身体

マダムエドワルダat飲食店

身体表現というのはむつかしい。自分のからだがある、というところから容易に始められてしまうからだ。たとえば、風呂場で裸になっても日常の行為の延長でしかないが、商店街の八百屋の店先で、突然全裸になってひっくり返れば、それはそれで立派なパフォーマンスだ。病院で血を抜かれてもそれは医療行為だけれど、飲食店で、市販の注射器を使って突然血をぐんぐん抜いたとすれば、それは表現行為として成立してしまう。しかし、調子に乗ってさらにそこで排せつ行為へと至ってしまったら、もはや表現とはみなされず、警察ざたか病院送りになってしまうだろう。自分のからだがあるということと、自分のからだが表現手段になりうるということとは、まったく別のことなのだ。そこからこの種の錯誤は生まれる。熊野純彦さんが指摘するように「自分が自分の身体を所有している」ということを、まず疑うところから始めなければならない。「身体がある」という自明性への懐疑なしに開始されてしまう身体表現。しかし、この手のパフォーマンスが、今あまりに多すぎるぞ。

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浜田真理子さんの声はゾーエーか

この人の歌を称して「新幹線が減速しはじめる時のように、時間の流れがどんどん落ち着いてくる」と言ったのは北中正和さんだ。ほんとうにそう。一曲一曲聞いているうちに、ついに静止してしまったこの人の歌とともに、ぼくの耳もすべての機能を停止した。こんな体験は、思い出す限り過去に一回しかない。「疱瘡譚」の中で、身体のすべての機能を凍結し、舞台にしゃがみ込んだ土方巽の姿をみた時だ。身体とは、単なる骸(むくろ)にすぎない。しかし、それは時間を抱え込んだ存在である。ほかの何ものとも交換不可能な「このもの」としての骸。土方巽の身体は、一切の時間性をその存在のうちに解消してしまう。この人の歌にも、もはや速度というものがない。そこにあるのは、時間を凍結させてしまった「声」そのものであり、それは、人間の「在る」にほかならない。存在という名の「声」。時間性から隔絶した「声」。この人とは、浜田真理子さんのことである。大友良英さんのニューアルバムではじめてこの人の「声」を知った。そして、またたくまにぼくは虜になってしまった。ニューアルバム「MARIKO LIVE 〜ROMANCE〜」には、「ゴンドラの唄」「黒の船唄」「逢わずに愛して」なとどという懐かしい歌が収録されている。が、どの曲もまるではじめて聴くかのように聴こえてくる。唯一絶対のその声によって。ぼくは、舞踏(骸化)する身体とまったく同質の、骸化する声というものがあるという事実を、浜田真理子さんの歌によってはじめて知ることができたのだ。ほんとうにこの人の歌はすごすぎです。なんでこんなことを書いたのかというと、この骸化する身体、骸化する声こそが、「いのち」の本性ではないかと、思ったからである。一言でいうと、そこには「生」も「死」もない、いや、逆だ、「生」と「死」が完璧なかたちで同居している。つまり、「いのち」とは「生」と「死」の共在をいうのではないかと思ってしまったのだ。時間ゼロの中では、「生」と「死」は奇跡的に共在してしまう。それが、ゾーエーを解く鍵だろうと思う。浜田真理子→土方巽→ゾーエーという流れが、『談』no.74の伏線になる。

熊野純彦さんのインタビュー

4時半に東大正門でTASCの担当者、カメラマンの秋田さんと待ちあわせ。法文2号館に入ったはいいが、熊野さんの研究室が分からない。ここはまるで迷路。10分以上うろうろしてなんとかたどり着いたが部屋は不在。先生は倫理学の部屋にいらした。ロンゲで俳優の****さんが入ってる感じの人。いやー、現代思想の人だった。僕は好きです、こういう方。話はほぼ予想どうりに展開。「生きていることの不思議」は僕も常日ごろ感じていること。共感しまくりです。「自然科学者ってつくづくバカだと思う」という言い方が、まったく現代思想なんですね。ロンピー党、おまけに大酒飲みだとか。そういえばこの研究室は喫煙OK。気骨のある研究者がそろっているのだなと納得する。帰り際に、「僕と小泉義之さんの対談を企画されていて、彼が断わったんですって」といきなり聞かれる。インターネットで学生がBLogとかを調べたらしい。いやそうではなくて立岩さんとの対談のつもりだったと告白する。それと、今回もあの似顔絵あるんですかって。やはり、あれやっぱりみなさんいやなのかしら。

感覚変容の様相に迫る『近代日本の身体感覚』

no.67「リスクのパラダイム」でインタビューをさせていただいた北海道教育大学釧路校助教授・北澤一利さんから、『近代日本の身体感覚』(青弓社)を贈呈していただきました。12人の若手の研究者による論文集で、北澤さんは国際日本文化研究センター教授・栗山茂久さんとこの本の編者をされておられます。身体の基層部で絶えず変容を強いられる感覚について、医療、美、視覚化、身体化、こころといった視座から、その変容の様相に迫ろうという意欲的な企画です。個人的な舞踏への関心から、榑沼範久さんの「〈人間化〉から〈動物化〉へ…舞踏家・土方巽の〈肉体の反乱〉」、それと、やはり北澤一利さんの「栄養ドリンクと日本人の心」を興味深く読みました。感覚変容の問題を論じる場合、表象論やイメージ論で語ってお茶を濁す場合が多いように見受けられますが、この本では感覚変容を現象として捉え、実証的な検証を踏まえて考察されているので、どの論文も説得力があります。一読をお奨めします。
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音楽家による身体の思想

九州国際大学経済学部教授・石田秀実さんより『気のコスモロジー 内部観測する身体』岩波書店刊、を贈呈していただく。石田さんは、98年に『談』no.59「老いの哲学」で「壮年期という幻想 成長と老いの途上で生きる身体」というテーマでインタビューをさせていただきました。その後、ある音楽会で石田さんと再会する機会がありました。というのは、石田さんは近藤譲さん佐野清彦さんらと作曲グループW.E.T.を結成し、作曲家としても活動されておられました。音楽会とは、石田さんが東京でなさった個展のこと。アンサンブル・ノマドによる演奏が、普段あまり現代音楽に接する機会の少ない僕に強烈な印象を残し、いまでも忘れられないコンサートの一つです。石田さんはおからだを悪くされていて、めったに東京に出てくることはありません。今回またこんな大きな仕事をなさって、そのバイタリティには、ただただ頭が下がりっぱなし。ゆっくり、きちんと読ませていただきます。
気のコスモロジー―内部観測する身体
コンサートで演奏された作品を収録したCD『神聖な杜の湿り気を運ぶもの 石田秀実作品集』ALMレコード ALCD-60 2001

自分の身体は他者の食べ物

小泉義之さんの文章には、いつも度肝をぬかれますが、『レヴィナス 何のために生きるのか』(河出書房新社)で、こんな言葉に出会いました。「…〈食べ物を〉〈食べ物はないか〉という語は、〈お前が食べ物だ〉と聴き取られ、〈私が食べ物である〉と引き受けられる。この出来事こそが、言葉の受肉である。自分のために生き、身体的な主体として生きることは、驚くべきことに、同時に、他者のための食べ物になりうる肉体を養い維持することでもあるのだ。私は、自分のために生きながら、他者のために生き始めてしまっているのだ。この出来事こそが、言葉の受肉である」。『談』no.53「食の哲学」で考察した食べることの底の抜け方を、小泉さんはこんな風に表現するのです。これは食べることが、日常の食べることが、徹頭徹尾、匿名的な行為でしかないことを示唆しているといえませんか。エンテツさんのスローガン「快食は快便なり」を、編集子は「…→快食→快便→快食→快便→…」という無限循環と理解していましたが、これって身体の匿名性のことだったんですね。匿名性の考察が、突如エンテツ流食の哲理と重なりあってしまったのです。

レヴィナス?何のために生きるのか

「健康志向」からいかにして降りるか

科学的な根拠とは何を指しているのでしょうか。たとえば、血糖値が高い、体脂肪率が高い、BMIが高い。そうした数値によって、人々は健康かそうでないかに振り分けられ、揚げ句の果てに病気のらく印を押されてしまいます。この場合の数値が、科学的な根拠だとされています。しかし、そうでしょうか。それはただの数値でしかないのです。もっと言えば、何かを意味する記号ですらない、ただ差異があるというだけを記しているにすぎないのです。そんなことをあらためて考えさせられたのは、小泉義之さんの『ドゥルーズの哲学』(講談社現代新書)を読んだからです。
ドゥルーズの哲学―生命・自然・未来のために続きを読む
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