身体

チューブとしての身体。上下で大暴れ。

昨夜はほぼ1時間おきにトイレへ。激しい下痢に見舞われる。一昨日は、激しい嘔吐感。ノロウイルスだろう。熱は少し下がったが、まるで気力が沸いてこない。クリスマスを前後して原稿を3本仕上げるつもりでいたのに、この調子ではまったく無理そう。足穂的チューブとしての身体を自覚しつつ、ただただ布団の中で唸っている。

「たわいのなさ」「雑談」は、意味がないことに意味がある?!

豊橋技術科学大学へ。知識情報工学系教授・岡田美智男さんのインタビュー。『談』の遊びの特集のひとつとして。岡田さんは昨年までATR研究所におられた。目玉の一連のシミュレーション「Talking Eye」「目玉ジャクシ」や、目玉の対話型ロボット「muu」の製作者として知られている。
豊橋に移ってからも、引き続き実装型ロボットの製作と供に、生態心理学、認知心理学から、コミュニケーションと身体、社会の関わりを追求しておられる。今日は、コミュニケーションの成立する場のダイナミクスに「遊び」という切り口から取り組もうとしていられることを知って、「これだ」と思い馳せ参じたわけである。
ざっと実機製作を振り返りながら、岡田さんの問題意識をうかがい、そこから「遊び」との関係に話が及ぶ。そもそもこうした研究をおやりになったきっかけが女子高生たちの雑談。たわいもないことを延々と話し続けている。しかし、そこには確実にコミュニケーションというものが成立している。「たわいのなさ」「雑談」のもっている意味を探ろうというのが、そもそもの動機であったという。他の意味のあることをいの一番に掲げてまい進してきたロボット研究とは、まずその端緒から違う。そこが岡田さんユニークなところだ。
これまでことあるごとに触れてきたように、「遊び論」そのものが、ホイジンガ、カイヨワ、チクセントミハイ、エリス以降たいした成果を生み出していない。誰でも一度は取り組む、その意味では関心の高いテーマではあるけれども、本質的なところまではいかず未消化に終わっている場合が多い。岡田さんが一つの切り口に「遊び」を選ばれたのは慧眼であるが、更なる探求が必要に思った。ただ、生態心理学とヴィゴツキーを関連付けたり、ゴフマンを廣松哲学から再考するなどというアイデアは、センスのよさを感じた。今後の研究に大いに期待したい。身体と潜在性というような問題に切り込んでもらえるとうれしいのだけれど。それにしても、「muu」のこのそこはかとなさはなんだろう。めちゃカワイイとおもわへん???

金子マリさんのように堂々と吸いましょうよ。

東洋大学白山キャンパス2号館1FでTASC新留さん、カメラマンの理策さんと待ちあわせ。
1時10分より経済学部教授・小川純生さんのインタビュー。テーマは「遊び概念を拡張する……面白さの根拠」。小川さんはマーケティングがご専門だが、近年「遊び」に注目されて、「遊び」概念から消費者行動を解明する研究をされておられる。たまたま小川さんが発表されたいくつかの論文を読む機会があり、それがことの他興味深いものだったので、 no.78号の企画でインタビューをさせてもらうことになったわけだ。
お会いしてみると、小川先生、名実ともに大変な遊び人だった。といっても、「飲む打つ買う」といのではもちろんなくて、スポーツが中心。なんとなんと陸海空の免許をもっておられる。陸=クルマはともかくとして、空と海ですよ。つまり飛行機と船舶の免許。クルマは一時MGのオープンカーを所有されていたとのこと。他に、テニスやウィンドサーフィン、楽器演奏もやられる。「遊び」を語る者、まず遊び人であることが絶対条件、といわんばかり。そりゃ当然か。今回の最初のインタビューは、いつもの『談』とはちょっと雰囲気が違って、和やかな感じで進んだ。特集全体もいつもとは少し感じが違うかも。
17時からは、九段下のホテル・グランド・パレスで衿野未矢さんと打ち合わせ。『依存症の女たち』の著者。最新刊『暴れる系の女たち』が面白くて、さっそく「en」のリレーエッセイにご寄稿をお願いした。衿野さんは普段から和装の人。本日も、モスグリーン系の柄がオシャレな着物でいらっしゃった。それと走る人でもあり、9日からホノルルへ旅たつという。マラソンに出場するためだそうだ。なんか、そっちのこともいろいろ聞いてみたくなった。原稿、おおいに期待できそうだ。
夜は、中川五郎さんのニューアルバム『そしてぼくはひとりになる』の発売記念ライブに行く。下北沢のラ・カーニャにて。今回はすべてラブソング。それも、アルバムタイトルをそのまま行くような私小説的世界が展開。「男ってしょうがない動物だ」的な感じの歌を中心にたっぷり2時間半。佳村萌さん(大ファン!)とかハンバート・ハンバートの佐藤良成さんとかにまじって、金子マリさんがゲストで出演。何十年ぶりに見たが、すっごくかっこよかった。たばこを吸いながらステージにあがってきて、「禁煙じゃないって言うからきたよ」と一言。それから、1曲たばこを指にはさみながら五郎さんとデュエット。「たばこが悪い? それが何か」ぽい感じで、まったく意に介さない。この潔さがカッコイイ。キレて他人に危害を加えるわけではないし、自傷行為に及ぶというわけでもない。「好きなんだから吸ってるだけ」。これでいいんじゃないか。愛煙家のみなさん、金子マリさん的に堂々としてましょうよ。

「なぜ溜飲を下げるのか」、情動のコントロールが始まっている!

『談』no.76号「情動回路……感情、身体、管理」
本日発売!!

「なぜ溜飲を下げるのか」、われわれはとっくに情動をコントロールされている。
「脳とこころ」の探求は、「認知論的転回」を経て「情動論的転回」へ向かう。その先にあるものは、はたして心身の「喜び」か、「こころ」のコントロール支配か。

●河本英夫(東洋大学文学部教授)×十川幸司(精神分析家、精神科医)
〈対談〉情動の回路……精神分析とシステム現象学から考える 

『システム現象学 オートポイエーシスの第四領域』で、オートポイエーシスをさらにバージョンアップさせた河本英夫が、『精神分析への抵抗 ジャック・ラカンの論理』で精神分析の変革をはかる十川幸司と、身体のフロンティアである「情動」の論理について徹底的に語り合います。

●浅野俊哉 (関東学院大学法学部教授)
「喜び」とアソシエーションの理論……スピノザの情動、触発、コナトゥス

『スピノザ 共同性のポリティクス』の浅野俊哉が現代においていかにして「喜び」は可能か、スピノザ=ドゥルーズ思想に依拠して言及します。

●酒井隆史(大阪府立大学人間社会学部助教授)×松本潤一郎(リヨン第三大学言語学部日本語学科講師)
〈対談〉情動の政治学……身体は何を欲しているのか 

『暴力の哲学』、『自由論』の酒井隆史と『ドゥルーズ 生成変化のサブマリン』(共著)の松本潤一郎が、ポスト〈生-権力〉の時代の新たな権力システム「情動コントロール」について、ラディカルに掘り下げます。

●特別企画
村上隆キュレーション「リトルボーイ:爆発する日本のポップカルチャー」(2005年/NY)で鮮烈なアメリカデビューを果たした若手美術作家・加藤泉さんの平面作品を3点掲載

「健康」オタクとは誰か。健康をテーマに活発な議論が交わされた。

『TASC monthly』用の公開座談会をTASCにて開催。テーマは『健康オタクの登場……健康のオタク化現象はいつ始まったか』。出席者は、東京国際大学人間社会学部専任講師・柄本三代子さん、日本学術振興会研究員・眞嶋亜有さん。司会進行を科学ジャーナリストの粥川準二さんにお願いした。
血液サラサラ、メタボリックシンドローム、コエンザイム、アンチエイジング、茶カテキン、ギャバ、などなど。ワイドショー、バラエティ番組では、連日、健康情報がネタになっている。健康情報にふりまわされてリスクをどんどん増やしては悩んでいる人々が多い中、健康になることそれ自体を目的とする人たちが登場してきた。健康にいいとなれば手当たり次第に試したり、山のようにサプリメントを買い込んでは、一日に何十錠も飲んでいるような健康にまい進する人。彼(彼女)をここではとりあえず健康オタクと呼び、そのオタク化の背景や動機を探ろうというのが狙いであった。
テレビなどのマスコミによる「おどし」の構造が、今ではテレビの外の世界にも広がっているという指摘から、健康が手段から目的になったのはいつごろからか、健康へ向かう意識と美しくなりたいという意識は同じか違うか。病気の売り歩きという現象が起こっていて、いままで病気でなかったものに病名がつけられることで病人が人工的につくり出されていく現実。その背景には、ドゥルーズが予言した規律権力から管理社会へのシフトという大きな社会の変化があること。外見至上主義と健康至上主義のはざまで消費者は揺れ動いているのではないかという問題提起に、そもそもそうした健康観そのものが成り立っている社会構造こそ問題という反論。「成人の9割以上がメタボリック・シンドローム」という言説は、今や健康がリスクマーケティングの格好のターゲットになっていることを示している。はたして、この現状を商機と見るか危機と見るか。予想した以上に、白熱した議論が展開された。詳しくは、『TASC monthly』でお読みください。

脳の出力依存性が「情動」だといまさら理解できても遅いのだ。

editor's noteの準備で資料を読み直す。「情動機能」をなぜ今とりあげるのか。その動機を明らかにするところから始めることにする。アントニオ・ダマシオの『感じる脳』と『生存する脳』、ジョセフ・ルドゥーの『エモーショナル・ブレイン』、ルック・チオンピの『基盤としての情動』、松本元、小野武年共編の『情と意の脳科学』を再読。ダマシオは思い切って書いているつもりなのだろうが、もともとぼくはアンチカルテジアン。数年前に読んだ時まるでぴんとこなかった。今更身体が大事だといわれてもそれで? という感じだったが、ソマティック・マーカー仮説が一種のシステム現象学だと思うとがぜん興味が湧いてきた。ダマシオは、古いものの方が断然面白い。それより、今回の収穫は「情と意」だ。以前ご一緒した研究会で松本元さんが出力依存性を強調していた意味が読み直してみてようやく理解できた。つまり、情動は出力で、その出力に脳は依存しているということ。シャクター流に情動体験と情動表出はラベルはりにすぎないと思い込んでいたために、表出が出力だというあたりまえのことに気づかなかったのだ。松本さんに「出力も入力もない系があるんですよ!」と食って掛かったところで、そもそもコンテキストが違っていたのである。天国で松本さんはきっと笑っておられるに違いない。いまさらながらおはずかしい話だ。

臓器移植問題について小松美彦さんのインタビュー記事

宇和島での臓器売買事件を契機とした臓器移植問題について『図書新聞』11月14日号に東京海洋大学海洋科学部海洋政策文化学科教授・小松美彦さんのインタビュー記事が掲載されています。読まれた方もいらっしゃると思いますが、ご本人から以下の内容のご報告がありました。転載いたします。
「活字になった部分は全体の約三分の一であり、そのロングバージョンを下記の図書新聞サイトで読むことができます。宇和島の件については、どのマスメディアも報道していないはずのことを語っています。また、最後部分では「教育基本法」の改定問題との関係にも言及しております。ご一読下されば幸いです。 小松美彦」→緊急インタビュー
        

ヨガブームは女性の身体への強い関心の表れ。

五感研究のジャーナリスト・山下柚実さんと打ち合わせ。某プロジェクトへの参加の正式なお願い。彼女は、ルポライターのほかに私立の小学校で五感に関する授業をしたりしているとのこと。
女性たちは自分の身体に対して男性より強い関心をもっている。昨今のヨガブームがそれを如実に示しているという。ホットヨガとかハリウッドヨガとか、確かに昨今のヨガブームを支えているのは若い女性たちだ。あと、匂いとからだについても彼女たちは敏感だ。女性は髪につく匂いをことさら気にする。ところが、男性の口から、髪についた匂いがどうのこうのなんて声は聞いたことがない。確かにそうかもしれない。ジェンダーの視点から喫煙と身体の関係を探る。山下柚実さんに協力してもらいもっと掘り下げてみたい。ところで、肺が真っ黒の衝撃写真と喫煙の因果関係がないことはJTはとっくに知っているらしい。ただ、そのことについて、あえて口にしないのだそうだ。JTをとりまく社会環境の厳しさをあらためて知らされた思い。

ぼくらはモグラからヘビへ移行した

「私たちは、監獄、病院、工場、学校、家族など、あらゆる監禁の環境に危機が蔓延した時代を生きている。家族とはひとつの〈内部〉であり、これが学校や職業など、他のあらゆる内部と同様、ひとつの危機に瀕しているのだ。当該部門の大臣は、改革が必要だという前提に立って、改革の実施を予告するのが常だった。学校改革をおこない、産業を、病院を、軍隊を、そして監獄を改革しようというのだ。(…)こうして規律社会にとってかわろうとしているのが管理社会にほかならないのである」。
「(…)不思議なことに大勢の若者が〈動機づけてもらう〉ことを強くもとめている。もっと研修な生涯教育を受けたいという。自分たちは何に奉仕されられているのか、それを発見するつとめを負っているのは、若者たち自身だ。彼らの先輩たちが苦労して規律の目的性をあばいたのと同じように。ヘビの環節はモグラの巣穴よりもはるかに複雑にできているのである」。
ジル・ドゥルーズが残したあまりにも有名なテキスト「追伸……管理社会について」より。これが90年に書かれていたことにあらためて驚く。それにしても、モグラとヘビはなんの比喩なのだろうか。モグラが監禁環境の動物でヘビが管理社会の動物だとしても、その含意は果たして……。

健康は矛盾そのもの。でも、押し付けられるのはやっぱりイヤですよ。

古瀬戸珈琲店で粥川準二さんと待ち合わせ。ところが時間を過ぎたのになかなか現れない。TASCの新留さんとどうしたんだろうとケータイにtelすると、靖国通りぞいの日本文芸社の1Fにある「カフェテラス古瀬戸珈琲店」で待っていたと。「古瀬戸」が二つあったなんて知らなかった。急いで向かい、無事合流。『TASC monthly』の座談会の打ち合わせ。柄本三代子さんと眞嶋亜有さんと二人の女性を、粥川さんがどうリードするか楽しみ。ところで、粥川準二さん「健康を押し付けられることは嫌。でも、30過ぎてムリがきかなくなってくると、健康に対してどうしても関心をもつようになる」んですよっておっしゃった。まぁ、それは僕も同じですけどね。日ごろ健康イデオロギーだ、メディカライゼーションだと批判していながら、じつは週に何日かティップネスで汗を流している僕ですから。しかし、問題は、やはりはっきりしています。健康を国や権力がコントロールするものではないということ。それがますます露骨になっていることが問題なのですから。
夕方、JTの研究プロジェクトのミーティング。以前2年間にわたって企画・運営に関わった「EIプロジェクト」(ヤマハ発動機)のフォーマットが活かせそうなのでうれしい。

二夜連続で脳死・臓器移植に関する番組

東京海洋大学海洋科学部海洋政策文化学科教授・小松美彦さんからお知らせがきました。小松先生、本日と明日「ニュースジャパン」に出るそうです。山本モナ戦線離脱後、もはや敵は小林真央ただ一人と奮闘する滝川クリステル嬢の斜め45度座りを見たいばかりに「ニュースジャパン」を見続けている僕ですから、もちろん小松先生のインタビュー見ますとも。そんなことはどうでもいいけれど、この問題ものすごく重要だと思いますから、みなさんぜひ見ましょう。小松先生のお知らせをそのままペーストします。
「朝鮮民主主義人民共和国の第2回目核実験なるものがなければ、10月16日(月)と17(火)の二夜連続で「ニュースジャパン」(フジテレビ、23時半〜)において、脳死・臓器移植に関してテレビニュースの枠内としては画期的な番組が放映されます。全体は7分ぐらいずつで、因みに初日には私も30秒ぐらい出ているはずです。2時間しゃべりましたが、放映されるのは番組の流れに即した部分のはずで、特段のことは言っていないと思われます。特に重要なのは二夜目でしょう。
個人的にはもう一つ、ネットテレビ「丸激トーク」に出ています。
ビデオジャーナリスト神保哲生氏の司会で、宮台真司氏と私が宇和島の臓器売買事件を端緒に脳死・臓器移植全般に関して議論した番組です。先程自分でも初めて見ましたが、全体は3時間もあり、見ること自体が大変なものです。手前味噌ながら良い番組になっていると思われます。
ご存知の方もいらっしゃることと思いますが、宮台氏とは10年前に戦争をしていますが、驚くことに氏はほとんど私と同様の立場になっていました。因みに氏は「自己決定権」をめぐってのバトルと述べていますが、私にとってはそれはあくまでも契機に他ならず、戦争をしたつもりのものは別のところにあります。が、彼とこういう形で話せて本当によかったと思っています。ここで
、契約していなくとも冒頭の15分ぐらいは見られます」

世界の一切が時間を失っていく。

夜中に突然目が覚める。夢だと思うが、人が玄関の方に入ってきた気配。そのうち、からだか重くなってきた。と同時に、時間の速度がぐーっと遅くなっていく。すべての時間が遅れる。透明の容器に入ったゲル状の物質を揺らすと、ゆっくり移動する。あんな感じ。そして、時間はさらに速度を落としていく。静止はしないが、その一歩手前。世界の一切のものが時間を失っていくなんてことがあるのか。もしかすると、死ぬってこういう感じなのだろか。学生の時に電車の中吊り広告の文字という文字が意味を失っていく、ということを経験した。意味が剥離されて、記号そのものになる。記号としてか見えなくなる。食べ物から味がなくなって、モノだけを口にしている感覚。味も素っ気もない景色。この前は、身体の脱皮を経験した。蝉のように自分のなかから、自分が殻を破って出てくる感じ。そして、今度は臨死体験。情動が欠如して、にもかかわらず感覚表象だけが残るという事態が、どうも身体のなかでおこり始めているようだ。そろそろか。アブナイなぁ。

Patient Reported Outcomeの目指すものは

秋山綾さんとの打ち合せのために、角館についてネットでもう少し調べる。角館のHPがいくつかある。小さい町なので2日あれば御の字だろう。泰山堂のHPもある。毎日新聞の宿泊体験がアップされたページを発見。綾さん来社。泰山堂の女将藤井けい子さんは、超有名人。ファームインは既に先客がいるので、母屋に泊まらせていただき取材をしよう。手づくり観光のアイディアマン堺さんにも取材ができそう。角館をフィールドに長年にわたって調査をされてきた綾さんに、おんぶに抱っこの取材旅行になりそうだ。
銀座椿屋珈琲店でTASC新留さんと待ち合わせ。席に案内されたところで、「佐藤さんですか」と声をかけられた。日本学術振興会特別研究員・眞嶋亜有さんだ。眞嶋さんは、ヘアスタイルを変えたのでHPの写真とちがっています、とおっしゃっていたが確かに雰囲気がちがう。とてもステキな方でした。『TASC monthly』の座談会の打ち合わせ。若い論客3人による「健康のおたく化」のディスカッション。いまから楽しみ。
18時より「代替医療と倫理」研究会にオブザーバーとして参加する。JT・岩室佳明さんに鍼灸師・松田博公さんを紹介される。松田さんは『談』の「ゾーエーの生命論」の対談を素材に前回発表された。それがきっかけで、今回この研究会にお誘いいただいたのだ。続きを読む

認知と行為の間には落差があるという意味は。

河本英夫さんの『システム現象学』の『情動・感情のシステム』をもう一度丹念に読み込む。認知と行為の間には落差があるとする『情動仮説」の意味をじっくり考える。十川幸司さんの『精神分析』をもう一度頭から丸々一冊丁寧に読む。「情動回路の不快をとり除くのが精神分析」であったことを再認識する。元京都大学ウィルス研究所所長、元塩野義製薬副社長・畑中正一さんにtelをする。『TASC monthly』の原稿執筆の依頼。すぐに快諾の返事をいただく。僕がおつきあいをさせていただいている大先生のお一人。電話の声をお聞きする限り、大変にお元気なご様子。また、ぜひご一緒にお仕事をさせていただきたいものです。

ウィトゲンシュタインの「自分探し」

最初から答えのない「問い」を、問い続けること。イメージだけを頼りにして、とにもかくにも「問い」を問い続ける。答えのない「答え」を答え続ける。答えが用意されていない「問い」にとにかく答え続ける。禅問答のような対話。禅問答へと向かう自分。
「自分探し」の旅に出て、仮に自分が探せてしまったら、その時どうなるのだろうか。その瞬間、「自分探し」の自分は消滅してしまう。すなわち、自分がいるということに気付くだけだ。そして、きれいさっぱりそれ以前の自分は忘却されてしまうに違いない。探されている自分がもうどこにもいないのだから。
どんなにがんばっても逆上がりができずにいた自分。ところが、ある時なにかのはずみで逆上がりができしまった。その瞬間、もはや逆上がりができなかった自分に戻ることはできない。なぜ逆上がりができなかったのかすらわからない。逆上がりができてしまった自分になった時から、逆上がりができるようになりたいという自分は消滅するのだ。
河本英夫さんの「オートポイエシスの第四領域」は、「禅問答」と「自分探し」と「逆上がり」がじつは同じ経験を基盤にした「世界の獲得」であることを教えてくれた。われわれはいつのまにか何か別のものになっている。私がいる場所に、もう私はいない。私の不在こそ、私そのものにほかならない。ウィトゲンシュタインのいない、ウィトゲンシュタインの対話。

白熱した討論が実現しそうだ

荻窪ルミネのアフタヌーン・ティー・カフェで東京国際大学人間社会学部専任講師・柄本三代子さん、TASC新留さんとで打ち合わせ。『TASC monthly』の座談会について。出席者として予定していた日文研の栗山茂久さんが今年ハーバード大学へ異動、代わって日本学術振興会PD特別研究員・眞嶋亜有さんになったことを報告すると、柄本さんも以前研究会で一緒になったことがあるとのこと。身体の社会学という分野では同じ研究をされている御両人であるが、アプローチも拠り所もまったく異なる。司会と進行役をお願いしている國學院大学の野村一夫さんの舵取り次第では、面白い討論になりそうだ。
ところで、これ言っちゃっていいのかな。来年の『TASC monthly』、音楽評論家で翻訳者、一昨年26年ぶりにアルバムを発表、ミュージシャンとしても復活を果たした中川五郎さんの連載が始まります。五郎さんの69年にURCで発表した『終わり はじまる』をリアルタイムで買った僕の懇願で実現したのだ。請うご期待。

ユニークな匂いの研究者と再会。

蒲田駅で「en」の担当者・清水徹さんと合流。高砂香料工業へ。びっくりしたのは大田区民ホールを併設する「ニッセイアロマスクエア」という高層の複合施設に建て変わっていたこと。ここの17.18Fに本社があった。(以前お邪魔した時は、まだ煙突の立っている古びた工場だったのに)。入り口にはすでに鈴木隆さんが待っておられた。『匂いのエロティシズム』の著者である鈴木さんとは01年にニューヨークでお会いして以来のこと(まだWTCがありました)、ますますカッコよくなっていた。
さっそく打ち合わせ。まず「en」の原稿依頼。以前「おいしいとは、うまいとは」のコーナーに一度ご登場いただいている。今回はリレーエッセイ「コントロール」での依頼。匂いとコントロールという切り口は、これまであまり問われていなかったが、切り口はけっこうありそうと鈴木さん。少し考えてもらうことに。また、今回は『TASC MONTHLY』にもご寄稿をお願いしている。こっちは鈴木さんが現在関心のあることでという非常にアバウトな頼み方。じつは、鈴木さんはこっちにも以前お書きいただいたことがある。その時のテーマが「匂い教育の必要性」。これが思いの外評判がよくて、当時の担当者も強い興味を示した。今回も何か話題になるようなアップ・トゥ・デートなものだとうれしい、などと調子のいいことを考える。本社受付の隣には小さなミュージアムが併設されていた。こういう施設が待合室、ミーティングルームと同じフロアにあるというのはいいものだ。原稿が上がった頃またゆっくりお話をしましょうと。今年の末まで、これで依頼関係はとりあえず一段落。

優雅でシャレた紫煙のダンス

NHK芸術劇場で「カフェ・ミラー」を見る。今年4月に観た国立劇場の録画。そのあとピナ・バウシュへのインタビュー。「カフェ・ミラー」は、彼女の作品で唯一ピナ自身が踊りを披露したもの。その誕生の秘密が明かされた。そのほかに、ブッパタール舞踊団が埼玉で上演するために、1か月にわたって日本全国を行脚した様子を撮影した秘蔵ビデオを紹介。ピナは自分を口下手で恥ずかしがりやというが、演劇評論家・貫成人さんの質問には饒舌に応えていた。それにしても、驚いたのは彼女の指から一度として離れることのなかったたばこ。ほとんどたばこを指にはさんでのインタビューだった。そうとうなヘビースモーカーのようだ。身ぶり手ぶりをまじえながら、そのたびにたばこが宙を舞う。「あっ灰が……」という心配をよそに、そんなことは意に介さずとばかり、熱心に語りつづけるピナ。さながらその様子はシガレットのダンスのようだった。 なんと優雅でシャレた紫煙の踊り!!

華麗なるヘディング、言語の暴力への抵抗としての。

W杯決勝あのジダンの行為は、言語の暴力へのフットボール的抵抗だった。つまり、あれは頭突きではなく、正真正銘ヘディングだったのだ。「en」8月号 今福龍太さんの連載 「リングァ・フランカへの旅」より。 確かにそう見ればあれほど美しい(基本に忠実な)ヘディングはそうあるものじゃない。それを凌駕するものがあるとすればひとつだけ。そう、W杯フランス大会決勝でみせたジダンの先制ゴール!

息を吹き返すフランス・ポスト構造主義

お茶の水・山の上ホテルで、大阪府立大学人間社会学部助教授・酒井隆史さんと立教大学大学院フランス文学研究科後期博士課程在籍・松本潤一郎さんに「情動の政治学……身体は何を欲しているのか」というテーマで対談をしていただいた。
規律権力から生-権力へ、そして今や「情動」のダイレクトなコントロールが始まっているとする酒井隆史さんの問題提起を受けて、ブライアン・マッスミの容易な確実性としての「情動的事実」という概念に触れつつ、「欲望」/「快楽」の再定義、コミュニケーション批判としてのドゥルーズの管理社会批判、ランシエールの感性的なものの再配分、「可能的なもの」/「実在的なもの」、「潜在的なもの」/「現働的なもの」という可能性をめぐる二つの次元の区別、『ミル・プラトー』の情動による群れの構成などについて議論していただいた。
権力を求めることと権力から逃れることは紙一重である。そこに人間の情動機能が深く関わってくるのだ。「逃走線」とは、システムから逃れるものと考えられてきたが、じつはシステムを逃がすことなのではないか。コミュニケーションを積極的に断つ先にあるもの、それこそドゥルーズの「器官なき身体」である。「情動-触発」(スピノザ)という欲望する諸機械の生産力としての「器官なき身体」。今まさに、システムそのものが逃走/闘争する「情動の政治学」の地平が開かれようとしている…。
フーコー、ドゥルーズの言説を旋回しつづけるディスカッションって、思えば久しぶり。フランス・ポスト構造主義の思想が息を吹き返そうとしているのか。

山下柚実さんと鷲田清一さんの対談が収録された新書

山下柚実さんの新刊『給食の味はなぜ懐かしいのか? 五感の先端科学(サイエンス)』を贈呈していただきました。二部構成の第二部7(最終章)で、大阪大学副学長・鷲田清一さんと「結びつき、混ざり合う〈五感〉……臨床哲学者・鷲田清一氏との対話」というテーマで対談をしています。じつは、この対談『談別冊 shikohin world たばこ』が所収です。最近『談』やWebマガジン「en」などぼくが関わったテキストが、立て続けに単行本に収められていますが、じつにうれしい限りです。天下りとちがって、よほどいい第二の人生といえるでしょう(?!)。
さて、本書は五感を追求し続けている著者が、五感のそれぞれの分野の最先端で研究されているプロパーを訪ねたインタビュー集です。これまで出されたものが五感のフィールドをドキュメントしたものであるとすれば、本書は五感研究の今を伝えるレポートです。ラインナップを見ておっと思いました。味覚研究の伏木亨教授、ニオイの研究の高田明和名誉教授、触覚研究の宮岡徹教授、いずれも過去『談』で取材した先生ばかりです。鷲田さんと最終章をかざるもう一人の対談者は脳科学の茂木健一郎さんですし。じつに本書に登場する5人の研究者が『談』とかぶっています。どうも、山下柚実さんとぼくの関心は共通しているようです。そういえば、鷲田さんとの対談を大阪でやった時、行きの新幹線で、山下さんは以前ある都市・建築関係の雑誌の編集に関わっていたとお話しされてびっくりしました。ぼくも『City&Life』という都市・建築の雑誌も編集しているからです。彼女の方がぼくよりずっと若いのですが、何か同士という感じがしてうれしくなりました(その後『City&Life』に寄稿いただき、それも別の書籍に収録されました)。あっそうそう、土方巽の映画の上映会でも偶然一緒になったことがありましたっけ。舞踏やアングラ芝居の趣味まで共有していたとは。
そんなわけで山下柚実さんが次に興味をもつもの、ぼくもおおいに気になります。最近○○○を追いかけているとか……、これはまだナイショか。それはともかく、本書は『談』同様、五感、身体に関するサイエンスに興味のある方には必見です。
給食の味はなぜ懐かしいのか??五感の先端科学

中田引退の謎と今福龍太さんの慧眼

中田の10分間の沈黙と突然の引退表明。その間にあったのは、舌である。ただ唯一中田の舌が中田自身の謎を解き明かす。中田は「ブラジル」だったのだ、最後まで「ブラジル」の舌たらんとしたのである。しかし日本は「ブラジル」ではなかった。すでに、「ブラジル」の舌であることを止めてしまった。その絶望的な隔たり。言語と味覚の消滅。Webマガジン「en」 最新号の今福龍太さんの連載は、まるで中田の引退をとっくに知っていたかのような文章だ。野心でも新たな旅たちでも、そんなことはどうでもいい。すべての謎は、舌にあったのである。

分子的拮抗状態が持続した45分間

夜ドイツ対アルゼンチン戦をTV観戦。この試合前半と後半は、まったく別のチームのような戦いだった。前半は両者とも得点なし。後半アルゼンチンのアジャラが得点。しかし、すぐにドイツはクローゼの得点で追い付く。同点のまま延長戦にもつれ込んだが決着はつかず、結局PK戦に。結果は4対2でドイツが勝利。この試合じつは前半が凄かった。得点こそなかったものの、そんなことはどうでもよくなるような凄い内容。がっぷり四つとはこういう試合を言うのだろう。力と力が完璧に均衡しあっていた。どちらかがちょっとでもミスをしたら最後、勝負は決まる。ほんのちいさなほころびがカタストロフをまねく。ガタリの言う分子的拮抗状態。それが45分間持続したのである。ぼくは、この時始めて「強度」=アンタンシテというものを、視覚的に体験したような気がした。サッカーというのはほんとうにすごいスポーツだ。

河本英夫さんの『システム現象学 オートポイエーシスの第四領域』が出版されました。

東洋大学文学部教授・河本英夫さんから最新刊『システム現象学 オートポイエーシスの第四領域』を贈呈していただきました。
「体験的世界は、行為と不可分になっている。実際、現に行為するとともに成立している認知がある。こうした行為知の場合、現実に遂行されている経験のあり方を記述するための回路が必要になる。そこには遂行される経験そのものを貫く機構のモデルと、行為知そのものを遂行のさなかで記述するまなざしが必要である。前者が、システムの機構であり、後者が伝統的な現象学である。行為知の解明には、両者ともに欠くことができない。とりわけ経験の形成や体験的世界の変貌を考えるさいには、これらはともに不可欠である」(はじめにより)。
どのようにして体験レベルの経験を形成するかが本書全体のねらいだといいます。基本的な働きを、現実がそれとして成立する働き「注意(アテンション)」と知るということ以上に行為の調整を担っている「気づき(アウェアネス)」に限定したうえで、哲学の探求、経験科学の開闢、制作という創造をまったく同レベルで行おうとしているわけで、本書の試みは、未領域への第一歩になるはずです。
じつは、河本さんと精神分析家の十川幸司さんの対談を今週末に予定しています。十川さんは、精神分析とシステム論を結び付けてシステム論的精神分析という領域を切開中。システム論を媒介にして、現象学と精神分析がこれまでとはまったくちがうかたちで出会うことになる。いまからとても楽しみ。この対談は、『談』no.76に掲載されますので期待していて下さい。
システム現象学?オートポイエーシスの第四領域

「アゴーン」より「アレア」なスポーツ、だからサッカーは面白い!

どこのニュースも早朝から昨夜のオーストラリア戦の敗北ばかり。確かに悪夢ではあったが、実力では日本より上だと思っていたので、それほどショックではなかった。俊輔のゴールは、GKのポジションどりの悪さが招いた結果。リプレイを見ればわかるように、タカのキーパーチャージという抗議はまったくあたらない。むしろ、そのあとオーストラリアのペナルティエリア内でのタカへのファウルを取らなかったのは明らかに誤審。しかし、それをわざわざメディアに発表するFIFAってなんなのよ。それよりみんなも言っているように、ジーコの采配には大いに疑問が残った。いつものように大黒か玉田を投入すべきだったのではないか。まぁ、それをいっても後の祭り。ぼくはあえて声を大にして言いたい。サッカーは何が起こっても不思議ではないスポーツ。だからこそ面白い!!
カイヨワの定義に従えば、スポーツとは本来「アゴーン」に属するもの。しかし、そこに不確実な要素をどんどん注入して、「アレア」の遊戯にしてしまったのがサッカーというスポーツであり、サッカーの魅力の全てはそこにあるといってもいい。さらに言えば、ルドゥス的競技空間を一瞬にしてパイディアの空間に変質させてしまうのもサッカーの醍醐味なのだ。賭けへの陶酔、意識の放棄、身体のカオティックな擾乱。そうした蕩尽的身体それ自体を楽しむという類い稀なスポーツこそ、サッカーというものなのだ。日本代表のサポーターである前に、ぼくはサッカーという競技のサポーターでありたい。ようは、クロアチアとブラジルに勝てばいいわけだし、そういう「ありえなさ」を一挙に打ち砕いて、われわれを極楽へと導くのもまたサッカーというものなのである。

身体の情動機能に切り込む

アルチュセールはその思想の多くをスピノザに負っていると告白する。「私が直接的にまた個人的にスピノザに負っているもの、それは彼の身体についての驚くべき考えである。身体は、(私たちの未知の力)を持っていて、mens(精神)は、身体がそのconatus(努力)、そのvirtus(力能)、fortitudo(力強さ)を展開させればさせるほど自由になるのだ。スピノザが私に与えてくれた身体の考えは、身体の思考であり、さらには身体とともに考えること、身体そのものの思考なのである。この直感は私が、私の思考や知的関心の発展と直接関係を持ちながら、自分の身体を獲得する経験、身体を〈組み立て直す〉経験と一致した」。アルチュセールの思考は、端的に身体を獲得する思考であったと十川幸司氏は言う。スピノザが析出し、アルチュセールを魅了した身体。この思考する身体こそ、情動機能に基づけられた身体のことであった。しかし、ここでいう情動とは、一般的に考えられているような感情と一体となった心的作用ではない。身体的変化として表出した生命調整のプロセスそのものとしての「情動」だ。生物が最初に身につけたもの、感情に先だって形成されたもの、それが情動の身体である。いまや生命をその内部から推し進める「力」とも見做される情動の身体は、脳科学からも注目され始めている。たとえばアントニオ・R・ダマシオは、その脳理論の中核に、このスピノザ的情動身体を置き、独自の理論ソマティック・マーカー仮説を生みだした。また、ジョゼフ・ルドゥーが情動身体を恐怖の神経メカニズムから探求している。
一方、感情を介さないために、外部から直接関与できるのも情動身体の特徴でもある。現代の管理技術は、情動身体を外部から操作可能なものにしてしまった。ブライアン・マッスミの議論をもとに酒井隆史氏が指摘する情動的次元の操作がそれだ。われわれは、知らずしらずに身体をコントロールされている。そして、感情がスルーされているために、コントロールされていることすら気が付かないのである。
そこで、身体の情動機能に注目し、情動回路を解き明かすことから、身体が置かれている状況、今日の社会を考えてみようというのが『談』76号の特集テーマだ。さてさて、今回は、どなたにご登場願うか、決定次第ご報告するが、サプライズもあるかも。こうご期待!

パイディアとルドゥスという軸は何を示しているのか。

カイヨワが再びマイブームの気配。『遊びと人間』を読み返したら、まったく色あせていないことに驚いた。競争(アゴーン)、運(アレア)、模擬(ミミクリー)、眩暈(イリンクス)という四つの象限から遊びを分類する。これは、覚えていたのだが、これにパイディアとルドゥスという軸が加わることをすっかり忘れていた。四つの象限が横軸に並ぶとすると、一方の極をパイディア、それとは反対の極にルドゥスのある縦軸が置かれる。パイディアとは、無制限で無秩序な気まぐれ、熱狂、陶酔。ルドゥスとは、故意に窮屈なルールを設けることによって欲求の度合いを高めるもの。両者は、それ自体無意味で有用性のないものでは共通するが、完全な自由による快の方向をめざすものか、あえてハードルを高くすることでより強い快をめざすかという違いがある。パイディアが喧噪や混乱、乱痴気騒ぎだとすれば、スポーツやゲームがルドゥスになる。
たとえば、さまざまな嗜好品をカイヨワの四つの象限に分類してみる。そして、パイディアとルドゥスという軸から見直してみる。すると、とてもおもしろいことがわかった。嗜好品というものが消費社会のなかで、アゴーン的、ミミクリー的な位置からアレア的、イリンクス的な位置へと移動し、パイディア的な要素を失う代わりにルドゥス的なものを獲得しつつある、ということが見えてきたのである。まだ思いつき程度にしかすぎない。しかし、何かピピーンときた。この嗜好品の重心の移動、じつは大きな地殻変動が起こりはじめていることを示しているのではないか。消費という概念、消費社会という枠組み自体の変質を意味しているのではないかということだ。まだうまくいえない。もう少し考えてみよう。

円熟と枯渇が共在するピナ・バウシュ という肉(シェール)。

国立劇場へ。ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団の公演「カフェ・ミューラー」と「春の祭典」を観る。20年前に初来日した時の演目と同じ。じつは、この公演を僕は見ている。「春の祭典」は、圧倒的なダンスだった。床にまかれた土の上を走り回る男女の肉体。大地の礼賛と太陽神イアリオの怒り、そのイアリオに捧げられる少女、そして生け贄の死。生命が一斉に芽を出す季節は、死と隣り合わせでもあるのだ。オルギアを介して両者は凄まじい速度で互いに互いを反復し合う。今回、改めて見て思ったのは、溢れ出る肉の饗宴としてのダンスは、まったく変わっていないこと。生命の匂いにむせ返るようだ。とくに女性ダンサーたちが、すさまじい。踊れば踊るだけ、内面が露になる。むき出しのいのち。またしてもゾーエーだ。ということは男性たちのそれはビオス? もう一つの演目「カフェ・ミューラー」は、ピナ・バウシュが自ら踊る数少ない作品として知られている。今回も、終止舞台に設えられたカフェのテーブル、イス、回転ドア、ガラスの壁の間をゆるゆると彷徨していた。あたかもそれは亡者のよう。ピナ・バウシュによれば、「カフェ・ミューラー」は自伝的意味合いの強い作品なのだそうで、彼女が演じているのは少女時代の自分自身だという。この作品もまた、人間の内面に潜む孤独感や寂寥感、性的な欲望、非対称性としての他者の存在がテーマになっているように思えた。首から下のげっそりと痩せたピナ・バウシュの肉体は何を訴えようとしているのか。少女時代の記憶、不安と決して癒されることのない傷痕…。すでに65歳。その年齢はむしろダンスに円熟味をあたえている。しかし、肉体が枯れはじめているのは確かだ。熟成と枯渇というアンビバレンツな共在。それは、踊り手がわれわれに差し出す肉(chair=シェール)の贈り物だ。贈与、デリダの言う不可能性としての贈与。われわれはピナ・バウシュの肉の前でたじろがざるを得ない。ダンスの源流を見たような気がした。

行為/環境の関係を読み解く画期的事典の登場。

東京大学大学院情報環・教育研究科教授・佐々木正人さんから「動くあかちゃん事典」(DVD2枚組)を贈呈いただきました。植物図鑑や動物図鑑はありますが、あかちゃん(3才までの乳児)の行為を、その姿、発達の様子、あかちゃんの行為が行われる周囲のものや場所を動画で記録し検索できる図鑑というのはおそらく世界初の試みでしょう。のべ150時間にもおよぶ映像記録から、行為と環境の意味が見てとれる様子を抜き出し、約900のキーワードからアプローチできるというもの。たとえば、「移動」を選択すると179件の動画がヒットします。年齢の若い順に移動の発達が示されます。しかも画期的なのは、キーワードや年齢、あかちゃん名(2人のモデル)などをAND検索すると動画がしぼられて、その選択された動画が自前の映像として「連続再生」できることです。見てみたい行為や場面だけをつなげた発達のドキュメンタリーをつくりだせるというわけです。リリースによれば、「私たちは行為とともに、行為を可能にしている環境の意味(アフォーダンス)にも興味をもって抽出しました。たとえば、移動に段差をかけ合わせると、移動が段差という環境とどのように関係しているのか、移動の発達が段差とどのように関連したのかつぶさに観察できます」。
まだ、一部に配布されただけですが、現在出版を検討中とのこと。この面白さを一部のひとだけのものにしておくのはもったいない。ぜひとも早く市販化してほしいものです。アフォーダンスはわからない、とよく耳にします。活字では伝わりにくい「アフォード」するという意味も、「動く」とよくわかります。この事典がきっかけとなって、アフォーダンスや認知心理学の研究がよりいっそう深まることを期待します。

舞踏写真家・神山貞次郎さんの写真展

神山貞次郎展「舞踏光景 1973〜」を見る。笠井叡、大野一雄、山田せつ子、上杉貢代、大森正秀らの舞踏写真展。神山さんの舞踏家への視線には、常に批評性が内在している。「舞踏とは何か」と絶えず問い続ける写像群。そこに現象するものは、行為する肉体とも舞踊するからだとも異なる、舞踏そのものとしての身体だ。神山さんの視線がすでに舞踏をしている。舞踏を撮る写真家はたくさんいるけれど、写真が舞踏になってしまっている、そういう写像をわれわれの前に突き出してくる写真家は神山さんをおいて他にない、と常々僕は思っていた。笠井叡の舞踏写真の1枚でも見れば僕の言いたいことはわかるだろう。大野一雄の身体は撮れるだろう。土方巽の身体を撮ることも不可能ではない。しかし、笠井叡の身体は撮れないのだ。それは原理的に不可能である。なぜならば、そこにある身体は舞踏そのものだからだ。何が言いたいのか。舞踏とは決して表現ではないということだ。身体を仮に何千枚、何万枚撮影しても舞踏という本質には届かない。表現を視るという接近方法を断念しなくてはならない。舞踏を撮るには舞踏写真という領野を拓く以外にない。大野一雄も土方巽もそれがあまりにも異質なものだから撮れば舞踏らしくなってしまう。しかし、笠井叡のそれは、まともに撮れば単なるダンスになってしまうだろう。笠井叡は、徹頭徹尾舞踏しかしていない。なのにダンスにみえてしまうのはなぜか。その写真が表現しか掴まえていないからである。神山貞次郎の写真には、笠井叡の舞踏がしっかり撮影されている。彼の撮っている行為そのものが舞踏だからである。舞踏を撮れる写真家はすでに一人の舞踏家である。
「土日画廊」(中野区上高田3-15-2/03-5343-1842)西武新宿線新井薬師前下車12日まで。

舌が紡ぎ出す豊穣な食=語りの世界

数寄屋橋のLois CAFEで今福龍太さんとまちあわせ。いつものようにかっこ良く帽子をかぶって登場。連載の打ち合わせ。月末の25日周辺は、『すばる』と『世界』の連載であわただしい。その間をぬって書きますから、ってほんとうですか。期待しちゃいますよ。今回は僕が担当で、今福さんを追い回すことになるのだろう。コンテンツに「リンガ・フランカ-自由の舌」ということばを発見。奴隷たちの多様性に満ちた舌をそう呼んでいるというが、美しい響きをもった言葉だ。これをそのままタイトルにしよと提案してみる。ググッてみたら同名の漫画があるみたい(しかもお笑い芸人の話?!)。ル・クレジオを呼んだ時の公式パンフを見せてもらう。和紙のようなテクスチャーの紙を使用したそれはそれは美しい書物。細長い形状で、もう一つのテキスト=台本=詩(台形?!)がそれを包む構造。今福さんの学生たちが手作りしたらしい。300部発行。これだけでもほしかった。連載については、たとえば移動しながら書き、一回の原稿が途中で……、おっとこれはまだいえない。webマガジンならでは試みを試そうと意気投合。4月1日公開の「en」から連載スタート、どうぞお楽しみに。

「改定臓器移植法案」と「尊厳死法案」の危険性

編集を手伝っている「en」に、『談』no.73でインタビューさせていただいた海洋大学の小松美彦さんにご寄稿いただきました。「改定臓器移植法案」と「尊厳死法案」の危険性について。「…触ると暖かく、脈を打ち、汗や涙を流し、出産ができ、意識もある可能性があり、時にはラザロ徴候という四肢の滑らかな自発運動を示し、麻酔や筋肉弛緩剤を投与しないと臓器摘出の執刀時にのたうち回るような状態を維持した脳死者への治療の続行」が封じられることになる法律が今国会で可決するかもしれないというのです。「いのち」がこんなにも軽んじられていいのでしょうか。「人間の尊厳」をめぐるねじれ問題ここにきわまれり。「いのち…守らなければならないものは何か」を読んでいただい方は、ぜひこっちも読んで下さい。→Webマガジンen 3月号
怪書にして快書『解剖男』(講談社新書)が評判の遠藤秀紀さんのインタビュー、ポール・ヴィリリオ『アクシデント 事故と文明』ブックレビューも載っています。

20年目の「ゴドーを待ちながら」

「ゴドーを待ちながら」を観劇する。我が家から徒歩5分のところに劇団グスタフのアトリアがある。新人公演として「ゴドー」をやるというのでいこうかなと思っていたら、近隣にお住まいの方から、招待券があまっているからと下さった。劇団グスタフは、数年前、工場跡をそのままアトリエに転用し、地域に根を下ろして活動しているユニークな劇団。ストリンドベリの作品をスウェーデン大使館でやったり、年間5、6回のペースで公演をやっている。さて、「ゴドー」はいわずと知れたサミュエル・ベケットの作品。初めて観たのは、20年以上前になる。確か紀伊國屋ホールだったと思う。一本の木とベンチがあるだけのきわめてシンプルな舞台に、最小限の動きしかないミニマルな演出だったという印象は残っているものの、誰が出ていたのか全く覚えていない。ひどいもんだ。今回の「ゴドー」は、舞台構成、演出ともに原作に忠実のように見えた。ウラジミールとエストラゴンの、饒舌にして寡黙、反芻し口ごもるという、ベケット劇独特の相反する台詞回しは原作の味をよく表現していたように思えたが、ポッツォとラッキー、少年とその兄弟の人物設定には不満も残った。やはり新人公演故の力不足か。舞台中央に堂々とそびえ立つ大木は、ちょっといただけない。また、音の使い方にも疑問が残る。ベケットはモダニズムを徹底的化させることによって、ポストモダニズムへの回路を切開いた作家である。しかも、「ゴドー」はべケットが本業である小説を書く合間に気晴らしで書いた作品として知られている。演出に凝りすぎると、そのミニマルなインテンションが薄れ、わざとらしい言葉遊びに見えてしまう。気晴らしとしての「ぬけ」こそ、「ゴドー」の最大の魅力と思っている僕には、それが少々不満だった。とはいえ、「ゴドー」をあえて新人公演でやるという気概には拍手をおくりたい。

スポーツに「もったいないなぁ」はヘンじゃないですか

女子500m岡崎朋美さんは4位。わずか60cmおよばなかったって言われてもなぁ。そういうルールにしちゃったんだからしょうがないでしょうに。1m以内は同着と見做すとか、0.1秒未満は切り捨てとか。そういうルールにしたければしたってぜんぜんOK。スポーツとはそういうものなのだから。現にバレーボールもテニスも、いやウインタースポーツを話題にするならスキージャンプ、フィギアスケート、なんでもいいけれど、どんどんルールを変更している。しかも、テレビ中継に合わせて、競技時間を短くしたスポーツだってあるくらい。だから、そんなことを言うこと自体ヘンなのだ。ヘンといえば、あの「もったいないなぁ」というのもやめてもらいたい。ハーフパイプで、モーグルで、「あ〜せっかくここまでパーフェクトだったのに、もったいない!」って、それどういうことですか? まだ食べられるのに残したり、ちょっとメモした紙を捨てたり、ガス・水道・電気の無駄遣いはやめようというのならばわかります。でも、それまで完璧だった演技やスピードが、ちょっとした失敗や失速で、無駄に終わったからって、それをもったいないっていうのかな。だいたいモノじゃないし。いくら「もったいない流行り」だとはいえ、使い方をまちがってはアカンです。

メルロ=ポンティと共鳴するアスリートの身体

万博記念公園内にある大阪大学コミュニケーションデザイン・センター准教授西村ユミ先生にインタビュー。「専門家であろうとなかろうと、同じ人間の苦悩である限り、〈病い〉は、私たちを執拗に引き寄せ、押し戻し、その傍らに立ちすくませる。この志向性は、私たち人間が根源的に抱えている〈病むこと〉への態度であり、そして、ともに〈病い〉を形づくることの現れではないか」。西村ユミ先生は、病む者の傍らにとどまろうとする態度にすでにケアという営みの始まりを見出す。共在感覚を手掛かりに、他者と〈共にあること〉としてのケアについてお話を伺った。ご著書にしばしば登場するメルロ=ポンティの身体論から、ご自身の看護士としての臨床体験を踏まえてご研究されているなどと思っていたら、じつは逆だった。臨床体験から得た感覚を言葉にしようとする時に、メルロ=ポンティの思想に出会ったのだ。僕自身も、「共在感覚」で、今またあらためてメルロ=ポンティを読み直しているのだが、西村先生の経験に裏付けられた具体的な言葉は、じつにいい水先案内になる。今回の取材は、そんな今回の問題意識とみごとに直結するものだった。ところで、西村先生じつは10代の頃ハンドボールの選手だったという。それもゴールキーパー。確かにそう言われてみると、先生のことばのはしばしに感じられるある種のみずみずしさ、すがすがしさは、アスリートの肉体に見出せるものと近いところがあるように思う。スポーツする身体こそ、現象学の目指す「生々しい」現場そのものだということが、今回またしても裏付けられる結果となった。
五感研究の山下柚実さんは競技スキー、オートポイエーシスの河本英夫先生は陸上競技と、身体を論ずる人にアスリートは少なくない。かくいうぼくも、中学・高校とサッカーに明け暮れた一人だったことをおつたえしておこう。

「癒し」はやっぱり危ない?

『談』no74で佐藤純一さんと対談をしていただいた野村一夫さんが「en」1月号 に「癒しが危ない」という興味深い話を書かれている。癒しブームが完全に定着している現在、私たちは「癒し」にそんなに無防備でいいのか という疑問を野村さんに投げかけてみたのだが、「癒しが危ない」はその答えだ。「癒し」とは安らぎの世界でも、抽象的な気分の世界でもなく、きわめて具体的な実践の空間。ダイレクトに身体に効力を発揮する言葉の空間としてのプラシーボが、まさにむきだしになっているのが「癒し」の空間なのだ。この「癒し」、いつなん時暴走をはじめるかわからない。厳しい眼で常にチェックを怠らないようにしよう、というのが野村さんの結論。この話傾聴に値します。ぜひご一読を。なお、同Webマガジンで、「遺体科学」の遠藤秀紀さんのインタビュー、生田武志さんの『〈野宿者襲撃〉論』のブックレビューをやってますのでそっちも読んでください。

個人か組織か、サッカーのパラドックス

昨日今福龍太さんと雑談していた時に出たネタをひとつ。例の如くサッカーの話。サッカー談義というと、かならずといって個人技か組織かという話題になる。個人技において世界最高を誇る選手といえばロナウジーニョということになるが、今福さん、ある試合でロナウジーニョの得点シーンをみた時、これは昔どこかでみたことがあるぞと思ったのだそうだ。そして、それがすぐに58年W杯の決勝、ブラジル・スウェーデン戦のペレのシュートだとわかった。もちろん50年も前のサッカーのこと、スピードにおいても全体の技術においても、現在のものとは比較にならない。今福さんは、そこで試みに、ロナウジーニョがゴールをきめた映像をスローモーションにしてみたところ、なんとそのペレの問題のシュート・シーンとそっくりだったというのだ。今福さん曰く、個人技の中には、サッカーの記憶が脈々と息づいている。サッカーという技芸そのものが、そうした記憶の堆積の上に成立しているものではないか。逆に組織力の重要さをいかに強調しても、その根底にあるのは個人を分割し、別々に統治するという思想だ。つまり、組織サッカーとはいえ、じつは個に解体されバラバラになった集合体にすぎない。個人技の中にサッカーという集合の記憶が畳み込まれていて、反対に組織にはもはや集合体としての恊働はない。個と組織のなんとも皮肉なパラドックス。この分析、なかなか面白いと思いませんか。眼をジーコジャパンに転じてみると、このパラドキシカルな組織と個人の反転をまさに意識的にやろうとしているのがじつは日本サッカーではないか、というわくわくするような仮説が生まれるのである。ところで、今福さん今月末にル・クレジオを日本に呼ぶ企画でいま奔走している。29日に記念シンポをやるらしい。

土方舞踏の後継者

EL DECOで開催されている「原色の七十年代典 舞姫嵯峨+35」を見る。アーティストの山村俊雄さんと再会。彼は今回の公演の展示ディレクター。会場には、土方さん関係や暗黒舞踏の写真やポスター、活字資料が展示されている。17時30分、小林嵯峨さんのソロが始まる。覆面をし長靴を履き着物で静かにゆっくりと登場。手には、蝋燭が水に浮かんだ洗面器。ひさしぶりに暗黒舞踏を見たという感じ。土方舞踏を本当の意味で継承しているのは、芦川羊子さんと小林嵯峨さんだけだと思っていたが、今回あらためて見てそれが間違っていないことを確信した。
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音楽という親密空間

シアターコクーンへ。「浜田真理子&大友良英オーケストラlive〜ほうき星の下で〜」を見る。ひさしぶりに感動してしまった。そもそも歌もののライブにはほとんどいかないのに。こうして座席にすわってじっくりと聴きながら、不覚にも涙を流してしまった。
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生-権力の再組織化か

生-権力は社会を安定させる機能でもある。その生-権力によって維持されてきた現代社会が、不可視の暴力によって機能不全を起こし始めている。歩道橋から、突然自転車や消化器が投げ落とされたり、突如おんぶをしていた子どもを背後から刃物で切りつけられるなどということは、それ自体予測不可能なことだ。暴力のセキュリティが著しく低下しているのである。言い換えれば、社会を低位安定的に維持させる方向で機能してきた生-権力が、まったく別の位相へ、たとえば、あからさまな物理的暴力機構として再組織化され始めたということを意味しているのではなかろうか。生-権力の発現それ自体が、今、大きく変わろうとしているのかもしれない。生-権力をセキュリティの管理技術と再定義し、それを暴力装置との関わりから捉え直す必要がありそうだ。

驚愕の技術、ブレイン・マシン・インタフェイスとは

NHKスペシャル「立花隆 最前線報告 サイボーグ技術が人類を変える」を見る。神経工学の急速な発達がこれまでSFの世界の話だと思われていたことを現実化しつつある。たとえば、両手を失った男性が人工の腕を手に入れて動かし、また、完全に視力を失った男性が人工の眼で光をえることができるようになる。いわゆる身体の一部を機械が代替するサイボーグ技術は、それでもそのうちできるだろうとは思っていたからそんなには驚かなかった。それよりなによりびっくりしたのは、脳と機械を直接つなぐシステム・サイボーグの技術だ。パーキンソン病で苦しむ患者さんの脳(運動を司る領野)に直接電極をさす。そして、それを読み取り、コントロールすることによって、薬でも治療困難だった病気があっさり治ってしまったのである。続きを読む

年甲斐もなく踊る

自転車で多摩美術大学上野毛校舎へ。学園祭でDachamboと渋さ知らズがライブをやるというので。多摩美に着いた時には、すでにDachamboの演奏が始まっていた。今日のDachamboは、FRFの時のように始めっから終わりまでトランスですっ飛ばすのではなく、途中にメロディアスな曲や「アイコ」(1?)なんかも飛び出してちゃんとジャムバンドしていた。最後の曲は転調が多く壮大なシンフォニーという感じ。でも、ぼくはいまいちのれなかった。やっぱり、ガンガン踊らせてくれる方がいい。そのあといよいよ渋さの登場。オープニングは新曲? 今日は時間がそれなりにあるからか、それぞれのソロパートが異常に長い。こうやってソロをじっくり聴いていると、渋さのベースはやはりフリージャズなんだなとつくづく思う。美大だから、お祭りで踊らせて、ではなく、ちゃんと聴くところは聴かせようと不破さんは考えたのかもしれない。片山広明さんもブリブリ吹いていた。陽が沈みだんだんと暗くなってくると舞台も暗くなる。照明がない! 広場を取り巻く、教室には灯りがついているのに、肝心の舞台には光がない。舞台のみが暗いステージというのを見たのは今日がはじめてかも。そのあと1本照明が立って、ようやく不破さん以下メンバーの姿がよく見えるようになった。本日の最後は、本多工務店のテーマ。渋さのエンディングはやっぱりこれでなくっちゃ。すっかり踊ってしまって、ごきげんな一日でした。

分子的力能としてのファシズム

禁煙ファシズムについての余談。ファシズムという言葉から、ぼくたちはすぐにナチズムを、全体主義を連想してしまいがちだ。しかし、両者は明確に区別されなければならない。ドゥルーズ=ガタリは、次のように言う。「ファシズムは、モル状の切片とも、切片の中央集権化とも混同されえない分子状の体制をともなうものだと考えていい。全体主義国家の概念は、確かにファシズムの創意にはちがいない。しかしファシズムを、ファシズム自身が創造した概念によって規定する必要はないのだ。スターリン主義タイプ、あるいは軍部独裁タイプの、ファシズムなき全体主義国家の概念がいくつも存在するからである。全体主義国家の概念が有効なのは、マクロ政治学の尺度に照らして、硬質な切片性と、統合および中央集権化の特殊な様態を考えるときにかぎられる。ところが、ファシズムは、繁茂し、点から点へと跳び移り、相互に作用し合う分子状の焦点と不可分の関係にある。(…)ファシズムを危険なものに変えるのは、それが群衆の運動であるという意味で、ミクロ政治学的な、あるいは分子的な力能だ。つまり、全体主義の有機体ではなく、むしろ癌におかされた身体である」。(『ミル・プラトー』p247) 禁煙ファシズムは、決して全体主義ではない。あれは、ドゥルーズ=ガタリの言葉を借りれば、端的に癌に侵された身体なのだ。たばこをがん(病い)の元凶とまくしたてる禁煙運動自体がじつはがん(病い)そのものだとしたら……。もちろん、これは比喩である。比喩であるにはちがいないのだけれど、何かものすごいリアリティを感じてしまうのは、はたしてぼくだけだろうか。

10年前にゾーエーと出会っていたなんて!

「しかし、とハイデッガーは、これにさらにつけくわえる。はじまりの哲学者にとって、ピュシスと同じほどに重要な、もうひとつの根本語があったことを忘れてはならない。それは〈ゾーエー〉ということばだ。ゾーエーはふつう〈生命〉と訳されている。しかし、これはまちがった翻訳で、ビーエーはもともと、ピュシスと同じように、〈立ち現れること〉という意味をもち、生そのものが、この立ち現れのうちに思考されていたのだ」。「ピュシスやゾーエーは、たんなる思索のことばではなく、その世界では、哲学者ならぬ多くの人々が、哲学とはちがった表現形式をとおして、まさにピュシスやゾーエーの現実性を、なまなましいかたちで体験していたのである。それはほかならぬ、ディオニソスの祭儀のことだ」。「ディオニソスの祭儀は、個体であるビオスの生命の内部から、荒々しいかたちでゾーエーが立ち現れてくる。その瞬間をとらえようとする表現の形だったのだ。そのためには、あらゆる個体の中でもっとも美しい個体が選ばれ、その身体をできるだけ暴力的に破壊することによって、その中からゾーエーが露呈される、その瞬間をとらえ、祝うために、人々はこの祭儀をおこなった」。
これは、中沢新一さんの『はじまりのレーニン』(1994年)からの引用。たまたま書庫から引っぱりだしてきたら、こんなことが記されてあった。10年も前ではないか。こんな形でゾーエーという概念は僕の前にすでに登場していたのだった。しかもこの箇所に僕はしっかり線まで引いていた。確か、『ホモ・サケル』を一昨年はじめて読んで、ビオス/ゾーエーという概念に興奮したのだが、あれはいったいなんだったのだろう。僕のビオスは、健忘を促進させているのか。ゾーエーのレベルから記憶と忘却について一度じっくり考えてみることにしよう。

「フードガイド」が「食事バランスガイド」に変わった意味

厚労省の会議室で開催された「第6回フードガイド(仮称)検討会」を傍聴する。「フードガイド」とは、健康を維持するために何をどれだけ食べたらいいかがひと目でわかるようにグラフィック化したもの。ピラミッド型のアメリカのものや4分の1の円版型のカナダのものがよく知られていて、それと同じようなものを日本でもつくりたいと、厚労省、農水省、文科省を中心に検討が進められてきた。その最終案(グラフィック)が本日決定するというのでのこのこ出掛けたのである。健康寿命とQOLの向上を目標とする「健康日本21」、その普及・啓蒙を目指す「食生活指針」、それに次ぐいわば最後の切り札となる強力ツールが「フードガイド」である。農水省は食糧自給率の向上に寄与するものと期待しているが、厚労省は端的に生活習慣病の予防が最大の目的だ。生活習慣病を防ぐためには「何を」「どれだけ」食べるかを明確にし、国民ひとりひとりにそれを実践させようというわけだ。さて果たしてどんなデザインになったか。続きを読む

非近代医学は近代医学の批判の拠点にはなりえない?!

高知大学医学部教授・佐藤純一さんと国学院大学経済学部・野村一夫さんの対談。
対談は、佐藤さんの論文「生活習慣病のつくられ方」を話題の中心にして始める。近代医学は病因論(実体論)から始まったが、成人病では病的状態を特定できなくなってきた。そこで近代医学はリスク論を導入する。ところが、確率的解釈であるはずのリスクを実体として把握しようとしたために混乱が起こる。リスクを治療対象にしてしまったのだ。佐藤さんは、これをリスクファクターのモノ化という。しかも、リスクファクターの特定は恣意的に選択されている。WASPの価値観が反映されているのである。医療の生活空間への介入が始まる。さらに、現代ではこの医療化が、民間医療、代替医療、東洋医学などの非近代医学をも取り込もうとしている。いわばメタ・メディカライゼーションとも呼べるような事態が起こりつつあるのだ。一切が健康/病気のまなざしにさらされる時代、こうした時代相を「生-政治」の徹底化とみるならば、いよいよフーコーの分析が有効力を発揮してくるといえる。そして、フーコーのこの権力分析を「ゾーエーとビオス」という概念から読み直したアガンベンの政治哲学もまた、重要な概念装置となりうるのだ。非近代医学は近代医学の批判の拠点になるどころか、近代医学の先兵として機能するようになったという指摘は、傾聴に値する。

「ゾーエー」と「ビオス」を徹底的に掘り下げる

立命館大学大学院先端総合研究科教授・小泉義之さんと東京大学大学院教育学研究科教授・金森修さんの対談。金森さんから話し始める。ものすごい早口。自分は、ビオス派と宣言し、QOLを重視することがなぜ障害者差別になるのかについて疑義を唱え、障害者のQOLをこそ問うべきではないかという。小泉さんは、生きるに値しない生命に価値をみとめようとする現代社会を問題にし、ただの生命といわれることがリミットとして表象されてしまうことを、内在的に批判する視点を模索すると。じつは、これは議論のほんのとば口に過ぎない。何度が話が前後するが、恐ろしく強度のある対談となった。二人とも新優性思想に共感するが、その意味はもちろん単純ではない。「ゾーエー」と「ビオス」をふまえた上で、今日身体と権力に対する最もラディカルな批判としてのそれだ。『談』最新号、乞うご期待!

逆立ちしたディチャーチン

我が家の書庫の整理。最初に勤めた編集プロダクションで制作した『ポリセント』が出てくる。この雑誌はそのプロダクションのPR誌。というか、ぼくらが勝手につくってしまった同人誌のようなもの。2号で休刊になったが。そのなかにぼくの寄稿した「逆立ちしたディチャーチン」というエッセイがあった。すっかり忘れていたが、読み直してみたらそれなりに面白かった。アフガン進攻で参加ボイコットが相次いだモスクワオリンピックの体操競技で個人総合優勝を果たしたのがアレキサンドル・ディチャーチン。この選手の身体は、妙になまめかしくて、そのしなを作ったポーズはベラ・チャフラフスカ(東京オリンピックで3つの金)を彷佛させたという。ところが、同じモスクワの女子体操の覇者コマネチの身体は逆に少年のそれと同じ。この年1984年、人類における男性性と女性性の大逆転劇が起こったというおち。ぼくのセックス、ジェンダー、セクシュアリティに関する考えは、25年前からちっとも変わっていなかったのだ。はたして、早熟だったのか、単に進歩がないのか。たぶん後者だろう。余談ですが、この雑誌には、あのえんてつさんも寄稿しているよ。

クローンによる医療は、女性の身体を資源化する

『談』no.74号「ゾーエーの生命論…メディカライゼーションへの抗い」で、クローン技術、ES細胞を題材に人体の資源化について鋭い批判を展開しているフリージャーナリストで科学技術評論の粥川準二さんをインタビューする。テーマはズバリ「人体の資源化と医療化の関係」。粥川さんは、クローン技術といえばクローン人間、ES細胞といえば受精胚(受精卵)のことだけが問題にされてきたことに強い危惧をいだいてきた。ES細胞をクローン技術と結び付けることによって再生医療の道が拓かれる。治療を目的とする「セラピューティック・クローニング」は、「リプロダクティブ・クローニング」同様、大きな問題を孕んでいる。それは、人体の資源化を促進する技術だからだ。何が一番大きな問題か。この技術にはたくさんの卵子が必要となることである。「セラピューティック・クローニング」、すなわち、クローンによる医療は、女性の身体を資源化することなのだ。しかも、卵子の提供者である女性には、一銭の見返りもないのである。この非対称性! 急激に進行するメディカライゼーションの陥穽を暴きだしてもらった。

クローン人間

資源化する人体

なんでそんなに記憶喪失が怖いのだろうか

よく原稿をお願いするライターI女史は、何かと言うと「記憶力がなくなった!」を連発する。とくに短期記憶がダメ。30分前の記憶すら思い出せない。最近もっとひどくなって、字まで思い出せなくなっている。さっきも、「む」の字が思い出せなくて、そうとう焦ったらしい。とにかく心配なんだそうだ。たぶん彼女も荻原浩さんの『明日の記憶』を読んだのだろう。若年性アルツハイマーを宣告された50歳の広告マンの物語。確かに、この本、ミステリー並に怖い本。記憶が消滅していくことは、自らの存在を失っていくに等しいらしい。
彼女は、しきりに「名前が出てこないってない?」かとぼくに聞く。ふふふ、もちろん、
of course、naturally そんなのしょっちゅう。でも、ぼくの場合、今に始まったことではない。子どもの頃から、記憶力にはまったく自信がなかった。18歳をすぎた頃から、その日食べた晩ご飯、「なんだっけ?」なんて言って、母をあきれさせていた。というか、母は本当は心配していたのかもしれない。ぼくは、だから、記憶がなくなっていくことがそんなに怖くもないし、心配もしていないのです。幼年性アルツハイマーだと思っているくらいだから(そんなのないけど)。
DID(解離性同一性障害)は、一種の記憶喪失症でもあるという。身体と記憶は深く関わっている以上、記憶障害は身体の障害でもある。記憶を失うことは、それだけ身体にまつわるしがらみからも自由になること。やがて、短期記憶ばかりでなく、生活記憶も消えていけば、身体そのものからも自由になれるかもしれない。それはそれで楽しいことではないかとぼくは思うんだけどなぁ。近頃の記憶喪失への恐怖は、やはりどこかアンチ・エイジングへの関心と一脈通じるところがあるようだ。ところで、『明日の記憶』のカバー写真の後ろ姿の男性誰だと思いますか。じつは、友人のフォトグラファー伊奈英次君なんですよ。

明日の記憶
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