思想

フーコーもルジャンドルも、そしてラカンさえも……

佐々木中さんにインタビュー。Tシャツ短パンにキャップ。いよいよ、こういうアカデミシャンがでてきた。いいことだ。しかし、思想的強度はそこらの教科書だけ読んでお茶をにごしているインチキ学者よりよほどすごい。で、話が始まった。この人、言葉が発せられるととたんに表情がどんどん変わっていく。大声で顔を真っ赤にして喋ったかと思うと、蚊の鳴くような声になったり。鋭い眼差しでにらみつけたかと思うと、仏様のような柔和なお顔になったり。身振り手振りが加わって、まるで舞台俳優のようだ。シアトリカルなデンケンって…、と思ったけれど、佐々木さんに限ってはそれは好感度になる。彼にかかるとフーコーもルジャンドルも、そしてラカンすらこれまでの評価は一変してしまう。今まで五万という人間が語り、批評し、論究したきたはずなのに、そのどれとも違うフーコーやラカンやルジャンドルになる。五万の人間たちは、いったい何をみていたのかと思うほど。「ちょっとむりやりな企画だとは思ったんですが」とあらかじめことわると、「そうですね」っ薄笑いをうかべていたのに、いざ始まってみれば、むりやりどころか、ほとんどストライクゾーンに直球だ。やはり、佐々木さんのインタビューを最後にもってきてよかった。とこれは、『談』の次号特集「生存の条件」に収録されます。

なぜ日本には海洋文学が少ないのか。

京王プラザホテルで、三浦雅士さんと西成彦さんの対談。西さんとは、じつは30年ぶりの再会。今日のカメラマン、伊奈英次さんも同じ。その昔、今はテレビのコメンテーターをやったりCMにもででいる荒俣宏さん宅へ一緒に尋ねていった仲なのだ。今や、向こうは大学院の教授。エッセイが映画の原作にもなって、一時期マスコミにも登場することもあったが、今は、ご自身の研究で世界を飛び回っている。なぜ日本には海洋文学が少ないのか。言語とクレオール、海と文学の関わりについて、あっと驚く理論的展開。文藝春秋発行『嗜み』第4号に収録予定。乞うご期待。

センの潜在能力アプローチの重要性にあらためて気づく。

京都へ。立命館大学大学院先端総合研究科後藤玲子教授にインタビュー。テーマは、「〈生存〉、潜在能力アプローチから考える」。アイザイア・バーリンは自由には積極的自由と消極的自由があると分類して、自由の平等な保証は、消極的自由に限定すべきだと主張した。それに対して、アマルティ・センは、むしろ積極的自由の概念に着目する。センによれば、自由とは「本人が価値をおく理由のある生を生きられる」ことを意味し、「自己にも他者にもその理由をつまびらかにしながら、ある生を価値あるものとして選び取っていくという個人の主体的かつ社会的な営みが、実質的に可能であることを意味する」という。後藤玲子氏は、「このような広義の自由を人々に平等に保障すること、そのために必要な制度的な諸条件の整備……生存を支える物質的手段の保障から個人の主体的な生を支える社会的諸関係や精神的・文化的諸手段を整えることまで……を的(object)とした」として、センの経済学において、「自由」がキー概念になると指摘する。経済システムの分析・評価・構築にあたっては、広義の意味での自由の保障……意思・利益・評価主体である個人を尊重すること……を外的視点として明示的に導入すること。センの経済学の中心にある社会的選択理論&潜在能力アプローチの重要性は、まさにその「自由」の概念にあるというのだ。人間における生存とは、また、その条件とは何か、アマルティ・センの思想をたどりつつ考察していただいた。

和魂洋才とは、結局のところ内包量の問題だった。

高木史朗著『レビューの王様…白井鐡造と宝塚』」を読み直す。小林一三が「国民演劇」に託した意味を高木さんは推理しているが、それによれば、小林は真に日本に根ざした歌劇の誕生を夢見ていたらしい。和魂洋才は、決して恥じることではなく、むしろそこから新しい日本文化は生まれるだろうと確信していたのだ。これは、もとより歌劇だけに特有なものではない。戦後の現代美術、現代音楽、映像、音楽、ダンス…、すべての創作活動に共通することだろう。形式と内包量の問題だ。形式は真似事でも極端に言えば、フェイクでもかまわない。そして、その内容もオリジナリティというよりは、質が問題になる。つまり、クオリティなのだ。質とはこの場合強度のことをいう。宝塚の類い稀なる面白さは、やはりその強度にあった。すでに25年も前に、宝塚の魅力は、直感的に「愛のシンクロトロン」と言ってみたことがあるが(拙著「天使の誘惑」『小説月光』所収)、まさにそのことが裏付けられたのである。

物事の本質に切り込まれると、人はただただ狼狽えてしまうものだ。

稲垣正浩先生の主宰する21世紀スポーツ研究所へ。『談』の特集企画の相談。仮目次を見せる。稲垣先生とあるスポーツ社会学の先生との対談を企画したのだが、稲垣先生難色を示す。「彼はぼくの顔を見たらきっと逃げ出すよ」と。そうか、そういう関係だったのか。スポーツ学の周辺では、稲垣先生はとても恐れられているらしい。要するにこうだ。稲垣先生は、どんな状況でもスポーツの本質にずばり切り込んでいくからだろう。スポーツの専門家であれぱあるほど、それが怖いにちがいない。しょうがない、もう一度一から構成を考え直そう。

特集「真逆のセキュリティ!?」が発売になりました。

no.84表紙

『談』 no.84号

特集「真逆のセキュリティ!?」が発売になりました。

左のメニューバー最新号からアクセスしてください。

表紙は、齋藤芽生さんの作品「晒野団地四畳半詣」シリーズより 「花咲爺の色褪せぬ神木」 また、ヴィジュアルページには、松江泰治さんの写真作品を掲載しています。

『談』「特集 真逆のセキュリティ!?」全国有名書店で31日発売!!

『談』no.84特集「真逆のセキュリティ!?」が発売になります。
最新号の書店さん用のチラシです。

●芹沢一也さん 〈民意〉の暴走……生命の重みが、生存への配慮を軽くする
●濱野智史さん 環境管理社会であえてアーキテクチャを活用する方法
●檜垣立哉さん 賽の一振り……無限を含んだ自己が跳躍する時


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「ブレ」ていいものと「ブレ」てはいけないもの。

某雑誌の編集会議。編集部が出した企画案を検討する。前号同様、コンセプト、ターゲット、コンテンツにブレがあるように思う。言い換えれば、ポジショニング、ストラテジー、オペレーションがブレているのだ。思うに、それぞれの中でブレるのはかまわない。というか、大いにブレるべきだとすら思っている。ブレとは、多様性のことだからだ。しかし、コンセプトからコンテンツまで、つまり、ポジショニングからオペレーションまでの流れには一貫性がないとダメである。これが揺らいでいるとちぐはぐに見える。要するに、「軸がブレる」というやつだ。 ところで、世の中的には「ブレ」はよくないものと思われている。だから、この人は「ブレがないんですよね」と紹介されると、つい、ニンマリしてしまう。しかし、繰り返すまでもなくブレたらなんでもダメというわけではない。むしろブレがあることによって、幅や奥行きがでてくるものもある。ブレていいものとダメなものを、ごっちゃにしてはいけない。コンセプトがころころ変わるのが悪いのではない。コンセプトとターゲット、コンテンツがちくはぐだからまずいのだ。 どういう位置づけで、どういう戦略をもって、どう展開するか。この軸さえきちっとしていれば、それぞれのブレはむしろ強力な武器になる。これ、マーケティングの常識です。

パラドクスを説明しようとすることがそもそも逆理なのかもしれない。

原稿のプロットづくりを始めようと思っていたら、濱野さんから最終修正稿が届く。その転記になってしまった。おやまあ、前半部分にも再び手が入っているではありせんか。たっぷり1時間以上かかってしまった。すぐに、TASCで編集企画会議。やはり、3本目の檜垣先生の原稿の説明で紛糾。ぜんぜん言っていることがわからないとキツいご意見。ここは最も説明しにくいところになるとふんでいたが、案の定、きた〜っ!!という感じ。じつは、僕もちょっぴりそう思っていました。反省。それでも、なんとか話して、とりあえずは了承していただいた。表紙の絵やヴィジュアルについて説明する。びっくりしたのは、今号のヴィジュアル、松江泰治さんの写真作品が、意外にも好評だったこと。やはり、人の好みというのはわからないものですなぁ。

現代思想として読むヘーゲル

玉川大学文学部教授岡本裕一朗先生から、ご著書『ヘーゲルと現代思想の臨界-- ポストモダンのフクロウたち』(ナカニシヤ出版)を贈呈していただきました。 しかし、なぜ今ヘーゲルなのか。岡本氏は、「はじめに」でこう記しています。「それは、ヘーゲルが今日的な意義をもっているからだ。ヘーゲルの考えでは、〈哲学〉は、〈自分の時代を思想の形で捉えたもの〉だが、ヘーゲルの捉えた時代は今でも決定的な作用を及ぼしている。〈ポストモダン〉と呼ばれる現代においても、ヘーゲルの考えは有効性は失っていない」。現代思想は、一般にヘーゲルの外で思考することだと思われているけれども、よくよく考えてみると、ヘーゲルの影響が陰に陽に現われていて、現代思想はヘーゲルの亡霊(ガイスト)にたえず付きまとわれ、それを必死で振り払おうとしているようにすらみえるという。現実と対決するために、今こそ、ヘーゲルは読み直されなければいけないだろうというのです。歴史的な、つまり過去の大哲学者としててはなく、むしろ現代思想家として読むこと。そうすることで、ヘーゲル哲学のアクチュアリティを見出すことができるという。 全体の構成は、第I部「『精神現象学』の神話」第II部「〈体系〉神話とヘーゲル神話」第III部「現代思想を生きるヘーゲル」ときて、最終章でヘーゲルの「絶対知」は、つねに現代思想であり、「フクロウ」が飛び立つのは、「きたるべき未来」へ向けてであるという言葉で締められる。 本書は、専門的な研究書ではなく、あくまで入門書だと断っていますが、まともにヘーゲルとつきあってこなかった者にとっては、『大論理学』におとらぬ大著です。先生には申し訳ないのですが、ゆっくり、じっくりと、時間をかけて読ませていただきます。 ヘーゲルと現代思想の臨界?ポストモダンのフクロウたち
ヘーゲルと現代思想の臨界?ポストモダンのフクロウたち
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『談』no.83 特集 「パターナリズムと公共性」が12日に発行になります。

最新号『談』no.83   特集 パターナリズムと公共性定価[800円+税]

 

パターナリズムが私たちを自由にする?! ……ワンクリック・パターナリズムの時代の倫理と行動

●人間の合理性とパターナリズム  瀬戸山晃一(大阪大学留学センター准教授)

…… 規制やルールに埋め込まれているパターナリズム。パターナリズムを所与のものとして捉えたうえで、どういうパターナリズムを私たちは選択すべきか。公共性の概念と照らし合わせながら検討します。

●「同意」はバターナリズムを正当化できるか。  樋澤吉彦(長野大学社会福祉学部福祉学科専任講師)

……パターナリズムは、「自己決定」を支えるための必要不可欠な要素ではないか。この仮説のもとに、ソーシャルワークという実践活動から、パターナリズムの可能性について考察します。

●〈鼎談〉幸福とパターナリズム……自由、責任、アーキテクチャ 大屋雄裕(名古屋大学大学院法学研究科准教授)×北田暁大(東京大学大学院情報学環准教授)×堀内進之介(現代位相研究所首席研究員)

……生活環境を「快適」にさせる善意のシステムがパターナリズムではないか。自由と規範、自己責任と承認、アーキテクチャの権力といったキーワードを手掛掛かりに、現代の幸福感との関わりからパターナリズムの本質に迫ります。

 ●特別企画「アール・ブリュット パッション・アンド・アクション」より

表紙 齋藤芽生

民主主義の暴走が始まったのはいつからだろうか。

SYNODOSは、オシャレなマンションの1階。本日のインタビューイーは慶應義塾大学、京都造形芸術大学講師、「SINODOS」代表の芹沢一也さん。ちなみにとてもイケメンだ。取材は、ご著書を例に出しながら、その動機とテーマについて、順番にお話していただくところから始まった。もともと臨床心理を学んでいたことから、精神医療に関心があった。フーコーは、精神医療を貫く権力の構造を析出するが、日本では、そうした権力構造を精神医学に見出すことはできなかった。その違いがどこからきているのか。その構造自体が、しかし変容する。狂気あるいは精神病の患者さんは、治療の対象から犯罪者の予備軍に仕立てられていく。日本では生-権力が、まさに下からやってくる。そこから民主主義の暴走が始まる……。『談』の最後を飾るには、じつに当を得たインタビューとなった。3月末発行予定なので、ぜひ期待してください。

アーキテクチャにフォーカスすることは、アプリケーションに注目することだ。

新宿駅について三菱UFJ東京銀行を探すとスバルビルの1階にオゾン行きのシャトルが。運転手に聞くと、日本技芸など知らないとけんもほろろ。しかたなく、それに乗ってオゾンまで。しかし、すぐに見つかる。すでに、カメラマンの新井卓君とTASCの高村さんが来ている。高村さんは、よく自転車で新宿まで来るそうで、すぐにわかったとのこと。 濱野智史さんのインタビュー。彼はSFCで情報社会論をやっていた。日本で、この分野の資料を探しにたとえば本屋へ行くと、ドラッガーなどの未来学系の棚、あるいは理系の棚、もしくは社会学やメディア論の棚、というように分けられておかれている。この棚の状態が、そのまま現在の情報社会論の状況を示している。つまり、分断されているのだ。だから、議論が深まらないのだというのである。レッシグの登場によって、ようやくあらたな展開が期待できそうだったのに、再びデッドロックに乗り上げてしまった。レッシグの日本版はあえなく潰えてしまったのである。そこで、彼が着目したのは、情報環境のインフラだ。それがアーキテクチャである。アーキテクチャに焦点を絞ることは、アプリケーションに注目することだ。今、それは先カンブリア時代のような状況になっている。さまざまなものが、生成し独自の進化を始めているのである。このアーキテクチャを手がかかりに、情報環境の現状と、リスク/セキュリティの問題を掘り下げていただいた。きわめてスリリングなインタビューになった。さすが若手論客の大注目株の一人。今度の『談』は、面白くなりそうな予感。

能動性は、圧倒的な受動性のもとにしか発生しない。

今週1週間で『談』no.84の三人のインタビューをしてしまう。初日は、大阪大学大学院人間科学研究科准教授檜垣立哉先生。no.83号で取材させていただいた先生の研究室はすぐそばにある。じつは、まだチェックが戻ってこないのである。いっそ、みんなで押しかけようかと冗談じゃなく思ったけれどやめました。研究室にお邪魔すると、机に『談』が数冊積んである。一番上に「バイオパワー」。先制パンチをくらった感じでインタビューが始まる。先生は、予想とまったく違って、非常に気さくな方でした。フーコーの思想は、前期と後期に分けられるが、生権力、生政治を問題にする前期と違って、後期ではその中心は自己のテクノロジー。一方に自然史的物質としての身体があり、他方に自己=主体がある。この二重性に注目しないと、後期の仕事は理解できないだろうという話から始まって、生権力論から人間の根源としての生存の問題がテーマに。次々に話題はシフトして行き最後に賭けの問題へ。『賭博/偶然の哲学』で「リスクの社会論はフーコーの自己とはベクトルが逆」という一つの結論が明らかにされた。能動性は、圧倒的な受動性のもとにしか発生しない。そして、責任とは、賭けとその忘却という関係性において成立するという。やはり、現代思想は面白い。『談』のポジションは、やはりここにこそベースがある。

今、あらためて「解放の神学」を問う意味は…。

工作舎時代からの友人K君から突然電話。手紙の続きを書いたから読んで、という報告。思想的モティーフに若干の変更あり。彼にとっては宗旨替えするほど重要な路線変更らしいのだが、本質においてまったく変わっていないよ、と正直に感想を言う。しかし、イリイチはともかくとして、「ガンジーについてどう思う? 」と聞かれた時には驚いた。だって僕にとっては、ガンジーは唯一尊敬できる人だもの、キング牧師とともに。しかも、アッシジの聖フランチェスコ、スピノザ、ドゥルーズ系列で。もちろんK君も同じ。われわれは、正真正銘の同志であることを再確認した。ついでに、マザーテレサも好きなんだと告白したら、あたりまえじゃないか、と速攻応えが返ってきた。まったく僕らは、非暴力のゲバリスタだ。そして、僕らの関心は「解放の神学」へと向かう。『談』のno.47で「南における解放 解放の神学から考える」というテーマで、上智大学教授の山田經三先生にインタビューをしたことを突然思いだした。「解放の神学」を、また本気で考えてみようか。

文春発行の『嗜み』第2号、売れるとうれしいんですが。

TASCで『談』次号の企画会議。2号分をプレゼンテーション。しっかりつくったので口頭で説明するだけで1時間以上かかってしまった。そのあといくつか質問。大阪大学のHさんのポジジョンがよくわからないのだが、というイタイ質問。ここは再考することに。そのあと、松木さんが企画しているプロジェクトの2回目のミーティング。インタビューを中心にやる計画を推薦する。そのあとJTで「嗜みの会」。企画、原稿執筆に関わっている『嗜み』2号の発行記念。海老沢泰久さん、阿刀田高さん、山本容子さんらに挨拶。山崎正和先生、JTの志水執行役員、本田相談役と同じテーブルになり、現代の喫煙環境について情報交換。食事が終り、席を移動。サロン風に歓談。すると、本日の後半のプログラムが始まる。たばこと塩の博物館の半田昌之さんが、近世初期風俗画「躍動と快楽」の展示からの報告(もう終了してしまいましたが、この展覧会はとても質が高く、さまざまな人がネットで絶賛しています)。そのあと、今宵のメインアトラクション。橘家竹蔵師匠の落語。出し物は「長短」。せっかちと気長な二人のかけあい。休憩をはさんで、楽屋芸を披露される。かっぽれとやっこさんの踊り。これぞ大人の「あそび」というやつだ。落語はやはりライブで楽しむものですね。また、楽屋芸というのがこんなにおもろいものだと始めて知った。舞台の正面に座り楽しんでおられた山本容子さんは、やはり華がありました。以前INAXでご一緒したことがありますよ、と言ったら、すっかり忘れておられましたけど。たっぷり楽しんだうえに、キセルや火打ち石などのお土産までいただく。なんだか申し訳ない1日でした。 嗜み Vol.1 No.2(Autumn2008) (1)

フェルメール全点踏破はいつのことか、現在、それでも17作品。

クルマで上野の都美館へ。フェルメール展。本日、「小路」「ワイングラスを持つ女」「リュートを調弦する女」「手紙を書く夫人と召使い」「ヴァージナルの前に座る若い女」「マルタとマリアの家のキリスト」「ディアナとニンフたち」の一挙7作品を鑑賞。これで、過去にルーブルで見た「天文学者」「レースを編む女」、アムステルダムで見た「牛乳を注ぐ女」「恋文」「青衣の女」、ハーグで見た「真珠の耳飾りの少女」「デルフト眺望」,大阪市立美術館で見た「地理学者」「天秤を持つ女」「聖プラクセデス」を加えて、17作品になった。

今回、フェルメールの同時代の作家の作品も出品されている。が、やはり、フェルメールは群を抜いていた。ヤン・ファン・デル・ヘイデンやカレル・ファブリティウス、ピーテル・デ・ホーホなどを順に見てきて、フェルメールの作品を見た途端に、これはぜんぜん違う世界にきたな、と思わせてしまう。格の違いを見せつけられる。

以前から、ずっといい続けていることだけれど、遠近法を駆使し、光学装置を使用し、幾何学的手法を自在に操るフェルメールは、デルフト派の他の作家と同じ水準にある。しかし、そうして構成された画布の内部に、理知的な世界とはまったく異質なものをフェルメールは持ち込むのである。オランダ絵画のもう一つの流れである風俗画の伝統にも忠実であるといういい方がされる。家族や人間関係が主題にされ、人の機微のようなものを表現することに腐心する。それが、理知的な、もっといえば数理的に構築された空間の中で一種独特のドラマトゥルギーを生み出すのである。いわば「幾何学の精神」と「感情の生理学」が相まって、空間を肉付けするのだ。情動化した数理空間、あるいは、幾何学化した感情。それらが、画布の中でミクロ的に組み合いながら、一つの表情をつくり出すのである。表情……、そう、ここに現出するのは、表情だ。世界という表情なのだ。

パターナリズムは、じつは公共性を考えるためにも不可欠な概念なのだ。

大阪大学留学生センター准教授瀬戸山晃一先生にインタビュー。ちょうどこの時期は、新しく入ってくる留学生の受け入れと阪大から留学する日本人学生の対応で、瀬戸山先生は忙殺されている。そんなてんてこまいの状況のなか、無理をしてインタビュー時間をつくっていただいた。先生には申し訳なかったけれど、有意義な取材となった。 「パターナリズム」に対する根本的な疑問、「そもそもパターナリズムは、本当に自由と対立するものなのか」ということについて、きわめて明確な回答を得たことだけでも大変な収穫である。ずばり、この両者は対立しないのだ。というか、対立は一面的なものであって、自由や自律を確保する不可欠なスパイスとしてパターナリズムは機能する場合も多いというのである。そして、『談』の特集テーマである公共性との関連で言えば、私的領域ばかりでなく公共性の概念を検討するためにもパターナリズムは重要な示唆を与えてくれるというのである。 たっぷり2時間半に及んだインタビューの詳細は、11月末発行予定の本誌をお読みいただくとして、瀬戸山先生のお人柄についてだけ付け加えておこう。先生は、大変ホスピタリティに満ちた人です。研究者は自らの研究も大事だけれど、それと同じくらい教育も大事。学生への指導、コミュニケーションをとても大切にしている。話がわかりやすく面白いというのは当然だとして、なにより、他者を迎え入れるその態度が清々しい。法学の分野にこういう先生がいるということを伝えられるだけでも、次号の発行意義はあるだろう、とこれほんとうですから。

「ファイバーシティ2050」を思想としてみると…

TXで柏の葉キャンパス駅で下車し、タクシーで東京大学新領域創成科学研究科教授大野秀敏先生の研究室へ。大野先生は、一昨年都市のシュリンキングを見据えて「ファイバーシティ2050」という構想を提案された。そこで、先生の見ている都市の縮小のイメージと、その事態を逆手にとり、一種の好機と捉え直して豊かな都市環境づくりについてお話してもらおうと思ったのだ。
都市の縮小、都市の縮退が現実のものになろうとしている今、これまでの都市計画、都市開発は根本から方向転換を余儀なくされている。都市は成長・発展するものというこれまで自明とされてきた前提が崩れたからだ。50年後には、4000万人近い人口減が予想されている。都市から人がいなくなるという。ともすると悲観的にならざるをえない未来に対して、縮小という新たな事態をむしろ積極的に活かしたまちづくりの方法があるはずで、それを絵にしてみせてくれたのが「ファイバーシティ2050」であった。丹下健三の「東京計画1960」以来、大都市を対象とした都市計画が提案されることがなかったが、「ファイバーシティ2050」は、ひさかたぶりに発表されたいわば大文字の都市のグランドデザインとなった。
今日のインタビューは、具体的な手法、モデルプランとして紹介されることが多かった「ファイバーシティ2050」を、むしろ思想的な側面からスポットをあてて、パラダイムシフトとしての意味を語っていただいた。短いインタビューではあったが、シュリンキングと都市の新たな関係を考えるための、貴重な提言となったと思う。

『談』最新号が好評です

青山ブックセンター 青山本店に行くと、音楽の棚で最新号がコーナー展開、それも真ん中に平積み。思想のコーナーとあわせて2箇所。今号はけっこう好評で、すでに都内の数店から再注文がきている。ありがたいことだ。

午後は、言語学者の田中克彦先生に原稿依頼。99年に『談』でインタビューをさせていただいた。すでに一橋大学を退官されていて、ご自宅に電話をかけつづけていたのだが音沙汰がない。岩波新書の編集部に尋ねる。電話番号を伝えると、「それは違いますね」と別の番号を親切に教えてくれた。だいぶ前に引っ越しておられたのだ。電話に出られた田中先生は、ちゃんと覚えていてくれた。あのインタビューは先生にとって好印象だったようで、今回の依頼も二つ返事でお引き受けいただいた。仕事は丁寧にやっておくと、その後もいいことがあるということだ。

政策大学院大学教授の松谷明彦先生に原稿依頼。ところが、ご多忙をきわめておられてインタビューになってしまった。今後100年間、人口は減り続けるという。未曾有の人口縮小時代にわれわれのやれることとは何か。とりあえず、東京の20年後を予想していただく。

知的好奇心の旺盛な先生は、今度は仏教がテーマだという。

東京農業大学客員教授の高辻正基先生に原稿依頼。先生は、文理シナジー学会ではいつも度肝を抜く発表をされるが、今回の依頼は「随想」欄なので、なんでもいいんですよ、と伝えると、「じゃぁ、仏教について今研究しているので、それについて書きましょうか」だって。えっ、仏教ですか。この前までは、精神分析をご 研究だったのに。ラカンが羅漢さんになったということ?!。

以前書いたことだけれど、先生とは80年代の初めに、一緒にバリ島に行った。スタジオ200で開催された「バリ島の生態学」というシンポジウムにパネリストとして参加してもらいたくて、現地視察をお願いしたのである。当時まだ日立中研の主任研究員であった先生は植物工場の研究と平行してシナジーについて研究されていた。レーザー光が研究テーマであった先生は、レーザーが非平衡状態の開放系であることに注目し、ハーケンやプリゴジーヌの「非平衡状態における秩序形成」の問題と共振することになったのだ。

そして、ぼくは、そのシナージェティックスという概念が、バリ島の特異な精神文化の解明に使えるのではないかと思い、高辻先生にその仮説を話したところ、ものすごく興味をもってくれて、シンポジウムの参加を快諾しただけでなく、ぼくと一緒にバリ島まで付き合うことになったのである。

先生は、とにかく好奇心旺盛だ。そのあと、シナジーが人間の恋愛の究明に使えるとわかると「愛」の問題に入っていき、それがまた「こころ」の問題と密接にかかわるものだとわかって、今度は精神分析に知的触手を伸ばしていった。そして、ついに仏教だ。もちろんその間にも、ヘーゲルやベルクソン、株や金融工学をやり、もちろん専門分野の植物工場は、市場規模数兆円といわれるビッグビジネスへ育てあげた。

ともあれ、ますますお元気な高辻先生、おそらく仏教がエンドポイントとはならないだろう。きっとまた新しい分野へアプローチしていくに違いない。なにぶん先生の家は、ぼくんちのそばなんで、そのあたりのことを、今度聞きにいってみよう 。

 

 

北京五輪とはなんだったのか、閉会式前に考察を始める人のための本

関西大学社会学部教授・阿部潔先生より『スポーツの魅惑とメディアの誘惑 身体/国家のカルチュラル・スタディーズ』(世界思想社)を贈呈していただきました。じつは、北京オリンピックの開会前に届いていたのですが、TVが連日伝える熱戦に夢中になってしまっ て、活字を読むどころではなかったため、つい紹介が遅れてしまいました。たぶん著者も版元も、北京に合わせて配本日を決めたのでしょう。8・8前に私のところへ送っていただいたのも「見る前に読んで!!」ということだったとしたら、ほんとにどうもすみませんです。しかし、しかしですよ。これは弁解ではありませんが、獲得メダル数金8銀6銅9、大会も残り5日となった現時点で、本書を開いてみると、これがなかなか面白いのです。いまだから、読むべき本だと思いました。谷亮子は銅では喜べないし、北島康介も200mで世界新でなければ笑顔もいまいち。その一方で、ボルトは100mで9.69秒の世界新を出しても、あのひょうきんぶり。競技の結果とその結果を出したアスリートの感情がかならずしも一致しないということを、液晶やプラズマ画面に映し出される選手の顔を見ることで察知してしまうのです。TVはなぜアスリートの目や鼻や口をあんなに大写しにする必要があるのか。情動表現と感情の不一致、生身の身体とデジタル画像としての肉体表現の乖離。われわれがオリンピックを見るということは、TVを見るということであり、表象/代表(represent)の回路に巻き込まれるということを意味しています。オリンピックの視覚的体験とは、まさしくメディア体験そのものなのです。本書は、現代のスポーツが置かれている状況を、メディアとの関係から抉り出そうとします。スポーツする身体はどのような形でメディア化するのか。感動はどのような経路を経て「物語」となるのか。スポーツと国家が一体化する瞬間はどこか……、著者はわれわれに問いかけます。ホンモノの花火に混じってCGの花火が使われ、少女の歌は口パクだった。スポーツの祭典そのものがすでにヴァーチャルだとしたら、オリンピックとはなんなのか。身体とは、いかなるものか。北京五輪をもう一度考えるための一冊です。

スポーツの魅惑とメディアの誘惑?身体/国家のカルチュラル・スタディーズ

パターナリズムを父子の問題系から解き明かすというのはどうだろう。

『大航海』の編集長で文芸評論家の三浦雅士さんを新書館でインタビュー。新刊『漱石 母に愛されなかった子』を俎上に、まずなぜ漱石だったかのか、からお聞きする。三浦さんは、文学、自己、内面、言語(黙読)、経済までも、父子、母子の問題として捉え直すことができるという。その重要なキー概念が、公と私、パプリックとプライベートだ。三浦さんは、公と私のシステムが完成と崩壊、変質と再生という時間軸で捉えられるとし、すべての問題を公と私という図式から解き明かそうとする。公の中に公私が入り込み、私の中にも公私が入り込むという入れ子的な関係。公私混同という言葉自体、じつはずっと新しく生まれたもので、もとは、公と私は、きれいに分かれていなかったのだ。
パターナリズムとはまさに父子の関係を原基にしている。パターナリズムを父子の問題系から、あらためて掘り起こしていくと面白いかもしれない。いいヒントをもらえた。
愛煙家の三浦さんであるが、新書館の社屋は全室禁煙。三浦さんは、しょうがないので野外の非常階段に灰皿を置いて吸っているという。ポートレイトの撮影のために、普段たばこを吸っている場面を撮らせてもらったが、やっぱりちょっとかわいそうでした。

「〜への疎外」からの疎外としての「不可能性の時代」。

TASC主催の京都大学大学院人間・環境学研究者教授・大澤真幸さんの交流会(講演+懇親会)。酒井隆史さん、赤川学さん、香山リカさんときて、今回は4回目。テーマは「不可能性の時代」。そう、岩波新書の新刊のタイトルと同じだ。大澤さんは、本でも紹介しているように、戦後日本の精神史を見田宗介にならって、1.理想の時代、2.夢の時代、3.虚構の時代と区分したうえで、今は不可能性の時代と捉えることができるのではないかと提言する。
講演では、本には書かなかったが、この区分とあらたな時代相「不可能性の時代」を、二つの映画を比較検討することで説明された。二つの映画とは、若松孝二監督作品「実録・連合赤軍」とコーエン兄弟監督作品「ノーカントリー」。「実録・連合赤軍」では、共産主義は無条件に善でありそれに対して私的欲望は悪である。理想の時代はたとえそれが殺人という結末へ向かったとしても、そこには善と悪という図式がかろうじて生きていた。ところが、「ノーカントリー」において展開する究極の無差別殺人では、善と悪はいずれも絶対であることにおいて、その本来の意味は剥奪されている。つまり、善と悪が簡単に反転してしまうのだ。そこに露出するのは絶対的な「現実」である。
かつて真木悠介( =見田宗介)は、「〜からの疎外」に先立って「〜への疎外」があるといった。たとえば、貨幣からの疎外が不幸なのは、人がまず貨幣へと疎外されていからである。貨幣が普遍的な欲望の対象として措定され、人々をあまねく捉えているという状態がまずあって、そのうえで人々の間に貨幣から疎外されている層(貨幣を持たない層)と貨幣からの疎外に見舞われていない層(富裕層)との区分が起こる。連合赤軍の時代では、未だ「〜への疎外」に留まっていた。ところが、「ノーカントリー」では、いわば「「〜への疎外」からさらに疎外された状態が剥き出しになっているのだ。それを大澤さんは「不可能性の時代」と呼ぼうというのである。
講演の密度は、恐ろしく濃かった。しかし、聴衆のJTの役員、社員さんたちは、非常に熱心に聴き入っていた。後半の質疑応答も大盛り上がりで、場所を移しての懇親会も大盛況。大澤さんの話をちゃんと理解してくれる人たちがいるというのは、驚きといわずしてなんと言ったらいいのだろうか。

「理性の限界」をテーマにしたディぺード

國學院大学文学部教授・高橋昌一郎先生から、『理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性』(講談社現代新書)を贈呈していただきました。
われわれは、何を、どこまで、どのようにして知ることができるのか。また、すべての問題は、理性によって解決できるのか。もしかすると、理性では超えることができない限界があるのでは……。これまで、哲学の分野で扱われてきた人間と世界の根源に関わるこれらの問題に対して、幅広い視野に立って自由に議論しようというのが本書です。高橋さんは、そこで疑似的ですが、ディぺードという方法を導入しました。選択の限界、科学の限界、知識の限界という三つの限界論について、それぞれの議論に相応しい立場の人物に参加してもらいながら、可能な限り多角的に論じ合う。単に哲学的テーマを読み解くのではなく、議論に読み手も参加することで、問題をより身近なものにする。読み手もまたもう一人のバネリスト、そんな気分で読み進めることができるのです。
民主主義の原理的不可能性を証明することで選択の限界を明らかにした「アロウの不可能性定理」、科学的思考を限界付けた「ハイゼンベルクの不確定性原理」、人間理性そのものの限界を決定づけた「ゲーデルの不完全性定理」。三つの限界と対応する三つの定理。20世紀の大発見は、結局のところわれわれに実在や確実さというもののあやうさを知らしめることになったのです。それは、哲学にとって幸福か不幸か。それはともかくとして、ディぺードに参加することのなんと楽しいことよ!! さあ、みなさんも一緒に議論しましょう。
理性の限界??不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書 (1948))

「ラディオ・アリチエ」のフランコ・ベラルディと粉川哲夫さんの対話

アウトノミア運動のスポークスマンで、自由ラジオ「ラディオ・アリチエ」の活動を通して、フェリックス・ガタリと協働し、また、最近はテリストリートの活動によって、常にメディアを刺激し続けるフランコ・ベラルディ(bifo)。7月1日に、粉川哲夫さんと対談します。明治大学リバティータワー1128教室にて、18時30分より。また、その前日には、ニューヨークのインデペンデント・メディア「Autonomedia」のジム・フレミングを囲んでのバネルディスカッションもあります。こっちは、司会進行が酒井隆史さん。
詳細は、→G8対抗国際フォーラム

言葉は可塑性をもっているからいいという面もあるのです

「この店の餃子、マジ、ヤバい!」と思わずでっかい声。カウンターのとなりに座っていたご高齢の男性が、「えっ、もしかして、毒入り……」と口に半分収まりかけていた餃子を吐き出すように、皿に戻したのです。「ちっ違いますよ! むちゃくちゃ美味しいってことですよ」と、ぼくは、あわてて言葉をつなげた。
「やばい」という言葉。昨今、まったく反対の意味で使われる場合が多い。ぼくも、すっかりその使用方法が身に付いてしまい、「マジ、ヤバい」を連発してしまうのですが、本来の使い方しか知らない人には、とんでもないことに聞こえてしまうらしいのです。これをもって日本語が乱れていると嘆く方もいらっしゃるでしょう。しかし逆に見ると、これこそ言語の大いなる特徴なのです。それだけ流動性をもっているということでもあり(今風に言えば、可塑性をもっている)、さらにいえば、発語される意味されるもの(シニフィエ)とその言葉の意味するもの(シニフィアン)は、言語の端緒から恣意的な関係にあるということの証しなのです。そして、これは日本語に特徴的なものではなくて、ほぼ世界の言語に共通した普遍的な性質ですらあるのです。
ジャマイカに行った時のことでした。友だちになったタクシードライバーのボブ君は、調子にのってくると、所かまず「bad!」「bad!」とわめきちらします。じつはこれは「good!」の意味。ジャマイカでは、
価値観が完全に転倒してしまうような、こんな使い方はざらにあるのです。しかも、そうした使用法が沢山載っている「ジャマイカン・イングリッシュ集」なる辞書まであるのです。
言葉は、その使い方を間違うと命取りにもなります。が、そもそもかなりいいかげんなものなのだということを知っておくことも大事なこと。だからこそ「ことば」は面白いと、ぼくは常々思っているわけです。

今、ラディカルな人は、じつは昔からずっとラディカルだった

『tasc monthy』で「シネマ・シガレッタ」の連載をお願いしている粉川哲夫さんのテキスト「もしインターネットが世界を変えるとしたら」(1996年)が公開されているので読む。読み進めてみて驚いた。現代の状況を適確に予測しているとかいうレベルではなくて、ガタリを援用しながら、その可能性と不可能性に言及し、それを自由ラジオ、ミニFMの延長で、いかにラディカルに使い倒すか、徹底的に掘り下げているのだ。先生の現在やっているワークショップはとても刺激的なのだが、その思考のプロセスから必然的に生まれたものだったのだ。僕が今学生だったら(昔々じつは学生でした)、絶対に飛びつくなぁと思ったのだった。

「ディスポジション」を手がかりにした実践的思考の冒険

萱野稔人さんから『ディスポジション 配置としての世界』を贈呈していただきました。

「世界は配置(disposition)であり、人間は自らを取りまく配置によってたえず態勢づけらている(disposed)。」

「ギブソンのレイアウト(layout)、フーコーの装置(dispositif)、ドゥルーズの配置(agencement/arrangement)といった諸概念は全て、世界や人間を諸要素の配置(disposition)として捉えることを可能にするコンセプトである。これらの概念は、世界を、人間の意識によって総合される表象ではなく、生物としてのヒトを取り囲む環境として捉えることを可能にする方途であ」ると編著者の一人柳澤田美は言い、「ディスポジション的な思索の妥当性は、それが意識化されていない生活者の現実を十全に言い表している以上の何かにもとめられるべきだろう」と提言します。そして、この未だ十分な言葉が与えられていない何かについて、哲学、倫理、生態心理学、建築、アートから、領域横断的な思考を展開するのが本書であるという。ディスポジションを一つの手がかりにして、より実践的観点から、その可能性を探求した論考集。

ディスポジション:配置としての世界―哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に

出版を記念して6月21(土)にイベントが行われます。↓

「うまくいく」ことの倫理と技術―「Disposition: 配置としての世界」

まだ、わずかお席があります。

4月22(火)、23(水)、5月7(水)夜
吉祥寺sound cafe dzumiにて『談』の公開対談をやります
と4月5日付けブログで告知しました。
4月22(火)、23(水)、5月7(水)いずれの日も、
まだわずかお席があります。
少々狭い会場ですが、それゆえインティメイトな対話世界を堪能できると思います。
ぜひこの機会に、会場に足をお運びください。
応募は専用メールで→oubo@dan21.com

システム・ソリューションこそが問題なのだ

東京日仏学院へ。「かつて、ノルマンディーで」を見る。1835年に起きたピエール・リヴィーエールによる父と妹殺人事件を分析したフーコーの研究書『ピエール・リヴィエールの犯罪』発行(1974)の2年後に、ルネ・アリオがこの事件を映画化する。映画は、ノルマンディーに暮らす全くのシロウトによって演じられたという意味で話題となった。その時に助監督をしていたニコラ・フィリベールが、30年後2006年に、同作品に出演した人びとを訪ね歩き、当時の思い出を語ってもらうというドキュメンタリー作品を発表する。それが「かつて、ノルマンディーで」だ。
この映画をテキストに廣瀬純さんが講演を行った。
「「わたしの人生はへたくそにモンタージュされ、へたくそに演じられ、うまくかみ合っていない吹き替え映画のようなもの」とマルグリット・デュラスは言ったが、リヴィエールもまたフーコーに同じことを語りえたのではないか。フーコーが、リヴィエールに見出した「物語=殺人の装置」もまた吹き替え映画をなしている。D=Gは言う。「マルクスが示すのはふたつの"主要な"要素が出会うということだ。一つは、脱領土化された労働者であり、彼は自由で何も持たない労働者となり、自分の労働力を売らなければならない。もう一つは、脱コード化されたカネであり、これは資本となり、労働者の労働力を買う能力を持っている」。ここで問題となっているのは、まさにへたくそにモンタージュされ、うまくかみ合っていないもう一つの吹き替え装置のことである。言い換えれば、二重化された装置のことではないか」。
二重化された装置は、解決不能な問題として問題の出題者へと送り返される。共訳不可能な問題としての問題。もはや、解決(ソリューション)は、最も陳腐で堕落した問題への単なる注釈に過ぎない。われわれは、問題の問題こそ、問いとして生き続けなくてはならないのだ。
物語と殺人、音と映像、労働と資本、「と」によって連結する二つのもの、こと、様態…。この共訳不能な、決定不能な問題こそが、システム=社会の問題の核心である。システム・ソリューションは、じつは問題そのものからの撤退でしかないということを、肝に銘じる必要がある。問題を解決したと思った瞬間、われわれは問題そのものから滑り落ちていくのである。というようなことを講演を聞きながら思ったのでした。

ネグリ来日中止の裏の裏の裏…

あえてここでは触れなかったが、先週末は、アントニオ・ネグリが来日していろいろな催しが行われていたはずだった。

ぼくも、22日に開催されるはずだった国際文化会館の「ネグリ講演会」を予約していた。しかし、全てお流れ。「私たちを残して、飛行機は日本へ飛び立った」というネグリとジュディット・ルヴェルのメッセージがむなしくWeb上を漂流したのだった。今回の来日中止について、当然腹が立ったが、何か釈然としないのだ。わかったようなわからないような、なんともへんな気持ちがずっとしていた。そんな時に、こんな文章に出会った。『TASC monthly』でもお馴染の粉川哲夫さんの日記。なるほどこういう見方もあるのか。


粉川哲夫の雑日記

『談』no.81 特集「〈共に在る〉哲学」が発行になりました。

談』no.81 特集「〈共に在る〉哲学」が発行になりました。表紙は勝本みつるさん、ポートレイトは新井卓さん、Galleryは石川直樹さん。インタビューのアブストラクト、editor's note before、afterは左のナビゲーションバーの「最新号」からアクセスできます。0328

ホントウに80年代がいっぱい詰まった本をいただきました。

香山リカさんから最近刊の「ポケットは80年代がいっぱい」(バジリコ)を贈呈していただきました。さっそく開いてぱらぱらめくっていたら、ありましたよ、ぼくの記述が。「〜人間的にとてもやさしく義理人情にも厚い人、〜」とある。これは、うそでしょう。かなりはずかしいです。
それはともかく、彼女をいろいろな人にひきあわせ、また、知り得る限りのメディア関係者と接触できるようにしたことはホントです。その一人がここにも書かれている泉秀樹さん。そうdzumiの店長です。セゾンが面白いことをばんばんやっていた時、その仕掛け人の泉さんに、今はなき六本木のWEVEで引き合わせたのは、ぼくでした。彼女にとって、それはその後の生き方にいろんな意味で影響を残しと思います。
思えば、ピテカンやカルデサックなんていう、もうとっくになくなったカフェ・バーや、まだ健在のCAYやロイズといったエイジアン、パンパシフィック系レストラン、名前は忘れたけれど2階の屋上から満月がとてもキレイだった青山の古い1軒家のビストロなんてところへ引き回したのもぼくでした。彼女は、このビストロが気に入って、その後鈴木慶一さんも来たCD発売記念(彼女は今で言うエレクトロのリミックスアルバムを2枚もプロデュースしている)のパーティ会場につかったりしてましたっけ。美味しいものをけっこう一緒に食べましたね。でも、あとから、彼女は「著作多数」の一冊で、自分は食べることにほとんど興味がないと書いておられて(確かにそれは感ずいていましたが)はぁ、そんなもんかいなぁと思ったものです。
それはさておき、マルチな彼女の活動の中で、思想系でサブカルチャーにも通じている才女というキャラづくりに、少しは貢献できたかなとは思っています。ところで、帯と奥付に貼り付けてある彼女の87、88年のお姿は、どうみてもクリスタル系ですね。ワンレンじゃないのが救いですけど。ご本人は、その当時松本伊代似と言われていたと書いていますが、ぼくは早見優かキムタクの妻似だと思ってました。
以前『タコ』のファーストアルバムに彼女が参加していたのを知って驚いた、とここで書きましたが、あれじつは香山リカさんではない別の香山リカさんなんだって。そんなに何人もいるのかって、いるんですよ、これが。その秘密を知りたい人は、ぜひ本書をお買い求めください。
ポケットは80年代がいっぱい

アスリートはギブソニアンの条件かもしれない。

玉川大学へ。文学部人間学科准教授・河野哲也先生にインタビュー。人間の行動の原因はその人の内面にある。だから、行動を変えるには、その人のこころを変えなければならない。社会現象を社会や環境からではなく個々人の性格や内面から理解しようとし、また、「共感」「ふれあい」「自己実現」といった言葉で解決を図ろうとする。こうした考えが今われわれの周囲にはびこっていないだろうか。これを「心理主義」と呼んで、本来は、社会的・政治的であるはずの問題を、個人の問題へとすり替えていると河野哲也氏は厳しく批判する。なによりも「自分探し」という言葉が問題なのだ。みうらじゅんの言葉にならえば、ヒデがしなくてはならなかったのは「自分探し」ではなく「自分無くし」、久米田康治的に言えば「自分さらし」だ。そして、ほんとうに彼は十分に自分を無くしているし晒している! と、これはどうでもいい話。
河野哲也先生は、ぼくを見下ろすような背の高い人で著書のイメージと違っていた。あとから伺うと先生は剣道をずっとやられていたとのこと。またしてもアスリートだ。以前から『談』を何冊か買っていただいていたようで、大変うれしい。著書の趣旨をまずお話いただく。教育と福祉、J.J.ギブソンとノーマライゼーションをメルロ=ポンティでつなぐ試み。何が知能なのか。それは、身体と環境のセッティングによって変わっていくものだ。何が価値なのか。それは、行為の多様性から生まれてくるものだ。学習の問題、成長の問題、環境の問題、さらには法の問題。いずれも身体とニッチの関係から読み解くことができるという。非常に有意義なインタビューとなった。しかし、またしてもメルロ=ポンティ。メルロ=ポンティの哲学とアスリートは相性がいいのかもしれない。ついでに言うと、ギブソンもそうだ。アフォーダンスを一発で理解するには、まず400mを全力疾走してみるといい。あるいは、クロールで2000m泳ぐのもいいし、もちろん竹刀で面打ちを決めるのでもいい。中井正一ではないけれど、スポーツ気分が了解できた時に、キアスムもアフォーダンスも自らの体験として会得できるはずだ。今度、「スホーツ気分」の研究でもやってみることにしよう。

『談』no.80 特集「無意味の意味/非-知の知」が発行になりました。

『談』no.80 特集「無意味の意味/非-知の知」が発行になりました。今号から表紙は、勝本みつるさんの作品です。インタビュー、対談のアブストラクト、editor's note before、afterは左のナビゲーションバーの「最新号」からアクセスできます。 

表紙

現代の「倫理」的問題に「論理」的にアプローチする「哲学ディベート」

國學院大学文学部教授・高橋昌一郎さんから『哲学ディベート…〈倫理〉を〈論理〉する』(NHKブックス)を贈呈していただいた。
哲学ディベートとは何か。現代社会におけるさまざまな倫理的な問題に対して論理的には何が言えるか、それを考えるというもの。具体的にいえば、「現代社会で生じた現実の事件を論題として設定し、肯定側と否定側に別れてディベートを行う。ただし、(…)その目的は、その背景にどんな〈哲学〉的問題があるのかを論理的に掘り下げて」、今まで気づかなかったあらたな発想を見つけ出すことであり、一種の弁論術を養うことにもつながるという。
章ごとに、「あなたはなぜ正直なのか」→道徳から始まり、「食べるとはどのようなことか」→文化、「いかに産むべきか」→人命、「どのように罰すべきか」→人権、「何をしても許されるのか」→自由、「いかに死すべきか」→尊厳、といった倫理的問題が、先生と学生の討論という形式で展開していく。「普段あまり使わない思考や感情の回路をためされること」になるはずと著者は言うが、なるほどそうである。読み進めるとすぐに夢中になって、自分も学生(役)と同じように、けっこう真剣にその問題と向き合っていることに気づいて、はっとした。まんまと高橋さんの弁論術にはまってしまったというわけだ。
高橋昌一郎さんには、『談』no.69で「科学はなぜ嫌われるのか」というテーマでインタビューをしている。この時もディベートをすることの重要性を説いておられたが、その目的は相手を論破することではなく、あくまでもさまざまな意見を出し合い、比較しながら自分の考えを打ち立てていくことにある。哲学とは、遠くギリシアの時代から、聞くこと(他者の声を)、話すことだったのだ。そして、それはとてもわくわくする体験なのである。哲学することの愉しさをあらためて教えてくれる一書である。
哲学ディベート?〈倫理〉を〈論理〉する (NHKブックス 1097)

肝心なものが欠如しているという指摘にドッキリ。

TASCで『談』no.80の編集会議。editor’s noteの読み合わせ。これで承認されれぱ、オーケーだ。バタイユの説明で、「非生産的消費」とか「有用性の限界」とか「呪われた部分」についてはしつこいほど語っているのに、肝心の「無意味の意味」との関連性について触れられていないのはどうしてか、という鋭い質問があった。確かに。本誌が発行された時に確認していただければいいのだが、インタビューの冒頭で、無意味を意味との対比で捉えようとする時に、バタイユにはそういう傾向がある、という指摘がなされる。じつは、無意味の意味が登場するのはその一箇所だけのだ。確かに、これでは、どうしてバタイユなの?  と思われるのも無理はない。といっても、ここのところは微妙で、軽はずみに論じると、やけどをしそうなので、加筆、修正は勘弁してもらった。だいたい特集タイトルの「無意味の意味/非-知の知」の「非-知の知」についても、ほんのちょっぴり触れただけ。バタイユを知らない人は、この言葉自体に???  かしれない。しかし、これもあえて何も言わない方がいいのではという配慮なのである。それでは詩ではないか、と批判されそうだが、ここは一つご勘弁願うとして、そんな意味などわからなくても、十分面白いインタビューなのでそっちを楽しんでいただきたい。

夜は、『TASC monthly』で1年間連載をしていだいた中川五郎さんのご苦労さん会を渋谷のワイン居酒屋VINで開催。中川さんの12月のスケジュールはライブがびっしり並んでいる。今日も昨夜「五つの赤い風船」のコンサートで宿泊された名古屋からの帰りだという。そんな中をぬって、私たちのために時間をつくってくれたのだ。感謝感謝。そのライブ、じつは営業的にはなかなか厳しいらしい。ミュージシャンというのも大変なんだぁと思った。サンセールとポムロール、ローヌにブルゴーニュとフランスワイン巡り&ジビェとフォグラで、愉しい語らいの時間をすごしました。

意味の森のウィトゲンシュタイン、言葉の海のソシュール

beforeでいきなりのウィトゲンシュタイン、afterでは、唐突にソシュール。「意味の病い」からの逃走をアジってはみたものの、またぞろ「言語の病い」にすっかりからめとられている。セミオティック>セマンティックorセマンティック>セミオティックか。この問題、ぼくの中でじつに30年間、いまだに決着がついていない。今回の特集、その突破口になるのではと期待したのに、結局また意味の森、言葉の海で右往左往している自分がいる。

バタイユの住んでいた(らしい)アパルトマン

パリ最後の日。『談』のインタビューでバタイユ思想に言及したので、サン・シュルピス寺院のすぐ隣にあるバタイユのアパルトマンを見てきました。吉田裕さんにお聞きした番地は25番地。とすれば、もしかしてお隣の2階? ふ〜む。
バタイユのアパルトマン

「attention economy」をどっちのスタンスで理解するか。

「ルネッサンス・ジェネレーション(RG)」に参加しました。今年11回目のテーマは「[情動]ー欲望・操作・自由」。10回で終了する予定だったはずが、1dayセッションとして新たに開催されることになったというわけです。レギュラーの監修者、下條信輔さんとタナカノリユキさんの他に、今年はゲストスピーカーとして、廣中直行さん、十川幸司さん、ビデオ録画によるインタビューとしてクリスチャン・シャイアさん、酒井隆史さんが出席。
この顔ぶれを見て、『談』の読者の方なら、「えっ?!」と思われるのではないでしょうか。そう、no.76の特集「情動回路」とかなりカブっているのです。出演者からそれとなく聞いたところでは、実際に企画の段階で、『談』の特集にインスパイヤーされたとか。それにしても、一種のサプライズとして紹介された酒井さんのビデオレクチャー。『談』が出てなかったら、このインタビューもなかったのではとちょっと思ってしまいました。情動がなぜ権力や労働、資本主義と関係するのか、それは、no.76の肝でしたが、今回のシンポでもやはりひとつの論点になっていました。
そもそも下條信輔さんはno.64で、廣中直行さんは、no.66、no.70でインタビューや対談に参加してもらっていますし、その後も某企業が主催する研究会に参加をお願いしたりして、お二人とは懇意にさせていいただいてます。情動というテーマ自体が、その研究会の中心課題でした。そんなわけで、今回のRGは、いつにもまして楽しみにしていたのです。
さて、内容はどうだったか。一言で言うと、例年通り下條先生のかじ取りでみごとな盛り上がりを見せたのですが、肝心の「情動」そのものに迫りきれたかというと、やや消化不良かな、というのが正直な感想。
最もそれを感じたのが、論点ともなった「attention economy」について。潜在的マーケティングを実践するシャイアは、無意識のレベルで働く情動を解明することから「attention economy」の可能性を探求しますが、むしろ消費者はそれを裏切り続けるのが実態だと解く。それに対して、酒井氏は、情動に直接関与する「attention economy」のもつ危険性を示唆する。両者は、同じことを問題にしながら、結論がまったく逆なのはなぜだろうか、という形で問題提起がなされ、この違いはかなり重要だと指摘されました。しかし、この理由はあまりにもはっきりしているのではないでしょうか。シャイアにはクライアントがいるけれど、酒井さんにいない。ただその違いだけです。要するに、情動を資本の中に組み込みたいのか、逆にそれに抗いたいのか。単なる社会学に終始するのか、そうではなく批判理論を目指すのか。この違いは、じつはものすごく大きい。
これは、毎回感じることですが、やはり監修者のスタンスは、サイエンティスト、エンジニアのそれであり、そうである限り、社会と向き合う時にどうしても脇が甘くなります。その脇の甘さが、社会やあるいは人文系の学問に橋を架けるうえで結構重要だと、もしもそのように認識されているならば、それは全くの誤解。RGが工学的知と人文的知の交錯する場所になりうるためには、あとまだ数十回のディスカッションが必要だなぁと思いましたね。というわけで、ぜひまた来年の開催を期待します。

メディアは存在しない、ゆえに、メディア論は終わらない。

NTT出版の柴さんから斎藤環さんの新刊『メディアは存在しない』を贈呈していただきました。
雑誌『Inter Communication』誌での同名の連載を中心に、同じく同誌で西垣通さんと交わされた議論、大澤真幸さん、東浩紀さんとの鼎談が収録されています。その連載、開始当初から話題になりましたが、『談』も注目し、no.71での北田暁大さんとの対談は、じつはこの連載がきっかけだったのです。
斎藤さんは、第1章冒頭で本書の目的についてこう書いています。「…私にとってのメディア論とは、つきつめれば、メディアの本質的な不在を論証するための議論を意味している。それは例えば、女性を論じて女性の不在に至るようなパラドキシカルな議論と相似形をなすだろう。そう、セキュシュアリティの根源性を謳いながら、女性の不在を宣告するラカニアンの身振りである。しかし、それははたして本質的な矛盾なのだろうか? そうではない。それはおそらく、存在論的な厳密さの問題なのだ。そう、本書は「メディア」を存在論的な根拠として用いることの不可能性、これを論証することをさしあたりの目標としている」。
「ユビキタス社会への「問い」ーーあとがきにかえて」では、「…メディアは存在しない。しかし、だからこそ、メディア論は終わらない。…かくして「ユビキタス」以降の新しいメディア論(それをもはや「メディア論2.0」などとは呼ぶまい)へ向けて、われわれは引き続き「精神分析」の橋頭堡に立てこもりつづけなければならない。足場を確保しなければ、自由になることすらできはしないのだから」。
メディア論はいかに〈不〉可能か。それは、同時に、精神分析はいかに〈不〉可能か、を問うことでもある。だとすれば、本書の立ち位置は、ラカニアン的身振りを二重化することで、よりいっそう精神分析の〈不〉可能を徹底化させようという、まさにラカニアンのそれにあたるだろう。「メディアは存在しない」という言明それ自体が、すでにメディア化した精神分析の内容証明となっていることのなんというパラドクス!  そう、ここで展開されるのは、またしても斎藤環的マジックなのだ。斎藤さんのクロースアップ・マジックには、タネも仕掛けもあるから面白い。

メディアは存在しない

野矢茂樹著『大森荘蔵 -哲学の見本』を版元からいただきました。

発行元から『大森荘蔵 -哲学の見本 再発見日本の哲学』(講談社)を贈呈していただきました。野矢茂樹さんによる大森荘蔵論です。ぼくがどれだけ大森荘蔵さんから影響をうけたか、これまで『談』に載せた拙稿をお読みいただければ十分わかっていただけると思います。何か書きあぐねている時、必ずや大森さんの考えに逃げ込むのが常でしたから。フーコー、ドゥルーズ、デリダらフランス現代思想と遭遇したのとほぼ同じ頃、大森哲学に出会いました。ぼくとってそれは、まさに衝撃ともいえる事件でした。年譜によれば、プリンストン高等学術研究所客員所員として渡米された年に大森さんは『ことだま論』を発表します。その2年後、記号論を一つの引き金に、いわゆる現代思想ブームの幕が切って落とされようとした75年、『エピステーメー』創刊号において、後に歴史的快挙と称されることになる誌上シンポジウム「記号・ことば・〈ことだま〉」が行われたのです。大森さんはその席上最後にこう言ってのけるのです。「…音声としての言葉はこっちにあり、その音声としての言葉が呼び起こす事物がこちらにある。その中間に〈意味〉なるものが存在し、意味を通じて意味越しに(ものごとが理解される。しかし、それは間違っている。)いま喋っている私の声が、じかにそれを呼び起こしている(のであって、そこに意味を持ち込むことは、全く必要のないことだ。世界は、つねに現在ただいま〈立ち現れ〉ているだけなのだ。ぼくは意味を抹殺したいのです。)」言語も記号も、哲学も思想も、脳も意識も、仮想も実在も、世界で起こっている一切を「立ちあらわれ」から考え直してみよう。ぼくの思想の旅は、大森哲学とともにリスタートしたのでした。さて、本書を送っていただい理由は、じつはそれとはまったく関係なく、中に登場するポートレイトが、no.54特集「唯[脳-身]論」での養老孟司さんとの対談「脳は脳をどう見ているか…デカルトが開いたジッパーを閉じる試み」に使用した写真の転載だからです(ちなみに撮影者は鈴木理策さん)。この対談、録画もあり、ナビゲーションバーの「『談』アーカイヴス」のno.54をクリックすると見れます。画像は非常に悪いのですが、今となっては貴重な記録映像です。 大森荘蔵 -哲学の見本 (再発見日本の哲学)

大人も知りたい『誰が決めたの? 社会の不思議』

橋爪大三郎先生から、新刊『誰が決めたの? 社会の不思議』(朝日出版社)を贈呈していただきました。
「社会には、きまりがあります。でも、このきまりは誰かがきめたものではありません。気がついたら、そうなっていたのです」(「はじめに」より)。
「大人にきいても答えてもらえなかったこととは?」「先生や親に聞いてもムダだと思うけど、やっぱりきいてみたかったこととは?」などのアンケートをもとに、子どもたちにテーマを選んでもらい、ぶっつけ本番で授業をしたのだそうです。本書は、その授業を再現し、コラムなどを加えて編集したもの。目次には、「なぜ勉強しないといけないの?」「死ぬってどういうこと?」「大人はずるい?」「なぜお金でものが買えるの?」……、などという大人にも興味津々の見出しが並んでいます。そうしたテーマをQ&A方式で、橋爪先生が懇切丁寧に説明していきます。
「ホンネで語った」という殺し文句がクリシェになっている今、本書はほんとに「ホンネ」が語られています。やっぱ、橋爪先生だわ、と思わずうならせる本になっています。ただし、「たばことお酒」については、厳しいご意見も。そのへんは、今度、直接聞いてみましょう。「橋爪先生、ほんとうにたばこってそんなにいけないものなんですか?」

だれが決めたの? 社会の不思議

肖像画と風景画は、何が違うのか。

GDは、ある女性の質問に、「哲学をすることだって? それは、とても難しいことだ。簡単にできるものではないよ」と応えて、こう続ける。「絵画には二種類ある。肖像画と風景画だ。両者は根本的に異なっている。喩えるならば、哲学史とは肖像画。モデルと正面から対峙し、凝視することで、そのモデルの在りように接近していく。それに対して、風景画とは、アプローチそのものがまったく異なるのだ。風景画とは、何かをつくりあげること、純粋な制作行為である。哲学とは、この風景画のことだ。概念をつくるとは、そういうことであり、そうやすやすとできることではないのである」。
GDは、またこんな言い方もした。「絵画はずっと単色だった。それがある時から色を持つようになった。それは、絵画にとってとてつもない革新である。色を見ること、色を探し出して、色をつけること。こんなことは、ふつうでは絶対にあり得ないことだ。それほど、色というのは重要でありかつ概念に近いものなのだ。したがって、絵画が色を発見したことによって、はじめて哲学の領域に足を踏み込むことができたのである」。今日のGDは、まるで、ゴッホのドゥーブルだった。だがもしも、DGだったら、間違いなくそれはベーコンに替わっていただろう。

ドゥルーズのシザーハンズ、あるいは忘却の忘却

以前鵜飼哲さんにインタビューした時、そのタイトルを「記憶の記憶、忘却の忘却」としたのだが、これは、ニーチェの能動的忘却に定位して、人間は忘れることができなくなった動物、すなわち、忘却を忘却したのが人間にほかならない、というところからとったものだった。

この「忘却の忘却」という言葉、他でも読んだことがあるなと思いつつ、それがまったく思い出せなかった(単なる忘却)。それが、あったのだ。最近河出文庫から次々に翻訳が出ているドゥルーズの著作、ほとんど持っているけれど、結局持ち運びができるのでまた買ってしまうわけだが、その一冊『フーコー』を読んでいたら見つけたのです。

「…しかし、主体あるいは主体化としての時間は、記憶と名づけられる。(…)この記憶はそれ自体たえず忘れられて再構成されるからである。その襞はまさに、拡げられた襞と一体である。なぜなら、拡げられた襞は、襞のなかに折り畳まれていたものとして現前し続けるからである。ただ忘却(拡げられた襞)だけが、記憶のなかに(襞そのもののなかに)折り畳まれていたものを再び見出すのである。フーコーが最終的に再発見したハイデッガーがここにいる。記憶に対立するものは忘却ではなく、私たちを外にむけて解体し、死を構成する〈忘却の忘却〉である」。(「湾曲あるいは思考の外」)

ドゥルーズは、『フーコー』におさめられた幾つかの論文で、フーコーを、「襞」あるいは「折畳み」という言葉から、執拗にその外の思考として掴まえようとする。その外は、襞あるいは折畳みという条件において、思考し得る対象としての記憶/忘却の再開の必然性、回帰の不可能性となり、再びわれわれに贈与されるというのである。襞あるいは折畳みは、ドゥルーズをフーコーへ、さらにはニーチェ、ハイデッガーへまさに折り畳んでいくための重要な概念なのだ。

などと考えながら、今日、日仏学院で「アベセデール[D、E、F、G]」を見た。カメラの前のドゥルーズの、なんと饒舌なことよ。クレール・パルネのインタビューに対して語ること語ること、ほとんどしゃべりっぱなし。ある時は、パルネの質問を遮ってまでしゃべり続けるのである。哲学とはまさに語ることだといわんばかりに。

そんな動くドゥルーズをはじめて見て驚いたのだが、もっとびっくりしたのが彼の爪!!  指の先には、まるでジョニー・デップ=エドワードのような長い爪が鎮座ましましていたのである。それも10本の指全部に。しかも、人さし指の爪は、くるっと弧を描いて、丸まっていた。あっ、これって、もしかして「折畳み」のこと? そう、よく見れば、人さし指だけでなく他の何本かも内側に湾曲しているではないか。そうか、ドゥルーズという哲学者にとって「襞」「折畳み」という概念は、自らの身体のメタファだったのだ。いや、逆か、自分の身体こそ、「襞」「折畳み」のメタファだった。ということは、「器官なき身体」はドゥルーズそのものだったってことなの? そんな想像も愉しむことができる「アベセデール[D、E、F、G]」の上映はあと3回。ぜひ見ましょう。クレール・パルネが女性だということもこの映像で知った世間知らずの僕です。

「ジル・ドゥルーズとともに」というイベントが開催されている

「ジル・ドゥルーズとともに」というイベントが開催されている。

『シネマ2*時間イメージ』『シネマ1*運動イメージ』(2007年12月刊行予定)を記念して、ドゥルーズの作品の引用で構成されたポスター展、ドゥルーズがさまざまな概念や自分の人生について語った貴重なドキュメンタリー『アベセデール』の上映、ドゥルーズの「シネマ」に関連する映画上映、レクチャー、シンポジウムを開催するというもの。すでに20日(土)にオープニングイベント「ドゥルーズ・アナロジック」というサウンド、映像、パフォーマンスのプログラムがスタートしていて、今月31日まで行われる。

なんといっても今回の目玉は、生前上映を禁止することを条件に撮影されたTVドキュメンタリー「アベセデ−ル」がすべて放映されること。Aは動物、Bはお酒、Cは欲望…というように、キーワードを手がかりとしてAtoZでドゥルーズ自身が自由に語りおろした記録。動くドゥルーズが見られるのは、これが最後かもしれない。

『TASC monthly』にご執筆いただいた廣瀬純先生も、25日にレクチャーを行う予定。

『談』をお読みいただいているみなさん、これは必見ですぞ。

イベントの詳細・スケジュール→東京日仏学院主催「ジル・ドゥルーズとともに」

 

フーコーはなぜ「老い」の問題を避けたのか。

『談』no.51で「〈臨床医学の誕生〉を読む」という鼎談を行った。現大阪大学学長・鷲田清一さん、現同志社大学政策学部教授・柿本昭人さん、現情報科学大学院教授・小林昌廣さんにご出席いただき、フーコーのほとんどの著作が翻訳されているわが国で、この本のみその他の著作とはやや異なる読まれ方をしてきたのではないか、という問題提起から始められたディスカッションだった。その後、『パラドックスとしての身体 免疫・病・健康』(河出書房新社)に採録されたが、最近あるきっかけから再読してみて、ここで交わされた議論の射程は、現在でも十分有効性をもつことに改めて驚いたのである。とくに、柿本さんの『臨床医学の誕生』の柱である「空間、ことば、死」に関して、フーコーが生の消尽点/零度の生としての「死」という見方を持ち込んだ重要性は認めつつも、それがかえって「老い」への「まなざし」を遠ざけているという指摘は、フーコーの「生-権力」論を現代の「生-政治」の文脈で語る時のある種の困難を、先取りする批判であったように思う。フーコーの未発表の講義録が翻訳され始めている現在、「老い」について『臨床医学の誕生』で微妙に避けられていた意味を考えることは、きわめて重要だと思われるのだ。
そんなこともあって、今日、ご無沙汰していた柿本昭人さんにご連絡をとった。そして『TASC monthly』にご寄稿をお願いしたのである。今回お願いしたテーマは「脳年齢になぜかくも躍起になるのか」。鼎談の議論とは直接つながるものではないが、「老い」と「生-政治」の交錯という問題を踏まえてであることはいうまでもない。さて、どんな議論が展開されるのか、今から楽しみだ。

「強度」のある対談、「消尽したもの」から遠く離れて。

サウンド・イメージ研究所ラボ・カフェ・ズミとのコラボレーション企画 『談』公開対談 「いかにして消尽したものになるか…死の贈与、生の贈与」を開催した。なにせ初めてのイベントなので、みなさん本当に聴きにきてくれるのか、内心ドキドキしていたが、開場してみると、応募者で欠席された方は一人だけ。立ち見でもいいからぜひ参加させて、といううれしい強引組をあわせると17人(既に定員オーバー)。それに、『談』の発行元のTASCの方々やスタッフが加わって、気が付けば、会場は立錐の余地もない。トイレに行くのもままならない感じ。さて、そんな中で公開対談は始まった。今回の特集を思いついた一つのきっかけが澤野雅樹先生の『不毛論』。時あたかも2001年、9.11の年に発行。何かリンクするものがあったのではないかという問い掛けから対談をスタートさせた。議論は、有用性/無用性の話からダメ連に。それを受けて赤木智弘さんの論文「気分は、戦争」をネタに、若者は、無用であることに絶えられなくなっている。自分の承認がモーターにならないと現状を分析。しばらくそのあたりの議論が続いたところで、ドゥルーズのベケット論『消尽したもの』に。そこから、器官なき身体、同一性、資本主義、スピノザからヘーゲルへ(?!)。澤野さんがルジャンドルを持ち出すと、じつは萱野さんも関心をもっておられて、宗教、ドグマ、国家というキーワードから、さらには暴力の問題へと議論は展開していった。たっぷり2時間の対談は、予想通り非常に内容の濃い、強度に満ち満ちたものになった。やはり、「ドゥルーズと子供たち」(スピノザ論的に)は、そもそも何かが根本的に違う、それがなんなのかはいまだにわからないのだが、少なくとも言語/論理の強烈な磁場を現出させる「力」は、今、この周辺からしか生まれないような気がする。それに立ち会えただけでもぼくはとてもうれしかった。 当日来て頂いたみなさん、ありがとうございました。

バタイユにとって「「アセファル」とはなんだったのか。

早稲田大学法学学術院教授・吉田裕先生にインタビュー。「無意味の意味/非-知の知」のテーマは、ジョルジュ・パタイユから借用させてもらったが、バタイユ思想の核心ともいえる「無意味」について、「非-知」との関連でお話していただこうというのが狙いだ。吉田先生は、ご著書『バタイユの迷宮』で、バタイユの思考についてこんな風に整理している。「『有用性の限界』と『有罪者』から始まり、『内的体験』を導き出し、再び最初の書物に戻り、さらに、『呪われた部分』を出現させるが、それは〈謎〉をめぐる転位として実行されている。『有用性の限界』が〈謎を解〉こうとする書物だとすれば、『内的体験』は〈謎を生き〉ようとする書物だった」のではないかと言うのだ。この過剰であり残余である「呪われた部分」を、バタイユのもう一つの重要な概念「非-知」とどう連接しているのか、おそらくそのつながりを追究することによって、「無意味」というものの「意味」を逆説的にあぶり出せるのではないかと考えてみたのである。「〈呪われた部分〉は、エネルギーの使途においてあらたな富を生み出さないために、功利性を原則とする社会から、無益なものとして排除された部分、すなわち〈非生産的な消費〉を指し、バタイユにとっては〈有用性の限界〉の主題をより広範囲にかつ象徴的に表す表現」となっているとしたら、さしあたって、われわれはこの『有用性の限界』を精確に読み解くことから始めなければならない。こうして、吉田先生は、『有用性の限界』を読むことによって、〈非生産的な消費〉をも含んだ問題系に、「消費(spend)」から「消尽(consumption)」への異同を確認するのである。
戦争、供儀、笑、交感(コミュニカシオン)、そして死。バタイユ思想には繰り返し出てくるこれらの言葉は、まさに「有用性の限界」において「消尽」そのものを表す概念なのである。そして、その先にあるものは、ほとんど「無意味」といっていい「呪われた部分」なのだ。ついでに言っておくと、この「消尽」へと向かうベクトルの延長線上にあの秘密結社「アセファル」があるとみれば、これまで不可解さにおいてバタイユ思想の最大の謎であった「アセファル」の意図もおぼろげながら感知できるのである。
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