自然科学

『談』no.127 特集◉「自動化のジレンマ(「自動化する世界」の第1回)が7月1日(土)に全国書店にて発売になります。

書店発売に先立ち、一足先に『談』Webサイトでは、各インタビューのアブストラクトとeditor’s noteを公開します。
右メニューの最新号no.127の表紙をクリックしてください(6月30日正午公開)。

『談』no.126 自動化のジレンマ
企画趣旨
AIとは、「Artificial Intelligence」の略語で人工知能を意味する。AI研究は、どのようなことを研究するのだろうか。一般的な答えの一つは、機械に何らかの「知的」な振る舞いを行わせること、というものだ。ただ、知的な振る舞いにもさまざまあり、そもそも一般的なICT=Information and Communication Technology(電卓も含まれる)は、知的な振る舞いをしていることには違いない。
昨今、業務の効率化やDX推進のに役立つものとしてひときわ関心を集めているのがAIやRPAである。Robotic Process Automationの略語であるRPAは、いわゆるロボットによる業務自動化で、日々の業務のなかで人間がPCを使って行える作業を、人間がやるのと同じように自動的にさせることをいう。RPAがあらかじめ設定されたルールや基準に従って作業を行うのに対して、AIは、自ら判断をして作業を行う。つまりRPAは、業務を自動化するシステムだが、AIは、それ単体で何かをするわけではなく、システムやデバイスに組み込まれることで機能する。RPAとAIの違いは「自律性」をもつシステムか否かということになる。
約10年前の研究では、43%のアメリカ人の職が今後20年のうちに自動化されるといわれている。この研究によって多くの経済学者、科学技術者、政策立案者、哲学者などはいわゆる「仕事の終わり」について熟考するようになったという。「仕事の終わり」とは、単に多くの仕事が不要になり、大量失業が発生するという社会現象だけを意味するわけではない、人間の知恵(wisdom)そのものが問われているのだ。人間にとって仕事とは何か、知識とは何か、そしてなによりも知恵とは何か。自動化という動向の根底には、こうした哲学的問題が横たわっていて、そのことに目を向けざるを得なくなったのである。

杉本舞氏インタビュー
「自動化のコノテーション…AI研究の進展と自動化が意味するもの」
2010年代に入って、AIは歴史上3度目のブームを迎えたといわれている。コンピュータを用いた推論や自然言語処理、探索といった演繹的アプローチによる研究やパーセプトロンをはじめとする人工ニューラルネットワークに関する研究が始まった1960年代の第1次ブーム、エキスパートシステムをめぐって進展しAIビジネスが立ち上がった1980年代の第2次ブーム。そして、機械学習研究が進展し深層学習(ディープランニング)がメインテーマとなった2010年代の第3次ブーム。AIビジネスへの投資が本格化し、いまやAIは国際競争力と国家安全保障の要になりつつある。コンピューティングの最大の特徴である自動化に焦点を当て、AI研究の歴史的検証を通して、自動化の意味および自動化概念の拡張領域を探索する。
関西大学社会学部社会学科社会システムデザイン専攻准教授。
著書に『「人工知能」前夜:コンピュータと脳は似ているか』(青土社 2018)、監訳書に『コンピューティング史:人間は情報をいかに取り扱ってきたか(原著第三版)』(共立出版 2021)他がある。

鈴木貴之氏インタビュー
「自動化は自律化をもたらすのか」
自律型ロボット=ヒューマノイド型ロボットが人間社会に活躍の場を見出すことは、少なくともSFのなかでは、自明だった。鉄腕アトムはそうであったように、ロボットはその誕生から、自律するものだった。自律型ロボットが普及すれば、単純労働における労働不足が解消するかもしれない。究極的には、私たちは全ての労働を自立型ロボットに行わせることができるかもしれない。そうなった時、人類は歴史上初めて働く必要のない存在になるのである。RPAは、いわゆるロボットによる業務自動化で、人間がやるのと同じように自動的にさせることをいうが、AIはさらに進み、自ら考え判断して行動する。このことを自律と見なすわけであるが、この一連の行為は、本当に自律的といえるのだろうか。自動か自律か。この古くて新しい問題について、人工知能研究からアプローチする。
東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻 相関基礎科学系教授。
著書に『人工知能とどうつきあうか』(勁草書房 近刊)、『100年後の世界』(化学同人 2018)他がある。

笠木雅史氏インタビュー
「自動運転とトロリー問題…自動化・人工知能・倫理」
応用倫理学の分野で従来話題になるのがトロリー問題だ。トロリー問題とは、暴走するトロりー(trolley=路面電車)の線路上に、追突必死の作業員がいる。路線は、途中で2車線に分岐していて、左の路線には5人が線路に縛られて寝かされていて、右の線路には、1人が同じように縛られて寝かされている。線路脇には線路を切り替えるレバーがあり、その前で第三者が線路をどちらに切り替えるか迷っているが、分岐点までトロリーはせまってきている。さて、第三者はレバーをどちらに切るか、5人を救うためには、右に切る必要があり、1人を救うためには、左に切らなければならない。5人を救うために1人を犠牲にするか、1人を救うために5人を犠牲にするか。近年、自動運転技術の倫理的問題としてこのトロリー問題に関心が集まっている。ここにあるのは、典型的な自動化のジレンマだ。トロリー問題をいかに回避するか、というか、そもそもトロリー問題は解決不可能な哲学上のアポリアなのではないか。
名古屋大学大学院情報学研究科准教授。
著書に『モビリティ・イノベーションの社会的受容:技術から人へ、人から技術へ』分担執筆(北大和書房 2022)、『実験哲学入門』分担執筆(勁草書房 2020)他がある。

『談』no.117号が3月1日に全国書店にて発売になります。

書店販売に先立ち、一足先に『談』ウェブサイトでは、各インタビュー者のアブストラクトとeditor's noteを公開しました。
右のメニューバーの最新号、no.117号の表紙をクリックしてください。

no.115より始まったシリーズ企画「虚、擬、戯」の最終回。最新物理学が解く虚、擬、戯の世界。
量子力学の世界には、神に比せられる普遍的な観察者は存在しません。であるとすれば、量子力学的な態度のなかには、個別性への関心が支配的であって、普遍性への志向は失われているのか、といえば、事態はまったく逆です。たとえば、量子力学的な観察を通じて、われわれは粒子としての物質を捉えることになります。しかし、われわれはそれがすべてではないことをすでに知っています。つまり、波動としての半面を知っているのです。観察者を通じて、「このX」を捉えた時、われわれは同時に、「このX以上の何か」「このX以外の何か」を直感します。このように、単一性についての体験のなかに常に随伴する、「これですべてではない」「これ以上の何かがある」という残余の感覚をもつ。このことが、普遍性への通路となる、と社会学者・大澤真幸氏は言います。
量子力学にあっては、真空でさえも単なる無ではない。真空もまた、「それ以上の何か」であって、そこでは、ゆらぎを通じて物質が出現したり、消滅したりを繰り返している。これと対応することを、われわれは、親しい〈他者〉が亡くなった時に体験します。この部屋には、もう彼/彼女はいない(真空)。ただ、彼/彼女が使っていたシャープペンシルやベッドがある。この時、ますますわれわれは、彼/彼女の現前を感じ取ってしまう。無に対する残余として、〈他者〉の実在をむしろ強く感覚するのです。
虚、擬、戯とは、ここでいう残余の感覚に他なりません。時間もしくは因果(法則)には、この残余の感覚、すなわち、虚、擬、戯として表出するいわば「このX以上の何か」が漏れ出ているのです。そして、「このX以上の何か」が漏れ出ていることによって、人間界の秩序は維持されています。「虚、擬、戯」は、その意味で普遍性の通路となっている。因果論を凝視する意味も、ここにあるのです。

〈時間とは何か〉
時間は巨大な構造物の一部にすぎない…最新物理学から〈時〉の正体に迫る
松浦壮(慶應義塾大学商学部 自然科学研究教育センター教授。専門は、素粒子物理学、超対称性、超弦理論、格子理論)
人間は、心臓なら心臓、皮膚なら皮膚というように、からだを構成するさまざまな部分が、それぞれ固有の役割を果たすことで命をつないでいる。その一方でからだをつくるあらゆる細胞は同じDNAを共有している。このDNAは、ひとつの受精卵に由来していて、発生の過程で、その細胞がからだのどこにあるかによって役割が固定される。最初から役割が決まっているわけではない。iPS細胞も、細胞の固定化された役割がリセットされて、あらゆる細胞に分化する能力を取り戻せるという点が注目されたのだ。物理学の最前線では、時間・空間・物質・力のすべてに共通するDNAに、今まさに触れようとしているのであって、このDNAこそが時間の正体なのだ。
時間とは何か、という問いの果てに見出したのは、時間が、空間・物質・力を含む巨大な構造物の一部であるという事実である。時間は独立した概念ではなく、時計に代表されるような指標(基準)でもない。時間は、「時空」・「重力」・「量子場」と刻まれた建造物を絶妙につなぐ要石であり、その建造物もさらに巨大な構築物の一部にすぎないのだ。最新物理学が探り出した時間の正体とは。

〈時間は存在しない〉
なぜ、〈時の流れは存在しない〉に至ったか…解題『時間は存在しない』
吉田伸夫(東海大学と明海大学での勤務を経て、現在、サイエンスライター。専攻は、素粒子論〈量子色力学〉)

カルロ・ロヴェッリは、物理学の最前線でループ量子重力理論を主導する物理学者ですが、昨年翻訳された『時間は存在しない』は、ループ量子重力理論に基づいて、「時間や空間が根源的ではない」という驚嘆すべき見解を発表し、世界に衝撃を与えました。ロヴェッリによれば、この世界の根源にあるのは、時間・空間に先立つネットワークであり、そこに時間の流れは存在しません。にもかかわらず、人間には、過去から未来に向かう時間の流れが当たり前の事実のように感じられるのはなぜでしょうか。時間が経過するという内的な感覚が、未来によらず過去だけにかかわる記憶の時間的非対称性に由来し、記憶とは中枢神経系におけるシナプス結合の形成と消滅という物質的なプロセスが生み出したものだというのです。過去の記憶だけが存在するのは、このプロセスがエントロピー増大の法則に従うことの直接的な帰結だとロヴェッリは論じます。現時点での時間論の最新理論である『時間は存在しない』を解題しながら、量子力学が捉えた時間の謎に迫ります。

〈時間とエピステーメー〉
量子力学が暗示する〈無知の神〉…時間と社会
大澤真幸(社会学者。専門は比較社会学、社会システム論)

量子力学が現代社会を理解し、未来社会を構想するための基本的な指針を与えるような、政治的・倫理的な含意を宿していると社会学者・大澤真幸氏が主張した時、社会学に関心をもつ多くの人は、一瞬その耳を疑ったものだ。高度に抽象的で浮世離れした物理学の基礎理論である量子力学が、なぜゆえに世俗的で生臭い人間社会の政治的イデオロギーや倫理的な価値と関連しているなどと言えるのであろうか。大澤氏は言う。「量子力学という途轍もない神秘の深淵が、同時代の他の知や実践のなかにも同様に萌(きざ)していた謎  それらの知や実践の当事者すらも意識していなかった謎  を、増幅してみせる」からだと。
その倫理的・政治的な意味は、「神」のあり方に託して予告することができる。かつて神は、全知であるとされていた。全知であることは、神の本質的な属性であった。近代の科学は、人間がかつて神に帰せられていた全知へと漸近しようとする不遜な試みとみなすことができるだろう。ところが、量子力学が到り着く場所は、そうした不遜な試みが目指していたものとまったく逆の地点であった。量子力学が暗示しているのは、無知の神、無知である限りで存在する神、したがって神性の根本的な否定であるような神という逆説だった。量子力学という鏡が映し出した神とは、未来の社会とは。
写真家・新井卓の撮り下ろし最新作「重力の虹」を同時掲載。

『談』no.106 特集「人と動物…動物は動物なのか」が6月30日、全国書店にて一斉発売!!

『談』no.106特集「人と動物…動物は動物なのか」が6月30日、全国書店にて発売になります。

書店販売に先立ち、一足先に『談』ウェブサイトでは、アブストラクトとeditor's noteを公開しました。
右のメニューバーのno.106号の表紙をクリックしてください。

私たちが、かかわる生きものはもとより人間だけではありません。食料であり道具であり、恐怖の対象でもある生きもの。なかでも一部の動物は、現代社会において、人のパートナーであり、癒し/癒される対象であり、家族の一員でもあります。人間と同じ生きものでありながら、人間とは一線を画す動物という存在。今号は、種を超えた他者である動物について、人とのかかわりから考えます。

今号では、京都大学大学院文学研究科心理学研究室教授・藤田和生先生、岐阜大学地域科学部助教・山口未花子先生、東京大学大学院教育学研究科教授・金森修先生にそれぞれお話しいただきましたが、一つ大事なことをお伝えしなければなりません。
最後におたずねした金森先生は、5月26日逝去されました。これが最後のインタビューになってしまいました。金森先生を偲んで、心から哀惜申し上げ、謹んで御冥福をお祈り致します。


『談』no.105 特集「科学を科学する…領域を超えて」が3月10日、全国書店にて一斉発売!!


書店販売に先立ち、一足先に『談』ウェブサイトでは、アブストラクトとeditor's noteを公開しました。
右のメニューバーのno.105号の表紙をクリックしてください。


自然科学の内部において、近代的な知の枠組みの不十分さが露呈しています。人間存在を基礎とする哲学は、現代の科学の進展に対して、合理的説明を与える役割機能を果たせなくなってきました。少なくとも、自然科学の進展によって明らかになりつつある「具体の自然」を前にして、従来の認識枠組みは、すでに十分に失効していると言わざるを得ません。
この現状にあって、人間と自然、認識と真理の間に受け入れられてきた関係を、今こそ問い直すことが必要ではないでしょうか。
新たな知の枠組みの〈再〉構築が希求されています。エピステモロジー、科学技術史、科学技術社会論の分野から、科学の内部に分け入り、次なる時代の科学を展望します。表紙は、木本圭子さんです。

amazonでも予約受付中!

社会脳の特集号が平積みに

ブックファーストの『談』
渋谷の書店をウロウロしていたら、『談』no.99号「社会脳、脳科学の人間学的転回」を発見! 人文書の棚の、目の高さの位置、しかも表紙を向けて。こういう陳列も平積みというのかわからないが、とにかく目立つ。売れ行き好調という意味だとうれしいんですがねぇ。向かって左隣に斎藤環さんの、右側に佐藤卓己さんの新刊。お二人とも『談』や『TASC MONTHLY』でお世話になった先生だ。

人間人形時代の次を生きる石黒さんとアンドロイド

朝日新聞出版編集部より石黒浩著『”糞袋”の内と外』を贈呈いただきました。石黒さんには、『談』no.93「特集 他者の他者としての〈自分〉」で、「最期に人間に残るもの、人こそが人を映し出す鏡」というテーマでインタビューをしました。
「2011年の1月からツイッターを始めた。(…)この本は、2011年の1月から2年間に渡ってツィッターでつぶやいたことを八つの章に分類し、ツイートごとにタイトルをつけ直した。そしてそれぞれのつぶやきに可能な範囲で丁寧な説明を付け加えた。(…)多くのツイートを通して、私がいつも問題にしてきたことや気にしてきたことは、「私は誰であるか」「生きるとはどういうことか」「人間とは何か」「社会とは」「自由とは」「挑戦とは」「進化とは」という、答えるのが難しい問題である。(…)その答えに到達しているわけではないが、様々な視点からの考察を寄せ集めるだけで、何か考えに少しでも近づけている気がしている。答えを得ているわけではないが、一歩踏み込んだ考えに到達していると思う」(プロローグより)
人間はしょせん糞袋にすぎないと喝破したのは稲垣足穂でした。タルホさんにとって「人間人形」は糞をしない未来の人間ですが、石黒さんのアンドロイドも糞をしません。しかし、アンドロイドにそっくりな石黒さんは糞をします(たぶん)。石黒さんはまぎれもなく人間そのものですが、しかし、そのまぎれもない「人間」という概念が、いまやとてもあやしい。石黒・アンドロイドペアは、すでに人間人形時代のアリーナで華やかなダンスを舞っています。
糞袋の内と外
糞袋の内と外 [単行本]

論壇委員が選ぶ今月の3点に粥川さんのインタビューが選ばれる

28日付け朝日新聞朝刊「論壇時評」の論壇委員が選ぶ今月の3点で、科学担当の平川秀幸さんが『談』no.96掲載の粥川準二さんインタビュー「〈社会的な傷み〉への処方箋 痛むからだの当事者として考え得ること」を選んでくれました。
論壇委員が選ぶ今月の3点 

離散数学的なモノの見方で世界を見渡すと…

国立情報研究所より、当該研究所が刊行する「情報研シリーズ」16、河原林健一、田井中麻都佳著『これも数学だった!? カーナビ・路線図・SNS』(丸善ライブラリー)を贈呈いただきました。サイエンスライター/インタープリターの田井中さんの著者代行発送だと思いますが、じつは、面白い本をつくっているという話は聞いていたので、発行を楽しみにしていました。もちろん買うつもりでいたのですが、まさか刊行元から贈っていただけるとは、感謝です! 今、さまざまな分野で離散数学が応用されていますが、その離散数学について、これでもかとばかりに懇切丁寧、詳細至極に解説したのが本書です。最近話題のビッグデータの解析にも、離散数学的モノの見方が役立つそうです。新書の体裁ながら、コラムやクイズ、通常の書き下ろしの他にQ&A形式の章が設けられていたり編集が立体的。また、随所に浅生ハルミンさんの猫の挿画があしらわれているのもうれしい。しかし、この既視感は何だろう…、ということは問わないとして、店頭でみかけたらぜひ手に取ってみてください。余談ながら、『談』no.87特集「偶有性」の津田一郎さんと木本圭子さんの対談やno.77特集「〈いのち〉を記録する」の金子邦彦さんのインタビューを併せてお読みいただくことをおススメします。離散数学的モノの見方の「モノの見方」の方の議論をやってますので。

これも数学だった!?: カーナビ、路線図、SNS (丸善ライブラリー)
これも数学だった!?: カーナビ、路線図、SNS (丸善ライブラリー) [新書]

役には立たないけれど、いないと寂しいロボットたちの研究

『談』no.78で「愉しみ」としての身体……次世代コミュニケーション、遊び/遊ばれる、エコロジカル・マインド」というテーマでインタビューさせていただいた豊橋技術科学大学情報・知能工学系教授・岡田美智男先生に『弱いロボット』を贈呈いただきました。
「(…)ときどき子どもから叩かれもする、ちょっと情けないロボット。自分ではゴミを拾えない手の掛かるゴミ箱ロボット。“ピングー語”で他愛もないおしゃべりする目玉だけのロボット……。いずれも、いろいろな事情も重なってはじめから「役に立つロボット」であることを降りてしまったような「弱い」ロボットたちである。/そうしたロボットたちの少し低い目線から、私たちの振る舞いや人との関わりを丁寧に眺めてみたい。こうした「弱さ」を備えたロボットたちがときどき発揮する、意外なちからを探ってみたい」(はじめにより)
岡田先生がロボット研究を始めたきっかけは、コンピュータと人間との、あるいはコンピュータ同士のコミュニケーションをどう考えるかにありました。そうした問題意識から生まれたのは、意外にもちょっとオバカキャラの、でも、いてくれると楽しいロボットたちでした。そして、そんなロボットたちとつきあっているうちに、さらに驚くことがわかってきたのです。私たちが日々行っているコミュニケーションのほとんどは、他愛もないおしゃべりにすぎなかった! 「役には立たないけれど、ないと寂しい」ものやこと。それこそが、私たちにとってはかけがえのないものやことだったのです。
たばこを含む嗜好品も、考えてみれば「役には立たないけれど、ないと寂しい」もの。岡田先生の「弱いロボット」論は、嗜好品を考えるうえでも重要なヒントを与えてくれそうです。
弱いロボット (シリーズ ケアをひらく)
弱いロボット (シリーズ ケアをひらく)
クチコミを見る


『談』最新号をHPにアップしました!!

『談』最新号 特集他者の他者としての〈自分〉……アンドロイド、人工ボディ、ワキのアブストラクトとeditor's noteを「最新号」にアップしました。
右のメニューバーの最新号をクリックしてください。

『談』no.93号特集 他者の他者としての〈自分〉……アンドロイド、人工ボディ、ワキ のフライヤーができました!!

『談』no.93号特集 他者の他者としての〈自分〉……アンドロイド、人工ボディ、ワキ

これまでのロボットが、機能と効率と安全を重視してきたのに対して、これからのロボットに求められる要件は見かけではないか。そうした仮説に基づいてアンドロイドはつくられました。だが、その過程で浮かび上がってきたことは、そもそも見かけとは何か、それははたして人間らしさのことなのかという疑問でした。
アンドロイドはどこまで人間に近づくことができるのか。どうしても人間になれないものがあるとしたら、それは何か。ロボットと人間を分かつものを探ること、それこそがロボット研究の意味ではないか。ロボット研究とは、いうなれば人間とは何かという人間そのものへの研究、つまり哲学だったのです!
人間研究としてのロボット、アンドロイドの追究。人工物=ロボットと人間の境界で見えてくるものとは……。
今号は、ロボット研究を中心に、人工ボディ、能の世界から、人間らしさ、自分らしさ、らしさそのものについて、考察します。

◎最期に人間に残るもの、人こそが人を映し出す鏡
    石黒浩
◎〈対談〉「からだ」の復元……自分らしさを求めて
    福島有佳子×山下柚実
◎ワキ……人生の深淵を旅する者
    安田登

表紙 高津戸優子
談93 販売店広告HP

科学のあり方、科学と社会の関係をめぐって「講義」の形を借りてわかりやすく論じた一書

『談』no.91でインタビューさせていただいた平川秀幸さん、『tasc monthly』no.430/2011年10月号でインタビューさせていただいた松永和紀さん、『tasc monthly』no.398/2009年2月号にご寄稿いただいた菊池誠さんがそろって原稿を寄せている『もうダマされないための「科学」講義』が発売中です(9月発行)。3.11以降の科学のあり方、科学と社会の関係をめぐって「講義」の形を借りてわかりやすく論じた一書です。なお、編集は、『談』no.84および、『tasc monthly』no.427/2011年7月号でインタビューさせていただいた芹沢一也さんが主宰するSYNODOSです。

もうダマされないための「科学」講義 (光文社新書)
もうダマされないための「科学」講義 (光文社新書)
クチコミを見る

『談』最新号 特集「理性の限界……今、科学を問うこと」が発行になりました。

『談』最新号 特集「理性の限界……今、科学を問うこと」が7月13日発行、14日には書店に並びます。
2011年3月11日以降 、私たちは科学技術とどう向き合うべきか。科学哲学、科学技術のガバナンス論、現代思想の俊英が切り込みます。
◎平川秀幸 科学における「公共性」をいかにしてつくり出すか……統治者視点/当事者視点の相克
◎柳澤田実 ノンコミュニケーションを含みこむコミュニケーションへ……生の流れを妨げない思考
◎高橋昌一郎 理性主義を超えて……思考停止からの出発
表紙は、ドイツ在住の新進気鋭の作家高津戸優子さんのペインティング、差し込みは、大島梢さんのペインティングです。

談91 販売店広告

次号特集は、「理性の限界、知性の限界」です。

ツイートしましたように、4月22日午前中に大阪大学コミュニケーションデザインセンター准教授・平川秀幸さんに「自然はいつでも〈想定外〉、科学の不確実性とどう付き合うか」をテーマに、午後には、南山大学人文学部キリスト教学科准教授・柳澤田実さんに「ノンコミュニケーションを含みこむコミュニケーション…生の流れを妨げない思考」をテーマに、お話を伺いました。いずれも、内容の濃い、充実のインタビュー。no.91号は、6月末発行の予定。乞うご期待。

no.87号販売用フライヤーです。

書店さんへの販売用フライヤーです。

表紙は、前号同様山崎史生さんの作品「静かな隣人/silent neighbor」より。


ヴィジュアルページは、今回津田一郎先生と対談をなさったアーティスト木本圭子さんの新作「Inter-side(リズムのスタディ)」シリーズより。 

動画でお見せできないのが残念ですが、すごいです! 驚きです!  「2006年文化庁メディア芸術祭アート部門大賞」作品で、世間をあっといわせた木本ワールドの、next stageが始動開始。その一端をごらんいただけます。なんといっても、カオス遍歴がアートとなって現出するのですから、必見です。

no.87書店用チラシ図版

■左のメニューバー最新号からアクセスしてください。

『談』最新号「特集 偶有性……アルスの起原」 3月29日発売!!

雑誌『談』の読者のみなさま、またweb版(ブログ)の読者のみなさま、

大変失礼いたしました。ブログ更新、3ヶ月も滞ったままでした!!

読者の方からご心配のメールなどをいただきましたが、何か問題があったわけではありません。

ただ、忙しさにかまけて、サボっていました。どうもすみません。

さて、そこでお知らせです!!

『談』最新号「特集 偶有性……アルスの起原」 が本日発売になりました。

脳の世紀の最重要キーワード「偶有性=コンティンジェンシー」

半ば偶然、半ば必然。

偶有性を呼び出す手法、反転可能性としての……

今福龍太 東京外国語大学教授 文化人類学者、批評家

必然と偶然の、その間で生きものは……

長沼毅 広島大学大学院生物圏科学研究科准教授 微生物生態学

〈対談〉自然の内側にあるもの……なぜ、人々は、時間に魅了されるのか

津田一郎 北海道大学電子科学研究所教授、北海道大学数学連携研究センターセンター長 応用数学

×

木本圭子 アーティスト、武蔵野美術大学非常勤講師

●特別企画

木本圭子 Inter-side(リズムのスタディ)より

表紙 山崎史生

最新号 3月29日発売!!

人間はあそぶ。サルもあそぶ。はたして、そこに共通性はあるのか。

中央線に乗り換え上野原で下車。バスで帝京科学大学へ。島田将喜先生を訪問。あそび工学研究会の第4回にゲストスピーカーとしてお呼びするため。第一印象は、いかにもフィールドワーカーという感じの、野性味溢れるひと。もちろんいい意味で。京大のサル関係の研究者とは何人かおつき合いがあるが、島田先生もその門下生。霊長類全体を、つまりサルもヒトも同一に対象とする研究を進めたいという考えには、共感するところ大であった。島田さんは同じ京大・人環の菅原和孝先生のゼミにちょくちょく顔を出されていたという。じつは、ぼくも菅原先生の仕事から多いに刺激を受けて、ヤマハの研究会ではインタビューをさせていただいたほどだ。島田先生の研究が僕のアンテナに引っ掛かってきた理由がわかった。これからの動物行動学はジャンルを超えて、もっと大きなコンテクストから捉え直すべきだとぼくも常々思っていた。島田先生の研究に大いに期待したい。先生は、毎年行われる金華山のサルの調査に参加されるそうだが、その帰りがけに研究会へ顔を出されるとのこと。最新情報も交えての研究会になりそうで、今から楽しみだ。

廣中直行さんの研究は、どこまでいってしまうのだろうか。

「あそび工学研究会」の第4回。科学技術振興機構・下條潜在機能プロジェクト・プロジェクトマネージャー・廣中直行さんをゲストスピーカーにお呼びした。「ひとはなぜハマるのか」を切り口に、あそびとの関係でお話してもらおうと思ったら、先生の研究は、もっとずっと先まで進んでいて、聞いていて興奮の連続だった。この研究会、いよいよ面白くなりそうだ。

河合隆史教授にプレ取材。

早稲田大学大学院国際情報通信研究科教授・河合隆史さんにプレ取材。「ゲームの処方箋」の5年間の成果を紹介する印刷物をつくるため。

いったいどこまでいってしまうの、木本圭子さん!

鷺宮の駅前で今福龍太さん木本圭子さんと合流。21世紀スポーツ文化研究所へ。湘南在住の今福さんが本日上がったばかりの新鮮魚介を刺身にして持ってきてくれた。それと秘蔵の黒糖焼酎。しばらくして、もう一人の女流作家・面打師柏木裕美さん来所。いよいよ本日の目的である木本さんの新作のプレゼンテーション。モニターに表れた図像は、予想をはるかに超えたものだった。常に、進化を続ける作品。テクノロジー・アートの最高賞をとった時、ついにここまできたかと驚嘆したが、あれから2年彼女はやはりそこに留まってはいなかった。えっ、またまたこんなんなっちゃったの?! もうただただ驚愕。静止画像にする必要性すらなくなった。運動それ自体がヴィジュアル化してしまったのだから。いったいどこまでいけば気がすむのだろうか。所長の稲垣正浩さん、柏木さんともどもあっけにとられていた。そして、その画像がどうやってつくられたか、その種明かしで、またおふたりの頭上に「?」が三つも四つも…。そのあと、プレゼンテーションの感想、印象を言い合って、ディスカッションとなった。いささか挑発的な物言いをしたのがよかったのかもしれない。それぞれがそれぞれの立ち位置と持論をたたき合わせる。充実した議論になった。最後、ぼくは彼女の作品をパッケージ化してPCごと販売するというアイデアを披露。ネットにつなぐことをあえて禁じ、木本さんの画像しか走らないように機能特化し、一人あそびのツールにしてしまうというアイデア。それを限定10台というように、あくまで台数単位で売る。一台50万円なら、これで500万円。つまり、PCはこの場合額縁にあたる。まさしくウィンドウズというわけ。アート・マーケットのあらたなビジネスモデルとなれば面白いのになぁ。

なんだかんだで、結局天文ショーを見てしまった。

皆既日食のテレビの中継を見る。あいにくの天候だが、見れるところはあったようだ。奄美大島でフジの大村アナがはしゃいでいる。ワールドカップよりすごいと。それよりNHK。自衛隊か観測目的でないと上陸できない硫黄島からの中継。観客がゼロ、静かな天文ショー。本当に真っ暗になっている。圧巻は洋上(観光船)から見たダイヤモンドリング。女性アナは、黒い太陽になるとウォーウォーいうだけ。コロナとプロミネンスには驚いた。それと周囲360度水平線上がオレンジに輝き、上空は暗いという、皆既日食にならない限り絶対に見えない風景。黒い太陽もすごいけれど、確かにこれを生で見たら人生観変わるかもしれないと思った。メキシコのユカタン半島に行った時、ピラミッド、ティツンイツアーの頂上で360度の地平線を見てえらく感動したのをおぼえている。あれが水平線でしかも輝くのだから、とうてい比較にならないだろう。皆既日食は、太陽と月と地球の関わりを考えさせてくれるいい機会になった。

血液がドロドロ/サラサラ……、どうしてこんなウソがまかり通るのでしょうか。

東京大学生産技術研究所教授・渡辺正さんは言います。「酸性食品/アルカリ性食品というのがあるでしょう。この概念も用語も日本にしかないんです。科学的根拠はゼロ。そもそも大正時代に阪大の医学部の某教授が学会の口頭で行った発表で「うなぎに大根おろしをしこたま食わせたら血液が酸性に傾いてうなぎがおかしくなった」と言ったんですが、それが発端(笑)。だいだい血液のpHは7.40±0.02。7.20になったら昏睡状態になっちゃうくらいですから、食べもので体内のpHがかわるなんてことは絶対にありえないことなんです。なのに、そんな80年前の発表が生き続けているわけです。血液がドロドロ/サラサラは本当かって? そんなのあるわけないじゃないですか」どうも、わが国には、健康絡みのウソ、デタラメがまかり通っているようです。
この発言を含む帝塚山大学心理福祉学部教授・中谷内一也さんとの対談「なぜ人々はゼロリスクを願うのか」が、『TASC monthly』にいずれ収録しますが、今回はそのブレビュー。

問題は、Aha!体験のあと、どうするかだ。

突然、雲がす〜っとなくなって青空が顔を出した。じつはずうっとわからなかったところがあって、それをどう書こうか逡巡していたのだが、わかったのである。書きながら、悩みながら、また書きながら…、しているうちに、はっと閃いたのだ。茂木健一郎先生いうところのAha!体験。やはり、書かないとダメなのだよ。書くことで、ようやく理解が届く時があるのだ。しかし、まだそれをどう表現するか、つまり、どう書くか、これからが至難のしどころなんだけどね。

「なぜ人々はゼロリスクを願うのか」という対談をやりました。

『TASC monthly』への掲載を目的とした公開対談をやりました。テーマは「なぜ人々はゼロリスクを願うのか」。対談者は東京大学生産技術研究所教授・渡辺正先生と帝塚山大学福祉学部教授・中谷内一也先生。 渡辺先生には、『談』no.69で「環境問題を科学はどう伝えているか…ダイオキシン神話を例に」というインタビューをしています。地球温暖化論や健康リスク論の誤りをサイエンスの立場から、批判し論証してきたお一人です。中谷内先生は、社会心理学の立場からリスクコミュニケーションの必要性を説き、リスク論においては何よりも「信頼」が鍵を握ると主張してこられました。 ●対談は、まず、中谷内先生が、専門家と一般の人々のあいだにあるリスクにおける認識のギャップを認めたうえで、一般の人々には、事実を正確に伝えるだけでなく、心理的バイアスを考慮したうえで、信頼性を軸にした価値の共有が重要と指摘。渡辺先生は、定量的に扱う訓練を科学教育はきちっとしていない。そのためには、何よりもまず一般市民が科学的なリテラシーをもつことだと言います。 ●たとえば、摂取物の発がんパワーの横綱はエタノール(酒)。エチレンチオ尿素、ダイオキシンと比べると1000倍近い。仮に、酒を化学物質なみに規制すると、一日の摂取許容量は、日本酒換算で0.1mL。 5年間毎日飲み続けてやっと一升になる計算。一日に一合とっくりをあける御仁だと、それだけで1800倍になるのです。ちなみに、発がんパワーだけでみると、普段食べているりんご、セロリ、にんじん、ジャガイモなども、ダイオキシンの200倍以上あるといいます。また、酸性・アルカリ食品などいう概念は、環境ホルモン同様そもそも世の中に存在しないものなのに、いたずらに危険視される。これなども、科学リテラシー不在の現状を如実に示しているといえます。 ●ただ、中谷内先生が強調するように、人々は感情に作用される面が強く、理性的・合理的説明をいくらされても、いったんそうだと思い込むと容易に考え方を変え難い側面をもっています。感情システムを取り込んだうえでリテラシー+信頼の関係をいかにして築くか、そのためには感情あるいは価値の共有をベースにした合意形成が必要だといいます。 ●今回の対談で、一つ印象に残ったのは、リスク論の常識として「リスク評価」に重点がおかれますが、これは、あくまでも理性的システムに基づく評価。感情システムに働きかける方途なしには、有効性は期待できないということでした。経済においても、感情が大きく左右することが近年の研究でわかってきましたが、リスクの問題も例外ではないということでしょう。『談』では、以前から情動機能に注目してきましたが、それはここでいう感情と同義です。「知・情・意」でいえば「情」。「情」とリスクの関わりについて、今度は『談』でじっくり考察してみようと思います。

知的好奇心の旺盛な先生は、今度は仏教がテーマだという。

東京農業大学客員教授の高辻正基先生に原稿依頼。先生は、文理シナジー学会ではいつも度肝を抜く発表をされるが、今回の依頼は「随想」欄なので、なんでもいいんですよ、と伝えると、「じゃぁ、仏教について今研究しているので、それについて書きましょうか」だって。えっ、仏教ですか。この前までは、精神分析をご 研究だったのに。ラカンが羅漢さんになったということ?!。

以前書いたことだけれど、先生とは80年代の初めに、一緒にバリ島に行った。スタジオ200で開催された「バリ島の生態学」というシンポジウムにパネリストとして参加してもらいたくて、現地視察をお願いしたのである。当時まだ日立中研の主任研究員であった先生は植物工場の研究と平行してシナジーについて研究されていた。レーザー光が研究テーマであった先生は、レーザーが非平衡状態の開放系であることに注目し、ハーケンやプリゴジーヌの「非平衡状態における秩序形成」の問題と共振することになったのだ。

そして、ぼくは、そのシナージェティックスという概念が、バリ島の特異な精神文化の解明に使えるのではないかと思い、高辻先生にその仮説を話したところ、ものすごく興味をもってくれて、シンポジウムの参加を快諾しただけでなく、ぼくと一緒にバリ島まで付き合うことになったのである。

先生は、とにかく好奇心旺盛だ。そのあと、シナジーが人間の恋愛の究明に使えるとわかると「愛」の問題に入っていき、それがまた「こころ」の問題と密接にかかわるものだとわかって、今度は精神分析に知的触手を伸ばしていった。そして、ついに仏教だ。もちろんその間にも、ヘーゲルやベルクソン、株や金融工学をやり、もちろん専門分野の植物工場は、市場規模数兆円といわれるビッグビジネスへ育てあげた。

ともあれ、ますますお元気な高辻先生、おそらく仏教がエンドポイントとはならないだろう。きっとまた新しい分野へアプローチしていくに違いない。なにぶん先生の家は、ぼくんちのそばなんで、そのあたりのことを、今度聞きにいってみよう 。

 

 

薬は使っていないけれど、これってドーピングでないの?

鷺沼の21世紀スポーツ文化研究所へ。稲垣正浩先生が日体大を退官されたのを機に立ち上げられた研究所だ。すでに、今福龍太さん西谷修さんが来訪されたとのこと。
「大相撲はオリンピック競技になれるか」というテーマでご寄稿をお願いするための訪問。いろいろ面白い話をいっぱい聞いた。S社の水着は、身体を改造している。からだを鍛え上げたトップアスリートなら水着の締め付けを跳ね返すだけの筋力があるから大丈夫だが、成長期にある中高生が使用した場合、事故が起こる可能性があるという。心臓をやられるというのだ。S社の水着は、簡単にいうと、身体を針金のようにさせて、水の抵抗をなくそうというもの。血管を締め付けると、筋力がないとダメージを受けることになる。オリンピックはいいとして、インターハイは着用を認めるのか。これは、一種のドーピングではないか。
今、陸上の幅飛びで、ある身障者のアスリートが注目されている。というのは、義足の技術が進化して、健常者の記録を抜いて世界記録がでるかもしれないから。また、まことしやかに、両足に超高性能義足を付けると健常者より早く走れそうなので、両足を切断してその義足をつけることで世界一を目指している人があらわれたらしいという話。嘘のようなことが、今、どんどん起こっているのだという。
相撲の幕内力士のじつに3分の1は、日本人以外。すでに、大相撲は、日本のどのスポーツより国際化が進んでいるという事実。力士は男芸者と呼ばれているように、相撲は芸に近い。八百長も芸のうち。八百長を八百長とわからないようにやるのが、力士というプロの芸なのではないかと。おっしゃるとおり。まったく、いつもながら稲垣先生はラディカルだ。もう大学という看板をしょわなくていいのでガンガンやるといってらしたが、学校にいた時から十分過激でしたよ、先生は。だからこそこうしてまた原稿を依頼しているわけだ。稲垣先生とは、長く付き合えそうな気がする。この原稿が掲載されるのは、北京オリンピックが終わった頃。楽しみにしていてください。

なんでもいいと言われても…

『TASC monthly』の原稿依頼をいくつか同時にしていますが、ようやく随想に予定している団まりなさんとご連絡がとれました。二つ返事でオーケー。「でも、なんでもいいと言われても、困るわね」と。そうなんですよ、随想のテーマ、あえて言えば自由。でも、今どきこういうなんでもいいという原稿、ある意味とっても貴重だと思います。これを余裕というのでしょう。たばこが本来もっていたものは、この自由なのですから。「なんでもいい」からいいのですね。

香山リカさんが懸念するのは科学への間違った期待だ。

TASC主催で香山リカさんの講演と交流会。テーマは「こころの不安と健康幻想」。欠如から過剰へ。外敵から内敵へ。見えるものから見えないものへ。「悪いところを治す」から「よいものをよりよくする方向」へ、現代の病が根本から変化していることに注目する。科学的思考とは、まだわからないことがあることを明らかにするところにあるのに、市民は逆にシロクロをはっきりさせてくれるのが科学だと思いこんでいる。科学的な真理をいくら並べ立てても市民は納得してくれない。市民が期待しているのは、それがシロなのかクロなのか、である。そうした市民のニーズに応えようとすればするほど、科学者はうそつきにならざるをえない。そして、前世を語る人のことばに反応し、民間医療に期待をかける。こうした図式が、ニセ科学というものを生み、また、市民はそれに騙されたがっているのだ。現代のこの状況は、まだまだ続くことなのか、あるいは、もっと別のものに変わっていくのか。香山さんの意見はいかに。望ましい方向にいくのではないことだけは確かなようだ。臨床経験をもとに現状を分析する香山さんの話は、説得力があって示唆に富むものだった。

聴覚と脳のしくみの不思議摩訶摩訶な面白話。

公開対談最終日は、柏野牧夫さんと池谷裕二さんの対話。
柏野さんが、まずデモを中心としたプレゼンを行う。というか、最後まで、PPの映像を出しっぱなしにして、池谷氏が質問やコメントすると、それに相応しい画像を「これですね」と柏野さんがすぐに出すというしくみ。みごとなかけあいだった。柏野さんが問題を出して、オーディエンスに答えてもらうという実験もやった。「え〜?!」となるような意外な結果が出て、一同びっくり。そんな感じで演者、聴衆、一体となって議論は進んでいった。
ゆらぎの重要性、安定/不安のパラドクス、耳の解剖学的構造、知覚の研究、バナー効果、運動系とのつながり、声の問題、タイミングとズレ、音痴とは何か、新奇性と親近性、魅力度=新奇性×分解能、予測と報償系回路の関係、自発活動と知覚の遷移の問題…などなど。2時間20分がまたたくまに過ぎていった。このままやっていたら、永遠に終わらないのではないかと思えるような熱心な対話。あまりに面白かったので、逆に活字にするのは難しいかも。なんて、言ったら怒られそうですね。でもあえて言わせてください。今回のは、ライブだからこそ面白さ100倍でした。

ニセ科学とスピリチュアル、そして不都合な真実

物理学者の菊池誠さんと香山リカさんの対談集『信じぬものは救われる』(かもがわ出版)を贈呈していただきました。

いわゆるニセ科学問題について言及している菊池さん。また、スピリチュアルにハマる人の心理を解剖する香山さん。科学を装ったインチキに、現代人はなぜかくもコロっとだまされてしまうのか、徹底的に話し合った一冊です。

今、ちまたで評判の「シロクロはっきりさせてよ主義」「なんでも検定主義」「あなたの前世は主義」…、じつはみんな根は同じだったんですね。本書を読ませていただいて、それを確信しました。

菊池「ニセ科学を信じるのと、江原さんのことを信じるのとは、だいたい同じ(…)。要するに欲しいのは説明(…)」「〈イオン〉という言葉が好きな人と、〈オーラ〉という言葉の好きな人がいる。だけど、本質的にはそんなにちがわないんじゃないかと思っています」

香山「いわゆる脳を鍛えるトレーニングも同じ仲間に入れてほしい」

菊池「ニセ科学が流行するのは、実は科学の問題じゃなくて、もっと広く、二分法的な思考の単純化という世間の風潮があって、そのなかの一つの現象」

香山「効きさえすれば、べつにそれが本当なのかとか、そうじゃないのかとか、そのへんはあまり問わない」「典型的なスプリッティングという原始的防衛なんです」

菊池「温暖化の問題でも、倖田來未ちゃんみたいに『水からの伝言』を信じているお嬢さんが出てきたりして、つながってはいるんです。おそらく彼女にとって、地球温暖化防止はニューエイジ的なセンスなんですね」

香山「温暖化防止は(…)科学的な視点にたったものだけど、それとまたニセ科学的なものがつながっている」

菊池「マーケティングレベルでは(…)、ニセ科学やスピリチュアルにまったく勝てないですよ」「マーケティングを考えなくてはいけないと」

「水からの伝言」→「脳内革命」→「スピリチュアル」→「納豆ダイエット」→「マイナスイオン」→「コエンザイムQ10」→「代替医療」→「地球温暖化」へと緩やかにつながるニューエイジ的なものが確かにありますね。これはいったいなんなんだろうかと思っていたんですが、どうも裏には、マーケティングというものがありそうです。じゃぁ、いったい誰がやってるのか。どうやら、本当の問題はそのへんにありそうです。「不都合な真実」という名のニセ科学!!

信じぬ者は救われる

「新日本風景論」の奇才による林業エンサイペティアついに登場

細密画の鶴岡政明さんからご著書『イラスト図解 造林・育林・保護』『イラスト図解 林業機械・道具と安全衛生』を贈呈いただきました。鶴岡さんには、80、90年代と『談』の表紙を担当していただいた。「新日本風景論」と題したその企画は、志賀重昴の向こうを張って、あくまでも地理学的視点で日本の風景に迫ろうとしたもの。ぼくの中で「風土」というのがテーマになっていて、自然科学と民俗誌を一体化させたようなものをやりたくて彼にお願いしたのでした。最後の数回は、鶴岡さんに細密だけでなくテキストもお願いして、それはそれはいい企画だったのですよ。個人的には「浜岡の砂丘」「奥入瀬渓谷」「屋久杉」あたりがベスト3と思っていますが、砂、霧、瀑布が大気と一体化した環境世界を見事に描き切っています。地形、気候、生活を構成する風景=風土を細密で描かせたら、たぶんこの人の右に出るものはいないと思います。
その鶴岡さんが手がけた林業大全ともいえるものがついに登場。「森林土壌」、「枝打ち」といった直球ものにまじって、「チェンソー」、「ワイヤーロープの種類」、「ヤマビル」対策といった項目もあって、まさに林業のエンサイクロペディアになってます。細密画は言うまでもありませんが、テキストがいい。鶴岡さんて、じつは昔からちょっぴりヘンなところがある人でしたが、そのちょっぴりの部分がトッピングになっていて、うんとこさオモロイものにものになっている感じ。もちろん、ぼくのように林業のリの字も知らない人間でも面白く読めますよ。そういえば、細密画にもこのちょっぴりヘンが、けっこう隠し味になっているのかも。
イラスト図解 造林・育林・保護
イラスト図解 林業機械・道具と安全衛生

人文系のこだわりは、そうでない人には無駄なものに無意味に見えるのかも。

16時より会議。再来週に控えている研究会の打ち合わせ。研究会もいよいよ今度で最後。報告書に向けての最後のディスカッションだ。廣中先生がつくる報告書の構成についてのプレゼンテーション。分析のための切り口を披露される。これがとても面白い。人文系の立場から見るとちょっとあり得ない視点。その新鮮さに驚く。ただ、欲を言うと、人文系の立場では何かもう一つ足りない気がする。それで、3つの切り口に、もう一つ加えてみてはと提案。ところが、それに皆さん引っ掛かってしまった。廣中先生もサポーターの工藤君も、ともに理解してくれたのに。それで、30分あまり議論。この日は、急いで帰宅してやらなければならないことがあったのに、墓穴を掘ってしまった。まぁ、まったく無意味な提案ではなかったので(と自分では思っているけれど)、本ちゃんでちゃんと議論すれば、結果的にいい報告書が書けるはずですから、お許しいただきたい。

ゴジラ・モスラから原水爆のイメージを解読する

筑波大学大学院人文社会科学研究科教授・好井裕明さんから新刊『ゴジラ・モスラ・原水爆 特撮映画の社会学』(せりか書房)を贈呈していただきました。好井さんは「人びとの社会学」の立場から、差別や排除問題を研究されておられます。「人びとの社会学」とは、「人びとの日常に埋め込まれ、痕跡をとどめないほどにまで溶け込んでいる"ものの見方や感じ方"、その影響のありようや影響の"根拠"を探り出そうという営み」ですが、好井さんがとくにこだわって考察されておられるのが映画体験です。
本書は、いわば映画体験の社会学という視点から氏が子供の頃から親しんできた「怪獣映画」を読み解こうというもの。「怪獣映画」は、子供にとっては娯楽映画の花形。氏(1956年生まれ)と同世代の筆者も怪獣にどっぷり浸かったくちですが、ここで取り上げているのは、その怪獣映画に色濃く影を落としている原水爆のイメージです。特撮怪獣映画そのものが核のイメージによって成立している。ところが、怪獣映画にとって重要な要素であった原水爆のイメージが、最近作ではみごとに払拭されている。それはどういうことなのか。そこにどのような力が働いているのか。
原水爆のイメージが、日常生活を通してどのように浸透していき、またそれが今日どのようなかたちで変容、終焉していったか、映画体験を通して例証しようというのが本書の試みです。「怪獣映画」「特撮映画」が純粋に好きな人には、ここでの読解が偏って見えるのでは、と著者は心配しているけれども、そんなことはないですよ。だって怪獣というもの自体がそもそも偏奇なものの代表のような存在ですし、その意味ではそのバックグラウンドを知ることなしに、「怪獣映画」を楽しむということ自体筆者(おそらく怪獣ファンのかなりの人も)には考えられないことなのですから。
「映画の社会学」だけでなく、メディアリテラシー、あるいは生-権力の言説研究に関心のある人にも読んでいただきたい一書です。
ゴジラ・モスラ・原水爆?特撮映画の社会学

犬と交信できる人

犬と交信できる人がいるらしい。そのお方が来日すると、毎回たくさんの人が愛犬をつれて、そのお方からありがたいお話を賜るのだそうだ。性格がよくて家族とも仲良くやっているように見えるけれども、じつは家族をバカにしていて、自分が天下さまだと思っている犬、一見臆病で会う人誰にも吠えるが、じつは本人は、何も考えていなくて、ただ条件反射的に反応しているだけのおとぼけ君、とか瞬時にその犬の性格を見抜くのだそうだ。中には、一目見ただけで、この犬は心を病んでいる、飼い主とは心の触れ合いができない、即刻お互い離れた方がいいといわれてしまった人もいるとか。飼い主にはうれしい言葉ばかりではなく、こんな青天の霹靂的お言葉に、かえって不快な思いをすることもあるのだそうだが、相談料は一律1万5千円。「○○ちゃんは、いつもなに考えてるのかしらねぇ」と気軽な気持ちで相談したら、即刻、飼い主をバカにしているとか、早く別れなさいとか言われたのでは、なんのために相談したのかわからない。このお方は、その犬の前世までわかるらしく、飼い主が百姓で、愛犬はその地主だと言われた人もいたとか。ニセ心理学者が横行するなかで、犬の心をもてあそぶ(いや飼い主の心をもてあそぶか)こうしたニセ・ドッグ・セラピストにはご用心、ご用心。

立ち位置の違いは決定的ではない。

昨日、今日と二日間にわたる合宿に参加した。レギュラーの研究者の方々とゲストをお迎えしてのディスカッション、非常に中身の濃い議論ができた。今回のゲストは、池田清彦先生と河本英夫先生。池田先生は、構造主義生物学(科学論)からのアプローチ、河本先生は、オートポイエーシスからのアプローチ。一見両者は無関係に見えるけれども、ぼくには、立ち位置が違うだけでじつはお互い非常に近い間柄にあると見ている。もっとも、この立ち位置の違いこそが、ある意味では両者を決定的に別のものにしているとはいえるのだけれど。つまり、外部から、神の目でその事態を見るか、逆に内部から、いわば運動する等のものそのものになってみるか、という違い。立ち位置の違いこそ決定的じゃないか、といわれればそれまでだが、決定論か非決定論か、離散的世界か自己同一的世界かという二項対立の、それ自体を無効とする立場を貫いている、という意味で両者には強い親和性がある、と思うのだ。会議終了後、酒を飲みつつお二人の先生にじっくりと伺ってみたが、この考えに間違いはなさそうだという確信(といえるほどでもないが)を得た。ぼくにとっては、とても有意義な二日間だった。

人間とクジラとのあるべき関係とは。

作家・翻訳家の星川淳さんから『日本はなぜ世界で一番クジラを殺すのか』(幻冬舎新書)を贈呈していただきました。星川淳さんには、『談』no.44「カウンターカルチャーの進化論」で、当時お住まいの屋久島でインタビューをさせていただき、また、no48「混合主体のエチカを求めて」(シンポジウムの記録)では、パネリストとして参加していただきました。
星川さんは、2005年よりグリーンピース・ジャパンの事務局長をやられています。本書は、そのお立場から、あらためて捕鯨問題の本質を問い直そうという意欲作です。その複雑な関係から見えてくるゆがんだ構図、グリーンピースの反捕鯨運動自体にもまなざしを向け、人間とクジラとのあるべき関係を再構築し直そうとします。捕鯨というものがどういう意味をもっているのか、エコロジー運動の文脈のなかから考察しようという態度には、思想の違いを超えて共感するところが多くありました。
日本はなぜ世界で一番クジラを殺すのか

モルフォロジー科学の可能性とウォディントンの閃き。

機能から形態へ。モルフォロジー科学を復活させる意味はどこにあるのか。ぼくの仮説はこうだ。たとえばクルマは、止まる機械という見方がある。確かに、走り出したら止まらないでは困るのであって、走ることを目的にしながらも、止まることができなければクルマとはいえない。クルマは制御の機械である。しかし、これは半分しか正しくない。クルマは当然のことながら、走る機能を特化させて機械でもあるからだ。見方が違うのである。機能から見る限り、こうした混乱は常に起こりうることである。現に走っているただ中で止まることはできないし、またその逆もない。それは、機能から見ているからだ。
形から見てみよう。走っているクルマを写真に撮るとする。写真という静止画のなかでは、クルマは止まっている。静止画像のクオリティを上げていけば、ますますそれは確かなものになるだろう。静止画のなかのクルマは、走っている=動いているのか止まっているのか、厳密には判別できない。おなじことは、たとえばサッカーのフェイント。ロナウジーニョの足下にボールがきたという場面を写真に撮った。彼は、トラップをし、次の動きを始めようとしているかのように見える。ところが、実際は、その一瞬後、彼はダイレクトで見方にパスを出したのである。切り取られた写真を見る限り、トラップをしているようにしか見えない。機能から推論するから、ロナウジーニョはフェイントの魔術師になる。
形から考える意味は、まさにここにあるのだ。形とは、この場合の静止画を意味している。形は、時間を凍結した姿として現象する。常に、そこには動こうとする方向と止まろうとする方向が共在している。同時に全く正反対のベクトルが内在しているのだ。クルマは形のなかでは、動くことと止まることが同時に起こっている。ロナウジーニョの身体は、トラップしようとすることとキックしようとすることが判別できない形で同時に起こっているのである。形から発想する意味がここにある。同時に起こることは、機能の論理構造では「矛盾」となる。形には、機能が凍結している。もとより、それはそう見えるにすぎない。じつは、あらゆる動き、方向、運動を同時に内在し、にもかかわらず止まっているのが形というものの本性なのだ。分岐しつつある今が、形というものの正体である。
モルフォロジー科学の可能性がここにある。それは、河本英夫氏の言う二重作動であり、ヴィゴツキーの言う発達の最近接領域であり、またマッテ・ブランコの言う二重論理である。ウォディントンは、それを科学の言葉で言い直した。「エピジェネティック・ランドスケープ」がそれである。

工学は理系では左翼、しかし、文系では右翼。

文理シナジー学会に所属していたこともあって、日頃から文系、理系の間に横たわる深くて暗い川(野坂昭如?)の存在が悩ましく感じられていた。ほんとに文理の融合、文理の総合なんてできるのかと問うことは重要だけれど、その埋めがたい溝がではどうして生まれたか、ぼくにはむしろそっちの方に関心があったのだ。昨夜アーティストの木本圭子さんと話していた時に、ふとこんな仮説が浮かんだ。両者を分かつのは、じつはその見方そのものにあるのではないかということ。どちらの立場から見ているのか、ということ自体が、両者を分けてるいるのではないか。以下がそのアイデア。『談』no.73で広井良典さんがアメリカでは、保守主義が右でリベラルが左、ところが欧州では、リベラルは右で左にあるのは社会民主主義。つまり、社会民主主義ーリベラリズムー保守主義という図式になっていて、この図式が正しく理解されていないと大変な誤解が生じるというものだった。これはそのまま、科学、工学、人文科学の区分けにいかせるのではないかと思ったのだ。つまり、理系では、最も人間の営みから遠くにあるのが科学。さしあたって数学がその権化だろうが、図式で言うと理系の世界の最右翼に位置する。その逆に、人間の生活、生き方に最も近いのは工学。端的に人間、社会に役に立つ、利用可能なのが工学である。工学とは、その意味でまさに応用科学である。したがって、理系の世界では、最左翼に位置付けられる。一方、文系ではどうか。じつは、人間の活動、生活を表象のレベルでみる限り、最も遊離しているのが工学である。まさにそれは機械が活動する領域であって人間が入る余地がない。だからこそ、逆に工学ではヒューマンスケールということが声高にいわれたりもするわけである。つまり、文系の世界では、工学は最も右に位置付けられる。反対の極にあるものはなにか。人文科学である。人間の営み、生活、生き方に最も接近している領域こそ人文科学である。哲学、社会学、精神分析とかがその代表である。

下のような図式になっているのではないか。

理系の世界 工学(engineering) 左←[人間、社会]→右 科学(science)

文系の世界 人文科学(liberal arts) 左←[人間、社会]→右 工学(engineering)

この図式は、理系からみた場合の工学の位置づけ、文系からみた場合の工学の位置づけを表している。さて、どうだろうか。 『談』の最新号のeditor's noteにも記したように、岡田節人さんが、生命科学は、再び生物学に回帰するべきだという言葉をもう一度噛みしめてみたい。理系の世界に棲む人々にとって生命とは物質そのものであり、工学的な操作可能なモノなのだ。ところが、文系に棲む人々は、生命とはスピリチュアリティであって、工学を寄せ付けない「いのち」あるものとして理解している。だからこそ、理系では、その生命に「いのち」あるものを再発見して、再び生物学へと回帰しようとしているのてはないか。だとしたら、文系の人々は、「いのち」をどう捉えているのか。ひょっとすると、理系とはまったく反対の方向に向かいつつあるのではないか。この問題は、少し立ち入って考えてみたいと思っている。

快感サーキットの逆回転てありますか?

某企業の会議で、廣中直行さん、篠原菊紀さん、山下柚実さんらと同席。このお三方、じつは4年前のEIフォーラムとその発展系であった研究会のメンバー。これから、しばらく定期的に合うことになるわけで、今から楽しみ。今回は、その準備会。終了後の懇親会でのこと。篠原さんに、パチスロに盛んにアニメやテレビネタが使われているのはなぜと尋ねると、「それぼくよ」と。やはりというか、パチスロ業界のアドバイザー篠原さん自らが仕掛けたらしい。『さよなら絶望先生』のネタでは、最近の若いもんは、「アタックno.1」も「北斗の拳」も「幻魔大戦」も出会いはまずパチスロ。その後アニメやコミックに行くらしい。ベクトルが逆向きというか回帰現象(!?)。そのうち、パチスロでまずリリース。それから実写になってアニメやってコミックになって、なんてことがどんどん起こってくるかも。それをまた篠原さんがNRSで…。同じように、脳内報酬系のサーキットも逆回転しだしたらとても面白いことになりますね。ていうか、これが廣中先生の言うcravingかしらん。

ニューロンは意志を経由しないでチョキを出させた?!

池谷祐二さんに言わせると、ニューロンの活動の方が意識より早いという。そのため、自由意思などないという見方をする神経生理学者がいるという。意識する以前に、脳の方が活動してある行動を起こしている。そんなことがあるのだろうかと思っていたら、確かにそれを実感できる時があることに気がついた。じゃんけんの場面だ。たとえば、じゃんけんぽん! で、ぼくがチョキを出したとする。他のひとは全員パーを出したのでぼくの勝ち。わっ勝ったぞと一瞬喜ぶけれど、それはぼくが熟慮したうえで決定したわけではない。気がついた時には、チョキを出していたのだから。そして、出し終わった時には、じゃんけんというのは、もう自分の意志で決定したような気になっている。これがホントだとすると、これまで直感と思われていたことも、ほとんどはニューロンの活動の結果なのかもしれない。シナプスが発火し、手がチョキを出す、そして最後にチョキを出すぞと閃く。脳→行動→意識のタイムラグ。人間にはまったく異なる3つの時間が流れている。しかも、意識が一番遅れてくるという事実!!

木本さんのメディア芸術祭大賞受賞のお祝い会

木本圭子さんのメディア芸術祭大賞受賞のお祝い会に出席しました。工作舎の石原剛一郎さんが幹事をかって出てくれて、木本さんの縄張りであり工作舎の縄張りでもある勝ちどきの居酒屋「やまに」に集合。グラフィックデザイナーの勝井三雄さん、オートポイエーシスの河本英夫さん、多摩美術大学教授の永原泰史さん、武蔵野美術大学教授の寺山祐策さん、東京都写真美術館キュレーターの森山朋絵さん、写真家の伊奈英次さんらの他に、合原複雑系数理モデルプロジェクトの方が数人参加、さながら文理融合のコロッキウムという感じの、じつに面白い集まりになりました。木本さんは「友だちいないし」と口癖のようにいってますが、どうしてどうしてこんなにすごい人たちが、わっと集まってくるのですがたいしたもんです。それにしても、この受賞、今後の彼女の仕事をさらに飛躍させていくきっかけになるような気がします。もっともっと応援しないといけないな、と自らに言い聞かせたのでありました。余興のじゃんけん大会で、写真美術館の展覧会図録『超ヴィジュアル』のフランス語版をゲット。森山さんありがとうございました。

カオスバッタから、数理の花園へ、駒場の倉庫の密かな愉しみ。

早稲田大学理工学術院教授で同大学都市・地域研究所所長・佐藤滋さんのインタビュー。卒業制作の時期なので、エレベーターを出ると、床につくりかけの作品(模型)がたくさん置かれている。足の踏み場もない状態。佐藤先生には、「ジェイコブスの宿題」で、具体的なまちづくりに引き寄せてお話しいただいた。風土や地理的な環境を活かしたかたちで発展してきた日本の町は、ジェイコブスの暮らしたアメリカや都市の理想としたヨーロッパのそれとは大きく異なる。また、すでにそれぞれの町には地元に根をはやして活動する多種多様なまちのプレーヤーが育っている。ジェイコブスが批判した60年代のアメリカとは、社会的な基盤も違っている。日本的な自然環境を活かした、日本独自のまちづくりをよりいっそう進めていくのがよいという結論。今日はカメラマンに徹していたので、細かい議論は聞き逃してしまったが、たぶんこんな話だったと思う。西武線沿線はなじみがないが、沼袋の他に、新井薬師、野方、都立家政、鷺宮の立体化にあわせて、それぞれの地域でまちづくりが進行している。なかでも、沼袋はがんばっているらしい。
午後は、『談』のデザイナーの河合くんと待ち合わせて東大駒場の生産技術研究所へ。ERATOのオープンラボで、ERATO合原複雑数理モデルプロジェクト技術員・木本圭子さんを訪ねる。倉庫みたいでしょ、と案内されたラボは、なんのなんのステキな工房だ。文化庁第10回メディア芸術祭アート部門大賞(最高賞)になった受賞作品のデモを30インチのモニターで見せていただく。いろいろ話を聞いていたら、じつは最近こんなのつくっちゃったのよ、と奥からもってきたのがなんと立体作品。これが面白い。数理と式の深い森を抜けると、花々が咲き乱れる広い庭に出たという感じ。彼女は、いよいよアートの世界に着地した。しかも今度はカラー。種を明せば、やはりこれも数理が生み出した花園。ますます加速度が上がっている。これを素材にした作品を提供してもらうことで合意。77号の『談』は、いつにもまして、表紙と中のヴィジュアルが強力だ。乞うご期待。

30億年生き続けて思うこととは……。

物理学者・橋本淳一郎さんは、ベルクソンの『創造的進化』について、こんなことを記している。
「生命は、進化こそ自然選択にまかせるものの、個体としては創造的に行動する。その秘密は何か。それは、ひとえに30億年を越える時の重みである。科学では、一億年という歳月をこともなげに扱うが、一億年を実際に経験することは、神の恩寵などを超える何かであるはずである。この長い歳月の間に、奇跡が起こったと考えてもよいであろう」。
30億年、いや1億年ですら生き続けている生命はいない。確かにそうだ。なのに、それを考えてしまえる自分が現にここにいる。これは凄いことである。われわれは、そのことをまだ十分把握しきれていない。人間の認識能力の計り知れなさに、われわれはもっと驚くべきである。
と同時に、こんなことも想像してしまった。仮に30億年生き続けていれば、奇跡としか思えないことを何度も経験するのではなかろうか、と。ヒトの一生はたかだか80年。脱皮した蝉は、夏しか知らない。蝉の生涯は約170時間。われわれらからみれば、なんと短い人生(蝉生?)だろうかと思う。しかし、かくいうわれわれだって、30億年生きる生き物から見れば、一瞬(佛教でいう刹那)だ。じっさい、縄文杉にとって屋久島の人々の出現は、その一生(杉生?)にほんのちょっぴりかかわるささいな事件程度でしかないだろう。今後奇跡としか思えないことが起こっても、なんら不思議ではない。
距離と時間が物理学者にとっては基本概念である。速度はそこから導かれる派生的量としか見なされてこなかった。生命の視点に立つと、この物理学の常識は覆される。速度が全てに優先するからだ。速度がまず基点に置かれ、距離や時間は派生的なものと見なされる。
生命論とは、この速度=運動から世界を見返すことではないか。そこに、生命を思考することの真の意味があるように思える。30億年を想像できること、われわれはそのことにもっと震撼すべきなのだ。

ソラミミストは、○○な細胞をこんな風に聞きました

金子邦彦さんのインタビュー原稿がチェックからもどってきたので、読み直してみると、あららら、えっらい勘違いをしておりました! 「優れた生物学者は時に独特の言い回しをする」という文脈で、「活発な細胞を〈生き甲斐細胞〉と呼ぶんだよ」、とおっしゃったのです。確かにユニークな表現、面白いので原稿にいれたのですが、これがとんだ間違い。「生き甲斐」ではなくて「活きがいい細胞」でした。インタビュー時のメモを読み返したら、やはり生き甲斐と書いてあります。空耳アワーじゃないんだから気をつけなければね。と思いつつも、ふと、「生き甲斐細胞」というのも悪くないかも、と。優れた生物学者が○さんのことだとしたら、「生き甲斐」も使いそうな気がしたものですから。もちろん、これはぼくの勝手な感想。

あのフェラディーだって疑似科学にコロリといくこともあるというお話

たった1本のろうそくから、その製法、燃焼、生成物質を語ることによって、サイエンスすることの面白さを教えてくれた『ろうそくの科学』。フェラディーのこの本を読んだ人は多いでしょう。ぼくは、ちょっと遅れて高校生の時に読みました。そのファラデーさん、じつはこんなことを書いていたのです。「いたるところでロンドンの大気を脅かしているものに、アンモニアと呼ばれる物質があります。この物質は、幾人かの工場主によって多く生産されているものですが、硫黄を含む蒸気やからだから発するミアスムと一緒になると、絵画を損ねてしまうことになりかねないでしょう。(…)絵画をたやすく傷めてしまうほどに、大気は、群衆のミアスムと蒸気で飽和しているのです」と。「ミアスム(瘴気)」とは、汗や唾液などのアンモニア性の発散物を通じて群衆の身体から発生する一種の臭気のこと。それが美術館では絵画に悪影響を及ぼすというのです。18世紀のロンドンのナショナル・ギャラリーに、労働者や黒人、娼婦たちが大挙して訪れた時に、それを見て語った一言です。どんなに優れた科学者でも、時代が時代なら、疑似科学に騙されることもあるという教訓です。もうすぐ書き終わるインタビュー原稿で、インタビューイーが著わしている本に出ていたちょっと気になる話。

急がば回れ、というがホントにそういくか。

金子さんの原稿をつくるために、『生命とは何か』、「生命誌」no.40の中村桂子さんとの対談をあらためて読み直す。金子さんと共同研究をする阪大の四方さんの研究室のHPなどもリサーチ。それで、ホントは原稿を書き始めるはずだったが、資料のチェックで終わってしまった。しかし、時間をかけてでも関連資料は丹念に目を通しておいた方がいい。結果的にそうした方が早く終わるのだから。急がば回れ。

科学の再現性と統計学のあやしい関係

田井中さんから送られてきた池谷さんの原稿を再度チェック。テープ起こしと照合する。それをやっていたら、お三時もすぎてしまった。加筆したりして終了したのが18時。原稿の執筆どころではなくなってしまった。エルゴード性と非エルゴード性について、僕自身きちんと理解していないことが判明。科学の再現性と統計学の関係なんて、テーマとしては抜群におもしろそうだけど、肝心の素養がない。今から勉強し直すとしても、語学以上に至難の業だ。

同緯度の標高数値を元にしたアーティフィシャル・ランドスケープ

事務所へいく前に千代田線で北千住まで行く。東京芸術大学音楽学部アートリエゾンセンターで開催されているインゴ・ギュンター「TOPOLOGY DRIVE 理性、信仰、政治を超える地平」を見る。長年続けているプロジェクト「ワードプロセーサー」の他に、タイトルにもなっている「トポロジー・ドライブ」が圧巻。大教室いっぱいを使って「日米の北端から南端まで、同緯度の標高数値を元にして風景画のように表現した、映像とオブジェのインスタレーション」。しかし、今一、いや今三つぐらいピンときませんでした。展覧会に合わせてつくられた80mm×760mmの細長い「凹凸のある地平線」のリーフレットはかっこよかったけれど。

心身を拡張する「トランスヒューマン」な時代がもうそこまで来ている

インターシフトの宮野尾さんからラメズ・ナム著『超人類へ バイオとサイボーグ技術がひらく衝撃の近未来社会』を贈呈していただいた。
本書は、書名が示すとおり、遺伝子工学・脳科学・神経工学の進展によって、われわれの心身がどのように拡張されていくのかを実際の成果をもとに紹介した衝撃のレポートだ。その内容は、度肝を抜くものばかり。たとえば、米国防総省DARPAが試みる脳へテレパシーのように思い(イメージ・音声・触感など)を伝える技術。記憶力を数倍にする脳内CREBを増やす薬の開発。遺伝子操作により寿命を200歳まで延ばす可能性のある実験。肌の色をファッションのように一時的に変える技術。脳内にダイレクトに映像を投射する脳内シアター。などなど。以前、NHKスペシャル「立花隆が探るサイボーグの衝撃」をこのブログで紹介した。DARPAで進められていた技術が中心だったが、本書によればそれはほんの一部にすぎない。われわれのこころやからだ全体が、根本から変革されようとしているのだ。そうした潮流は、「トランスヒューマニズム(超人間主義)という考えを誕生させ、すでに「トランスヒューマニスト協会」という団体さえ生まれ、活発に活動をしているという。
人間の能力を拡張していく、その倫理的な是非はともかくとして、現実に今起こっている現状を冷静に見つめ、こうした動向を見きわめることはぜひとも必要なことだ。本書は、そのための格好の資料だといえる。
著者は、マイクロソフトのInternet Explorer とOutlookの開発者のひとりで、バイオやナノテクノロジーなどの先端技術についても造詣が深く、みずからナノテク企業を起こしCEOを務めている。
超人類へ! バイオとサイボーグ技術がひらく衝撃の近未来社会


脳の出力依存性が「情動」だといまさら理解できても遅いのだ。

editor's noteの準備で資料を読み直す。「情動機能」をなぜ今とりあげるのか。その動機を明らかにするところから始めることにする。アントニオ・ダマシオの『感じる脳』と『生存する脳』、ジョセフ・ルドゥーの『エモーショナル・ブレイン』、ルック・チオンピの『基盤としての情動』、松本元、小野武年共編の『情と意の脳科学』を再読。ダマシオは思い切って書いているつもりなのだろうが、もともとぼくはアンチカルテジアン。数年前に読んだ時まるでぴんとこなかった。今更身体が大事だといわれてもそれで? という感じだったが、ソマティック・マーカー仮説が一種のシステム現象学だと思うとがぜん興味が湧いてきた。ダマシオは、古いものの方が断然面白い。それより、今回の収穫は「情と意」だ。以前ご一緒した研究会で松本元さんが出力依存性を強調していた意味が読み直してみてようやく理解できた。つまり、情動は出力で、その出力に脳は依存しているということ。シャクター流に情動体験と情動表出はラベルはりにすぎないと思い込んでいたために、表出が出力だというあたりまえのことに気づかなかったのだ。松本さんに「出力も入力もない系があるんですよ!」と食って掛かったところで、そもそもコンテキストが違っていたのである。天国で松本さんはきっと笑っておられるに違いない。いまさらながらおはずかしい話だ。
最近の記事
Monthly article
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:



『談』とは
 
●最新号

No.132
死者と霊性
 
●バックナンバー
No.93以前のバックナンバーにつきましては、アルシーヴ社(03- 5779-8356)に問い合わせください。

No.131
空と無

No.130
トライコトミー……二項対立を超えて

No.129
ドロモロジー…自動化の果てに

No.128
オートマティズム…自動のエチカ
 
 
●別冊

Shikohin world 酒

Shikohin world たばこ

Shikohin world コーヒー
 
『談』アーカイブス