社会

『震災時帰宅支援マップ』をもって実際に帰宅してみた。

『震災時帰宅支援マップ』というのがある。一度そのシミュレーションをしてみようと思っていたので、今回の地図特集で実際にやってみることにした。といっても、歩くのはちとしんどいので、自転車に乗って。新宿南口を16時15分に出発。帰宅支援ルートの一つ甲州街道を走った。WC(公衆トイレ)の所在地や震災時に落下する恐れのあるガラス(カーテンウォールのビル)、倒壊する恐れのあるブロック塀が記されている。いちいち止って、地図通りか確認しながら撮影する。西参道からは頭上に首都高速が走る。神戸の震災の記憶があるので、これが崩落したら怖いなぁと思いつつ走る。危険地域は、実際に本のとおりだった。下高井戸から商店街へ寄り道。じつは、わが母校松原高校が帰宅支援センターになっているからだ。なんだかちょっとうれしい。となりの日大文理学部キャンパスを含めて、広域避難場所にな指定されている。見覚えのある店を幾つか見ながら、松原高校の正面玄関へ。記念写真ぽく写す。そのあと、再び甲州街道に戻って、八幡山、環八、給田と通って、 仙川からバス通りを通って19時に帰宅。
撮影しながら自転車で3時間ちょっとかかった。たぶん、歩いて帰る場合は、この倍はかかるだろう。震災はいつくるかわからない。帰宅支援ルートを実際に歩いてみるのはいいことだ。もっともぼくは自転車だったけれど、それでも何が妨げになるか、何が必要になるか、少なくともそのイメージだけはつかめたのでよしとしよう。

ペーパーレス化の波は、地図にも影響を及ぼしている。

泉麻人さん、今尾恵介さんの対談。地図に名前を手書きした名刺を持参された今尾さんから口火をきってもらう。
地図が好きという人は、ものの見方が少しばかり変わっているようだ。いや変わっている人が、気がつくと地図マニアになっているという方が正確かもしれない。地図の好きな人は、いつのまにか、自分で地図に書き込んでいる。というよりも、カキコが好きな人は、いつのまにか地図というメディアに行き着いてしまうという方が正確だろう。そして、地図の好きな人は、未だ謎だらけの過去という名の未来へと旅立つ。
地図の好きな人と時刻表の好きな人は重なっているようだ。地図を読むように、時刻表を読み、時刻表を見るように、地図を見る。泉さんが言うように、地図に興味のない人に限ってカーナビをつけると、カーナビに頼りっきりになる。こんな道あり得ないだろうというところでも、なんの疑問もなくカーナビのいう通りに走ろうとする。
IT化の進展もあって、国土地理院の2500分の1の地図の売上が激減しているらしい。日本は、何かに邁進すると雪崩れを打つように右に習えで進んでしまう。気がつくと、紙の地図が地上から消えてしまうかもしれない。100年後の日本人は、それまで豊富だった地図の資料が、2000年初頭に忽然と消えてしまうことに驚くに違いない。そうならないためにも、ぜひ紙媒体として地図を残してもらいたい。約2時間、楽しく教えてもらうことの多かった対談でした。『 city&life』no.85に掲載予定。

TASCの助成研究報告会で藤原辰史さんの発表を聞く。

神谷町の虎ノ門パストラルへ。TASCの助成研究報告会。会場はほぼ満員。驚いた。トップバッターは藤原辰史さん。「再生産される〈生命空間〉」(『談』no.75所収)でインタビューさせていただいた京都大学人文科学研究所助教。助成研究のテーマは「台所のナチズム ナチスの食生活と〈無駄なくせ闘争〉」 。「ナチスのむき出しの女性蔑視、男性中心主義にもかからず、なぜ主婦は、戦争に動員されたのか。食生活の中心に位置する台所という場から問う」という斬新な研究。食の内実が均質化し、主婦の人間性剥奪されるかわりに、台所という場が、あたかも生命をもった有機体のようになる。ナチズムの本質にある自然志向が、今回の発表からいっそう明らかになった。「生-権力」の問題をしつこく追っかけてきた『談』としては、いいヒントをもらったように思った。これまで、研究発表会なるものにほとんど出席したことがなかったが、活発な議論が交わされていて、正直びっくりした。助成する限りは、厳しいジャッジは当たり前か。僕もがんばらなくては。JTとも関わりができたので、会場で挨拶する人が増えた。

中座して、中目黒へ。『談』のデザイナー河合君と待ち合わせて写真家の神山貞次郎さんの事務所へ。目黒側沿い。3Fに黒い猫ちゃん。さっそく写真をみせてもらう。最近上杉満代さんの舞台を撮ったんだけど見る?とおっしゃるので 拝見する。これまでの神山さんの写真とはちょっと違う感じ。しかし、これがいいのだ。河合君も閃いたらしく、3点すぐに決まった。これで、ヴィジュアルも揃ったし、あとはeditor's noteだけだ。で、明日がその企画会議。

規律権力/カオスの「グラストンベリー」か、生-政治のFUJIか

イギリスの野外ロックフェスティバル「グラストンベリー」。30年以上の長きにわたり開催されてきたこの伝説的野外フェスのドキュメンタリー映画を観た。過去の資料映像も交えて、ジュリアン・テンプルが監督したライプ映像満載の映画だが、UKの若者文化を活写しているところが面白かった。 FUJI ROCK FESTIVALに代表される日本の野外フェスを体験したことのない人がこの映画を観るとどんな反応をするだろうか。おそらく野外フェスというものはとんでもない「祭り」に映るだろう。トラヴェラーズという得体のしれない連中が闊歩しているかと思えば、ヒッピー、ドラッグ、セックス、暴力のてんこ盛り。裸の男女が泥まみれになって踊り、騒ぎまくる3日間。こんな危険極まりない乱痴気騒ぎが苗場で行われているのだとしたらとんでもないこと、うちの村では絶対反対、と地元の人は思うに違いない。しかし、一度でもFUJI ROCK FESTIVALに行ったことのある人ならば、その反応は全く逆なはずだ。グラストンベリーと比べて、なんとFUJIはきれいで、おとなしくって、ピースフルな祭典、と思うに違いない。日本の野外フェスは、こういってよければテーマパークだ。主催者もアーティストもオーディエンスも、安全・安心のセキュリティ空間の中で身の丈にあったビジネスをし、演奏し、愉しむ。関わったすべての人間が何がしかの満足感、達成感、感動を得れば、とりあえず成功。なにより怖いのは事故であり、リスクを完全にヘッジできれば大成功なのだ。生-政治が完璧な形で貫かれているのが日本の野外フェスなのである。それに比して、「グラストンベリー」の3日間は、いまだ規律権力が力を発揮するイベントである。そこには、他者がいるし、暴力が横行する。しかし、それと同じだけの剥き出しの「生」が存在することも事実だ。「ビオス」を食い破って現出する「ゾーエー」が、裸の状態で乱舞する空間。だからこそ、「グラストンベリー」には、そうした荒ぶる身体の横溢を囲い込むために、高さ5メートルのフェンスが必要なのだろう。さて、われわれはどっちをよしとするか。そりゃ「グラストンベリー」でしょう、と言いたいところだけれど、やっぱりシャワーも浴びたいしお布団で寝たいし、乱暴者はごめんだし……、カンファタブルな空間で普通に音楽が愉しみたいので、テーマパークのFUJIがいいや。なんと軟弱なぼくだこと?!

10年ぶりに赤川学先生にお会いしました。

東京大学大学院人文社会系研究科准教授・赤川学さんに面会。TASCで9月に予定している講演のお願いのため。数年前Webマガジン「en」に原稿を依頼した時に電話でお話をしたが、直接お目にかかったのは、『談』no.57「トランスセキュアリティ」以来で10年ぶり。当時信州大学の助手をしておられて、インタビュー内容は「日本人のセックス、日本人の身体」。近代日本におけるセクシュアリティは、 常に「性欲=本能」と「性=人格」という二項対立によって語られてきたが、 果たして性欲は単なる本能なのか、それとも高尚なものなのか、というかなりハードなお話だった。今回は、それとはまったく違って、健康の言説と統計の関係について、社会学的に見るとどう捉えられるのか、といったようなことをお話してもらおうと思っている。赤川先生は67年生まれ。始めてお会いした時はまだ30歳になるちょっと手前で、ういういしさが残る学者先生という感じだったが、今回お会いして、やっぱりお変わりありませんでした。講演楽しみだ。

『フリーターズフリー 1号』出版記念トークセッションのお知らせ

『city&life』no.81特集「「安全・安心のまちづくり」を考える」で、これまで自明とされてきた「安全・安心」という言葉の背後に潜む排除・選別の志向を抉り出した鼎談のパネリストのおひとり生田武志さんが、トークセッションに出席されます。

JUNKU連続トークセッション@池袋

2007年8月2日(木)19時〜

『フリーターズフリー 1号』出版記念
(〔編集・発行〕有限責任事業組合フリーターズフリー 〔発売〕人文書院)

フリーターズフリーのつくりかた
―労働問題の新地平のために―

生田武志×大澤信亮×栗田隆子×杉田俊介
(有限責任事業組合フリーターズフリー)

5年の歳月をかけて構想し、共同出資の組合を立ち上げ、
今夏、満を持して創刊した、労働と生を考え抜くメディア「フリーターズフリー」。
私たちの生きづらさ、若年層労働問題の本質とは何か。
我々にはいま何ができ、何を言うべきか。
労働問題の新地平を拓くため、今後の活動構想も交えた注目の徹底討論!
フリーターズフリーのメンバー4人による初めてのトークイベントです。


☆ 会場…4階喫茶にて。入場料1,000円(ドリンクつき)定員40名
☆ 受付…1階 サービスカウンターにて。電話予約承ります。

ジュンク堂書店 池袋本店
TEL.5956-6111 FAX.5956-6100

パネラー紹介
★生田武志(いくた・たけし)/1964年生れ。大学在学中より野宿者支援活動を始めるとともに、1988年より日雇労働。2000年、キルケゴール論にて群像新人文学賞優秀賞受賞(評論部門)。著書に『〈野宿者襲撃〉論』(人文書院)。
★大澤信亮(おおさわ・のぶあき)/1976年、東京生れ。物書き・編集者。映画専門大学院大学助手。著作に『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』(大塚英志との共著)、「コンプレックス・パーソンズ」(「重力02」)、「マンガ・イデオロギー」(「comic新現実」)など。
★栗田隆子(くりた・りゅうこ)/1973年、東京生れ。『子どもたちが語る登校拒否』(世織書房)に経験者として寄稿。学生時はシモーヌ・ヴェイユについて研究。ミニコミ・評論紙等において不登校・フェミニズムについての論考を散発的に発表。現在、国立保健医療科学院非常勤職員として勤務。
★杉田俊介(すぎた・しゅんすけ)/1975年、神奈川生れ。介護労働者(本業)+ライター(副業)。著書に『フリーターにとって「自由」とは何か』(人文書院)。現在、労働+福祉+批評の第二著作を準備中。

廣瀬純さん講演会 「ラテンアメリカ社会運動の最前線」のお知らせ

人文書院編集部松岡隆浩さんより『TASC Monthly』2oo6年12月号に「健康と思考−「美味しさ」の非有機的な力」をご寄稿いただいた廣瀬純さんの講演会のお知らせをいただきましたので転載いたします。

廣瀬純講演会とシンポジウムin京都 7月22日

新自由主義の破綻:ラテンアメリカ社会運動の最前線

日時 2007年7月22日(日)午後1時から5時(予約不要、入場料カンパ制)
場所 ひとまち交流館京都(河原町五条下る)
講師 廣瀬純さん(龍谷大学専任講師)

 廣瀬純さんの著書『闘争の最小回路』のポイントは、ラテンアメリカでの新自由主義の行き詰まりの帰結として、最近ブラジル、ベネズエラ、ボリビアなどで反米左派政権が誕生していますが、政権に指導者を送り出した社会運動は、必ずしも政権になにか期待している訳ではないという実情があるという点です。廣瀬さんは、この点について多面的な視点から、具体的に論じておられます。
 日本の場合、新しい社会運動は、まだ社会的に認知され、広範な戦線を形成するというところまではいっていません。社会的経済や社会的企業といったEUの社会運動に学んで、労働組合と協同組合とその他の非営利事業体との緩やかな連携を作り出そうという試みが始まったばかりです。しかしEUでも根強い新自由主義への動きがある中で、いわば新自由主義の後始末として登場しているラテンアメリカの社会運動の現状を知ることは緊急の課題だと思います。ふるってご参加ください。参加費はカンパ制です。

進行
第一部 講演:廣瀬純さん 「ラテンアメリカ社会運動の最前線」
第二部 シンポジウム 「日本の運動との接点を探る」
パネリスト 廣瀬純さん、表三郎さん(ネットワーク情況・関西)、櫻田和也さん(NPO法人remo)、法橋聡さん・斉藤縣三さん(共生型経済推進フォーラム運営委員)
司会 境 毅さん(共生型経済推進フォーラム運営委員)

最近のラテンアメリカの社会運動について紹介した廣瀬純さんの著書『闘争の最小回路』(人文書院)は会場で発売しています。

主催:ネットワーク情況・関西 共催:共生型経済推進フォーラム
(連絡先)Eメール:sakatake2000@yahoo.co.jp 携帯:080-3139-7820(境)

協力団体:NPO法人remo、NPO法人ニュースタート事務局関西、人文書院、NPO法人日本スローワーク協会、NPO法人ワーカーズ・コレクティブ・サポートセンター

「〈空間管理社会〉再考……空間の〈なに〉が問われるべきなのか」という鼎談

『TASC monthly』公開鼎談「〈空間管理社会〉再考……空間の〈なに〉が問われるべきなのか」を行う。
出席者は、玉川大学教授・岡本裕一朗さん、関西学院大学社会学部教授・阿部潔さん、国際大学グローバルコミュニケーションセンター研究員・鈴木謙介さん。今回のテーマそのものが、『空間管理社会─監視と自由のパラドックス』(新曜社)で出された幾つかの論点をもう一度議論していただくというのがねらい。なので、司会進行役をその本の編者のお一人である阿部潔さんにお願いした。
従来のような権力側による人々の監視・管理といった一元的な動きとは異なる、現在の監視社会の諸状況を「両義性」という切り口で捉えることはできないかという問題提起を受けて、「防犯カメラ」「個人情報の収集管理」「コミュニティパトロール」「メディアによるセレブリティの管理」「警察権力による国民の監視」など現実に起こっているさまざまな事象を拾い上げながら、密度の濃い議論が展開された。現代の管理を考える場合に、テクノロジーの変化が管理の内実を変容させている意識の変化とどうリンクしているのか、その点を把握することが一つ重要な鍵になると思われる。現代社会において誰が誰をなんのために管理しているのか、その大前提こそが問われなければならないのである。
今欠けているのは悪に対する想像力ではないか、祝祭空間のもつ意味をあらためて考える必要があるのではないか、秩序/反秩序という枠組みを越えるための脱秩序化という発想の重要性などが提起された。ちょうど、『談』の次号特集のキーワードが「祝祭」。特集を編集するに当たって、いい参考になった。
今回の鼎談は、『TASC monthly』(何号かは決まっていないが)に掲載予定。

1991年の8月にもう一度時計の針を戻して見よう。

「正しいこと」をそれぞれが全うしようとするがために暴動へと発展していく過程を軽妙に描いて絶賛されたスパイク・リー監督86年の作品『ドゥ・ザ・ライト・シング』。後にブルックリンで実際に起こるクラインハイツ暴動を予見させたということで、スパイク・リーは一躍、時の人になった。ぼくも、ビデオになってからすぐに借りて見て、衝撃を受けたことを覚えている。しかし、冨田晃さんの『祝祭と暴力』を読んで、少し見方が変わった。この映画は、あることを巧妙に避けているというのだ。「スパイク・リーは、ブルックリンの多様性を表現するために、「黒人」「イタリア人」「プエルトリコ人」「韓国人」「警察」とキャスティングしているが、各黒人が持つ文化的・歴史的背景の多様性や黒人内の集団間の対立の問題には触れ」ず、「ブルックリンの黒人の大半が、カリブ海地域生まれか、その二世であるにも関わらず、「黒人=アフリカ系アメリカ人」として描いた」というのである。80年代後半、真の黒人監督として評価を受けたスパイク・リー。だが、彼の考える黒人とは、抽象化され一元化された「黒人」であり、「黒人」であることの多様性を自ら否認してしまったのだ。米国史上最悪の人種暴動の一つ「クラインハイツ暴動」。それをどう解釈するか。ブルックリンの黒人居住地の真ん中にあるルバヴィッチ派ユダヤ人との宗教的な対立? 貧困からくる矛盾? ブラックパワーこそ正義? 同じ移民たち同士の共生の難しさ? いや、問題はそんなに単純ではない。ブラックアフリカンだけがブラックではないように、ユダヤ人にもさまざまな顔がある。ミックスジュースからサラダボールへ。そして、今は「モザイク」。だが、この「モザイク」という言葉に潜む陥穽をこそ問われなければならない。人種、国籍、国家、宗教……。いったい、その何が「モザイク」なのか。今問われるべきは、「モザイク」の意味そのものだ。

人選でほぼ決まるのは、サッカーも研究会も同じだ。

『談』に登場していただいた現代思想の専門家で言語学、とくに日本語についての著作も多い先生をゲストにお呼びしたとある研究会。これが大成功。当を得た話題を提供してくれたこともあるが、後半の質疑応答では、まさに立板に水のごとく、どのような角度から質問がきても、スパッと切り返す。ディスカッションは、終了後の懇親会にも引き継がれた。常に研究会がこういう形で行われればいいのだが、経験からいうと、滅多にないことである。やはり、初発での人選でほぼ成功か不成功かは決まるといっていい。帰宅後、録画しておいたキリンカップを見る。海外組が機能しなかった前半の戦いぶりに業を煮やしたオシム監督は、後半羽生を投入。この采配がズバリ効いて、点こそ入らなかったが、後半は別のチームじゃないかと思えるような、いい試合運びだった。やはり、すべては人選だ。誰をどこで使うか。講演もスポーツもこれにつきるような気がした1日であった。

たばことオーガニック&エコロジーの微妙な関係

アースガーデンの南兵衛さんの事務所へ。アースガーデン
は、「オーガニック&エコロジーとライフスタイル」をメインテーマに『アースデイ東京』『ライフスタイル・フォーラム』『国連大学 世界環境デ ー』など、数多くのイベントで、企画提案や制作運営をおこなっているところ。ぼくは、フジロック・フェスティバルのアヴァロンというスペースのコーディネイトでその活動に興味をもっていたのだ。 弊社から徒歩3分。1階がアースガーデンがやっている立ち飲みバー・お弁当カフェ「キミドリ」。階段を上ってドアをあけると6畳ほどのスペース。「ちょうどきりがついたところ、スタバで待っててください」と。スタバの2階へ。すぐに現われる。南兵衛さんとお会いしたのは、立教の講義のゲストスピーカーにお呼びしたからである。招聘書に名前・住所などを書いてもらう。概要を話し終えると、『談』のことをきっかけにJTについて。じつは自分はタバコ吸いで、エコ・オーガニック系のひとの中にはまるでダメなひともいるけれど、逆にたばこ吸いもけっこういるという。とくに自分たちの事務所は喫煙率が高い。南米をずっと自転車で旅していた時も、一生懸命走って休憩した時に一服するたばこのうまさは格別だったと、懐かしそうにおっしゃる。たぱこには不思議なパワーがあると眼を輝かせてお話しされた。 南兵衛さん自身が主催しているフェスティバル「アースガーデン」で、たばこをきっかけとするようなコラボでもやりましょうと約束してわかれた。たばこを通した「オーガニック&エコロジーとライフスタイル」の実践。確かに、これまでない切り口だ。よし、今度まじめに企画してみよう。

現在の生-権力に抗することとはどういうことをいうのか。

立命館大学先端総合学術研究科准教授・天田城介さんを研究室に訪ねる。『TASC monthly』へのご寄稿をお願いしてあったので、その内容についての確認のため。立教大学卒業とあったのでちらっと尋ねると、やはり木下康仁先生のところにおられたという。木下先生には『談』no.59「老いの哲学」でインタビューをさせていただいたが、その記事も読んでおられたらしい。天田先生の研究室には灰皿がどうどうと置いてある。かなりのヘビースモーカーとおっしゃる。同行した新留さんは、研究室でこうして紫煙をくゆらせて打ち合わせができるのは珍しいと、とても喜ぶ。先端研自体がたばこには寛容で、他にもたばこの煙がたゆたう研究室がいくつもあるらしい。学内どころか研究室も全面禁煙などという大学が多い中で、じつに貴重な存在である。こうした事情も含めて先端というのだろうと勝手に納得する。次に甲東園の関西学院へ。社会学部教授阿部潔さんの研究室を訪ねる。『TASC monthly』の鼎談の打ち合わせ。この企画はそもそも阿部先生が編著の『空間管理社会』がきっかけ。あらためて全体の進行役をお願いする。阿部先生は茶髪にピアス、穴あきジーンズというスタイル。現代と常に真正面から向き合うのが社会学であるとすれば、阿部先生こそ「現在ただ今」を生きる真の社会学者だ。学内に防犯カメラが設置されたり、禁煙化されたりということが、なんのまえぶれもなく、気がつくとそうなっているということに阿部先生は憤っておられた。生-権力を内在的に批判することはむつかしい。しかし、あえて抗し続けること。ぼくは阿部先生の現在への向かい方に共感する。これで、鼎談はぜったいに面白くなると確信する。6月の終りが待ち遠しい。

不寛容も「劣化」のあらわれ?!

香山リカさんより近刊『なぜ日本人は劣化したか』(講談社新書)を贈呈していただいた。
知らず知らずのうちに日本と日本人の学力・知性・モラルの崩壊が始まっている。頼みの綱であるはずのコンテンツ産業もここにきて失速しかけている。確実に何かが変化している。これは、変化というようななまやさしいものではないのかもしれない。著者ははっきりとこう言うのだ。日本人は、「劣化」しているのではないかと。それも全世代、全階層、全分野にわたって。しかも、急速に。
さまざまな現象から、著者は日本と日本人の「劣化」について言及する。とりわけ筆者が注目したのは排除型社会へと急激に傾斜していくなかでの「寛容」の劣化についての考察だ。ジャック・ヤングが「ゼロ・トレランス」という概念で言おうとしたのは、それが犯罪を抑止する力にはならないということだった。ところが、日本では逆に「ゼロ・トレランス」が「割れ窓」論と一緒になって、犯罪抑止のための議論にすり替わってしまった。これはまさに「寛容の劣化」とでもいう事態ではないかと著者はいう。昨今の監視、管理の強化や厳罰化を求める声の背景には、じつは「寛容の劣化」があるというのだ。社会の不寛容さについて考える上で、これはおおいに参考になる意見である。
劣化をどうやって食い止めるか。他者への寛容なこころをもつ力にその活路を見出す。
なぜ日本人は劣化したか

気がつくといつのまにか……

法政大学へ。法政は野外に屋根付の喫煙所があった。杉田敦田先生に『TASC monthly』の原稿依頼。法政も全面的に禁煙になっているようだが、先生は喫煙者ではないにもかかわらず、告知もきちっとしないで進められたことに対しては抵抗されたらしい。大学は未成年者もいるので学内を全域禁煙化することに対しての合意形成は得られやすいのだろう。とはいえ、気がつくといつのまにかそうなっているというのは、やはりおかしい。非喫煙者であるぼくもきっと抗議したはずだ。

今や学内「全面禁煙」という大学がほとんどらしい

GLOCOMへ。少し早くついたので、元テレ朝通りの周辺を少し散歩。そういえば、浅田彰さんと香山リカさんを引き合わせたのはナイジェルコーツデザインの「メトロポール」だったなぁと、今はその面影さえない六本木ヒルズを眺めつつため息などついてみた。
10分前につくともう新留さんは待っていた。GLOCOM研究員鈴木謙介さんを訪ねる。TASC鼎談参加の正式なお願い。近著『〈反転〉するグローバリゼーション』で「市場の再埋め込み」について論じているが、その事例として「秋葉原有料トイレ設置」についてふれているという。できるだけ具体的な話を出した方がいいので、その話題など出しながら議論しましょうかと。今回の人選は○だ。新留さんとラーメン屋へ。九州ご出身なのでラーメンにはうるさい。で、みつけたのが隣のZONE六本木地下1Fの久留米ラーメン店「ラーメン鐡釜」。はりがね(超堅め)の麺を注文する。思ったほど堅くなかった。これならこなおとし(超超かため)に挑戦すればよかった。それでお味の方はというと、新留さんからOKサイン。うん、確かに美味かった。
今年の秋に閉店が決まったBook1st渋谷店へ。鈴木さんが言っていた通り『〈反転〉するグローバリゼーション』は平積みになっていてその上にPOPが。なんと本はすべてビニール装してあって、開いたらチャーリーというサイン入り! 急いで井丿頭線駅へ。それを読みながら下北乗り換えで玉川学園へ。20分も早く着いたのにすでに新留さんは正門前で待っているではないか。ここは、正門入り口から全面禁煙。奥の5号館の岡本裕一朗先生に面会。同じ鼎談への正式な参加要請。全面禁煙なんですねと尋ねると、防犯カメラがそこら中に設置されているという嘘みたいなことをおっしゃる。この大学はクリーンで美しく、現代の管理社会のまさに典型的なモデル。一部では、玉○の○○鮮と言われているらしいが、なんとなくわかる。岡本先生も今回の企画には大変乗り気で、鼎談はかなり盛り上がりそうだ。

差別とは、自分と世の中をつなぐひとつの形ではないか。

少し時間がたってしまいましたが筑波大学大学院人文社会科学研究科教授・好井裕明さんから『差別論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』(平凡社新書)を贈呈していただきました。好井さんには、『談』no.39「理論のプレシオジテ」という特集でインタビューをさせていただいただきましたが、昨年『TASC monthly』への原稿執筆のお願いで20年ぶりにお会いしました。(「日常的な差別や排除を考えること」というタイトルで、『TASC monthly』no.372号に掲載)。本書は、その原稿ももとになっていると「あとがき」に記されています。
「差別。確かにそれは、差別する者の行為や意識に宿っており、差別を受ける人々のこころや日常を侵害していくものだ。これは間違いないだろう。しかし、この発想だけで差別を考えるとき、差別は「事件」となり、私たちの日常生活からは、確実に離れたものとなるだろう。そうではない、差別は常に、私たちが生きている日常で起こっていることであるし、これまで生きてきた歴史の中で、起こってきたことなのである」。「とりあえず、こう考えを変えておきたい。差別は「してはいけないこと」「あってはならないこと」ではない。差別は、「してしまうもの」であり、「あってはならないと思うが、そのためには、何をどのようにし続けたらい(ママ)のか」と自らが日常生活のなかで考え、いろいろと実践するうえでの"意味ある手がかり"であると」(本文より)。
差別とは、自分と世の中をつなぐひとつの形ではないか。私が、差別といかにして出会えるか。そこから、具体的な差別とのつきあい方を立ち上げようと提言します。そのための一歩は、まず「決めつけ」「思い込み」を崩すこと。すべてはそこから始まります。
差別原論?〈わたし〉のなかの権力とつきあう

人間とクジラとのあるべき関係とは。

作家・翻訳家の星川淳さんから『日本はなぜ世界で一番クジラを殺すのか』(幻冬舎新書)を贈呈していただきました。星川淳さんには、『談』no.44「カウンターカルチャーの進化論」で、当時お住まいの屋久島でインタビューをさせていただき、また、no48「混合主体のエチカを求めて」(シンポジウムの記録)では、パネリストとして参加していただきました。
星川さんは、2005年よりグリーンピース・ジャパンの事務局長をやられています。本書は、そのお立場から、あらためて捕鯨問題の本質を問い直そうという意欲作です。その複雑な関係から見えてくるゆがんだ構図、グリーンピースの反捕鯨運動自体にもまなざしを向け、人間とクジラとのあるべき関係を再構築し直そうとします。捕鯨というものがどういう意味をもっているのか、エコロジー運動の文脈のなかから考察しようという態度には、思想の違いを超えて共感するところが多くありました。
日本はなぜ世界で一番クジラを殺すのか

ケルン駅で見たクラインガルデンの日本版登場。

成城学園で買い物をして、自転車で喜多見方向へ向かっていくと「AGRIS SEIJO」の文字。もしやと思って近づくと、小田急線屋上の人口地盤に家庭菜園。これが今大々的に宣伝している「アグリス成城」か。パウダールームやシャワールームを備えたゲストハウスつきの菜園。庭仕事を終えた足でビジネスや都会に遊びにいけるというのが売りらしい。年会費31,500円ガーデン利用料105,000円、ほかに栽培代行や講習会を受けられるグリーン会員は、年会費52,500円ガーデン利用料472,500円。これを高いとみるか安いと見るか。成城周辺のマンションにお住まいで、LOHAS的な生き方を志向する人たち。けっこういると思うんですが、これはそういうひとたちの心をわしづかみするアイデアだとは思いますね。
以前フランクフルトからケルンへ鉄道で移動した時に、駅の周辺にクラインガルデン(市民農園)があるのをいくつも見た。なるほどね、駅のそばなら「通勤途中にちょっと庭いじり」。これはいいかもって思ったものだが、まさにそれの日本版というわけだ。アグリビジネスというよりは、「育てる」ことを愉しむ、新手のエンタテインメントビジネスとみるべきだろう。

感情の起伏を丸ごと包み込んだ身体の出会い

清水諭先生のインタビュー。朝お電話をして、研究室の所在を確認する。筑波循環バスで「筑波西」で下車してくださいとのこと。大学のHPのキャンパスマップでは体育科学系棟は「南地区」に位置する。これでは始めてくる人間は混乱してしまうだろう。聞いておいてよかった。
清水先生は会議室をとっておいてくれた。さっそくインタビュー。祝祭としてのスポーツというテーマ。こちらは祝祭を伝統的なのイメージで捉えていたが、近代スポーツでは、祝祭のレヴェルがいくつもあるところに大きな違いがある。また、身体、他者、言説、メディア性、文化産業というものが幾重にも層をなしていて、複雑に絡み合っていることも過去のスポーツ、身体行為を核とするまつりと違うところだ。アスリートにフォーカスしてみれば、偶発的な即興性が強度をともなって唐突に出現することの驚異にスポーツを観る者は驚き熱狂する。しかも、それは技術、スキルに裏打ちされ、さらには身体の美的なフォルムと一体化している。それが、単なる物語性、言説、政治、人種、民族、ナショナリティ、ジェンダーといった枠組みを、越えて表出してくるところに、スポーツのスポーツたるところがあるのだ。感情の起伏を丸ごと包み込んだ身体が他者の身体と出会いつながることの特異性についても言及された。
2時間半近いインタビューとなった。先生はクルマでつくば駅まで送ってくれた。クルマのなかで、山口昌男さんのテニスのお相手であったことを教えてくれた。なるほどそれで「中心と周縁」なんですね。

頑張れば頑張っただけ報われるところにいられることの幸せ。

TASCで人材ネットワークの編集会議。なんとかひねり出した50人近い論者とテーマを駆け足でプレゼンする。いくつかこれでいこうということになり、まずはよかった。必死でもがけば、それなりのことはあるのだ。頑張れば頑張っただけ報われる社会。それは、ほとんどの場合そのがんばりを受け入れてくれる側の問題である。機会だけ与えればことがすむと思ったら大間違いですぞ、○○首相殿。

国交省「自転車まちづくり」を実践する堺市を実際に走ってみた

堺市大仙公園内にある自転車博物館/サイクルセンターへ。事務局長の中村博司さんにインタビュー。自転車部品メーカーのシマノの財団がやっている博物館。自転車産業の町「堺」というのはすでに過去のものになったという。今、自転車製造の9割は中国などのアジア諸国で行われている。これからは、モビリティの重要な手段のひとつとして自転車をちゃんと位置づけて、自転車を有効利用するまちづくをすすめていくべきと尽力をつくされている。中村さんは、ご自身も15km離れている仙北ニュータウンにあるご自宅から毎日自転車で通うサイクルツーキニスト。もともと、シマノでメカニックとして自転車競技に参加していた人。自他共に認める自転車のオーソリティである。続きを読む

合意形成を生むための仕組みづくりが必要なのだ

大阪大学工学部へ。大阪大学はどでかい。運転手さんは大学構内の地図を片手になんとか目的の棟にたどりつく。大学院工学研究科教授・新田保次先生。じつは、4年前オランダのサイクルタウン「ハウテン」を取材することになったきっかけは、新田先生にその所在を教えてもらったからだ。今回は2度目である。
今日もインタビューは斉藤女史で、僕はカメラマン。今回の取材でよくわかったことは、自転車問題は市民も行政も力を入れて取り組んでいるのだが、ただひとり警察がネックなのだ(もちろん新田先生がそういったわけではありません、ぼくの考えです)。クルマの渋滞を極度に警戒し、事故があった時に責任を被るのは警察。なによりもそれを恐れているのだ。警察が責任をすべて負わなくてもいいような仕組みをつくる。それに関連して、合意形成が用意にできる仕組みをつくること。ヴィジョンをかたちにする戦略と戦術が必要なのだ。自転車問題は警察問題である。
今回のインタビューは、立場がそれぞれ違っているので、問題の所在が逆に明確になった。4年前の取材時に都市プランナーの角橋哲也さんにお話をお聞きしたら、やはり同じように合意形成の重要さを強調されておられた。まちづくりにとって一番必要なのは、合意形成を生むための仕組みづくりなのかもしれない。

自転車の理論家と自転車ツーキニストへのインタビュー。

待ち合わせの時間まで少しある。ケータイでテキストをつくり自分のPCに配信。まさか、ケータイで原稿を書くようになるとは思ってもみなかった。『city&life』no.83特集「サイクリング・シティの可能性」の取材。斉藤さんと待ち合わせて、(財)土地総合研究所古倉宗治さんにインタビュー。自ら自転車の理論家とおっしゃるが、まさにこういう論者を求めていたわけで。自転車がちゃんと車道を走れるようになって、諸外国同様市民の足としてちゃんと認知される社会を実現させるための具体的方策を尋ねる。
次にANAコンチネンタルホテルへ。自転車ツーキニストを自認する疋田智さんにインタビュー。自転車通勤のできる快適な自転車環境を目指す実践派。時に厳しく聞こえる意見も、自転車を愛するからこそだ。こうした市民の声があってこそ「サイクリング・シティ」の実現が可能になるのだろう。じつに気さくな人で、話が盛り上がる。そのあと「とら八」へ。外人客の多い居酒屋。年配の人が3人でやっている店。焼き鳥は美味しいしこんな居酒屋がアークヒルズにあるなんてうそのようだ。

トリローの冗談音楽にたばこが出てくるというちょっといい話

『TASC monthly』の4月号に八巻明彦さんが「流行歌に見るたばこの存在」という文章を寄せています。意味深な歌が好きなぼくは「ベッドでたばこを吸わないで」などよく口すさんだものですが、ちょっとしたエピソードとともにこれらのたばこの歌について綴られたもので、とても愉しく読ませてもらいました。かくいうぼくも昭和歌謡についていろいろ調べているのですが、たばこにまつわる歌を見つけたり思い出したりするとメモっています。そのなかで、これはと思ったのをひとつ紹介しましょう。
日本の在来種タバコ(川床邦夫さん曰く製品の「たぱこ」に対して植物は「タバコ」)には、鹿児島系(国府葉)、長崎系(達磨葉)、南部系(南部葉)の三つの系統があると言われていますが、その鹿児島系のタバコが出てくる歌があるんです。三木鶏郎の「僕は特急の機関士で」。この歌は、丹下キヨ子と森繁久彌のデュオでNHKラジオ「日曜娯楽版」のためにつくられた歌ですが、この歌には、「東北巡りの巻」とか「九州巡りの巻」というように続編もつくられました。その「九州巡りの巻」に問題の歌詞が登場。「博多よかとこ 柳町 仁和加芝居の おかめさん よくよく つくづく 眺めたら 僕の彼女に そっくりたい (リフレイン)福岡 久留米 鹿児島 ウ〜〜〜〜ポポ」が1番。で、その8番目「ここは鹿児島 桜島 煙草ヨカチョロ 国分から 南 屋久島 種ヶ島 これが日本の どんづまり (リフレイン)福岡 久留米 鹿児島 ウ〜〜〜〜ポポ」。こっちは、敷島昇、二葉あき子、伊藤久男というなんとも豪華な歌い手さんたち。そのなかで二葉あき子が歌うんですね。「煙草ヨカチョロ 国分から」と。どうです、なんともいいでしょう。1951年の作品。たぱこがまだみんなに愛されていた時の歌ですね。

誰にとっての「安全・安心」か。誰にとっての「環境対策」か。

20時からの選挙速報を見ると石原がきわめて優勢と出る。そのあと北海道とか神奈川とか岩手だとかやっているうちに8時半からまず目黒などの票が開くと、なんとその数分後には石原の当確が出てしまった。そのあとの石原の会見などを見る。オリンピックはさておき、「安全・安心」と「環境対策」が支持されたと強調する。やはり、大衆はこの二つにしてやられたのだ。ぼくは、「安全・安心」という考え方そのものが危険であり、また地球環境問題についても、その立論の仕方自体が倒錯であると言ってきた。「都民の良識がぼくを選んだ」とほくそ笑む石原を見ながら、まあそうなのだろうと思いつつも、だからこれらの言葉の裏にある意味をもっと冷静に考えなければいけないと思うのだ。これらの言葉の主語は何か。つまり、誰にとっての「安全・安心」か。誰にとっての「環境対策」か。スピノザの言葉を思い出す。大衆は大衆であるがゆえに見誤ることがあるし、それがどんなにばかな決定であっても与してしまうことがある。しかし、それでも大衆に向かって主張し続けなければいけない。民主主義とはそういうものなのだ。

いまどきの「悩み」との上手な付き合い方

香山リカさんから『「悩み」の正体』を贈呈していただきました。
「嫌われるのがこわい」「働いても生活できない」「まじめに生きてきたのに」…。競争が煽られ、効率性が求められる一方で、「場の空気」を読むことも要求される。心の余裕がどこか失われた社会の中で、人々の抱える「悩み」の中身も変わってきています。以前なら悩まなくてもよかったようなことまでが、今では多くの人にとっての大きな「悩み」になっています。しかも、悩み始めたら始めたで、「あなたはうつ病なのだから、病院に行って薬をもらってきなさい」とか、「マイナス思考にとらわれるのは人生のムダ。一刻も早くコーチングをうけなさい」なんて言われてしまいます。「いったいいつから、「考え込むこと」や「足踏みすること」は病的で悪いこと、すぐにとりのぞかれなければならないこと、とみなされるようになってしまった」のでしょうか。「悩み」となっているのは、それはその悩める本人の責任ではなく、むしろ社会や世間の問題なのではないか」。そして、「私たちにとって本当に必要なのは、不安のうちに悩まなければならないことではなくて、安心して"本来の悩み"を悩める社会」ではないか、と香山さんは提言します。
現代人の「悩み」の背景を解きほぐしながら、今、私たちは「悩み」とどう向き合うべきか、いまどきの「悩み」と上手に付き合う方法を探ります。
「悩み」の正体

exporsureを忌避するという風潮

酒井隆史さんをお招きして講演会&交流会。テーマは「公共性と迷惑行為』。『談』no.71号のインタビューをもとに最近の現象も交えてお話しいただいた。リチャード・セネットの議論をベースに、内面の純粋さを強調するあまりexporsureを忌避するという風潮ができて、ナルシジムが公共性を衰退させていくというお話はまさにそのとうりだと思った。でも、一番これだと思ったのは、公共性とはcivilityで、それは市民が仮面をかぶって劇場のアクターのようにふるまうものだったという話。これは最近すっと考えているギアーツの劇場国家論再考と通じるところだ。人称とは一元的であるはずがなく、多数性に開かれているからこそ社会的でありえるのだ。キャラは沢山あった方がいい。じつは、昔の人はみんなそうだった。いったいいつからぼくたちは、私に固執するようになったのだろうか。自分探しなどしている場合ではないのだ。

平城宮跡のサーベイと痴漢の記憶のいい加減さ

大和西大寺へ。徒歩で平城宮跡へ。平城宮跡の保存運動に尽力した棚田嘉十郎について調べるため。広い、とにかくだだっ広い。東京ドーム30個分はたぶんホントだろう。二条町から平城宮跡資料館を横目で見ながら、復元工事中の第一次大極殿を見る。平城京跡保存記念碑を確認し、東側にはり出している第二次の方も見る。踏み切りを渡って朱雀門へ。こちらは、平城京跡と違って、整備されている。ただし、月曜日だったので、朱雀門の扉は閉まっていた。奈良駅に戻る。奈良町を散策。よさげな路地が沢山あり、乙女ごころをくすぐようなかわいいものを売るリノベ物件多し。ちょっと金沢風か。
夕方奈良女子大学へ。文学部の浜田寿美男先生の研究室を訪ねる。浜田先生には、『談』no62で「自白の言語学……なぜ私はうそをつくのか」というテーマでインタビューをさせていただいた。今回は、『TASC monthly』の原稿依頼のため。最近の関心はなんですかと尋ねると、「痴漢だよ」とおっしゃる。なんでも痴漢の裁判を4つほど鑑定しているらしい。痴漢という行為の特殊性について一つの例をお話してくれた。
痴漢をした(と思われる男性)、されたと思われる女性ともに、じつは相手のことをほとんど覚えていないらしい。行為のあった場面で女性は大声をあげたためにその場にいた男性が取り押さえられた。女性は、逃げ出さないようにと男性のネクタイを掴んではなさなかったらしいのだが、取り調べの時には、その事実をまったく忘れていたという。男性は、容疑がかけられて、羞恥心と怒りで頭は真っ白、なんと肝心の訴えられた女性の顔すら覚えていないというのである。とにかく、細かいディテールになると、お互いの記憶はあいまい。痴漢は、記憶のいい加減さを実証する格好の材料のようだ。そして冤罪について考えるためにも。犯罪心理学、あるいは記憶研究という視点から、しばらく痴漢の裁判記録を読んでみようと思っていると。ちなみに、周防監督の「それでも私はやっていない」は、いい映画だったよとおっしゃってました。

テキストを書くことが、Webを育てているという当たり前すぎる感想。

ラピスの武田さん来社。某企業のポータルサイトのコンテンツをつくるため。ブログ機能を付加させたHPをつくりたいという希望。ブログ・ソフトウェアで、そのままサーバーに組み込んでしまえるMovable Typeを使おうということになる。カスタマイズも容易だし、なにより既存のブログソフトと違って、自前でセキュリティ管理ができるというところがいい。ゆくゆくは、当ブログもそのシステムに移行しようかと相談する。さて、某社のコンテンツをつくるに当たって、参考になりそうなのがY社でつくったHP。じつはラピスさんとはその仕事が縁でお付き合いするようになった。当時は書き込みといえば掲示板が主流。今から思えば、使い勝手の悪いシステムだった。ブログの誕生は、Webの環境を根本的に変えてしまったのだと、今さらながら、思うのであった。夜「拝啓、父上様」を見る。第4話で鳶のシャク半こと半次郎が登場。これって、「前略、おふくろ様」でいえば、渡辺組の鳶の半妻でしょ。ということは、いよいよ恐怖の海ちゃんが登場することになるかも。でも、誰がやるんだ?

エスニックタウン大久保と守れシモキタらしさ

新大久保で都市プランナー・稲葉佳子さんのインタビュー。大久保といえば商店街の放送にも韓国語が使われているようなコーリアンタウン、だと思っていたら、今は台湾華僑、インド人、タイ人、さらにはミャンマー系のムスリムもいる、他民族エリアになっていたのだ。いつのまにか、大久保はマルチ・カルチュラルなエスニックタウンになっていたのである。そして、まだまだ変っていきそうな勢い。20年近く大久保をサーベイしてきた稲葉さんも、ここのところの変化の早さには驚いているらしい。インタビューした風月堂を出て、大久保駅のすぐ横の通りを行くと、ハラムフードの新しい店がオープンしていた。稲葉さんもご存知なかったらしく、さっそく写真を撮っていた。インド料理の食材を売る店を覗く。タイフードレストラン『バイリン」の前でポートレイトを撮って別れる。午後は下北沢の建築家/明治大学教授・小林正美さんの事務所へ。下北沢で建設が予定されている都市計画道路がどんだけダメな代物か、ジェイコブス的視点から検証してもらった。小田急線の地下化の工事はすでに始まっているが、駅舎は地下5層部分にできるらしく、井の頭線との乗り換えが相当に不便になるらしい。そんなことぜんぜん知らなかった。ぼくは、単に下北の今が好きだからこの計画にはずっと反対してきたけれど、どうやら実害を受けそうである。立派な道路や駅広ができても、乗降客がいないということになったら、一番困るのは下北で商売をしている人たちだろう(なんてったって1日12万人が乗り降りする駅なのだから)。こうなったら、なにがなんでもこの計画をストップさせたい。未来のジェイコブスよ、下北に来れ。

思ったようにはいかないこともある。それも編集というものだ。

橋爪大三郎さんの研究室へ。講演会&交流会の打ち合わせ。先生は、「たばこにはひとつもいいところがない」という前提から話を始められた。こりゃちょっと困ったなと思っていると、生活習慣病における最大のリスク要因であり、受動喫煙も事実だという認識。たばこがいいか悪いかという判断はメーカーがするもので、先生はいいとも悪いとも言わない。問題は、多くの人がたばこはイヤだと思っている時に、どうやって折り合いをつけていくか、それを社会学という観点から考える。まったくもっておっしゃる通り。しかし、JTの人も参加する場所で、厳しい現状の確認を駄目押しされてもどうだろうか。むしろ橋爪さんに不愉快な思いをさせてしまっては困るので、今回は見合わすことにした。大急ぎで半蔵門へ。時間をまちがえて、10分遅れる。すでに塩事業センターの担当者と眞嶋亜有さんが打ち合わせ中。正式な原稿依頼をしたとのこと。テーマの確認としばらく雑談。こっちは、原稿さえよければまったく問題ない。あとは待つばかり。ところで、真嶋さん、今年居を三番町に移すとのこと。なんとセレブな。ABCで小泉義之さんの新訳『意味の論理学』上下、赤川学さんの『構築主義を再構築する』を購入。

「東京でオリンピック」、 この時代錯誤が東京を滅亡させないことを祈る。

『city&life』no.83特集「ジェイコブスの宿題」の座談会「今こそ都市の論理を! ジェイコブスは日本でどう応用できるか」。出席者は、企画委員の日端康雄さん、陣内秀信さん、林泰義さん。林さんに進行役をお願いして2時間、実りある議論ができた。日本の都市は、ジェイコブス的視点から見る限り、まったく遅れている。えっ、東京は六本木ヒルズや表参道ヒルズがあるじゃないか。それになんといっても東京オリンピックをもう一度やろうとしているというのに、どこが遅れているの? いや、それが、まさに「遅れている」ということなのだ。大都市だから超高層、ビッグプロジェクトという発想がすでに世界の都市開発の潮流から完全に取り残されてしまっているのだ。ジェイコブスの宿題、冬休み中にできるようなものではないけれど、自らの課題としてしっかり勉強することにしよう。

魂や霊魂の存在を疑わない大学生が6割もいるらしい。

香山リカさんから『スビリチュアルにハマる人、ハマらない人』(幻冬舎新書)を贈呈していただいた。オーム事件以降、オカルトはスビリチュアリズムへと変身した。そのスピリチュアルブームの中心にいる人物、オーラのカリスマ江原啓之とは何者か。前世や霊界を語ることと、ハルマゲドンを語ることとどこが違うのか。「生き返り」を信じる子供が2割もいて、魂や霊魂の存在を疑わない大学生が6割もいる。そうした社会状況の中で、人々は癒されたい気持ちを「スピリチュアル」に求める。
「スピリチュアル好きの人たちはその世界に傾倒することで、いったい何を求めているのだろう。それはスピリチュアリストのことばに従って人生の選択を決定する人に象徴されるように、〈守護霊〉や〈前世〉の力を借りていまの自分がどうよく生きるか、悩みからいかに救われるか、ということであるようだ」。彼らの目的は、もとより霊と交信することじたいではない。そうではなく、今の自分が「幸福を得るためにはどうすればいいか」、そのためにオーラや守護霊にすがりつくのである。そこにあるのは「圧倒的な自分中心主義であり、しかも〈現世〉中心主義なのだ」。
オカルトからスピリチュアルへ。日本人のメンタリティの変化がそこには見て取れるのである。
スピリチュアルにハマる人、ハマらない人

「たわいのなさ」「雑談」は、意味がないことに意味がある?!

豊橋技術科学大学へ。知識情報工学系教授・岡田美智男さんのインタビュー。『談』の遊びの特集のひとつとして。岡田さんは昨年までATR研究所におられた。目玉の一連のシミュレーション「Talking Eye」「目玉ジャクシ」や、目玉の対話型ロボット「muu」の製作者として知られている。
豊橋に移ってからも、引き続き実装型ロボットの製作と供に、生態心理学、認知心理学から、コミュニケーションと身体、社会の関わりを追求しておられる。今日は、コミュニケーションの成立する場のダイナミクスに「遊び」という切り口から取り組もうとしていられることを知って、「これだ」と思い馳せ参じたわけである。
ざっと実機製作を振り返りながら、岡田さんの問題意識をうかがい、そこから「遊び」との関係に話が及ぶ。そもそもこうした研究をおやりになったきっかけが女子高生たちの雑談。たわいもないことを延々と話し続けている。しかし、そこには確実にコミュニケーションというものが成立している。「たわいのなさ」「雑談」のもっている意味を探ろうというのが、そもそもの動機であったという。他の意味のあることをいの一番に掲げてまい進してきたロボット研究とは、まずその端緒から違う。そこが岡田さんユニークなところだ。
これまでことあるごとに触れてきたように、「遊び論」そのものが、ホイジンガ、カイヨワ、チクセントミハイ、エリス以降たいした成果を生み出していない。誰でも一度は取り組む、その意味では関心の高いテーマではあるけれども、本質的なところまではいかず未消化に終わっている場合が多い。岡田さんが一つの切り口に「遊び」を選ばれたのは慧眼であるが、更なる探求が必要に思った。ただ、生態心理学とヴィゴツキーを関連付けたり、ゴフマンを廣松哲学から再考するなどというアイデアは、センスのよさを感じた。今後の研究に大いに期待したい。身体と潜在性というような問題に切り込んでもらえるとうれしいのだけれど。それにしても、「muu」のこのそこはかとなさはなんだろう。めちゃカワイイとおもわへん???

「健康」オタクとは誰か。健康をテーマに活発な議論が交わされた。

『TASC monthly』用の公開座談会をTASCにて開催。テーマは『健康オタクの登場……健康のオタク化現象はいつ始まったか』。出席者は、東京国際大学人間社会学部専任講師・柄本三代子さん、日本学術振興会研究員・眞嶋亜有さん。司会進行を科学ジャーナリストの粥川準二さんにお願いした。
血液サラサラ、メタボリックシンドローム、コエンザイム、アンチエイジング、茶カテキン、ギャバ、などなど。ワイドショー、バラエティ番組では、連日、健康情報がネタになっている。健康情報にふりまわされてリスクをどんどん増やしては悩んでいる人々が多い中、健康になることそれ自体を目的とする人たちが登場してきた。健康にいいとなれば手当たり次第に試したり、山のようにサプリメントを買い込んでは、一日に何十錠も飲んでいるような健康にまい進する人。彼(彼女)をここではとりあえず健康オタクと呼び、そのオタク化の背景や動機を探ろうというのが狙いであった。
テレビなどのマスコミによる「おどし」の構造が、今ではテレビの外の世界にも広がっているという指摘から、健康が手段から目的になったのはいつごろからか、健康へ向かう意識と美しくなりたいという意識は同じか違うか。病気の売り歩きという現象が起こっていて、いままで病気でなかったものに病名がつけられることで病人が人工的につくり出されていく現実。その背景には、ドゥルーズが予言した規律権力から管理社会へのシフトという大きな社会の変化があること。外見至上主義と健康至上主義のはざまで消費者は揺れ動いているのではないかという問題提起に、そもそもそうした健康観そのものが成り立っている社会構造こそ問題という反論。「成人の9割以上がメタボリック・シンドローム」という言説は、今や健康がリスクマーケティングの格好のターゲットになっていることを示している。はたして、この現状を商機と見るか危機と見るか。予想した以上に、白熱した議論が展開された。詳しくは、『TASC monthly』でお読みください。

人々は二つの価値観を値踏みして選好しているらしい。

専修大学文学部教授・下斗米淳さんを訪ねる。某プロジェクトの調査についての相談のため。詳しいことはかけないのだが、社会調査のいろはを教えていただいたみたいでぼく個人としてはとても有意義だった。一つだけいうとなぜそう思うのかという質問の根拠が、なぜそう思わないかという回答の根拠と、しばしば一致してしまう場合がある。逆の場合もあって、根拠はまったく別にあるのに、そう思うという同じ回答になることもある。あるものについて好感度をさぐる場合、「○○はとんな時によい感じを持ちますか」という質問事項では、ポジティヴな回答は得られても、ネガティヴな回答は引き出しにくい。なので、こういう場合は、「○○をよいと思う時は」「○○をよいと思わない時は」という正反対の二つの軸を置いた方がいい。われわれが意思決定する時というのは、あることに対して「良い/悪い」の二つの相反する価値観をはかりにかけて、そのバランスで判断することが多いというわけだ。??、いったい何を言いたいの? と言われそうだけれど、なんとなく言いたいことはわかりますよねぇ。まあ、そういうことなんですよ。

社会調査は、やって始めて分かることがじつはいっぱいあるのです

『談』の青焼きが出ました。大急ぎでチェックをしなければならないのですが、夜は打ち合わせが入っています。さて、こういう時にどっちを優先するか。どっちも優先しないといけないんですね、こういう時は。身体が二つ欲しいです、ハイ。下條プロジェクトの廣中直行さん、某企業の方々と打ち合わせ。現在進めている調査についての経過報告を聞く。自分の気持ちを色にたとえると……、という質問項目がありましたが、これってけっこうむつかしくないですか。ある心理学の先生がいってましたが、ある気分は特定の色と強い親和性をもっています。そのひとの記憶や習慣にひきづられて出てくる答え。まさにステレオタイプ型回答の典型。これは調査そのものを反証するという理由で、あまり意味があるようには思えないのですが。ということは、じつはやってみて始めて分かることでもあるのです。

成長と拡大の果てで「東京」はフロンティアであることを止める?!

神戸大学発達科学部教授・平山洋介さんから『東京の果てに』(日本の〈現代〉15  NTT出版)を贈呈していただきく。平山さんが昨今続けておられた都市のフィールドワークから捉えた東京の空間論。
「都市に生成する空間が深みをもっているのは、複数の欲求と声が複雑にからみあっているからである。都市の将来像をどのように構想するのかという問題を取り巻いて、多数の力が出会い、衝突、交渉、抵抗、懐柔、取引などの慣例を錯綜させてきた。複数の声が強行すれば、込み入った摩擦が生まれ、多くの欲求は妥協と譲歩が強いられる。(…)この複数性と複雑性は都市にとって大切な価値である」。しかし、今の東京は、極端な一元化と複雑性を回避する単純化の論理に置き換えられようとしている。本書は、「都市改造」、「タワーマンション」、「不平等社会」、「生死と墓地」という4つの切り口から、フロンティアとしての東京が直面する真の問題とは何かをあぶり出す。すでに、東京はフロンティアであることをやめている!
だからこそ、今必要なのは、都市の原点に返って「都市の多元性を尊重しその複雑さとの交際を深めるべき」なのであって、その先にしか空間の将来はない。それは、フロンティアの意味をあらためて問い直すことだ。
TASC的な関心からいうと、調査記録をもとにした「路上喫煙」の規制について触れている箇所があって、これは必読。
東京の果てに

「悪/善 人はなぜ人を殺すのか」というシリアスなテーマのシンポジウム

草月会館で開催される「ルネッサンス・ゼネレーション06」へ。今年で10回目を数えるが、今回が最後になるらしい。カリフォルニア工科大学凖教授・下條信輔さんとビジュアル・アーティスト・タナカノリユキさんの監修で、毎回ゲストが多彩なうえに無料ときている。いつも大盛況だ。
テーマ・切り口の斬新さと、下條さんの名司会(しゃべりすぎという話もあるが)で進行する、シンポジウムというよりは一種の「お勉強ショウイング」。今回のテーマは「悪/善 人はなぜ人を殺すのか」。監修者のお二人の他に、ゲストスピーカーとして、筑波大学大学院人間総合研究科教授(司法精神医学)・中谷陽二さん、京都大学大学院理学研究科助手(霊長類学)・中村美知夫さん、千葉大学人文社会科学研究科教授(哲学)・永井均さん。それと、パフォーマンス(テキスト・リーディング)としてミュージシャン・金剛地武志さん。
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「週間ポスト」11月17日号の「衝撃データ」とは

本日も週刊誌ネタを一つ。「週間ポスト」11月17日号の「衝撃データ 受動喫煙は子供の発がん率を低下させる!」。WHOの付属機関 国際がん研究機関が1988年から94年までの7年間をかけて、欧州7カ国で650人の肺がん患者と1542人の健常者を比較して実施された疫学調査は、「成人同士の受動喫煙は、肺がんの発生率を高めず、子ども時代の受動喫煙は肺がん率を低下させる」という驚くべき結果になった。岐阜大学医学部助教授・高岡健氏によれば「WHOの付属機関の調査だけあって客観性も担保されている」と記事でコメントしている。
受動喫煙が発がん率を高めるというデータは公表されているのに、なぜにWHOは、この調査結果を10年以上も公表しなかったのか。まあ、推して知るべしですけどね。→ http://www.weeklypost.com/061117jp/index.html

臓器移植問題について小松美彦さんのインタビュー記事

宇和島での臓器売買事件を契機とした臓器移植問題について『図書新聞』11月14日号に東京海洋大学海洋科学部海洋政策文化学科教授・小松美彦さんのインタビュー記事が掲載されています。読まれた方もいらっしゃると思いますが、ご本人から以下の内容のご報告がありました。転載いたします。
「活字になった部分は全体の約三分の一であり、そのロングバージョンを下記の図書新聞サイトで読むことができます。宇和島の件については、どのマスメディアも報道していないはずのことを語っています。また、最後部分では「教育基本法」の改定問題との関係にも言及しております。ご一読下されば幸いです。 小松美彦」→緊急インタビュー
        

ヨガブームは女性の身体への強い関心の表れ。

五感研究のジャーナリスト・山下柚実さんと打ち合わせ。某プロジェクトへの参加の正式なお願い。彼女は、ルポライターのほかに私立の小学校で五感に関する授業をしたりしているとのこと。
女性たちは自分の身体に対して男性より強い関心をもっている。昨今のヨガブームがそれを如実に示しているという。ホットヨガとかハリウッドヨガとか、確かに昨今のヨガブームを支えているのは若い女性たちだ。あと、匂いとからだについても彼女たちは敏感だ。女性は髪につく匂いをことさら気にする。ところが、男性の口から、髪についた匂いがどうのこうのなんて声は聞いたことがない。確かにそうかもしれない。ジェンダーの視点から喫煙と身体の関係を探る。山下柚実さんに協力してもらいもっと掘り下げてみたい。ところで、肺が真っ黒の衝撃写真と喫煙の因果関係がないことはJTはとっくに知っているらしい。ただ、そのことについて、あえて口にしないのだそうだ。JTをとりまく社会環境の厳しさをあらためて知らされた思い。

ぼくらはモグラからヘビへ移行した

「私たちは、監獄、病院、工場、学校、家族など、あらゆる監禁の環境に危機が蔓延した時代を生きている。家族とはひとつの〈内部〉であり、これが学校や職業など、他のあらゆる内部と同様、ひとつの危機に瀕しているのだ。当該部門の大臣は、改革が必要だという前提に立って、改革の実施を予告するのが常だった。学校改革をおこない、産業を、病院を、軍隊を、そして監獄を改革しようというのだ。(…)こうして規律社会にとってかわろうとしているのが管理社会にほかならないのである」。
「(…)不思議なことに大勢の若者が〈動機づけてもらう〉ことを強くもとめている。もっと研修な生涯教育を受けたいという。自分たちは何に奉仕されられているのか、それを発見するつとめを負っているのは、若者たち自身だ。彼らの先輩たちが苦労して規律の目的性をあばいたのと同じように。ヘビの環節はモグラの巣穴よりもはるかに複雑にできているのである」。
ジル・ドゥルーズが残したあまりにも有名なテキスト「追伸……管理社会について」より。これが90年に書かれていたことにあらためて驚く。それにしても、モグラとヘビはなんの比喩なのだろうか。モグラが監禁環境の動物でヘビが管理社会の動物だとしても、その含意は果たして……。

「まちづくり」のフレームワークにレヴィ=ストロースが役に立つ

取材2日目。朝起きてダイニングルームにいくとおばあちゃんが座っていた。85歳には見えない。顔の色つやはいいし耳も悪くない、ふだんは部屋で編み物をしているすてきなおばあちゃん。山で拾ってきたという栗をいただく。おばあちゃんとしばしよもやま話。
みんな揃って朝食。畑を見る。茄子、いんげん、アスパラ、枝豆、いちじく、キャベツ、トマト、キウイ、柿、りんご、ゴボウなど野菜や果物が畑せましに植わっている。この畑のものすべて、宿泊客は基本的に勝手にとっていいことになっている。泰山堂に宿泊された娘さんは、一生懸命枝豆を採っていた。
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健康は矛盾そのもの。でも、押し付けられるのはやっぱりイヤですよ。

古瀬戸珈琲店で粥川準二さんと待ち合わせ。ところが時間を過ぎたのになかなか現れない。TASCの新留さんとどうしたんだろうとケータイにtelすると、靖国通りぞいの日本文芸社の1Fにある「カフェテラス古瀬戸珈琲店」で待っていたと。「古瀬戸」が二つあったなんて知らなかった。急いで向かい、無事合流。『TASC monthly』の座談会の打ち合わせ。柄本三代子さんと眞嶋亜有さんと二人の女性を、粥川さんがどうリードするか楽しみ。ところで、粥川準二さん「健康を押し付けられることは嫌。でも、30過ぎてムリがきかなくなってくると、健康に対してどうしても関心をもつようになる」んですよっておっしゃった。まぁ、それは僕も同じですけどね。日ごろ健康イデオロギーだ、メディカライゼーションだと批判していながら、じつは週に何日かティップネスで汗を流している僕ですから。しかし、問題は、やはりはっきりしています。健康を国や権力がコントロールするものではないということ。それがますます露骨になっていることが問題なのですから。
夕方、JTの研究プロジェクトのミーティング。以前2年間にわたって企画・運営に関わった「EIプロジェクト」(ヤマハ発動機)のフォーマットが活かせそうなのでうれしい。

TVは時に科学者を疑似科学者にしてしまう?!

TASC会議室にて、「科学と疑似科学どっちがホントっぽい? ……科学的正しさの機能不全」というテーマで鼎談を開催。出席者は、東京大学大学院教育学研究科教授・金森修さん、名古屋大学大学院情報科学研究科教授・戸田山和久さん、帝京大学経済学部助教授・小島寛之さん。
疑似科学が蔓延している現状を確認したうえで、何がそういう状況を生み出しているのか、その問題点は何か、さらには、何が今必要なのか、自由に議論していただいた。
科学者側にその責任の一端があるのならば、科学者も反省し、市民への啓蒙活動も大事だとするしごく正当な意見が出たが、それは科学の問題というよりは、社会の方にこそ問題があり、必要なのは合理的な判断ができるシステムづくりという意見も出た。また、疑似科学を鵜呑みにしてしまうような頭をつくってしまう現在の教育にこそ問題があるという批判も出た。
個人的に興味をもったのは次のような発言。科学者は、科学はここまでしかわからないということをよく知っている。わかりたいと強く思っていても黒白がつけられないのが科学者だ。ところが、何かわからないことがあるとメディアは、科学者を引っ張り出してきて結論を迫る。メディアが科学者に期待するのは、「まだわからない」という消極的なコメントではなく、「専門家からみてそれは絶対に黒(白)だ」という断定だ。科学というお墨付きを得た上で、さらにサプライズが期待される。そのため科学者は、時に疑似科学者の役を演じさせられてしまう。疑似科学の蔓延には、テレビの影響があるのではないか。ほかにも、背景には科学政策と予算配分のゆがみが生み出した現象、官僚の科学リテラシーが低すぎるのが原因という辛辣な批判も。じつに有意義な鼎談となった。来年発行の『TASC monthly』に掲載を予定している。乞うご期待。

情動商品としてのたばこというアイデア

眞嶋亜有さんの水虫の研究、「香港、16℃の誘惑」、「愛にさまようモテオヤジに捧ぐ?」などを読む。眞嶋さん、論文だけでなくエッセイもとっても面白い、なにより文章がお上手。新たな論客の登場だ。これから、ぼくは、全面的に応援をしていきたいと思います。なんて、ひとりで興奮してどうする。
演劇評論家・田之倉稔さんにお電話。原稿を依頼。二つ返事で引き受けてくれた。ちょうどイタリアへドン・ジョバンニのことを調べにいってたところなので、そのことについて書こうかなと。よかった。
日本総合研究所の富永さんと筑波大学の好井裕明さんのところへ。今回の面会目的である「喫煙の愉しみ」についてのグルイン実施の内容について説明する。実施にあたって、社会調査をされてきた専門家の立場からアドバイスをもらおうというもの。
好井さんは、喫煙そのものがもっている文化と喫煙者の文化をまず分けて考える必要があるとしたうえで、「喫煙の社会性」というものに目を向けてはどうかとおっしゃった。「たばこと社会」というと、とかく喫煙者の社会性、社会的行為にばかり関心が寄せられるが、たばこそのものがすでに社会性をもった「もの」であるという視点を、もっと考えてみなくてはいけないのではと。シガレットから葉巻まで、大衆的な商品でありながらも社交的小道具、高度な文化的商品という性格ももっているたばこは、きわめて多義的で多様性豊かな「もの」である。マナーや節度の問題は、「たばこと社会」のある一面でしかない。人間のもつ社会性のより根源的な問題として、たばこをきちっと位置づけ直す必要があるという提言、とぼくは受け取った。「人はなぜたばこを吸うのか」、結局この問いにまだ誰も答えられていないということなのだろう。
情動商品としてのたばこというアイデアが閃いた。たばこは人間の情動と深い関わりがあるし、情動に直接作用する物質といってもいいだろう。たばこをなぜ吸うのか、という問いに答えを見出せないのは、情動とは何か、ということに容易に答えを見出せないのと同じではないか。情動のわかりにくさは、たばこのわかりにくさにちかい。両者は、とてもよく似ている。たばこを知るためには、まず情動の解明が先決だ。

ネット/実世界に対して批評がまるで追いついていない

国際グローバルコミュニケーションセンター(GLOCOM)客員研究員・鈴木謙介さんと原稿依頼の件で会う。著作が出るたびにプロフィール写真の髪形が変っていたが、現在は黒でワイルドな感じ。テーマはお伝えしてあるが、詳細は会ってから詰めましょうということになっていた。それにしても鈴木さん、間髪入れずにしゃべり始める。ぼくが途中で間の手をいれると、それがさらにはずみになっていよいよ止まらない。30分程度の打ち合わせ時間だったが、ほとんど鈴木さんがしゃべっていた。話しながら考えるタイプとおっしゃっていたが、現在のネット環境と実世界の関係を非常にうまく整理していただいた。ネットと実世界のリテラシーについても。
現実進行中のネット/実世界に対して批評がまるで追いついていない。あいかわらが本当の世界があると信じそれを拠り所にして批評言語を組み立てようとするモダニスト。リアルなんてものはないと言い放ちながら、ロジックというフレームワークをいまだに手放せないでいるポストモダニスト。ネット/リアルワールドで起こっていることの実態は、いずれの立場からも解明できないだろう。鈴木謙介さんはその現状をかなり精確に俯瞰できている。そして言語を使ってその両者を架橋しようとしている。今度お願いした原稿(「en」)では、まさにそのあたりについて書いていただくつもりだ。
進めている仕事の色校正が出た。早速クライアントに持っていくと問題発生。写真の差し替え、トリミングの変更。これまでカラー出力したレイアウトを何回も見せているのに。「やっぱり色校で見ないとわからない」って、わかりますよそんなの。結局レイアウトをやり直して再校を出すことになる。なんという無駄なことを。これ、じつは国がらみの仕事で、結局は税金なわけで、何をやっているのだろうかとあきれてしまう。まず実世界こそ、ちゃんと批評したほうがよさそうだ。

障害者を自然な眼で捉えた『フリークス』を再評価したい

玖波大学社会科学系教授・好井裕明さんと再会。じつに20年ぶりである。少しふっくらとされたが、話し方も考え方もまったくといっていいほど変わっていなかった。初めてお書きになった新書『「あたりまえ」を疑う社会学』が好評で現在3刷。読者に社会学プロパー以外の理系の人が多かったとご本人はびっくりしておられた。好井さも寄稿されている論集『戦後思想の経験史』(せりか書房)や報告書、抜き刷りなどをもらう。今は次の新書の準備中とか。
今回お会いしたのは『TASC MONTHLY』への原稿依頼、その要旨のようなものにしたいとのことだった。最近は、映画の分析などもやっておられて、ヒロシマを扱った映画の分析とか『フリークス』の分析もやっておられた。それをまとめた小冊子『映画のもつ"啓発する力"を調べる可能性……『フリークス』を読む試みから』を見せていただく。なんと『フリークス』はDVDになっているのだ。障害者の生活を自然に撮っている、差別的な意味よりも具体的な彼らの〈生〉の迫力があざやかに描き出されて、今見るとそれが非常にいいとおっしゃる。授業で見せると学生はかなりショックを受けるらしいが確かにそうだろう。ぼくも、アンダーグラウンド・シネマで初めて見たときぶっ飛んだもの。でも、こういう評価をする好井さんにぼくは大いに共感する。好井さんの視線は常にあたたかい。
20年前のインタビューの話になったら、「あの『談』、たぶんそのあたりにあるんじゃないかな」と言って、本棚の下の方から取り出したのが、まさしくあのインタビューの載っている『談』、「理論のプレシオジテ」という特集の一冊だった。ちゃんと持っていてくれたのだ。4年前に筑波に移ってこられたのに、『談』も一緒にやってきたというわけか。感激!! とりあえず原稿を楽しみに待つことにしよう。
フリークス

シングル女性の老後問題は、既婚男性の老後をも暗示する

香山リカさんから新刊『老後がこわい』(講談社現代新書)を贈呈していただく。『就職がこわい』、『結婚がこわい』(いずれも講談社現代新書)、の「こわい」シリーズの三作目。今回のテーマはズバリ、シングル女性の老後問題。
「(…)近いうちに世の中は、"シニア負け犬"であふれることになる。〈いつかは私だってステキな誰かと〉と夢を見ながら働いているうちに六○代、七○代を迎える彼女たちは、いったいどういう老後を送ることになるのだろう。考えたくないからこの問題から目を背け、〈まあそのときが来たら考えればいいさ〉とケ・セラ・セラの"ラテン生き方"をしていれば、なんとかなるものなのだろうか。私だって口では10年以上も前から〈もうオバサンだし〉などと言いながら、実は〈自分の老後〉など想像するのも恐ろしいのだが、この際、覚悟を決めて一度だけ考えてみることにしよう」(本文より)。香山さん本気で考えましたよ。そして、考えた末の結論は…。やはり、ケ・セラ・セラなんてとうてい言ってられない状況が待ち受けていることにがく然とするのでした。なにより、この老後問題、じつはシングル女性だけの問題ではないところがこわい。男性諸君にもぜひ読んでいただきたい。
老後がこわい
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