出会っていたなんて!

「しかし、とハイデッガーは、これにさらにつけくわえる。はじまりの哲学者にとって、ピュシスと同じほどに重要な、もうひとつの根本語があったことを忘れてはならない。それは〈ゾーエー〉ということばだ。ゾーエーはふつう〈生命〉と訳されている。しかし、これはまちがった翻訳で、ビーエーはもともと、ピュシスと同じように、〈立ち現れること〉という意味をもち、生そのものが、この立ち現れのうちに思考されていたのだ」。「ピュシスやゾーエーは、たんなる思索のことばではなく、その世界では、哲学者ならぬ多くの人々が、哲学とはちがった表現形式をとおして、まさにピュシスやゾーエーの現実性を、なまなましいかたちで体験していたのである。それはほかならぬ、ディオニソスの祭儀のことだ」。「ディオニソスの祭儀は、個体であるビオスの生命の内部から、荒々しいかたちでゾーエーが立ち現れてくる。その瞬間をとらえようとする表現の形だったのだ。そのためには、あらゆる個体の中でもっとも美しい個体が選ばれ、その身体をできるだけ暴力的に破壊することによって、その中からゾーエーが露呈される、その瞬間をとらえ、祝うために、人々はこの祭儀をおこなった」。
これは、中沢新一さんの『はじまりのレーニン』(1994年)からの引用。たまたま書庫から引っぱりだしてきたら、こんなことが記されてあった。10年も前ではないか。こんな形でゾーエーという概念は僕の前にすでに登場していたのだった。しかもこの箇所に僕はしっかり線まで引いていた。確か、『ホモ・サケル』を一昨年はじめて読んで、ビオス/ゾーエーという概念に興奮したのだが、あれはいったいなんだったのだろう。僕のビオスは、健忘を促進させているのか。ゾーエーのレベルから記憶と忘却について一度じっくり考えてみることにしよう。

『ユリイカ』8月号で『談』が紹介されています

うっかりして記すのを忘れていましたが、『ユリイカ』8月号特集「雑誌の黄金時代 紙上で見た夢」に、『談』が紹介されています。web上で「哲学の劇場」を主宰されている山本貴光さんが執筆された「投壜通信年代記 思想誌クロニクル1968-2005」という記事内で。『談』は、『is』や『季刊iichiko』と共に企業のメセナ活動の一環として刊行されているとあります。しかし、これは正確ではありません。『談』は、TASC(たばこ総合研究センター)のれっきとした機関誌であり、広報活動の一つです。確かに内容が内容だけに、これまでもPR誌や企業の文化活動の一つのようにみられることはありました。その度に説明してきましたが、ちゃんとしたTASCの一事業なんですよ。どうぞ誤解のないように、今後ともご愛読よろしくお願いいたしま〜す。

杉村昌昭さんの著書『分裂共生論』

人文書院の編集部松岡隆浩さんから杉村昌昭さんの著書『分裂共生論』が送られてきた。あとがきにあるように、杉村さんが松岡さんと雑談した折に『談』のインタビューの話になって、それを松岡さんが入手し読んで、それがきっかけで本をまとめることにしたのだそうだ。うれしいことである。さて、このタイトル、よく吟味してみると凄まじい。なにせ「分裂共生」ですから。杉村さん曰く「ドゥルーズとガタリの関係を念頭におきながら、フェリックス・ガタリの分裂概念とエコロジー・バランスの思想を接合的に発展させて、来たるべき人間と社会と自然の関係態に一石を投じようとしたもの」だという。そして、「分裂」と「共生」をつなぐ環こそが"不可視のリゾーム"なのだとおっしゃる。う〜ん、なんともかっこいいぞ。ぼくも、今一度この本を読み直して、「生成変化」の旅に出ることにしよう。もちろん、『談』no.68のインタビュー「精神・社会・環境」が収録されています。


分裂共生論―グローバル社会を越えて

学者のエクリチュール

熊野純彦さんのインタビュー原稿をアップ。今回も40枚。ただ、テープレコーダーのマイクの調整をしくじって、後半部分がほとんど聴き取れなかった。回していたビデオもバッテリー切れで、途中で録画が止まっていたし。そんなんで、条件は非常に悪かったけれど、なんとかつくりました。『差異と隔たり』から、少し引用させてもらいましたけどね。で、気づいたのですが、熊野さんの文章には、「ひどく〜」とか「おいてのみ」とか「たんに」とか「端的に」とか「ほかならない」が頻繁に出現する。じつは、何を隠そう僕の文章も同じ。これは、たんに、端的に、共通する学者のエクリチュールに影響されているからにほかならない、からか。興味深いところです。

本田和子さんのインタビュー

お茶の水女子大学学長・本田和子さんのインタビューの[上]をつくる。
→ 

今ラディカルな人は、かつても、そしてずっとラディカルだった

『tasc monthy』て゛「シネマ・シガレッタ」の連載をお願いしている粉川哲夫さんのテキスト「もしインターネットが世界を変えるとしたら」(1996年)が公開されているので読む。少し読み進めてみて驚いた。現代の状況を適確に予測しているとかいうレベルではなくて、ガタリを援用しながら、その可能性と不可能性に言及し、それを自由ラジオ、ミニFMの延長で、いかにラディカルに使い倒すか、徹底的に掘り下げているのだ。先生の現在やっているワークショップも刺激的だが、それもこれもみな思考のプロセスから半ば必然的に生まれたものだということを改めて確認させられた。僕が学生だったら(じつはむかしむかし学生でした)、絶対に飛びつくなぁと思ったのだった。

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