身体表現というのはむつかしい。自分のからだがある、というところから容易に始められてしまうからだ。たとえば、風呂場で裸になっても日常の行為の延長でしかないが、商店街の八百屋の店先で、突然全裸になってひっくり返れば、それはそれで立派なパフォーマンスだ。病院で血を抜かれてもそれは医療行為だけれど、飲食店で、市販の注射器を使って突然血をぐんぐん抜いたとすれば、それは表現行為として成立してしまう。しかし、調子に乗ってさらにそこで排せつ行為へと至ってしまったら、もはや表現とはみなされず、警察ざたか病院送りになってしまうだろう。自分のからだがあるということと、自分のからだが表現手段になりうるということとは、まったく別のことなのだ。そこからこの種の錯誤は生まれる。熊野純彦さんが指摘するように「自分が自分の身体を所有している」ということを、まず疑うところから始めなければならない。「身体がある」という自明性への懐疑なしに開始されてしまう身体表現。しかし、この手のパフォーマンスが、今あまりに多すぎるぞ。
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