四谷の紀尾井ホールへ。中村明一さんの第15回リサイタル「中村明一虚無僧尺八の世界 京都の尺八 I 虚空」を鑑賞。もう何年も前から、招待状を送ってもらっていた。オフィス・サウンド・ポットの慶野由利子さんとは、おそらく白桃房関係で知り会ったと思う。が、さだかではない。やっと行くことができた。舞台にしつらえた壇上に正座をして、1曲づく全霊を傾けて吹く姿に感動する。密息、循環呼吸による演奏は、息を飲むものがある。笠井のダンスを観る時のような感覚が甦ってきた。覚醒しながらまどろむ、いや微睡みつつ覚醒するという方が正確か。半死半生のような状態で聴き続けた。面白いコンサートだった。
→中村明一さんの虚無僧尺八の世界
身体
先生ご自身は吸わないのだけれど、倫理学の仲間は、じつに7人のうち5人吸うし、哲学関係でも5人のうち3人は吸うとか。哲学者の喫煙率はかなり高いらしい。廣松渉さんのヘビースモーカーは有名で、一日に3、4箱は吸っていたらしい。奥さんも喫煙者で、ご自宅は、ありとあらゆる場所がヤニで黄色くなっていたらしい。ある時、ある人がテーブルの上を指でこすったら、指にうっすらとヤニの山ができた、といううそのような話もある。今回は、そのたばこについての原稿。
夕方、21世紀スポーツ文化研究所へ。TASCの岡本さん、西山さんと稲垣正浩先生との歓談。『TASC monthly』10月号に「相撲がオリンピック競技となる日はくるか」をご寄稿いただいたので、発行になったばかりの本誌をお持ちしたのだ。先生は、学生時代体操のアスリートで、オリンピックを目指しておられた。それがけがのため断念せざるを得なくなって、それからスポーツ史、スポーツの哲学的研究に入っていった。酒が入ったためか、先生もいろいろお話しをしてくれたが、やはりスポーツ、というかその原基である身体に対して、じつに深い洞察をされていて、ただただ敬服するばかりであった。いずれちかいうちに、また先生には『談』にご登場いただこうと思っている。
13時30分にエスタシオンカフェで大島幹雄さんと打ち合わせ。岡本所長と一緒。『虚業成れり…「呼び屋」神彰の生涯』がめっぽう面白く、その著者である大島さんに、ぜひ原稿をお願いしたいと思い、今回の面会が実現した。
大島さんの本職は、プロデューサー、とくにサーカスの呼び屋さんとして活躍されている。たぶんサーカスの関係者はタバコ吸いが多くて、ご本人も吸うのではと思っていたら、ズバリ的中。なかでも空中ブランコの人たち、特にロシア人の場合、大島さん曰く7割はタバコ吸いとのこと。それも、スポーツからの転向者に多い。
今タスポになってしまって、とても困っている。連中がたばこを買うためにタスポを貸してほしいと、ホテルの部屋のドアをたたくからだというのだ。どうしてそんなに喫煙率が高いのか。たぶんストレスのせいだろうという。持久力を競うスポーツと違ってブランコの場合は、正味5分くらいだし、身体へのダメージは感じられないからではないかという。
今回お願いする原稿も、そんなタバコ吸いとの交流録になるのではないかと思う。帰り際『THE ART TIMES』のインド魔術特集と石巻若宮丸漂流民の会会報「ナジェージダ」を贈呈していただく。大島さんは、小さいけれどピリッと光る活字メディアのパブリッシャーでもあるのだ。
関西大学社会学部教授・阿部潔先生より『スポーツの魅惑とメディアの誘惑 身体/国家のカルチュラル・スタディーズ』(世界思想社)を贈呈していただきました。じつは、北京オリンピックの開会前に届いていたのですが、TVが連日伝える熱戦に夢中になってしまっ て、活字を読むどころではなかったため、つい紹介が遅れてしまいました。たぶん著者も版元も、北京に合わせて配本日を決めたのでしょう。8・8前に私のところへ送っていただいたのも「見る前に読んで!!」ということだったとしたら、ほんとにどうもすみませんです。しかし、しかしですよ。これは弁解ではありませんが、獲得メダル数金8銀6銅9、大会も残り5日となった現時点で、本書を開いてみると、これがなかなか面白いのです。いまだから、読むべき本だと思いました。谷亮子は銅では喜べないし、北島康介も200mで世界新でなければ笑顔もいまいち。その一方で、ボルトは100mで9.69秒の世界新を出しても、あのひょうきんぶり。競技の結果とその結果を出したアスリートの感情がかならずしも一致しないということを、液晶やプラズマ画面に映し出される選手の顔を見ることで察知してしまうのです。TVはなぜアスリートの目や鼻や口をあんなに大写しにする必要があるのか。情動表現と感情の不一致、生身の身体とデジタル画像としての肉体表現の乖離。われわれがオリンピックを見るということは、TVを見るということであり、表象/代表(represent)の回路に巻き込まれるということを意味しています。オリンピックの視覚的体験とは、まさしくメディア体験そのものなのです。本書は、現代のスポーツが置かれている状況を、メディアとの関係から抉り出そうとします。スポーツする身体はどのような形でメディア化するのか。感動はどのような経路を経て「物語」となるのか。スポーツと国家が一体化する瞬間はどこか……、著者はわれわれに問いかけます。ホンモノの花火に混じってCGの花火が使われ、少女の歌は口パクだった。スポーツの祭典そのものがすでにヴァーチャルだとしたら、オリンピックとはなんなのか。身体とは、いかなるものか。北京五輪をもう一度考えるための一冊です。
写真家 大西成明さんから『大西成明写真集 ロマンティック・リハビリテーション』を贈呈していただきました。
大西さんは、『病院の時代』(2000年)で全国の病院を訪ね歩き、「生老病死」である人間をドキュメントしました。また、『ひよめき』(2004年)では、脳を一個の「存在」として活写しました。いのちの形として、そこにそうして在り続ける物体。ヒトとは、モノであると同時に、生きるからだであり、生命の形象です。このモノといのちが分かちがたく結びついた状態を現象学は、「身体」と呼びました。人間とは、「身体」のことです。そして、それは自己超出するという意味で「存在」そのものなのです。つまり動くこと、動き続けること。
大西さんの眼は、ついにその動く「存在」を捉えたのです。いのちをかけて動き続ける身体としての「存在」。「ロマンティック・リハビリテーション」に登場する人々はみんな生き生きとしています。それは、日々新たに生まれ変わる「存在」であることを、リハビリという現場に立つ誰もが、あたりまえのこととして受け入れているからに他なりません。もちろん、撮影者も例外ではありえない。「存在」をいかにして撮るか。著者は、写真家である以前に、身体としてそこに在ることを自覚します。真実を写す前に、真実を生きよう。大西さんの眼も、真実と同期するように動き回ります。動くこと、動き続けることを捉える続ける眼=写真の誕生です。
He's tried to make me go to rehab but I won't go go go(AMY WINEHOUSE )リハブ? そんなのすぐ目の前にあるじゃん。
「大相撲はオリンピック競技になれるか」というテーマでご寄稿をお願いするための訪問。いろいろ面白い話をいっぱい聞いた。S社の水着は、身体を改造している。からだを鍛え上げたトップアスリートなら水着の締め付けを跳ね返すだけの筋力があるから大丈夫だが、成長期にある中高生が使用した場合、事故が起こる可能性があるという。心臓をやられるというのだ。S社の水着は、簡単にいうと、身体を針金のようにさせて、水の抵抗をなくそうというもの。血管を締め付けると、筋力がないとダメージを受けることになる。オリンピックはいいとして、インターハイは着用を認めるのか。これは、一種のドーピングではないか。
今、陸上の幅飛びで、ある身障者のアスリートが注目されている。というのは、義足の技術が進化して、健常者の記録を抜いて世界記録がでるかもしれないから。また、まことしやかに、両足に超高性能義足を付けると健常者より早く走れそうなので、両足を切断してその義足をつけることで世界一を目指している人があらわれたらしいという話。嘘のようなことが、今、どんどん起こっているのだという。
相撲の幕内力士のじつに3分の1は、日本人以外。すでに、大相撲は、日本のどのスポーツより国際化が進んでいるという事実。力士は男芸者と呼ばれているように、相撲は芸に近い。八百長も芸のうち。八百長を八百長とわからないようにやるのが、力士というプロの芸なのではないかと。おっしゃるとおり。まったく、いつもながら稲垣先生はラディカルだ。もう大学という看板をしょわなくていいのでガンガンやるといってらしたが、学校にいた時から十分過激でしたよ、先生は。だからこそこうしてまた原稿を依頼しているわけだ。稲垣先生とは、長く付き合えそうな気がする。この原稿が掲載されるのは、北京オリンピックが終わった頃。楽しみにしていてください。
出社すると机の上には、贈呈本が3冊。いつも送っていただくあの方からかな、こっちは時々送ってくれるさるお方、これは最近知り合ったあの先生にちがいない…なんてドキドキしながら、封書をひらいてみたら、あらららっ、三冊とも著者は同じ。香山リカ先生。最近は、「月刊香山リカ」状態ですね、と以前ブログに書きましたが、すでにそれも過去のこと。いまや「週刊香山リカ」の時代なんです。というのも、つい数週間前にも『セックスがこわい 精神科で語られる愛と性の話』『いじめるな! 弱いものいじめニッポン』(辛淑玉との共著)を送ってもらっていたからだ。さて、それはともかく、三冊いっぺんに斜め読みして、面白かったのは『うつ病が、日本を滅ぼす!?』。というか、かなりマジで考え込んでしまうような内容の本でした。
「自尊心が強く自分幻想も大きく、他人からの評価には傷つきやすく、落ち込んだかと思うと時には攻撃的になることもある人たちが、ちょっとした挫折をきっかけとして、少し耐えて乗り越えようとすることもなく、次々と「私、うつ病です」と戦線離脱していくと、会社も役所もそのうち成り立たなくなるのではないか」と、香山先生は半ばホンキで心配しているのです。
あとがきにあるように、「うつ病は、現代のペストにも匹敵するような問題」なのか。精神分析家の十川幸司さんは、治療を目的とする薬物の市場拡大がうつ病の患者さんを増加させていると危惧されていました。また、精神科医の春日武彦さんは、うつ病を躁病との関連で捉え直す必要性を提起されておられます。『談』でも、何度かうつ病についてはとりあげてきましたが、深刻な問題なだけに、粘り強く考察をしていく必要性を感じています。その意味で、本書の問題提起はとても重要だと思いました。
セックスがこわい?精神科で語られる愛と性の話いじめるな!?弱い者いじめ社会ニッポン (角川oneテーマ21 A 80)
柏野さんが、まずデモを中心としたプレゼンを行う。というか、最後まで、PPの映像を出しっぱなしにして、池谷氏が質問やコメントすると、それに相応しい画像を「これですね」と柏野さんがすぐに出すというしくみ。みごとなかけあいだった。柏野さんが問題を出して、オーディエンスに答えてもらうという実験もやった。「え〜?!」となるような意外な結果が出て、一同びっくり。そんな感じで演者、聴衆、一体となって議論は進んでいった。
ゆらぎの重要性、安定/不安のパラドクス、耳の解剖学的構造、知覚の研究、バナー効果、運動系とのつながり、声の問題、タイミングとズレ、音痴とは何か、新奇性と親近性、魅力度=新奇性×分解能、予測と報償系回路の関係、自発活動と知覚の遷移の問題…などなど。2時間20分がまたたくまに過ぎていった。このままやっていたら、永遠に終わらないのではないかと思えるような熱心な対話。あまりに面白かったので、逆に活字にするのは難しいかも。なんて、言ったら怒られそうですね。でもあえて言わせてください。今回のは、ライブだからこそ面白さ100倍でした。
TASCで『談』の編集会議。次号は「音」、次々号は「パターナリズム」。その趣旨と構成案をプレゼンした。「音」の方は、昨年提案させてもらっていて、今回正式な承認を得た。当初、世界音楽という切り口に重心を置き、まだ「音楽」にこだわっていたのだが、今回構成を改め「音」そのものに照準する企画に修正した。「音」を、哲学、音響学、情動を中心とする脳科学といった観点から掘り下げようというものだ。とくに、聴こえない音、静寂、沈黙から、「音」に迫ってみたい。全て対談、ディスカッションにし、澤野×萱野対談で試みたように公開で行い、それを『談』に採録するということを考えている。できれば三日三晩、「音」にどっぷりつかるようなものにしたい。さて、その構成だが、かなり異色のキャスティングを予定していて、実現すればそうとう面白いものになるはず。乞うご期待。
会議の後、その会場になる吉祥寺sound caf? dzumiにて打ち合わせ。なんとこの日打楽器奏者の土取利行さんが来店しておられた。初対面だったのでご挨拶。長年にわたるピーター・ブルックとの作業について、また僕が芦川羊子さんらの仕事をしばらく手伝っていたと言うと、70年代からの舞踏関係とのコラボレーションについてお話してくれた。結局のところ舞踏とは本当の意味でのコラボはできないんだよ、という言葉に、ちょっとショックをうけたけど……。即興というものを常に考え抜いているアーティストの言葉は重く鋭い。貴重な会見だった。
中でも澤幸祐先生(専修大学文学部心理学科)の「ラットにおける因果推論-新たな研究パラダイムの可能性」、本田学先生(国立精神・神経センター神経研究所)の「生存戦略としての美と快」に感銘をうけました。前者は、ラットにおいてもヒトと同様に「観察と介入の区別」に関する複雑な因果推論を行っている可能性を示唆し、「動物研究の先にあるもの」を模索するもの、また、後者は、脳の報酬系が主導する情動-理性-感性による行動制御のメカニズムを、バリ島社会のフィールドワークを通して脳科学から探ろうというもの。とくに、本田先生は、芸能山城組のメンバーでもあって、バリ島の祭儀に見られるトランスする身体から、生物の生存戦略を読み解いていくという大変刺激的な発表でした。『談』no.77.「〈いのち〉を記録する」にご登場いただいた池谷裕二先生が、今最も会いたい人とおっしゃっているという話を聞いていましたが、なるほどうなづけました。
ところで、80年代の初頭、池袋の西武百貨店にあった「スタジオ200」で、「バリ島の生態学」という4日間にわたる連続シンポジウムを企画したことがありました。その時、芸能山城組に企画と連動してケチャをライブでやってもらいました。ぼくは、その企画の下見でバリ島に行ったのですが、思えばそれが海外旅行初体験。ミュージシャンのYASUKAZUさんや高田みどりさんなどとの道行きは、興奮の連続だったなぁと思い出してみたり。山城組とは、浅からぬ縁があるのです。
その時はさすがに実際に村人がトランス状態になる場面を見ることはできませんでしたが、これがきっかけで陶酔する身体としてのトランスというものへの関心が芽生えたのでした。このトランス、しばしば激しい痙攣を伴いますが、懇親会で直接お話しすることができたので本田先生にうかがったところ、あれはいわゆる癲癇などの痙攣とは、まったく関係のないものなのだそうです。じゃ、あの身体の振動はなんなんだ? じつは、それこそ報酬系のポジティヴ・フィードバック回路と深く関係する身体現象だというのです。う〜む、これは面白い。この話を聞いた瞬間、『談』の特集企画が一つできました。はて、それは…、たぶん、次々号あたりに日の目をみることになるでしょう。
ところで、本編は3月29〜30日に東京芸術大学主催の「ネグリさんとデングリ対話 マルチチュード饗宴」で上映が予定されている。ていうか、アントニオ・ネグリの初来日するこのイベントもすごいぞ。
→ 「ネグリさんとデングリ対話 マルチチュード饗宴」
河野哲也先生は、ぼくを見下ろすような背の高い人で著書のイメージと違っていた。あとから伺うと先生は剣道をずっとやられていたとのこと。またしてもアスリートだ。以前から『談』を何冊か買っていただいていたようで、大変うれしい。著書の趣旨をまずお話いただく。教育と福祉、J.J.ギブソンとノーマライゼーションをメルロ=ポンティでつなぐ試み。何が知能なのか。それは、身体と環境のセッティングによって変わっていくものだ。何が価値なのか。それは、行為の多様性から生まれてくるものだ。学習の問題、成長の問題、環境の問題、さらには法の問題。いずれも身体とニッチの関係から読み解くことができるという。非常に有意義なインタビューとなった。しかし、またしてもメルロ=ポンティ。メルロ=ポンティの哲学とアスリートは相性がいいのかもしれない。ついでに言うと、ギブソンもそうだ。アフォーダンスを一発で理解するには、まず400mを全力疾走してみるといい。あるいは、クロールで2000m泳ぐのもいいし、もちろん竹刀で面打ちを決めるのでもいい。中井正一ではないけれど、スポーツ気分が了解できた時に、キアスムもアフォーダンスも自らの体験として会得できるはずだ。今度、「スホーツ気分」の研究でもやってみることにしよう。
著書の途中で何度かメルロ=ポンティからの引用がある。てっきり、メルロ=ポンティを読む過程でケアや介護の問題にぶつかったのかと思っていたら、じつは逆。ケアや介護という実践の過程で、メルロ=ポンティと出会ったのだそうだ。自らの実践活動の意味を分析する時に、メルロ=ポンティの身体論が役に立ったのだという。学生時代バタイユに傾倒したぼくは、彼のエロティシズムの問題をやはりメルロ=ポンティの身体論に引きつけて読んだ記憶がある。メルロ=ポンティはけっこう使えるのだ。余談だが、今年はメルロ=ポンティ生誕100年にあたる。今秋立教大学で大きなシンポジウムが予定されているという。再び、ぼくの中でメルロ=ポンティが息を吹き返すかもしれない。
インタビューは、非常にいいものになった。それもこれも西村さんの人柄によるところが大きい。その語り口がとてもチャーミングなのだ。なにより実践家であるところがいい。思想も身体があるかないかが分かれ目である。ところで、西村先生は若い時にハンドボールをやっておられたとのこと。それもゴールキーパー。アスリートだとわかって、なるほどと思った。身体や五感に感心のあるひとは、かなりの頻度でそういう経歴の人が多い。五感研究の山下柚実さんは競技スキーだしオートポイエーシスの河本英夫氏は陸上競技。そして、かくいうぼくも中高とサッカー部だった。いずれ、アスリートの経験をもつ哲学者、思想家の特集をやってみたいと思っている。
著作に書かれていた内容に沿ってお話を聞く。たとえば、日本人の常識ではありえないような100mも離れた者同士が大声で口げんかをし、相手を特定することなく発話するボンガンドの人々。このザイール・ボンガンドの文化では、150〜200m以上離れてようやく挨拶を交わす対象となる。そうかと思えば、同時に多数の人々が発話したかと思うと、普通なら気まずくなるような長い沈黙が突然起こるようなカメルーンのバカ・ピグミーの文化もある。彼ら/彼女らは、いつとはなしに静かにやってきてずっと見つめ合ったかと思えば、すうっと静かにいなくなる。自己と他者の関係、それをとりもつ会話や行為。こうしたいわゆるコミュニケーションのあり方自体がことほどさように多様なのだ。アフリカの二つの文化を比較しながら、「共在感覚」をキーワードに、木村先生はコミュニケーションのあり方を捉え直す。先生は、そこで「双対図式」というとてもユニークなアイデアを提案する。今回のインタビューは、まさにその「共在感覚」と「双対図式」の関係をご教示いただこうというものだ。たっぷり2時間、非常に有意義な取材となった。詳しくは、3月発行の『談』をお読み下さい。
ところで、木村先生のHPに、ボンガンドの投擲的発話とバカ・ピグミーの発話重複、沈黙の様子を記録した動画ある。↓がそれ。これは必見!!
共在感覚
以前鵜飼哲さんにインタビューした時、そのタイトルを「記憶の記憶、忘却の忘却」としたのだが、これは、ニーチェの能動的忘却に定位して、人間は忘れることができなくなった動物、すなわち、忘却を忘却したのが人間にほかならない、というところからとったものだった。
この「忘却の忘却」という言葉、他でも読んだことがあるなと思いつつ、それがまったく思い出せなかった(単なる忘却)。それが、あったのだ。最近河出文庫から次々に翻訳が出ているドゥルーズの著作、ほとんど持っているけれど、結局持ち運びができるのでまた買ってしまうわけだが、その一冊『フーコー』を読んでいたら見つけたのです。
「…しかし、主体あるいは主体化としての時間は、記憶と名づけられる。(…)この記憶はそれ自体たえず忘れられて再構成されるからである。その襞はまさに、拡げられた襞と一体である。なぜなら、拡げられた襞は、襞のなかに折り畳まれていたものとして現前し続けるからである。ただ忘却(拡げられた襞)だけが、記憶のなかに(襞そのもののなかに)折り畳まれていたものを再び見出すのである。フーコーが最終的に再発見したハイデッガーがここにいる。記憶に対立するものは忘却ではなく、私たちを外にむけて解体し、死を構成する〈忘却の忘却〉である」。(「湾曲あるいは思考の外」)
ドゥルーズは、『フーコー』におさめられた幾つかの論文で、フーコーを、「襞」あるいは「折畳み」という言葉から、執拗にその外の思考として掴まえようとする。その外は、襞あるいは折畳みという条件において、思考し得る対象としての記憶/忘却の再開の必然性、回帰の不可能性となり、再びわれわれに贈与されるというのである。襞あるいは折畳みは、ドゥルーズをフーコーへ、さらにはニーチェ、ハイデッガーへまさに折り畳んでいくための重要な概念なのだ。
などと考えながら、今日、日仏学院で「アベセデール[D、E、F、G]」を見た。カメラの前のドゥルーズの、なんと饒舌なことよ。クレール・パルネのインタビューに対して語ること語ること、ほとんどしゃべりっぱなし。ある時は、パルネの質問を遮ってまでしゃべり続けるのである。哲学とはまさに語ることだといわんばかりに。
そんな動くドゥルーズをはじめて見て驚いたのだが、もっとびっくりしたのが彼の爪!! 指の先には、まるでジョニー・デップ=エドワードのような長い爪が鎮座ましましていたのである。それも10本の指全部に。しかも、人さし指の爪は、くるっと弧を描いて、丸まっていた。あっ、これって、もしかして「折畳み」のこと? そう、よく見れば、人さし指だけでなく他の何本かも内側に湾曲しているではないか。そうか、ドゥルーズという哲学者にとって「襞」「折畳み」という概念は、自らの身体のメタファだったのだ。いや、逆か、自分の身体こそ、「襞」「折畳み」のメタファだった。ということは、「器官なき身体」はドゥルーズそのものだったってことなの? そんな想像も愉しむことができる「アベセデール[D、E、F、G]」の上映はあと3回。ぜひ見ましょう。クレール・パルネが女性だということもこの映像で知った世間知らずの僕です。
そんなこともあって、今日、ご無沙汰していた柿本昭人さんにご連絡をとった。そして『TASC monthly』にご寄稿をお願いしたのである。今回お願いしたテーマは「脳年齢になぜかくも躍起になるのか」。鼎談の議論とは直接つながるものではないが、「老い」と「生-政治」の交錯という問題を踏まえてであることはいうまでもない。さて、どんな議論が展開されるのか、今から楽しみだ。
特集内容をお知りになりたい方は、左のナビゲーションバー下の最新号にアクセスしてください。
8月20日発行!! 書店発売は21日です。
特集 〈祝祭〉する身体---陶酔と暴力のはざまで
定価[800円+税]
「私の身体が私の身体であって私の身体ではなくなる」
トップアスリートの誰もが体験する「エクスターズ」の瞬間を
暴力、熱狂、陶酔から解き明かす。
私は誰の身体なのか。いや、そもそも、私とは何ものなのか。
●清水諭(筑波大学大学院人間総合科学研究科准教授/スポーツ社会学)
祝祭としてのスポーツ
『甲子園野球のアルケオロジー スポーツの「物語」・メデイア・身体文化』(新評論)でスポーツのカルチュラルスタディーズの領域を切り開いた清水諭が、再び、スポーツとスポーツ観戦者が一体となってつくり出す「スタジアム」の魔術性について語ります。
●稲垣正浩(日本体育大学大学院教授/スポーツ史)
スポーツと暴力……思考のパラダイム・シフトに向けて
『〈スポーツする身体〉を考える』(叢文社/2005)でスポーツのパラダイム変換を企てるスポーツ史の稲垣正浩が、スポーツの源泉である暴力について言及します。
●冨田晃(弘前大学教育学部准教授/文化人類学・写真家・アーティスト)
カーニヴァルの身体……非合理性、死、美意識
『祝祭と暴力 スティールパンとカーニヴァルの文化政治』(二宮書店/2005)で暴力への欲望を快楽へと昇華する「祝祭」についてフィールドワークした冨田晃が、身体の根源にある二重性に切り込みます。
●特別企画
写真家・神山貞二郎が、舞踏家・上杉満代の舞踏を撮り下ろした最新作。
表紙 木原千春
神谷町の虎ノ門パストラルへ。TASCの助成研究報告会。会場はほぼ満員。驚いた。トップバッターは藤原辰史さん。「再生産される〈生命空間〉」(『談』no.75所収)でインタビューさせていただいた京都大学人文科学研究所助教。助成研究のテーマは「台所のナチズム ナチスの食生活と〈無駄なくせ闘争〉」 。「ナチスのむき出しの女性蔑視、男性中心主義にもかからず、なぜ主婦は、戦争に動員されたのか。食生活の中心に位置する台所という場から問う」という斬新な研究。食の内実が均質化し、主婦の人間性剥奪されるかわりに、台所という場が、あたかも生命をもった有機体のようになる。ナチズムの本質にある自然志向が、今回の発表からいっそう明らかになった。「生-権力」の問題をしつこく追っかけてきた『談』としては、いいヒントをもらったように思った。これまで、研究発表会なるものにほとんど出席したことがなかったが、活発な議論が交わされていて、正直びっくりした。助成する限りは、厳しいジャッジは当たり前か。僕もがんばらなくては。JTとも関わりができたので、会場で挨拶する人が増えた。
中座して、中目黒へ。『談』のデザイナー河合君と待ち合わせて写真家の神山貞次郎さんの事務所へ。目黒側沿い。3Fに黒い猫ちゃん。さっそく写真をみせてもらう。最近上杉満代さんの舞台を撮ったんだけど見る?とおっしゃるので 拝見する。これまでの神山さんの写真とはちょっと違う感じ。しかし、これがいいのだ。河合君も閃いたらしく、3点すぐに決まった。これで、ヴィジュアルも揃ったし、あとはeditor's noteだけだ。で、明日がその企画会議。
夕食を食べながらアジアカップ準々決勝。オーストラリア戦。後半先制されるが、その2分後に高原のワールドクラスのゴールで追いつき、延長戦でも決着がつかずPK戦。オシムはいつものようにベンチに引き込み結果を待つ。やはり、能活はアジアカップになると運を引き寄せる男だ。最初のふたりのシュートは確実にゴールに突き刺さるはずだった。が右に左にシュートをはじき返す。そのあと日本は高原がはずすが中澤が決めて勝利。準決勝へコマを進めた。オシムはじつにサッカーをよく知っている。どんなに強くても運に見放されたらおしまいだ。実力と運がなければ勝てないのがサッカー。サッカーは結局のところ富くじとそう変わらないゲームであるということを、オシムは知り抜いているのである。清水諭先生もおっしゃるように、偶然性に強く支配されているのがサッカーで、それは野球にはない魅力である。ロッカールームで薄目をあけて試合の行方を見つめるなどということは、バレンタインには無縁のことなのだ。
「、今月7月21日(土)13:00〜(於:立命館大学)、立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点が主催となって「PTSDと「記憶」の歴史 アラン・ヤング教授を迎えて」という企画を行うことになりましたので、お知らせ致します。
もしご都合が宜しければ、ぜひとも皆様の積極的にご参加頂き、またご関心のある方々にアナウンスして頂きますよう、図々しくもお願い申し上げる次第です。
なお、詳細は以下のホームページに掲載しておりますので、そちらをご参照ください。
「生存学」創成拠点(arsvi.com)のトップページから入って下さい。
「PTSDと「記憶」の歴史 アラン・ヤング教授を迎えて」
「正しいこと」をそれぞれが全うしようとするがために暴動へと発展していく過程を軽妙に描いて絶賛されたスパイク・リー監督86年の作品『ドゥ・ザ・ライト・シング』。後にブルックリンで実際に起こるクラインハイツ暴動を予見させたということで、スパイク・リーは一躍、時の人になった。ぼくも、ビデオになってからすぐに借りて見て、衝撃を受けたことを覚えている。しかし、冨田晃さんの『祝祭と暴力』を読んで、少し見方が変わった。この映画は、あることを巧妙に避けているというのだ。「スパイク・リーは、ブルックリンの多様性を表現するために、「黒人」「イタリア人」「プエルトリコ人」「韓国人」「警察」とキャスティングしているが、各黒人が持つ文化的・歴史的背景の多様性や黒人内の集団間の対立の問題には触れ」ず、「ブルックリンの黒人の大半が、カリブ海地域生まれか、その二世であるにも関わらず、「黒人=アフリカ系アメリカ人」として描いた」というのである。80年代後半、真の黒人監督として評価を受けたスパイク・リー。だが、彼の考える黒人とは、抽象化され一元化された「黒人」であり、「黒人」であることの多様性を自ら否認してしまったのだ。米国史上最悪の人種暴動の一つ「クラインハイツ暴動」。それをどう解釈するか。ブルックリンの黒人居住地の真ん中にあるルバヴィッチ派ユダヤ人との宗教的な対立? 貧困からくる矛盾? ブラックパワーこそ正義? 同じ移民たち同士の共生の難しさ? いや、問題はそんなに単純ではない。ブラックアフリカンだけがブラックではないように、ユダヤ人にもさまざまな顔がある。ミックスジュースからサラダボールへ。そして、今は「モザイク」。だが、この「モザイク」という言葉に潜む陥穽をこそ問われなければならない。人種、国籍、国家、宗教……。いったい、その何が「モザイク」なのか。今問われるべきは、「モザイク」の意味そのものだ。
スピノザは「良心の呵責」について、「悲しみ」という情動に解消したと言われている。そのことが、人間の社会的・倫理的な行動契機を奪うことにつながりかねないと研究者から指摘されていた。浅野さんは、そこに注目して、「その考えが従来型の良心論が持つ、個人という枠内の自意識の問題にそれをとどめてしまう傾向を突破して、汎化された〈環境に対する能動的な関心と反応能力〉を私たちにもとめていくものではないか」と、むしろそこにこそ可能性を見出そうというのである。
「今日の様々な社会闘争の直接のきっかけとそれを持続する意志に力をあたえているのは、〈悲しみ〉という情動なのではないだろうか。言い換えれば、自己や他者の生命が何らかの形で傷つけられていくことに対する、ほとんど身体レベルから発せられる異議申し立てーーすなわち媒介を経由しない直接的・一時的かつ否定することの不可能な情動ーーなのではないだろうか。しかもそれは同時に、能動的な〈喜び〉の情動の増殖を求めて自らを貫通する関係性を構成し直し、新しい共同体を構築しようとする、個人性にはけっして限界づけられない集団的欲望なのではないだろうか」
浅野さんはこの論文で、『談』インタビューのその次を展開しているのである。
サウンドイメージ研究所/Laboratory Cafe dzumiへ。泉さんすっかりマスターになっている。今日、このスペースをお借りして弘前大学の冨田晃さんにインタビューをするのだ。窓際のテーブル席でインタビュー開始。冨田先生はサックス奏者でスティールパン奏者で三味線弾きで彫刻もやる、文化人類学者にして美術の先生。生きながら死んでいくより、死んだように生きていく方をとると言い、つまらないものを守るよりも、身体が感じているものを守りたいと強い調子で言い切る。クリエイティヴであり続けるための戦略と戦術にたけてるひと。カーニバルとは本来目的がないから面白いのであって、その意味では遊びと同じだ。ラテンの感覚を強くもつとても気さくな人だった。道を挟んだ向かいにあるフレンチの店、芙葉亭で食事。2時15分を回ってしまったので、タクシーで次なる目的の場所、日体大へ。15時15分。ドアを開けるとすでに研究会は始まっていた。思ったより沢山の参加者がおられる。ちょうど稲垣正浩先生が発言中。これは前の発表者に対するコメントだった。われわれを加えて、いよいよ稲垣先生の発表。「スポーツと暴力」は、興味を引くテーマだ。先生の発表は、休憩を挟んで、2時間以上に及んだ。内容は、ソレルとベンヤミンの暴力論を手がかりに、暴力そのものが両義的な概念であり、スポーツは暴力ではないかという仮説に基づいて、検討していくというものであった。近代スポーツがドーピングという事態を引き起すのは、論理的にみれば必然である、という議論はとても興味のあるところだ。この講演会をもとにインタビュー記事にするという目論見。さて、はたしてうまくまとめることができるだろうか。
清水先生は会議室をとっておいてくれた。さっそくインタビュー。祝祭としてのスポーツというテーマ。こちらは祝祭を伝統的なのイメージで捉えていたが、近代スポーツでは、祝祭のレヴェルがいくつもあるところに大きな違いがある。また、身体、他者、言説、メディア性、文化産業というものが幾重にも層をなしていて、複雑に絡み合っていることも過去のスポーツ、身体行為を核とするまつりと違うところだ。アスリートにフォーカスしてみれば、偶発的な即興性が強度をともなって唐突に出現することの驚異にスポーツを観る者は驚き熱狂する。しかも、それは技術、スキルに裏打ちされ、さらには身体の美的なフォルムと一体化している。それが、単なる物語性、言説、政治、人種、民族、ナショナリティ、ジェンダーといった枠組みを、越えて表出してくるところに、スポーツのスポーツたるところがあるのだ。感情の起伏を丸ごと包み込んだ身体が他者の身体と出会いつながることの特異性についても言及された。
2時間半近いインタビューとなった。先生はクルマでつくば駅まで送ってくれた。クルマのなかで、山口昌男さんのテニスのお相手であったことを教えてくれた。なるほどそれで「中心と周縁」なんですね。
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3月29日発行!! 発売は30日です。
特集は、「「遊び/愉しみ」のコミュニケーション」
なぜひとは愉しいことが好きなのか。したがるのか。
人間の「愉しみ」の根源に迫ります。
キーワードは、プラモデル、発達の最近接領域、ボケとツッコミをするロボット。
●小川純生(東洋大学経営学部教授/マーケティング)
遊び概念を拡張する……面白さの根拠はどこにあるか
●神谷栄司(佛教大学社会福祉学部教授/保育論)
「遊び」の発見……ヴィゴツキーの「情動」、「発達」、「コミュニケーション」の理論的射程
●岡田美智男(豊橋技術科学大学知識情報工学系教授/ロボティクス)
「愉しみ」としての身体……次世代コミュニケーション、遊び/遊ばれる、エコロジカル・マインド
●特別企画
アーティスト勝本みつるの立体作品を3点掲載
● 表紙 木原千春
定価800円+税
河本さんが本書で目指したものは、身体行為とイメージの活用法である。イメージを一つの手がかりにして、それを行為に接続することで新たな経験の領域をつくり出そうというのである。河本さんの言葉で言えば、「創造性の科学哲学」ということになる。
「手は外に出た脳であり、身体は外に出た脳の容器である。頭蓋骨のなかに納まっているのは、脳の構造部材であり、この構造部材を有効に活用するためには、外に出た脳に有効なエクササイズを課すしかない」。そのために必要になるのが身体行為を含めたイメージの活用であるという。
凡百のノウハウ本が体のいい学習方法しか提示できていないのに対して、本書が提起するのは能力それ自体の形成である。そのためには発達を再度リセットする必要があり、能力そのものの形成に働きかけるようなエクササイズを設定することが重要だと説く。
「発達のリセットには、わかるとは別の仕方で「できるようになる」という広範な裾野がある。こうした領域ではイメージが決定的に利いている」というのだ。ここで展開されようとしているのは河本オートポイエーシス論の具体的な活用方法である。
『談』no.76の河本英夫、十川幸司対談で、情動回路ともその作動を共有するイメージの領域がポイントとなると河本さんは強調されたが、まさにその「イメージ」が本書の中心的な課題なのだ。『談』の対談をさらに深く理解したい読者は、ぜひ本書をお読みいただきたい。
なお、次号で登場する文化庁メデイア芸術祭大賞の木本圭子さんの作品が参照されていたり、次々号の特集で全面展開されるヴイゴツキーの重要概念「最近接領域」にも言及されていて、『談』とは縁の深い一書であることも付け加えておこう。
哲学、脳を揺さぶる オートポイエーシスの練習問題
香山リカさんから『仕事中だけ《うつ病》になる人たち』(講談社)を贈呈していただいた。昨今、30代に顕著な「うつ」が急増しているらしい。職場では不調だが、好きな趣味は精力的に行える。学歴が高く、まじめだが、やや自己中心的。自分が「うつ」であることの自覚が強い。一定のレベルで快復するが、なかなか復職に踏み切れない。不安感、恐怖感、あせりといった感情の動揺がひどい。などなど。こうした「30代うつ」は、個人のワガママや未熟な性格の問題と思われがちだが、そうとは言い切れない。現代社会が生んだ新しい病である可能性がある、と香山さんは見る。新たな病気といえそうな「30代うつ」はどんなひとなのか、そしてなぜ、今、増加しているのか。自らの臨床体験をもとにしながら分析し、香山さんはこう結論する。「うつは心のカゼ」といったソフトな言い方で、現実から目をそらすことがあってはならない。「30代うつ」をとりあえず新たな疾患単位として認め、早急にそれに見合った治療法や会社、家庭での対策が必要だと。確かに、見渡すと、ここであげられているような「うつ」らしい人はいる。しかし、これまで気にもかけていなかった。正直ぼくのような人間は少なくないように思う。みなさん、ぜひ一度読んでみてください。 仕事中だけ「うつ病」になる人たち??30代うつ、甘えと自己愛の心理分析
1分間の映像を81分に引き伸ばした「Anima」、正面の何かに向かって縦に並んだ人々の視線が釘付けになる「Observance」、マニエリスムの画家ポントルモの作品「聖母のエリサベツ訪問」に着想を得たという、3人の女性の45秒間の出会いを10分間に引き伸ばした「The Greeting」。水に服を着たまま男が飛び込むシーンをスローモーションの5つの独立した映像にした「Five Angels for the Millennium」、19人の男女が立つところに突然ホースから噴射された大量の水が襲う「The Raft」など。どの作品も、ぼくの日頃の問題意識、時間と身体行為の関係性と重なるものばかりで、とても興味深かった。
超スローモーションによる身体を写し取った映像は、原理的には知覚不可能な領域で発生するイベント。それを可視化するということはそれ自体パラドクスである。その反知覚的体験が引き起こす混乱と眩暈。まさに、ぼくの好むところだ。また、「Anima」や「The Greeting」は、人間の情動・感情というものが、行為とどのような仕組みで接続するか、その有り様を垣間見せてくれる作品だ。
行為とは、アナログ的に連続した行為の連続体であるとは限らない。その行為のはるか後に表出する別種の行為系に引き継がれる行為を、いわば先取りして表れる時がある。行為の予期的待機とぼくは名付けているのだが、そういう離散的に連接する行為というものがあるのだ。
ある手の動きがあるとして、それが数分後まったく無関係な別の手を使用する行為に連接する。ある口の表情が、その数十分後に表れる別の口の表情を、あたかも予期するように(先取りするように)表れるのである。そういう身体現象が存在する。これはここ何年かのぼくの仮説である。それが、ビル・ヴィオラの映像によって、実際にこの目で確認することができた。正直驚いている。ほんとうにそんなことが起こっているとは。ビル・ヴィオラの映像作品を、身体の生態学として見直すこと。自分にとって、じつにいい「はつゆめ」となった。