思想
『談』 no.84号
特集「真逆のセキュリティ!?」が発売になりました。

ヘーゲルと現代思想の臨界?ポストモダンのフクロウたち
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最新号 特集 パターナリズムと公共性定価[800円+税]
パターナリズムが私たちを自由にする?! ……ワンクリック・パターナリズムの時代の倫理と行動
●人間の合理性とパターナリズム 瀬戸山晃一(大阪大学留学センター准教授)
…… 規制やルールに埋め込まれているパターナリズム。パターナリズムを所与のものとして捉えたうえで、どういうパターナリズムを私たちは選択すべきか。公共性の概念と照らし合わせながら検討します。
●「同意」はバターナリズムを正当化できるか。 樋澤吉彦(長野大学社会福祉学部福祉学科専任講師)
……パターナリズムは、「自己決定」を支えるための必要不可欠な要素ではないか。この仮説のもとに、ソーシャルワークという実践活動から、パターナリズムの可能性について考察します。
●〈鼎談〉幸福とパターナリズム……自由、責任、アーキテクチャ 大屋雄裕(名古屋大学大学院法学研究科准教授)×北田暁大(東京大学大学院情報学環准教授)×堀内進之介(現代位相研究所首席研究員)
……生活環境を「快適」にさせる善意のシステムがパターナリズムではないか。自由と規範、自己責任と承認、アーキテクチャの権力といったキーワードを手掛掛かりに、現代の幸福感との関わりからパターナリズムの本質に迫ります。
●特別企画「アール・ブリュット パッション・アンド・アクション」より
表紙 齋藤芽生
クルマで上野の都美館へ。フェルメール展。本日、「小路」「ワイングラスを持つ女」「リュートを調弦する女」「手紙を書く夫人と召使い」「ヴァージナルの前に座る若い女」「マルタとマリアの家のキリスト」「ディアナとニンフたち」の一挙7作品を鑑賞。これで、過去にルーブルで見た「天文学者」「レースを編む女」、アムステルダムで見た「牛乳を注ぐ女」「恋文」「青衣の女」、ハーグで見た「真珠の耳飾りの少女」「デルフト眺望」,大阪市立美術館で見た「地理学者」「天秤を持つ女」「聖プラクセデス」を加えて、17作品になった。
今回、フェルメールの同時代の作家の作品も出品されている。が、やはり、フェルメールは群を抜いていた。ヤン・ファン・デル・ヘイデンやカレル・ファブリティウス、ピーテル・デ・ホーホなどを順に見てきて、フェルメールの作品を見た途端に、これはぜんぜん違う世界にきたな、と思わせてしまう。格の違いを見せつけられる。 以前から、ずっといい続けていることだけれど、遠近法を駆使し、光学装置を使用し、幾何学的手法を自在に操るフェルメールは、デルフト派の他の作家と同じ水準にある。しかし、そうして構成された画布の内部に、理知的な世界とはまったく異質なものをフェルメールは持ち込むのである。オランダ絵画のもう一つの流れである風俗画の伝統にも忠実であるといういい方がされる。家族や人間関係が主題にされ、人の機微のようなものを表現することに腐心する。それが、理知的な、もっといえば数理的に構築された空間の中で一種独特のドラマトゥルギーを生み出すのである。いわば「幾何学の精神」と「感情の生理学」が相まって、空間を肉付けするのだ。情動化した数理空間、あるいは、幾何学化した感情。それらが、画布の中でミクロ的に組み合いながら、一つの表情をつくり出すのである。表情……、そう、ここに現出するのは、表情だ。世界という表情なのだ。都市の縮小、都市の縮退が現実のものになろうとしている今、これまでの都市計画、都市開発は根本から方向転換を余儀なくされている。都市は成長・発展するものというこれまで自明とされてきた前提が崩れたからだ。50年後には、4000万人近い人口減が予想されている。都市から人がいなくなるという。ともすると悲観的にならざるをえない未来に対して、縮小という新たな事態をむしろ積極的に活かしたまちづくりの方法があるはずで、それを絵にしてみせてくれたのが「ファイバーシティ2050」であった。丹下健三の「東京計画1960」以来、大都市を対象とした都市計画が提案されることがなかったが、「ファイバーシティ2050」は、ひさかたぶりに発表されたいわば大文字の都市のグランドデザインとなった。
今日のインタビューは、具体的な手法、モデルプランとして紹介されることが多かった「ファイバーシティ2050」を、むしろ思想的な側面からスポットをあてて、パラダイムシフトとしての意味を語っていただいた。短いインタビューではあったが、シュリンキングと都市の新たな関係を考えるための、貴重な提言となったと思う。
青山ブックセンター 青山本店に行くと、音楽の棚で最新号がコーナー展開、それも真ん中に平積み。思想のコーナーとあわせて2箇所。今号はけっこう好評で、すでに都内の数店から再注文がきている。ありがたいことだ。
午後は、言語学者の田中克彦先生に原稿依頼。99年に『談』でインタビューをさせていただいた。すでに一橋大学を退官されていて、ご自宅に電話をかけつづけていたのだが音沙汰がない。岩波新書の編集部に尋ねる。電話番号を伝えると、「それは違いますね」と別の番号を親切に教えてくれた。だいぶ前に引っ越しておられたのだ。電話に出られた田中先生は、ちゃんと覚えていてくれた。あのインタビューは先生にとって好印象だったようで、今回の依頼も二つ返事でお引き受けいただいた。仕事は丁寧にやっておくと、その後もいいことがあるということだ。
政策大学院大学教授の松谷明彦先生に原稿依頼。ところが、ご多忙をきわめておられてインタビューになってしまった。今後100年間、人口は減り続けるという。未曾有の人口縮小時代にわれわれのやれることとは何か。とりあえず、東京の20年後を予想していただく。
東京農業大学客員教授の高辻正基先生に原稿依頼。先生は、文理シナジー学会ではいつも度肝を抜く発表をされるが、今回の依頼は「随想」欄なので、なんでもいいんですよ、と伝えると、「じゃぁ、仏教について今研究しているので、それについて書きましょうか」だって。えっ、仏教ですか。この前までは、精神分析をご 研究だったのに。ラカンが羅漢さんになったということ?!。
以前書いたことだけれど、先生とは80年代の初めに、一緒にバリ島に行った。スタジオ200で開催された「バリ島の生態学」というシンポジウムにパネリストとして参加してもらいたくて、現地視察をお願いしたのである。当時まだ日立中研の主任研究員であった先生は植物工場の研究と平行してシナジーについて研究されていた。レーザー光が研究テーマであった先生は、レーザーが非平衡状態の開放系であることに注目し、ハーケンやプリゴジーヌの「非平衡状態における秩序形成」の問題と共振することになったのだ。
そして、ぼくは、そのシナージェティックスという概念が、バリ島の特異な精神文化の解明に使えるのではないかと思い、高辻先生にその仮説を話したところ、ものすごく興味をもってくれて、シンポジウムの参加を快諾しただけでなく、ぼくと一緒にバリ島まで付き合うことになったのである。
先生は、とにかく好奇心旺盛だ。そのあと、シナジーが人間の恋愛の究明に使えるとわかると「愛」の問題に入っていき、それがまた「こころ」の問題と密接にかかわるものだとわかって、今度は精神分析に知的触手を伸ばしていった。そして、ついに仏教だ。もちろんその間にも、ヘーゲルやベルクソン、株や金融工学をやり、もちろん専門分野の植物工場は、市場規模数兆円といわれるビッグビジネスへ育てあげた。
ともあれ、ますますお元気な高辻先生、おそらく仏教がエンドポイントとはならないだろう。きっとまた新しい分野へアプローチしていくに違いない。なにぶん先生の家は、ぼくんちのそばなんで、そのあたりのことを、今度聞きにいってみよう 。
関西大学社会学部教授・阿部潔先生より『スポーツの魅惑とメディアの誘惑 身体/国家のカルチュラル・スタディーズ』(世界思想社)を贈呈していただきました。じつは、北京オリンピックの開会前に届いていたのですが、TVが連日伝える熱戦に夢中になってしまっ て、活字を読むどころではなかったため、つい紹介が遅れてしまいました。たぶん著者も版元も、北京に合わせて配本日を決めたのでしょう。8・8前に私のところへ送っていただいたのも「見る前に読んで!!」ということだったとしたら、ほんとにどうもすみませんです。しかし、しかしですよ。これは弁解ではありませんが、獲得メダル数金8銀6銅9、大会も残り5日となった現時点で、本書を開いてみると、これがなかなか面白いのです。いまだから、読むべき本だと思いました。谷亮子は銅では喜べないし、北島康介も200mで世界新でなければ笑顔もいまいち。その一方で、ボルトは100mで9.69秒の世界新を出しても、あのひょうきんぶり。競技の結果とその結果を出したアスリートの感情がかならずしも一致しないということを、液晶やプラズマ画面に映し出される選手の顔を見ることで察知してしまうのです。TVはなぜアスリートの目や鼻や口をあんなに大写しにする必要があるのか。情動表現と感情の不一致、生身の身体とデジタル画像としての肉体表現の乖離。われわれがオリンピックを見るということは、TVを見るということであり、表象/代表(represent)の回路に巻き込まれるということを意味しています。オリンピックの視覚的体験とは、まさしくメディア体験そのものなのです。本書は、現代のスポーツが置かれている状況を、メディアとの関係から抉り出そうとします。スポーツする身体はどのような形でメディア化するのか。感動はどのような経路を経て「物語」となるのか。スポーツと国家が一体化する瞬間はどこか……、著者はわれわれに問いかけます。ホンモノの花火に混じってCGの花火が使われ、少女の歌は口パクだった。スポーツの祭典そのものがすでにヴァーチャルだとしたら、オリンピックとはなんなのか。身体とは、いかなるものか。北京五輪をもう一度考えるための一冊です。
パターナリズムとはまさに父子の関係を原基にしている。パターナリズムを父子の問題系から、あらためて掘り起こしていくと面白いかもしれない。いいヒントをもらえた。
愛煙家の三浦さんであるが、新書館の社屋は全室禁煙。三浦さんは、しょうがないので野外の非常階段に灰皿を置いて吸っているという。ポートレイトの撮影のために、普段たばこを吸っている場面を撮らせてもらったが、やっぱりちょっとかわいそうでした。
講演では、本には書かなかったが、この区分とあらたな時代相「不可能性の時代」を、二つの映画を比較検討することで説明された。二つの映画とは、若松孝二監督作品「実録・連合赤軍」とコーエン兄弟監督作品「ノーカントリー」。「実録・連合赤軍」では、共産主義は無条件に善でありそれに対して私的欲望は悪である。理想の時代はたとえそれが殺人という結末へ向かったとしても、そこには善と悪という図式がかろうじて生きていた。ところが、「ノーカントリー」において展開する究極の無差別殺人では、善と悪はいずれも絶対であることにおいて、その本来の意味は剥奪されている。つまり、善と悪が簡単に反転してしまうのだ。そこに露出するのは絶対的な「現実」である。
かつて真木悠介( =見田宗介)は、「〜からの疎外」に先立って「〜への疎外」があるといった。たとえば、貨幣からの疎外が不幸なのは、人がまず貨幣へと疎外されていからである。貨幣が普遍的な欲望の対象として措定され、人々をあまねく捉えているという状態がまずあって、そのうえで人々の間に貨幣から疎外されている層(貨幣を持たない層)と貨幣からの疎外に見舞われていない層(富裕層)との区分が起こる。連合赤軍の時代では、未だ「〜への疎外」に留まっていた。ところが、「ノーカントリー」では、いわば「「〜への疎外」からさらに疎外された状態が剥き出しになっているのだ。それを大澤さんは「不可能性の時代」と呼ぼうというのである。
講演の密度は、恐ろしく濃かった。しかし、聴衆のJTの役員、社員さんたちは、非常に熱心に聴き入っていた。後半の質疑応答も大盛り上がりで、場所を移しての懇親会も大盛況。大澤さんの話をちゃんと理解してくれる人たちがいるというのは、驚きといわずしてなんと言ったらいいのだろうか。
われわれは、何を、どこまで、どのようにして知ることができるのか。また、すべての問題は、理性によって解決できるのか。もしかすると、理性では超えることができない限界があるのでは……。これまで、哲学の分野で扱われてきた人間と世界の根源に関わるこれらの問題に対して、幅広い視野に立って自由に議論しようというのが本書です。高橋さんは、そこで疑似的ですが、ディぺードという方法を導入しました。選択の限界、科学の限界、知識の限界という三つの限界論について、それぞれの議論に相応しい立場の人物に参加してもらいながら、可能な限り多角的に論じ合う。単に哲学的テーマを読み解くのではなく、議論に読み手も参加することで、問題をより身近なものにする。読み手もまたもう一人のバネリスト、そんな気分で読み進めることができるのです。
民主主義の原理的不可能性を証明することで選択の限界を明らかにした「アロウの不可能性定理」、科学的思考を限界付けた「ハイゼンベルクの不確定性原理」、人間理性そのものの限界を決定づけた「ゲーデルの不完全性定理」。三つの限界と対応する三つの定理。20世紀の大発見は、結局のところわれわれに実在や確実さというもののあやうさを知らしめることになったのです。それは、哲学にとって幸福か不幸か。それはともかくとして、ディぺードに参加することのなんと楽しいことよ!! さあ、みなさんも一緒に議論しましょう。

詳細は、→G8対抗国際フォーラム
「やばい」という言葉。昨今、まったく反対の意味で使われる場合が多い。ぼくも、すっかりその使用方法が身に付いてしまい、「マジ、ヤバい」を連発してしまうのですが、本来の使い方しか知らない人には、とんでもないことに聞こえてしまうらしいのです。これをもって日本語が乱れていると嘆く方もいらっしゃるでしょう。しかし逆に見ると、これこそ言語の大いなる特徴なのです。それだけ流動性をもっているということでもあり(今風に言えば、可塑性をもっている)、さらにいえば、発語される意味されるもの(シニフィエ)とその言葉の意味するもの(シニフィアン)は、言語の端緒から恣意的な関係にあるということの証しなのです。そして、これは日本語に特徴的なものではなくて、ほぼ世界の言語に共通した普遍的な性質ですらあるのです。
ジャマイカに行った時のことでした。友だちになったタクシードライバーのボブ君は、調子にのってくると、所かまず「bad!」「bad!」とわめきちらします。じつはこれは「good!」の意味。ジャマイカでは、
価値観が完全に転倒してしまうような、こんな使い方はざらにあるのです。しかも、そうした使用法が沢山載っている「ジャマイカン・イングリッシュ集」なる辞書まであるのです。
言葉は、その使い方を間違うと命取りにもなります。が、そもそもかなりいいかげんなものなのだということを知っておくことも大事なこと。だからこそ「ことば」は面白いと、ぼくは常々思っているわけです。
萱野稔人さんから『ディスポジション 配置としての世界』を贈呈していただきました。
「世界は配置(disposition)であり、人間は自らを取りまく配置によってたえず態勢づけらている(disposed)。」
「ギブソンのレイアウト(layout)、フーコーの装置(dispositif)、ドゥルーズの配置(agencement/arrangement)といった諸概念は全て、世界や人間を諸要素の配置(disposition)として捉えることを可能にするコンセプトである。これらの概念は、世界を、人間の意識によって総合される表象ではなく、生物としてのヒトを取り囲む環境として捉えることを可能にする方途であ」ると編著者の一人柳澤田美は言い、「ディスポジション的な思索の妥当性は、それが意識化されていない生活者の現実を十全に言い表している以上の何かにもとめられるべきだろう」と提言します。そして、この未だ十分な言葉が与えられていない何かについて、哲学、倫理、生態心理学、建築、アートから、領域横断的な思考を展開するのが本書であるという。ディスポジションを一つの手がかりにして、より実践的観点から、その可能性を探求した論考集。
ディスポジション:配置としての世界―哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に
出版を記念して6月21(土)にイベントが行われます。↓
吉祥寺sound cafe dzumiにて『談』の公開対談をやります
と4月5日付けブログで告知しました。
4月22(火)、23(水)、5月7(水)いずれの日も、
まだわずかお席があります。
少々狭い会場ですが、それゆえインティメイトな対話世界を堪能できると思います。
ぜひこの機会に、会場に足をお運びください。
応募は専用メールで→oubo@dan21.com
この映画をテキストに廣瀬純さんが講演を行った。
「「わたしの人生はへたくそにモンタージュされ、へたくそに演じられ、うまくかみ合っていない吹き替え映画のようなもの」とマルグリット・デュラスは言ったが、リヴィエールもまたフーコーに同じことを語りえたのではないか。フーコーが、リヴィエールに見出した「物語=殺人の装置」もまた吹き替え映画をなしている。D=Gは言う。「マルクスが示すのはふたつの"主要な"要素が出会うということだ。一つは、脱領土化された労働者であり、彼は自由で何も持たない労働者となり、自分の労働力を売らなければならない。もう一つは、脱コード化されたカネであり、これは資本となり、労働者の労働力を買う能力を持っている」。ここで問題となっているのは、まさにへたくそにモンタージュされ、うまくかみ合っていないもう一つの吹き替え装置のことである。言い換えれば、二重化された装置のことではないか」。
二重化された装置は、解決不能な問題として問題の出題者へと送り返される。共訳不可能な問題としての問題。もはや、解決(ソリューション)は、最も陳腐で堕落した問題への単なる注釈に過ぎない。われわれは、問題の問題こそ、問いとして生き続けなくてはならないのだ。
物語と殺人、音と映像、労働と資本、「と」によって連結する二つのもの、こと、様態…。この共訳不能な、決定不能な問題こそが、システム=社会の問題の核心である。システム・ソリューションは、じつは問題そのものからの撤退でしかないということを、肝に銘じる必要がある。問題を解決したと思った瞬間、われわれは問題そのものから滑り落ちていくのである。というようなことを講演を聞きながら思ったのでした。
あえてここでは触れなかったが、先週末は、アントニオ・ネグリが来日していろいろな催しが行われていたはずだった。
ぼくも、22日に開催されるはずだった国際文化会館の「ネグリ講演会」を予約していた。しかし、全てお流れ。「私たちを残して、飛行機は日本へ飛び立った」というネグリとジュディット・ルヴェルのメッセージがむなしくWeb上を漂流したのだった。今回の来日中止について、当然腹が立ったが、何か釈然としないのだ。わかったようなわからないような、なんともへんな気持ちがずっとしていた。そんな時に、こんな文章に出会った。『TASC monthly』でもお馴染の粉川哲夫さんの日記。なるほどこういう見方もあるのか。
それはともかく、彼女をいろいろな人にひきあわせ、また、知り得る限りのメディア関係者と接触できるようにしたことはホントです。その一人がここにも書かれている泉秀樹さん。そうdzumiの店長です。セゾンが面白いことをばんばんやっていた時、その仕掛け人の泉さんに、今はなき六本木のWEVEで引き合わせたのは、ぼくでした。彼女にとって、それはその後の生き方にいろんな意味で影響を残しと思います。
思えば、ピテカンやカルデサックなんていう、もうとっくになくなったカフェ・バーや、まだ健在のCAYやロイズといったエイジアン、パンパシフィック系レストラン、名前は忘れたけれど2階の屋上から満月がとてもキレイだった青山の古い1軒家のビストロなんてところへ引き回したのもぼくでした。彼女は、このビストロが気に入って、その後鈴木慶一さんも来たCD発売記念(彼女は今で言うエレクトロのリミックスアルバムを2枚もプロデュースしている)のパーティ会場につかったりしてましたっけ。美味しいものをけっこう一緒に食べましたね。でも、あとから、彼女は「著作多数」の一冊で、自分は食べることにほとんど興味がないと書いておられて(確かにそれは感ずいていましたが)はぁ、そんなもんかいなぁと思ったものです。
それはさておき、マルチな彼女の活動の中で、思想系でサブカルチャーにも通じている才女というキャラづくりに、少しは貢献できたかなとは思っています。ところで、帯と奥付に貼り付けてある彼女の87、88年のお姿は、どうみてもクリスタル系ですね。ワンレンじゃないのが救いですけど。ご本人は、その当時松本伊代似と言われていたと書いていますが、ぼくは早見優かキムタクの妻似だと思ってました。
以前『タコ』のファーストアルバムに彼女が参加していたのを知って驚いた、とここで書きましたが、あれじつは香山リカさんではない別の香山リカさんなんだって。そんなに何人もいるのかって、いるんですよ、これが。その秘密を知りたい人は、ぜひ本書をお買い求めください。

河野哲也先生は、ぼくを見下ろすような背の高い人で著書のイメージと違っていた。あとから伺うと先生は剣道をずっとやられていたとのこと。またしてもアスリートだ。以前から『談』を何冊か買っていただいていたようで、大変うれしい。著書の趣旨をまずお話いただく。教育と福祉、J.J.ギブソンとノーマライゼーションをメルロ=ポンティでつなぐ試み。何が知能なのか。それは、身体と環境のセッティングによって変わっていくものだ。何が価値なのか。それは、行為の多様性から生まれてくるものだ。学習の問題、成長の問題、環境の問題、さらには法の問題。いずれも身体とニッチの関係から読み解くことができるという。非常に有意義なインタビューとなった。しかし、またしてもメルロ=ポンティ。メルロ=ポンティの哲学とアスリートは相性がいいのかもしれない。ついでに言うと、ギブソンもそうだ。アフォーダンスを一発で理解するには、まず400mを全力疾走してみるといい。あるいは、クロールで2000m泳ぐのもいいし、もちろん竹刀で面打ちを決めるのでもいい。中井正一ではないけれど、スポーツ気分が了解できた時に、キアスムもアフォーダンスも自らの体験として会得できるはずだ。今度、「スホーツ気分」の研究でもやってみることにしよう。
哲学ディベートとは何か。現代社会におけるさまざまな倫理的な問題に対して論理的には何が言えるか、それを考えるというもの。具体的にいえば、「現代社会で生じた現実の事件を論題として設定し、肯定側と否定側に別れてディベートを行う。ただし、(…)その目的は、その背景にどんな〈哲学〉的問題があるのかを論理的に掘り下げて」、今まで気づかなかったあらたな発想を見つけ出すことであり、一種の弁論術を養うことにもつながるという。
章ごとに、「あなたはなぜ正直なのか」→道徳から始まり、「食べるとはどのようなことか」→文化、「いかに産むべきか」→人命、「どのように罰すべきか」→人権、「何をしても許されるのか」→自由、「いかに死すべきか」→尊厳、といった倫理的問題が、先生と学生の討論という形式で展開していく。「普段あまり使わない思考や感情の回路をためされること」になるはずと著者は言うが、なるほどそうである。読み進めるとすぐに夢中になって、自分も学生(役)と同じように、けっこう真剣にその問題と向き合っていることに気づいて、はっとした。まんまと高橋さんの弁論術にはまってしまったというわけだ。
高橋昌一郎さんには、『談』no.69で「科学はなぜ嫌われるのか」というテーマでインタビューをしている。この時もディベートをすることの重要性を説いておられたが、その目的は相手を論破することではなく、あくまでもさまざまな意見を出し合い、比較しながら自分の考えを打ち立てていくことにある。哲学とは、遠くギリシアの時代から、聞くこと(他者の声を)、話すことだったのだ。そして、それはとてもわくわくする体験なのである。哲学することの愉しさをあらためて教えてくれる一書である。

TASCで『談』no.80の編集会議。editor’s noteの読み合わせ。これで承認されれぱ、オーケーだ。バタイユの説明で、「非生産的消費」とか「有用性の限界」とか「呪われた部分」についてはしつこいほど語っているのに、肝心の「無意味の意味」との関連性について触れられていないのはどうしてか、という鋭い質問があった。確かに。本誌が発行された時に確認していただければいいのだが、インタビューの冒頭で、無意味を意味との対比で捉えようとする時に、バタイユにはそういう傾向がある、という指摘がなされる。じつは、無意味の意味が登場するのはその一箇所だけのだ。確かに、これでは、どうしてバタイユなの? と思われるのも無理はない。といっても、ここのところは微妙で、軽はずみに論じると、やけどをしそうなので、加筆、修正は勘弁してもらった。だいたい特集タイトルの「無意味の意味/非-知の知」の「非-知の知」についても、ほんのちょっぴり触れただけ。バタイユを知らない人は、この言葉自体に??? かしれない。しかし、これもあえて何も言わない方がいいのではという配慮なのである。それでは詩ではないか、と批判されそうだが、ここは一つご勘弁願うとして、そんな意味などわからなくても、十分面白いインタビューなのでそっちを楽しんでいただきたい。
夜は、『TASC monthly』で1年間連載をしていだいた中川五郎さんのご苦労さん会を渋谷のワイン居酒屋VINで開催。中川さんの12月のスケジュールはライブがびっしり並んでいる。今日も昨夜「五つの赤い風船」のコンサートで宿泊された名古屋からの帰りだという。そんな中をぬって、私たちのために時間をつくってくれたのだ。感謝感謝。そのライブ、じつは営業的にはなかなか厳しいらしい。ミュージシャンというのも大変なんだぁと思った。サンセールとポムロール、ローヌにブルゴーニュとフランスワイン巡り&ジビェとフォグラで、愉しい語らいの時間をすごしました。
この顔ぶれを見て、『談』の読者の方なら、「えっ?!」と思われるのではないでしょうか。そう、no.76の特集「情動回路」とかなりカブっているのです。出演者からそれとなく聞いたところでは、実際に企画の段階で、『談』の特集にインスパイヤーされたとか。それにしても、一種のサプライズとして紹介された酒井さんのビデオレクチャー。『談』が出てなかったら、このインタビューもなかったのではとちょっと思ってしまいました。情動がなぜ権力や労働、資本主義と関係するのか、それは、no.76の肝でしたが、今回のシンポでもやはりひとつの論点になっていました。
そもそも下條信輔さんはno.64で、廣中直行さんは、no.66、no.70でインタビューや対談に参加してもらっていますし、その後も某企業が主催する研究会に参加をお願いしたりして、お二人とは懇意にさせていいただいてます。情動というテーマ自体が、その研究会の中心課題でした。そんなわけで、今回のRGは、いつにもまして楽しみにしていたのです。
さて、内容はどうだったか。一言で言うと、例年通り下條先生のかじ取りでみごとな盛り上がりを見せたのですが、肝心の「情動」そのものに迫りきれたかというと、やや消化不良かな、というのが正直な感想。
最もそれを感じたのが、論点ともなった「attention economy」について。潜在的マーケティングを実践するシャイアは、無意識のレベルで働く情動を解明することから「attention economy」の可能性を探求しますが、むしろ消費者はそれを裏切り続けるのが実態だと解く。それに対して、酒井氏は、情動に直接関与する「attention economy」のもつ危険性を示唆する。両者は、同じことを問題にしながら、結論がまったく逆なのはなぜだろうか、という形で問題提起がなされ、この違いはかなり重要だと指摘されました。しかし、この理由はあまりにもはっきりしているのではないでしょうか。シャイアにはクライアントがいるけれど、酒井さんにいない。ただその違いだけです。要するに、情動を資本の中に組み込みたいのか、逆にそれに抗いたいのか。単なる社会学に終始するのか、そうではなく批判理論を目指すのか。この違いは、じつはものすごく大きい。
これは、毎回感じることですが、やはり監修者のスタンスは、サイエンティスト、エンジニアのそれであり、そうである限り、社会と向き合う時にどうしても脇が甘くなります。その脇の甘さが、社会やあるいは人文系の学問に橋を架けるうえで結構重要だと、もしもそのように認識されているならば、それは全くの誤解。RGが工学的知と人文的知の交錯する場所になりうるためには、あとまだ数十回のディスカッションが必要だなぁと思いましたね。というわけで、ぜひまた来年の開催を期待します。
雑誌『Inter Communication』誌での同名の連載を中心に、同じく同誌で西垣通さんと交わされた議論、大澤真幸さん、東浩紀さんとの鼎談が収録されています。その連載、開始当初から話題になりましたが、『談』も注目し、no.71での北田暁大さんとの対談は、じつはこの連載がきっかけだったのです。
斎藤さんは、第1章冒頭で本書の目的についてこう書いています。「…私にとってのメディア論とは、つきつめれば、メディアの本質的な不在を論証するための議論を意味している。それは例えば、女性を論じて女性の不在に至るようなパラドキシカルな議論と相似形をなすだろう。そう、セキュシュアリティの根源性を謳いながら、女性の不在を宣告するラカニアンの身振りである。しかし、それははたして本質的な矛盾なのだろうか? そうではない。それはおそらく、存在論的な厳密さの問題なのだ。そう、本書は「メディア」を存在論的な根拠として用いることの不可能性、これを論証することをさしあたりの目標としている」。
「ユビキタス社会への「問い」ーーあとがきにかえて」では、「…メディアは存在しない。しかし、だからこそ、メディア論は終わらない。…かくして「ユビキタス」以降の新しいメディア論(それをもはや「メディア論2.0」などとは呼ぶまい)へ向けて、われわれは引き続き「精神分析」の橋頭堡に立てこもりつづけなければならない。足場を確保しなければ、自由になることすらできはしないのだから」。
メディア論はいかに〈不〉可能か。それは、同時に、精神分析はいかに〈不〉可能か、を問うことでもある。だとすれば、本書の立ち位置は、ラカニアン的身振りを二重化することで、よりいっそう精神分析の〈不〉可能を徹底化させようという、まさにラカニアンのそれにあたるだろう。「メディアは存在しない」という言明それ自体が、すでにメディア化した精神分析の内容証明となっていることのなんというパラドクス! そう、ここで展開されるのは、またしても斎藤環的マジックなのだ。斎藤さんのクロースアップ・マジックには、タネも仕掛けもあるから面白い。
メディアは存在しない

「社会には、きまりがあります。でも、このきまりは誰かがきめたものではありません。気がついたら、そうなっていたのです」(「はじめに」より)。
「大人にきいても答えてもらえなかったこととは?」「先生や親に聞いてもムダだと思うけど、やっぱりきいてみたかったこととは?」などのアンケートをもとに、子どもたちにテーマを選んでもらい、ぶっつけ本番で授業をしたのだそうです。本書は、その授業を再現し、コラムなどを加えて編集したもの。目次には、「なぜ勉強しないといけないの?」「死ぬってどういうこと?」「大人はずるい?」「なぜお金でものが買えるの?」……、などという大人にも興味津々の見出しが並んでいます。そうしたテーマをQ&A方式で、橋爪先生が懇切丁寧に説明していきます。
「ホンネで語った」という殺し文句がクリシェになっている今、本書はほんとに「ホンネ」が語られています。やっぱ、橋爪先生だわ、と思わずうならせる本になっています。ただし、「たばことお酒」については、厳しいご意見も。そのへんは、今度、直接聞いてみましょう。「橋爪先生、ほんとうにたばこってそんなにいけないものなんですか?」

GDは、またこんな言い方もした。「絵画はずっと単色だった。それがある時から色を持つようになった。それは、絵画にとってとてつもない革新である。色を見ること、色を探し出して、色をつけること。こんなことは、ふつうでは絶対にあり得ないことだ。それほど、色というのは重要でありかつ概念に近いものなのだ。したがって、絵画が色を発見したことによって、はじめて哲学の領域に足を踏み込むことができたのである」。今日のGDは、まるで、ゴッホのドゥーブルだった。だがもしも、DGだったら、間違いなくそれはベーコンに替わっていただろう。
以前鵜飼哲さんにインタビューした時、そのタイトルを「記憶の記憶、忘却の忘却」としたのだが、これは、ニーチェの能動的忘却に定位して、人間は忘れることができなくなった動物、すなわち、忘却を忘却したのが人間にほかならない、というところからとったものだった。
この「忘却の忘却」という言葉、他でも読んだことがあるなと思いつつ、それがまったく思い出せなかった(単なる忘却)。それが、あったのだ。最近河出文庫から次々に翻訳が出ているドゥルーズの著作、ほとんど持っているけれど、結局持ち運びができるのでまた買ってしまうわけだが、その一冊『フーコー』を読んでいたら見つけたのです。
「…しかし、主体あるいは主体化としての時間は、記憶と名づけられる。(…)この記憶はそれ自体たえず忘れられて再構成されるからである。その襞はまさに、拡げられた襞と一体である。なぜなら、拡げられた襞は、襞のなかに折り畳まれていたものとして現前し続けるからである。ただ忘却(拡げられた襞)だけが、記憶のなかに(襞そのもののなかに)折り畳まれていたものを再び見出すのである。フーコーが最終的に再発見したハイデッガーがここにいる。記憶に対立するものは忘却ではなく、私たちを外にむけて解体し、死を構成する〈忘却の忘却〉である」。(「湾曲あるいは思考の外」)
ドゥルーズは、『フーコー』におさめられた幾つかの論文で、フーコーを、「襞」あるいは「折畳み」という言葉から、執拗にその外の思考として掴まえようとする。その外は、襞あるいは折畳みという条件において、思考し得る対象としての記憶/忘却の再開の必然性、回帰の不可能性となり、再びわれわれに贈与されるというのである。襞あるいは折畳みは、ドゥルーズをフーコーへ、さらにはニーチェ、ハイデッガーへまさに折り畳んでいくための重要な概念なのだ。
などと考えながら、今日、日仏学院で「アベセデール[D、E、F、G]」を見た。カメラの前のドゥルーズの、なんと饒舌なことよ。クレール・パルネのインタビューに対して語ること語ること、ほとんどしゃべりっぱなし。ある時は、パルネの質問を遮ってまでしゃべり続けるのである。哲学とはまさに語ることだといわんばかりに。
そんな動くドゥルーズをはじめて見て驚いたのだが、もっとびっくりしたのが彼の爪!! 指の先には、まるでジョニー・デップ=エドワードのような長い爪が鎮座ましましていたのである。それも10本の指全部に。しかも、人さし指の爪は、くるっと弧を描いて、丸まっていた。あっ、これって、もしかして「折畳み」のこと? そう、よく見れば、人さし指だけでなく他の何本かも内側に湾曲しているではないか。そうか、ドゥルーズという哲学者にとって「襞」「折畳み」という概念は、自らの身体のメタファだったのだ。いや、逆か、自分の身体こそ、「襞」「折畳み」のメタファだった。ということは、「器官なき身体」はドゥルーズそのものだったってことなの? そんな想像も愉しむことができる「アベセデール[D、E、F、G]」の上映はあと3回。ぜひ見ましょう。クレール・パルネが女性だということもこの映像で知った世間知らずの僕です。
「ジル・ドゥルーズとともに」というイベントが開催されている。
『シネマ2*時間イメージ』『シネマ1*運動イメージ』(2007年12月刊行予定)を記念して、ドゥルーズの作品の引用で構成されたポスター展、ドゥルーズがさまざまな概念や自分の人生について語った貴重なドキュメンタリー『アベセデール』の上映、ドゥルーズの「シネマ」に関連する映画上映、レクチャー、シンポジウムを開催するというもの。すでに20日(土)にオープニングイベント「ドゥルーズ・アナロジック」というサウンド、映像、パフォーマンスのプログラムがスタートしていて、今月31日まで行われる。
なんといっても今回の目玉は、生前上映を禁止することを条件に撮影されたTVドキュメンタリー「アベセデ−ル」がすべて放映されること。Aは動物、Bはお酒、Cは欲望…というように、キーワードを手がかりとしてAtoZでドゥルーズ自身が自由に語りおろした記録。動くドゥルーズが見られるのは、これが最後かもしれない。
『TASC monthly』にご執筆いただいた廣瀬純先生も、25日にレクチャーを行う予定。
『談』をお読みいただいているみなさん、これは必見ですぞ。
イベントの詳細・スケジュール→東京日仏学院主催「ジル・ドゥルーズとともに」
そんなこともあって、今日、ご無沙汰していた柿本昭人さんにご連絡をとった。そして『TASC monthly』にご寄稿をお願いしたのである。今回お願いしたテーマは「脳年齢になぜかくも躍起になるのか」。鼎談の議論とは直接つながるものではないが、「老い」と「生-政治」の交錯という問題を踏まえてであることはいうまでもない。さて、どんな議論が展開されるのか、今から楽しみだ。
サウンド・イメージ研究所ラボ・カフェ・ズミとのコラボレーション企画 『談』公開対談 「いかにして消尽したものになるか…死の贈与、生の贈与」を開催した。なにせ初めてのイベントなので、みなさん本当に聴きにきてくれるのか、内心ドキドキしていたが、開場してみると、応募者で欠席された方は一人だけ。立ち見でもいいからぜひ参加させて、といううれしい強引組をあわせると17人(既に定員オーバー)。それに、『談』の発行元のTASCの方々やスタッフが加わって、気が付けば、会場は立錐の余地もない。トイレに行くのもままならない感じ。さて、そんな中で公開対談は始まった。今回の特集を思いついた一つのきっかけが澤野雅樹先生の『不毛論』。時あたかも2001年、9.11の年に発行。何かリンクするものがあったのではないかという問い掛けから対談をスタートさせた。議論は、有用性/無用性の話からダメ連に。それを受けて赤木智弘さんの論文「気分は、戦争」をネタに、若者は、無用であることに絶えられなくなっている。自分の承認がモーターにならないと現状を分析。しばらくそのあたりの議論が続いたところで、ドゥルーズのベケット論『消尽したもの』に。そこから、器官なき身体、同一性、資本主義、スピノザからヘーゲルへ(?!)。澤野さんがルジャンドルを持ち出すと、じつは萱野さんも関心をもっておられて、宗教、ドグマ、国家というキーワードから、さらには暴力の問題へと議論は展開していった。たっぷり2時間の対談は、予想通り非常に内容の濃い、強度に満ち満ちたものになった。やはり、「ドゥルーズと子供たち」(スピノザ論的に)は、そもそも何かが根本的に違う、それがなんなのかはいまだにわからないのだが、少なくとも言語/論理の強烈な磁場を現出させる「力」は、今、この周辺からしか生まれないような気がする。それに立ち会えただけでもぼくはとてもうれしかった。 当日来て頂いたみなさん、ありがとうございました。
戦争、供儀、笑、交感(コミュニカシオン)、そして死。バタイユ思想には繰り返し出てくるこれらの言葉は、まさに「有用性の限界」において「消尽」そのものを表す概念なのである。そして、その先にあるものは、ほとんど「無意味」といっていい「呪われた部分」なのだ。ついでに言っておくと、この「消尽」へと向かうベクトルの延長線上にあの秘密結社「アセファル」があるとみれば、これまで不可解さにおいてバタイユ思想の最大の謎であった「アセファル」の意図もおぼろげながら感知できるのである。