撮影しながら自転車で3時間ちょっとかかった。たぶん、歩いて帰る場合は、この倍はかかるだろう。震災はいつくるかわからない。帰宅支援ルートを実際に歩いてみるのはいいことだ。もっともぼくは自転車だったけれど、それでも何が妨げになるか、何が必要になるか、少なくともそのイメージだけはつかめたのでよしとしよう。
社会
撮影しながら自転車で3時間ちょっとかかった。たぶん、歩いて帰る場合は、この倍はかかるだろう。震災はいつくるかわからない。帰宅支援ルートを実際に歩いてみるのはいいことだ。もっともぼくは自転車だったけれど、それでも何が妨げになるか、何が必要になるか、少なくともそのイメージだけはつかめたのでよしとしよう。
地図が好きという人は、ものの見方が少しばかり変わっているようだ。いや変わっている人が、気がつくと地図マニアになっているという方が正確かもしれない。地図の好きな人は、いつのまにか、自分で地図に書き込んでいる。というよりも、カキコが好きな人は、いつのまにか地図というメディアに行き着いてしまうという方が正確だろう。そして、地図の好きな人は、未だ謎だらけの過去という名の未来へと旅立つ。
地図の好きな人と時刻表の好きな人は重なっているようだ。地図を読むように、時刻表を読み、時刻表を見るように、地図を見る。泉さんが言うように、地図に興味のない人に限ってカーナビをつけると、カーナビに頼りっきりになる。こんな道あり得ないだろうというところでも、なんの疑問もなくカーナビのいう通りに走ろうとする。
IT化の進展もあって、国土地理院の2500分の1の地図の売上が激減しているらしい。日本は、何かに邁進すると雪崩れを打つように右に習えで進んでしまう。気がつくと、紙の地図が地上から消えてしまうかもしれない。100年後の日本人は、それまで豊富だった地図の資料が、2000年初頭に忽然と消えてしまうことに驚くに違いない。そうならないためにも、ぜひ紙媒体として地図を残してもらいたい。約2時間、楽しく教えてもらうことの多かった対談でした。『 city&life』no.85に掲載予定。
神谷町の虎ノ門パストラルへ。TASCの助成研究報告会。会場はほぼ満員。驚いた。トップバッターは藤原辰史さん。「再生産される〈生命空間〉」(『談』no.75所収)でインタビューさせていただいた京都大学人文科学研究所助教。助成研究のテーマは「台所のナチズム ナチスの食生活と〈無駄なくせ闘争〉」 。「ナチスのむき出しの女性蔑視、男性中心主義にもかからず、なぜ主婦は、戦争に動員されたのか。食生活の中心に位置する台所という場から問う」という斬新な研究。食の内実が均質化し、主婦の人間性剥奪されるかわりに、台所という場が、あたかも生命をもった有機体のようになる。ナチズムの本質にある自然志向が、今回の発表からいっそう明らかになった。「生-権力」の問題をしつこく追っかけてきた『談』としては、いいヒントをもらったように思った。これまで、研究発表会なるものにほとんど出席したことがなかったが、活発な議論が交わされていて、正直びっくりした。助成する限りは、厳しいジャッジは当たり前か。僕もがんばらなくては。JTとも関わりができたので、会場で挨拶する人が増えた。
中座して、中目黒へ。『談』のデザイナー河合君と待ち合わせて写真家の神山貞次郎さんの事務所へ。目黒側沿い。3Fに黒い猫ちゃん。さっそく写真をみせてもらう。最近上杉満代さんの舞台を撮ったんだけど見る?とおっしゃるので 拝見する。これまでの神山さんの写真とはちょっと違う感じ。しかし、これがいいのだ。河合君も閃いたらしく、3点すぐに決まった。これで、ヴィジュアルも揃ったし、あとはeditor's noteだけだ。で、明日がその企画会議。
『city&life』no.81特集「「安全・安心のまちづくり」を考える」で、これまで自明とされてきた「安全・安心」という言葉の背後に潜む排除・選別の志向を抉り出した鼎談のパネリストのおひとり生田武志さんが、トークセッションに出席されます。
JUNKU連続トークセッション@池袋
2007年8月2日(木)19時〜
『フリーターズフリー 1号』出版記念
(〔編集・発行〕有限責任事業組合フリーターズフリー 〔発売〕人文書院)
フリーターズフリーのつくりかた
―労働問題の新地平のために―
生田武志×大澤信亮×栗田隆子×杉田俊介
(有限責任事業組合フリーターズフリー)
5年の歳月をかけて構想し、共同出資の組合を立ち上げ、
今夏、満を持して創刊した、労働と生を考え抜くメディア「フリーターズフリー」。
私たちの生きづらさ、若年層労働問題の本質とは何か。
我々にはいま何ができ、何を言うべきか。
労働問題の新地平を拓くため、今後の活動構想も交えた注目の徹底討論!
フリーターズフリーのメンバー4人による初めてのトークイベントです。
☆ 会場…4階喫茶にて。入場料1,000円(ドリンクつき)定員40名
☆ 受付…1階 サービスカウンターにて。電話予約承ります。
ジュンク堂書店 池袋本店
TEL.5956-6111 FAX.5956-6100
パネラー紹介
★生田武志(いくた・たけし)/1964年生れ。大学在学中より野宿者支援活動を始めるとともに、1988年より日雇労働。2000年、キルケゴール論にて群像新人文学賞優秀賞受賞(評論部門)。著書に『〈野宿者襲撃〉論』(人文書院)。
★大澤信亮(おおさわ・のぶあき)/1976年、東京生れ。物書き・編集者。映画専門大学院大学助手。著作に『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』(大塚英志との共著)、「コンプレックス・パーソンズ」(「重力02」)、「マンガ・イデオロギー」(「comic新現実」)など。
★栗田隆子(くりた・りゅうこ)/1973年、東京生れ。『子どもたちが語る登校拒否』(世織書房)に経験者として寄稿。学生時はシモーヌ・ヴェイユについて研究。ミニコミ・評論紙等において不登校・フェミニズムについての論考を散発的に発表。現在、国立保健医療科学院非常勤職員として勤務。
★杉田俊介(すぎた・しゅんすけ)/1975年、神奈川生れ。介護労働者(本業)+ライター(副業)。著書に『フリーターにとって「自由」とは何か』(人文書院)。現在、労働+福祉+批評の第二著作を準備中。
人文書院編集部松岡隆浩さんより『TASC Monthly』2oo6年12月号に「健康と思考−「美味しさ」の非有機的な力」をご寄稿いただいた廣瀬純さんの講演会のお知らせをいただきましたので転載いたします。
廣瀬純講演会とシンポジウムin京都 7月22日
新自由主義の破綻:ラテンアメリカ社会運動の最前線
日時 2007年7月22日(日)午後1時から5時(予約不要、入場料カンパ制)
場所 ひとまち交流館京都(河原町五条下る)
講師 廣瀬純さん(龍谷大学専任講師)
廣瀬純さんの著書『闘争の最小回路』のポイントは、ラテンアメリカでの新自由主義の行き詰まりの帰結として、最近ブラジル、ベネズエラ、ボリビアなどで反米左派政権が誕生していますが、政権に指導者を送り出した社会運動は、必ずしも政権になにか期待している訳ではないという実情があるという点です。廣瀬さんは、この点について多面的な視点から、具体的に論じておられます。
日本の場合、新しい社会運動は、まだ社会的に認知され、広範な戦線を形成するというところまではいっていません。社会的経済や社会的企業といったEUの社会運動に学んで、労働組合と協同組合とその他の非営利事業体との緩やかな連携を作り出そうという試みが始まったばかりです。しかしEUでも根強い新自由主義への動きがある中で、いわば新自由主義の後始末として登場しているラテンアメリカの社会運動の現状を知ることは緊急の課題だと思います。ふるってご参加ください。参加費はカンパ制です。
進行
第一部 講演:廣瀬純さん 「ラテンアメリカ社会運動の最前線」
第二部 シンポジウム 「日本の運動との接点を探る」
パネリスト 廣瀬純さん、表三郎さん(ネットワーク情況・関西)、櫻田和也さん(NPO法人remo)、法橋聡さん・斉藤縣三さん(共生型経済推進フォーラム運営委員)
司会 境 毅さん(共生型経済推進フォーラム運営委員)
最近のラテンアメリカの社会運動について紹介した廣瀬純さんの著書『闘争の最小回路』(人文書院)は会場で発売しています。
主催:ネットワーク情況・関西 共催:共生型経済推進フォーラム
(連絡先)Eメール:sakatake2000@yahoo.co.jp 携帯:080-3139-7820(境)
協力団体:NPO法人remo、NPO法人ニュースタート事務局関西、人文書院、NPO法人日本スローワーク協会、NPO法人ワーカーズ・コレクティブ・サポートセンター
出席者は、玉川大学教授・岡本裕一朗さん、関西学院大学社会学部教授・阿部潔さん、国際大学グローバルコミュニケーションセンター研究員・鈴木謙介さん。今回のテーマそのものが、『空間管理社会─監視と自由のパラドックス』(新曜社)で出された幾つかの論点をもう一度議論していただくというのがねらい。なので、司会進行役をその本の編者のお一人である阿部潔さんにお願いした。
従来のような権力側による人々の監視・管理といった一元的な動きとは異なる、現在の監視社会の諸状況を「両義性」という切り口で捉えることはできないかという問題提起を受けて、「防犯カメラ」「個人情報の収集管理」「コミュニティパトロール」「メディアによるセレブリティの管理」「警察権力による国民の監視」など現実に起こっているさまざまな事象を拾い上げながら、密度の濃い議論が展開された。現代の管理を考える場合に、テクノロジーの変化が管理の内実を変容させている意識の変化とどうリンクしているのか、その点を把握することが一つ重要な鍵になると思われる。現代社会において誰が誰をなんのために管理しているのか、その大前提こそが問われなければならないのである。
今欠けているのは悪に対する想像力ではないか、祝祭空間のもつ意味をあらためて考える必要があるのではないか、秩序/反秩序という枠組みを越えるための脱秩序化という発想の重要性などが提起された。ちょうど、『談』の次号特集のキーワードが「祝祭」。特集を編集するに当たって、いい参考になった。
今回の鼎談は、『TASC monthly』(何号かは決まっていないが)に掲載予定。
「正しいこと」をそれぞれが全うしようとするがために暴動へと発展していく過程を軽妙に描いて絶賛されたスパイク・リー監督86年の作品『ドゥ・ザ・ライト・シング』。後にブルックリンで実際に起こるクラインハイツ暴動を予見させたということで、スパイク・リーは一躍、時の人になった。ぼくも、ビデオになってからすぐに借りて見て、衝撃を受けたことを覚えている。しかし、冨田晃さんの『祝祭と暴力』を読んで、少し見方が変わった。この映画は、あることを巧妙に避けているというのだ。「スパイク・リーは、ブルックリンの多様性を表現するために、「黒人」「イタリア人」「プエルトリコ人」「韓国人」「警察」とキャスティングしているが、各黒人が持つ文化的・歴史的背景の多様性や黒人内の集団間の対立の問題には触れ」ず、「ブルックリンの黒人の大半が、カリブ海地域生まれか、その二世であるにも関わらず、「黒人=アフリカ系アメリカ人」として描いた」というのである。80年代後半、真の黒人監督として評価を受けたスパイク・リー。だが、彼の考える黒人とは、抽象化され一元化された「黒人」であり、「黒人」であることの多様性を自ら否認してしまったのだ。米国史上最悪の人種暴動の一つ「クラインハイツ暴動」。それをどう解釈するか。ブルックリンの黒人居住地の真ん中にあるルバヴィッチ派ユダヤ人との宗教的な対立? 貧困からくる矛盾? ブラックパワーこそ正義? 同じ移民たち同士の共生の難しさ? いや、問題はそんなに単純ではない。ブラックアフリカンだけがブラックではないように、ユダヤ人にもさまざまな顔がある。ミックスジュースからサラダボールへ。そして、今は「モザイク」。だが、この「モザイク」という言葉に潜む陥穽をこそ問われなければならない。人種、国籍、国家、宗教……。いったい、その何が「モザイク」なのか。今問われるべきは、「モザイク」の意味そのものだ。
は、「オーガニック&エコロジーとライフスタイル」をメインテーマに『アースデイ東京』『ライフスタイル・フォーラム』『国連大学 世界環境デ ー』など、数多くのイベントで、企画提案や制作運営をおこなっているところ。ぼくは、フジロック・フェスティバルのアヴァロンというスペースのコーディネイトでその活動に興味をもっていたのだ。 弊社から徒歩3分。1階がアースガーデンがやっている立ち飲みバー・お弁当カフェ「キミドリ」。階段を上ってドアをあけると6畳ほどのスペース。「ちょうどきりがついたところ、スタバで待っててください」と。スタバの2階へ。すぐに現われる。南兵衛さんとお会いしたのは、立教の講義のゲストスピーカーにお呼びしたからである。招聘書に名前・住所などを書いてもらう。概要を話し終えると、『談』のことをきっかけにJTについて。じつは自分はタバコ吸いで、エコ・オーガニック系のひとの中にはまるでダメなひともいるけれど、逆にたばこ吸いもけっこういるという。とくに自分たちの事務所は喫煙率が高い。南米をずっと自転車で旅していた時も、一生懸命走って休憩した時に一服するたばこのうまさは格別だったと、懐かしそうにおっしゃる。たぱこには不思議なパワーがあると眼を輝かせてお話しされた。 南兵衛さん自身が主催しているフェスティバル「アースガーデン」で、たばこをきっかけとするようなコラボでもやりましょうと約束してわかれた。たばこを通した「オーガニック&エコロジーとライフスタイル」の実践。確かに、これまでない切り口だ。よし、今度まじめに企画してみよう。
立命館大学先端総合学術研究科准教授・天田城介さんを研究室に訪ねる。『TASC monthly』へのご寄稿をお願いしてあったので、その内容についての確認のため。立教大学卒業とあったのでちらっと尋ねると、やはり木下康仁先生のところにおられたという。木下先生には『談』no.59「老いの哲学」でインタビューをさせていただいたが、その記事も読んでおられたらしい。天田先生の研究室には灰皿がどうどうと置いてある。かなりのヘビースモーカーとおっしゃる。同行した新留さんは、研究室でこうして紫煙をくゆらせて打ち合わせができるのは珍しいと、とても喜ぶ。先端研自体がたばこには寛容で、他にもたばこの煙がたゆたう研究室がいくつもあるらしい。学内どころか研究室も全面禁煙などという大学が多い中で、じつに貴重な存在である。こうした事情も含めて先端というのだろうと勝手に納得する。次に甲東園の関西学院へ。社会学部教授阿部潔さんの研究室を訪ねる。『TASC monthly』の鼎談の打ち合わせ。この企画はそもそも阿部先生が編著の『空間管理社会』がきっかけ。あらためて全体の進行役をお願いする。阿部先生は茶髪にピアス、穴あきジーンズというスタイル。現代と常に真正面から向き合うのが社会学であるとすれば、阿部先生こそ「現在ただ今」を生きる真の社会学者だ。学内に防犯カメラが設置されたり、禁煙化されたりということが、なんのまえぶれもなく、気がつくとそうなっているということに阿部先生は憤っておられた。生-権力を内在的に批判することはむつかしい。しかし、あえて抗し続けること。ぼくは阿部先生の現在への向かい方に共感する。これで、鼎談はぜったいに面白くなると確信する。6月の終りが待ち遠しい。
知らず知らずのうちに日本と日本人の学力・知性・モラルの崩壊が始まっている。頼みの綱であるはずのコンテンツ産業もここにきて失速しかけている。確実に何かが変化している。これは、変化というようななまやさしいものではないのかもしれない。著者ははっきりとこう言うのだ。日本人は、「劣化」しているのではないかと。それも全世代、全階層、全分野にわたって。しかも、急速に。
さまざまな現象から、著者は日本と日本人の「劣化」について言及する。とりわけ筆者が注目したのは排除型社会へと急激に傾斜していくなかでの「寛容」の劣化についての考察だ。ジャック・ヤングが「ゼロ・トレランス」という概念で言おうとしたのは、それが犯罪を抑止する力にはならないということだった。ところが、日本では逆に「ゼロ・トレランス」が「割れ窓」論と一緒になって、犯罪抑止のための議論にすり替わってしまった。これはまさに「寛容の劣化」とでもいう事態ではないかと著者はいう。昨今の監視、管理の強化や厳罰化を求める声の背景には、じつは「寛容の劣化」があるというのだ。社会の不寛容さについて考える上で、これはおおいに参考になる意見である。
劣化をどうやって食い止めるか。他者への寛容なこころをもつ力にその活路を見出す。

10分前につくともう新留さんは待っていた。GLOCOM研究員鈴木謙介さんを訪ねる。TASC鼎談参加の正式なお願い。近著『〈反転〉するグローバリゼーション』で「市場の再埋め込み」について論じているが、その事例として「秋葉原有料トイレ設置」についてふれているという。できるだけ具体的な話を出した方がいいので、その話題など出しながら議論しましょうかと。今回の人選は○だ。新留さんとラーメン屋へ。九州ご出身なのでラーメンにはうるさい。で、みつけたのが隣のZONE六本木地下1Fの久留米ラーメン店「ラーメン鐡釜」。はりがね(超堅め)の麺を注文する。思ったほど堅くなかった。これならこなおとし(超超かため)に挑戦すればよかった。それでお味の方はというと、新留さんからOKサイン。うん、確かに美味かった。
今年の秋に閉店が決まったBook1st渋谷店へ。鈴木さんが言っていた通り『〈反転〉するグローバリゼーション』は平積みになっていてその上にPOPが。なんと本はすべてビニール装してあって、開いたらチャーリーというサイン入り! 急いで井丿頭線駅へ。それを読みながら下北乗り換えで玉川学園へ。20分も早く着いたのにすでに新留さんは正門前で待っているではないか。ここは、正門入り口から全面禁煙。奥の5号館の岡本裕一朗先生に面会。同じ鼎談への正式な参加要請。全面禁煙なんですねと尋ねると、防犯カメラがそこら中に設置されているという嘘みたいなことをおっしゃる。この大学はクリーンで美しく、現代の管理社会のまさに典型的なモデル。一部では、玉○の○○鮮と言われているらしいが、なんとなくわかる。岡本先生も今回の企画には大変乗り気で、鼎談はかなり盛り上がりそうだ。
「差別。確かにそれは、差別する者の行為や意識に宿っており、差別を受ける人々のこころや日常を侵害していくものだ。これは間違いないだろう。しかし、この発想だけで差別を考えるとき、差別は「事件」となり、私たちの日常生活からは、確実に離れたものとなるだろう。そうではない、差別は常に、私たちが生きている日常で起こっていることであるし、これまで生きてきた歴史の中で、起こってきたことなのである」。「とりあえず、こう考えを変えておきたい。差別は「してはいけないこと」「あってはならないこと」ではない。差別は、「してしまうもの」であり、「あってはならないと思うが、そのためには、何をどのようにし続けたらい(ママ)のか」と自らが日常生活のなかで考え、いろいろと実践するうえでの"意味ある手がかり"であると」(本文より)。
差別とは、自分と世の中をつなぐひとつの形ではないか。私が、差別といかにして出会えるか。そこから、具体的な差別とのつきあい方を立ち上げようと提言します。そのための一歩は、まず「決めつけ」「思い込み」を崩すこと。すべてはそこから始まります。

星川さんは、2005年よりグリーンピース・ジャパンの事務局長をやられています。本書は、そのお立場から、あらためて捕鯨問題の本質を問い直そうという意欲作です。その複雑な関係から見えてくるゆがんだ構図、グリーンピースの反捕鯨運動自体にもまなざしを向け、人間とクジラとのあるべき関係を再構築し直そうとします。捕鯨というものがどういう意味をもっているのか、エコロジー運動の文脈のなかから考察しようという態度には、思想の違いを超えて共感するところが多くありました。

以前フランクフルトからケルンへ鉄道で移動した時に、駅の周辺にクラインガルデン(市民農園)があるのをいくつも見た。なるほどね、駅のそばなら「通勤途中にちょっと庭いじり」。これはいいかもって思ったものだが、まさにそれの日本版というわけだ。アグリビジネスというよりは、「育てる」ことを愉しむ、新手のエンタテインメントビジネスとみるべきだろう。
清水先生は会議室をとっておいてくれた。さっそくインタビュー。祝祭としてのスポーツというテーマ。こちらは祝祭を伝統的なのイメージで捉えていたが、近代スポーツでは、祝祭のレヴェルがいくつもあるところに大きな違いがある。また、身体、他者、言説、メディア性、文化産業というものが幾重にも層をなしていて、複雑に絡み合っていることも過去のスポーツ、身体行為を核とするまつりと違うところだ。アスリートにフォーカスしてみれば、偶発的な即興性が強度をともなって唐突に出現することの驚異にスポーツを観る者は驚き熱狂する。しかも、それは技術、スキルに裏打ちされ、さらには身体の美的なフォルムと一体化している。それが、単なる物語性、言説、政治、人種、民族、ナショナリティ、ジェンダーといった枠組みを、越えて表出してくるところに、スポーツのスポーツたるところがあるのだ。感情の起伏を丸ごと包み込んだ身体が他者の身体と出会いつながることの特異性についても言及された。
2時間半近いインタビューとなった。先生はクルマでつくば駅まで送ってくれた。クルマのなかで、山口昌男さんのテニスのお相手であったことを教えてくれた。なるほどそれで「中心と周縁」なんですね。
今日もインタビューは斉藤女史で、僕はカメラマン。今回の取材でよくわかったことは、自転車問題は市民も行政も力を入れて取り組んでいるのだが、ただひとり警察がネックなのだ(もちろん新田先生がそういったわけではありません、ぼくの考えです)。クルマの渋滞を極度に警戒し、事故があった時に責任を被るのは警察。なによりもそれを恐れているのだ。警察が責任をすべて負わなくてもいいような仕組みをつくる。それに関連して、合意形成が用意にできる仕組みをつくること。ヴィジョンをかたちにする戦略と戦術が必要なのだ。自転車問題は警察問題である。
今回のインタビューは、立場がそれぞれ違っているので、問題の所在が逆に明確になった。4年前の取材時に都市プランナーの角橋哲也さんにお話をお聞きしたら、やはり同じように合意形成の重要さを強調されておられた。まちづくりにとって一番必要なのは、合意形成を生むための仕組みづくりなのかもしれない。
次にANAコンチネンタルホテルへ。自転車ツーキニストを自認する疋田智さんにインタビュー。自転車通勤のできる快適な自転車環境を目指す実践派。時に厳しく聞こえる意見も、自転車を愛するからこそだ。こうした市民の声があってこそ「サイクリング・シティ」の実現が可能になるのだろう。じつに気さくな人で、話が盛り上がる。そのあと「とら八」へ。外人客の多い居酒屋。年配の人が3人でやっている店。焼き鳥は美味しいしこんな居酒屋がアークヒルズにあるなんてうそのようだ。
日本の在来種タバコ(川床邦夫さん曰く製品の「たぱこ」に対して植物は「タバコ」)には、鹿児島系(国府葉)、長崎系(達磨葉)、南部系(南部葉)の三つの系統があると言われていますが、その鹿児島系のタバコが出てくる歌があるんです。三木鶏郎の「僕は特急の機関士で」。この歌は、丹下キヨ子と森繁久彌のデュオでNHKラジオ「日曜娯楽版」のためにつくられた歌ですが、この歌には、「東北巡りの巻」とか「九州巡りの巻」というように続編もつくられました。その「九州巡りの巻」に問題の歌詞が登場。「博多よかとこ 柳町 仁和加芝居の おかめさん よくよく つくづく 眺めたら 僕の彼女に そっくりたい (リフレイン)福岡 久留米 鹿児島 ウ〜〜〜〜ポポ」が1番。で、その8番目「ここは鹿児島 桜島 煙草ヨカチョロ 国分から 南 屋久島 種ヶ島 これが日本の どんづまり (リフレイン)福岡 久留米 鹿児島 ウ〜〜〜〜ポポ」。こっちは、敷島昇、二葉あき子、伊藤久男というなんとも豪華な歌い手さんたち。そのなかで二葉あき子が歌うんですね。「煙草ヨカチョロ 国分から」と。どうです、なんともいいでしょう。1951年の作品。たぱこがまだみんなに愛されていた時の歌ですね。
「嫌われるのがこわい」「働いても生活できない」「まじめに生きてきたのに」…。競争が煽られ、効率性が求められる一方で、「場の空気」を読むことも要求される。心の余裕がどこか失われた社会の中で、人々の抱える「悩み」の中身も変わってきています。以前なら悩まなくてもよかったようなことまでが、今では多くの人にとっての大きな「悩み」になっています。しかも、悩み始めたら始めたで、「あなたはうつ病なのだから、病院に行って薬をもらってきなさい」とか、「マイナス思考にとらわれるのは人生のムダ。一刻も早くコーチングをうけなさい」なんて言われてしまいます。「いったいいつから、「考え込むこと」や「足踏みすること」は病的で悪いこと、すぐにとりのぞかれなければならないこと、とみなされるようになってしまった」のでしょうか。「悩み」となっているのは、それはその悩める本人の責任ではなく、むしろ社会や世間の問題なのではないか」。そして、「私たちにとって本当に必要なのは、不安のうちに悩まなければならないことではなくて、安心して"本来の悩み"を悩める社会」ではないか、と香山さんは提言します。
現代人の「悩み」の背景を解きほぐしながら、今、私たちは「悩み」とどう向き合うべきか、いまどきの「悩み」と上手に付き合う方法を探ります。

夕方奈良女子大学へ。文学部の浜田寿美男先生の研究室を訪ねる。浜田先生には、『談』no62で「自白の言語学……なぜ私はうそをつくのか」というテーマでインタビューをさせていただいた。今回は、『TASC monthly』の原稿依頼のため。最近の関心はなんですかと尋ねると、「痴漢だよ」とおっしゃる。なんでも痴漢の裁判を4つほど鑑定しているらしい。痴漢という行為の特殊性について一つの例をお話してくれた。
痴漢をした(と思われる男性)、されたと思われる女性ともに、じつは相手のことをほとんど覚えていないらしい。行為のあった場面で女性は大声をあげたためにその場にいた男性が取り押さえられた。女性は、逃げ出さないようにと男性のネクタイを掴んではなさなかったらしいのだが、取り調べの時には、その事実をまったく忘れていたという。男性は、容疑がかけられて、羞恥心と怒りで頭は真っ白、なんと肝心の訴えられた女性の顔すら覚えていないというのである。とにかく、細かいディテールになると、お互いの記憶はあいまい。痴漢は、記憶のいい加減さを実証する格好の材料のようだ。そして冤罪について考えるためにも。犯罪心理学、あるいは記憶研究という視点から、しばらく痴漢の裁判記録を読んでみようと思っていると。ちなみに、周防監督の「それでも私はやっていない」は、いい映画だったよとおっしゃってました。
「スピリチュアル好きの人たちはその世界に傾倒することで、いったい何を求めているのだろう。それはスピリチュアリストのことばに従って人生の選択を決定する人に象徴されるように、〈守護霊〉や〈前世〉の力を借りていまの自分がどうよく生きるか、悩みからいかに救われるか、ということであるようだ」。彼らの目的は、もとより霊と交信することじたいではない。そうではなく、今の自分が「幸福を得るためにはどうすればいいか」、そのためにオーラや守護霊にすがりつくのである。そこにあるのは「圧倒的な自分中心主義であり、しかも〈現世〉中心主義なのだ」。
オカルトからスピリチュアルへ。日本人のメンタリティの変化がそこには見て取れるのである。

豊橋に移ってからも、引き続き実装型ロボットの製作と供に、生態心理学、認知心理学から、コミュニケーションと身体、社会の関わりを追求しておられる。今日は、コミュニケーションの成立する場のダイナミクスに「遊び」という切り口から取り組もうとしていられることを知って、「これだ」と思い馳せ参じたわけである。
ざっと実機製作を振り返りながら、岡田さんの問題意識をうかがい、そこから「遊び」との関係に話が及ぶ。そもそもこうした研究をおやりになったきっかけが女子高生たちの雑談。たわいもないことを延々と話し続けている。しかし、そこには確実にコミュニケーションというものが成立している。「たわいのなさ」「雑談」のもっている意味を探ろうというのが、そもそもの動機であったという。他の意味のあることをいの一番に掲げてまい進してきたロボット研究とは、まずその端緒から違う。そこが岡田さんユニークなところだ。
これまでことあるごとに触れてきたように、「遊び論」そのものが、ホイジンガ、カイヨワ、チクセントミハイ、エリス以降たいした成果を生み出していない。誰でも一度は取り組む、その意味では関心の高いテーマではあるけれども、本質的なところまではいかず未消化に終わっている場合が多い。岡田さんが一つの切り口に「遊び」を選ばれたのは慧眼であるが、更なる探求が必要に思った。ただ、生態心理学とヴィゴツキーを関連付けたり、ゴフマンを廣松哲学から再考するなどというアイデアは、センスのよさを感じた。今後の研究に大いに期待したい。身体と潜在性というような問題に切り込んでもらえるとうれしいのだけれど。それにしても、「muu」のこのそこはかとなさはなんだろう。めちゃカワイイとおもわへん???
血液サラサラ、メタボリックシンドローム、コエンザイム、アンチエイジング、茶カテキン、ギャバ、などなど。ワイドショー、バラエティ番組では、連日、健康情報がネタになっている。健康情報にふりまわされてリスクをどんどん増やしては悩んでいる人々が多い中、健康になることそれ自体を目的とする人たちが登場してきた。健康にいいとなれば手当たり次第に試したり、山のようにサプリメントを買い込んでは、一日に何十錠も飲んでいるような健康にまい進する人。彼(彼女)をここではとりあえず健康オタクと呼び、そのオタク化の背景や動機を探ろうというのが狙いであった。
テレビなどのマスコミによる「おどし」の構造が、今ではテレビの外の世界にも広がっているという指摘から、健康が手段から目的になったのはいつごろからか、健康へ向かう意識と美しくなりたいという意識は同じか違うか。病気の売り歩きという現象が起こっていて、いままで病気でなかったものに病名がつけられることで病人が人工的につくり出されていく現実。その背景には、ドゥルーズが予言した規律権力から管理社会へのシフトという大きな社会の変化があること。外見至上主義と健康至上主義のはざまで消費者は揺れ動いているのではないかという問題提起に、そもそもそうした健康観そのものが成り立っている社会構造こそ問題という反論。「成人の9割以上がメタボリック・シンドローム」という言説は、今や健康がリスクマーケティングの格好のターゲットになっていることを示している。はたして、この現状を商機と見るか危機と見るか。予想した以上に、白熱した議論が展開された。詳しくは、『TASC monthly』でお読みください。
「都市に生成する空間が深みをもっているのは、複数の欲求と声が複雑にからみあっているからである。都市の将来像をどのように構想するのかという問題を取り巻いて、多数の力が出会い、衝突、交渉、抵抗、懐柔、取引などの慣例を錯綜させてきた。複数の声が強行すれば、込み入った摩擦が生まれ、多くの欲求は妥協と譲歩が強いられる。(…)この複数性と複雑性は都市にとって大切な価値である」。しかし、今の東京は、極端な一元化と複雑性を回避する単純化の論理に置き換えられようとしている。本書は、「都市改造」、「タワーマンション」、「不平等社会」、「生死と墓地」という4つの切り口から、フロンティアとしての東京が直面する真の問題とは何かをあぶり出す。すでに、東京はフロンティアであることをやめている!
だからこそ、今必要なのは、都市の原点に返って「都市の多元性を尊重しその複雑さとの交際を深めるべき」なのであって、その先にしか空間の将来はない。それは、フロンティアの意味をあらためて問い直すことだ。
TASC的な関心からいうと、調査記録をもとにした「路上喫煙」の規制について触れている箇所があって、これは必読。

テーマ・切り口の斬新さと、下條さんの名司会(しゃべりすぎという話もあるが)で進行する、シンポジウムというよりは一種の「お勉強ショウイング」。今回のテーマは「悪/善 人はなぜ人を殺すのか」。監修者のお二人の他に、ゲストスピーカーとして、筑波大学大学院人間総合研究科教授(司法精神医学)・中谷陽二さん、京都大学大学院理学研究科助手(霊長類学)・中村美知夫さん、千葉大学人文社会科学研究科教授(哲学)・永井均さん。それと、パフォーマンス(テキスト・リーディング)としてミュージシャン・金剛地武志さん。
続きを読む
受動喫煙が発がん率を高めるというデータは公表されているのに、なぜにWHOは、この調査結果を10年以上も公表しなかったのか。まあ、推して知るべしですけどね。→ http://www.weeklypost.com/061117jp/index.html
「活字になった部分は全体の約三分の一であり、そのロングバージョンを下記の図書新聞サイトで読むことができます。宇和島の件については、どのマスメディアも報道していないはずのことを語っています。また、最後部分では「教育基本法」の改定問題との関係にも言及しております。ご一読下されば幸いです。 小松美彦」→緊急インタビュー
女性たちは自分の身体に対して男性より強い関心をもっている。昨今のヨガブームがそれを如実に示しているという。ホットヨガとかハリウッドヨガとか、確かに昨今のヨガブームを支えているのは若い女性たちだ。あと、匂いとからだについても彼女たちは敏感だ。女性は髪につく匂いをことさら気にする。ところが、男性の口から、髪についた匂いがどうのこうのなんて声は聞いたことがない。確かにそうかもしれない。ジェンダーの視点から喫煙と身体の関係を探る。山下柚実さんに協力してもらいもっと掘り下げてみたい。ところで、肺が真っ黒の衝撃写真と喫煙の因果関係がないことはJTはとっくに知っているらしい。ただ、そのことについて、あえて口にしないのだそうだ。JTをとりまく社会環境の厳しさをあらためて知らされた思い。
「(…)不思議なことに大勢の若者が〈動機づけてもらう〉ことを強くもとめている。もっと研修な生涯教育を受けたいという。自分たちは何に奉仕されられているのか、それを発見するつとめを負っているのは、若者たち自身だ。彼らの先輩たちが苦労して規律の目的性をあばいたのと同じように。ヘビの環節はモグラの巣穴よりもはるかに複雑にできているのである」。
ジル・ドゥルーズが残したあまりにも有名なテキスト「追伸……管理社会について」より。これが90年に書かれていたことにあらためて驚く。それにしても、モグラとヘビはなんの比喩なのだろうか。モグラが監禁環境の動物でヘビが管理社会の動物だとしても、その含意は果たして……。
みんな揃って朝食。畑を見る。茄子、いんげん、アスパラ、枝豆、いちじく、キャベツ、トマト、キウイ、柿、りんご、ゴボウなど野菜や果物が畑せましに植わっている。この畑のものすべて、宿泊客は基本的に勝手にとっていいことになっている。泰山堂に宿泊された娘さんは、一生懸命枝豆を採っていた。
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夕方、JTの研究プロジェクトのミーティング。以前2年間にわたって企画・運営に関わった「EIプロジェクト」(ヤマハ発動機)のフォーマットが活かせそうなのでうれしい。
疑似科学が蔓延している現状を確認したうえで、何がそういう状況を生み出しているのか、その問題点は何か、さらには、何が今必要なのか、自由に議論していただいた。
科学者側にその責任の一端があるのならば、科学者も反省し、市民への啓蒙活動も大事だとするしごく正当な意見が出たが、それは科学の問題というよりは、社会の方にこそ問題があり、必要なのは合理的な判断ができるシステムづくりという意見も出た。また、疑似科学を鵜呑みにしてしまうような頭をつくってしまう現在の教育にこそ問題があるという批判も出た。
個人的に興味をもったのは次のような発言。科学者は、科学はここまでしかわからないということをよく知っている。わかりたいと強く思っていても黒白がつけられないのが科学者だ。ところが、何かわからないことがあるとメディアは、科学者を引っ張り出してきて結論を迫る。メディアが科学者に期待するのは、「まだわからない」という消極的なコメントではなく、「専門家からみてそれは絶対に黒(白)だ」という断定だ。科学というお墨付きを得た上で、さらにサプライズが期待される。そのため科学者は、時に疑似科学者の役を演じさせられてしまう。疑似科学の蔓延には、テレビの影響があるのではないか。ほかにも、背景には科学政策と予算配分のゆがみが生み出した現象、官僚の科学リテラシーが低すぎるのが原因という辛辣な批判も。じつに有意義な鼎談となった。来年発行の『TASC monthly』に掲載を予定している。乞うご期待。
演劇評論家・田之倉稔さんにお電話。原稿を依頼。二つ返事で引き受けてくれた。ちょうどイタリアへドン・ジョバンニのことを調べにいってたところなので、そのことについて書こうかなと。よかった。
日本総合研究所の富永さんと筑波大学の好井裕明さんのところへ。今回の面会目的である「喫煙の愉しみ」についてのグルイン実施の内容について説明する。実施にあたって、社会調査をされてきた専門家の立場からアドバイスをもらおうというもの。
好井さんは、喫煙そのものがもっている文化と喫煙者の文化をまず分けて考える必要があるとしたうえで、「喫煙の社会性」というものに目を向けてはどうかとおっしゃった。「たばこと社会」というと、とかく喫煙者の社会性、社会的行為にばかり関心が寄せられるが、たばこそのものがすでに社会性をもった「もの」であるという視点を、もっと考えてみなくてはいけないのではと。シガレットから葉巻まで、大衆的な商品でありながらも社交的小道具、高度な文化的商品という性格ももっているたばこは、きわめて多義的で多様性豊かな「もの」である。マナーや節度の問題は、「たばこと社会」のある一面でしかない。人間のもつ社会性のより根源的な問題として、たばこをきちっと位置づけ直す必要があるという提言、とぼくは受け取った。「人はなぜたばこを吸うのか」、結局この問いにまだ誰も答えられていないということなのだろう。
情動商品としてのたばこというアイデアが閃いた。たばこは人間の情動と深い関わりがあるし、情動に直接作用する物質といってもいいだろう。たばこをなぜ吸うのか、という問いに答えを見出せないのは、情動とは何か、ということに容易に答えを見出せないのと同じではないか。情動のわかりにくさは、たばこのわかりにくさにちかい。両者は、とてもよく似ている。たばこを知るためには、まず情動の解明が先決だ。
現実進行中のネット/実世界に対して批評がまるで追いついていない。あいかわらが本当の世界があると信じそれを拠り所にして批評言語を組み立てようとするモダニスト。リアルなんてものはないと言い放ちながら、ロジックというフレームワークをいまだに手放せないでいるポストモダニスト。ネット/リアルワールドで起こっていることの実態は、いずれの立場からも解明できないだろう。鈴木謙介さんはその現状をかなり精確に俯瞰できている。そして言語を使ってその両者を架橋しようとしている。今度お願いした原稿(「en」)では、まさにそのあたりについて書いていただくつもりだ。
進めている仕事の色校正が出た。早速クライアントに持っていくと問題発生。写真の差し替え、トリミングの変更。これまでカラー出力したレイアウトを何回も見せているのに。「やっぱり色校で見ないとわからない」って、わかりますよそんなの。結局レイアウトをやり直して再校を出すことになる。なんという無駄なことを。これ、じつは国がらみの仕事で、結局は税金なわけで、何をやっているのだろうかとあきれてしまう。まず実世界こそ、ちゃんと批評したほうがよさそうだ。
今回お会いしたのは『TASC MONTHLY』への原稿依頼、その要旨のようなものにしたいとのことだった。最近は、映画の分析などもやっておられて、ヒロシマを扱った映画の分析とか『フリークス』の分析もやっておられた。それをまとめた小冊子『映画のもつ"啓発する力"を調べる可能性……『フリークス』を読む試みから』を見せていただく。なんと『フリークス』はDVDになっているのだ。障害者の生活を自然に撮っている、差別的な意味よりも具体的な彼らの〈生〉の迫力があざやかに描き出されて、今見るとそれが非常にいいとおっしゃる。授業で見せると学生はかなりショックを受けるらしいが確かにそうだろう。ぼくも、アンダーグラウンド・シネマで初めて見たときぶっ飛んだもの。でも、こういう評価をする好井さんにぼくは大いに共感する。好井さんの視線は常にあたたかい。
20年前のインタビューの話になったら、「あの『談』、たぶんそのあたりにあるんじゃないかな」と言って、本棚の下の方から取り出したのが、まさしくあのインタビューの載っている『談』、「理論のプレシオジテ」という特集の一冊だった。ちゃんと持っていてくれたのだ。4年前に筑波に移ってこられたのに、『談』も一緒にやってきたというわけか。感激!! とりあえず原稿を楽しみに待つことにしよう。

「(…)近いうちに世の中は、"シニア負け犬"であふれることになる。〈いつかは私だってステキな誰かと〉と夢を見ながら働いているうちに六○代、七○代を迎える彼女たちは、いったいどういう老後を送ることになるのだろう。考えたくないからこの問題から目を背け、〈まあそのときが来たら考えればいいさ〉とケ・セラ・セラの"ラテン生き方"をしていれば、なんとかなるものなのだろうか。私だって口では10年以上も前から〈もうオバサンだし〉などと言いながら、実は〈自分の老後〉など想像するのも恐ろしいのだが、この際、覚悟を決めて一度だけ考えてみることにしよう」(本文より)。香山さん本気で考えましたよ。そして、考えた末の結論は…。やはり、ケ・セラ・セラなんてとうてい言ってられない状況が待ち受けていることにがく然とするのでした。なにより、この老後問題、じつはシングル女性だけの問題ではないところがこわい。男性諸君にもぜひ読んでいただきたい。
