身体

密息、循環呼吸による虚無僧尺八演奏は生死の間へ誘う

四谷の紀尾井ホールへ。中村明一さんの第15回リサイタル「中村明一虚無僧尺八の世界  京都の尺八 I 虚空」を鑑賞。もう何年も前から、招待状を送ってもらっていた。オフィス・サウンド・ポットの慶野由利子さんとは、おそらく白桃房関係で知り会ったと思う。が、さだかではない。やっと行くことができた。舞台にしつらえた壇上に正座をして、1曲づく全霊を傾けて吹く姿に感動する。密息、循環呼吸による演奏は、息を飲むものがある。笠井のダンスを観る時のような感覚が甦ってきた。覚醒しながらまどろむ、いや微睡みつつ覚醒するという方が正確か。半死半生のような状態で聴き続けた。面白いコンサートだった。
中村明一さんの虚無僧尺八の世界

トンネルという肉体の過去・現在・未来

ARICA第14回公演「キオスク・リストラ」を観る。今年の9月ニューヨークのJapan Society の企画「BEYOND BOUDARIES:GENRE-BENDING MAVERICKS」のオープニングとして上演された作品の、帰国公演。キャスター付きの椅子に座ったまま移動し、左右の壁に長いゴムを結びつけ、その伸縮を利用して飲み物と新聞を売るという行為が1時間の中でたんたんと行われる。主役を演じるのは安藤朋子さん。転形劇場に所属していた時に、何度かその演技は見ていた。その後、20年以上ご無沙汰をしていた。今回、キオスクの店員役で現れた時には、「あっ懐かしい!」と思い、同時に、年齢とは全く別の形で肉体というものは更新していくものなのだということを強烈に感じた。もちろん演技の成熟もあるだろうし、経験の堆積による表現の豊かさもあるだろう。しかし、僕の目の前にいる彼女の肉体は、そんな自分史の進化論を乗り越えて余りあるものだった。それは、あえていえば「肉体の自己超出」だ。幾重にも重なり合う情動と感情、行為が労働へと集約していく社会というものを、切り捨てながらつくり続けていくそういうねじれた肉体。20年間というトンネルの入口と出口は、僕にとっては終りの始まりであり、始まりの終りだったのだ。安藤朋子というトンネルに素朴に驚いた。労働というものが、あるいは演劇というものが、すでに自らの姿を映し出す鏡となっているということに、素朴に驚いたのである。なぜ、僕は芝居を観るということから遠ざかってしまったのだろうか。少なくとも、安藤朋子という肉体を再び僕はみ続けることになるだろう。

手相や占いは哲学的対象になるのだ

慶應義塾大学文学部教授山内志朗さんと面会。先生とは何年ぶりだろうか。新潟大学におられた時に何度かお会いしたが、慶應に移られてからは初めて。先生にはいつも専門外のことばかりお願いしてすみませんと言うと、いや注文にはなんでも応じますからとニコニコ応えてくださった。じつは、最近も手相の原稿をたのまれちゃってと、文献少し集めてたといって数冊見せてくれる。先生は、子供の頃から手相を見るのが好きで、すでに数千人の手相をみましたと、やはりニコニコしながらおっしゃる。つい最近も香山リカさんと対談することがあって、彼女の手相をみたら、やはり生命線が長くって、才女に典型的な手相だと納得したとか。
先生ご自身は吸わないのだけれど、倫理学の仲間は、じつに7人のうち5人吸うし、哲学関係でも5人のうち3人は吸うとか。哲学者の喫煙率はかなり高いらしい。廣松渉さんのヘビースモーカーは有名で、一日に3、4箱は吸っていたらしい。奥さんも喫煙者で、ご自宅は、ありとあらゆる場所がヤニで黄色くなっていたらしい。ある時、ある人がテーブルの上を指でこすったら、指にうっすらとヤニの山ができた、といううそのような話もある。今回は、そのたばこについての原稿。
夕方、21世紀スポーツ文化研究所へ。TASCの岡本さん、西山さんと稲垣正浩先生との歓談。『TASC monthly』10月号に「相撲がオリンピック競技となる日はくるか」をご寄稿いただいたので、発行になったばかりの本誌をお持ちしたのだ。先生は、学生時代体操のアスリートで、オリンピックを目指しておられた。それがけがのため断念せざるを得なくなって、それからスポーツ史、スポーツの哲学的研究に入っていった。酒が入ったためか、先生もいろいろお話しをしてくれたが、やはりスポーツ、というかその原基である身体に対して、じつに深い洞察をされていて、ただただ敬服するばかりであった。いずれちかいうちに、また先生には『談』にご登場いただこうと思っている。

サーカスの関係者はタバコ吸いが多いという。

13時30分にエスタシオンカフェで大島幹雄さんと打ち合わせ。岡本所長と一緒。『虚業成れり…「呼び屋」神彰の生涯』がめっぽう面白く、その著者である大島さんに、ぜひ原稿をお願いしたいと思い、今回の面会が実現した。

大島さんの本職は、プロデューサー、とくにサーカスの呼び屋さんとして活躍されている。たぶんサーカスの関係者はタバコ吸いが多くて、ご本人も吸うのではと思っていたら、ズバリ的中。なかでも空中ブランコの人たち、特にロシア人の場合、大島さん曰く7割はタバコ吸いとのこと。それも、スポーツからの転向者に多い。

今タスポになってしまって、とても困っている。連中がたばこを買うためにタスポを貸してほしいと、ホテルの部屋のドアをたたくからだというのだ。どうしてそんなに喫煙率が高いのか。たぶんストレスのせいだろうという。持久力を競うスポーツと違ってブランコの場合は、正味5分くらいだし、身体へのダメージは感じられないからではないかという。

今回お願いする原稿も、そんなタバコ吸いとの交流録になるのではないかと思う。帰り際『THE ART TIMES』のインド魔術特集と石巻若宮丸漂流民の会会報「ナジェージダ」を贈呈していただく。大島さんは、小さいけれどピリッと光る活字メディアのパブリッシャーでもあるのだ。

最後は文明論へと発展した対談

大阪で某雑誌掲載予定の山崎正和先生と鷲田清一先生の対談。お二人には、以前からインタビューや対談でお世話になっていましたが、お二人の対談は初めて。山崎先生が口火を切る。山崎先生、電車で若い女性に初めて席を譲られてショックだったという話題を披露されました。山崎先生の関心は身体。情報の時代に最後の拠り所として身体があるという話。鷲田さんは、バルトが最後まで隠されているものに推理小説、哲学、女性性器があって、しかし、最後の最後にその秘匿されていることがわかった時、じつはそこに真理はないということを知らされる。宙づり状態になる。その宙づり状態におかれ続けるのが人間であり、そこに快楽の秘密があるのではないかといいます。山崎先生は、それをサスペンスといい、その対極にあるのがスリルではないかと。サスペンス型がドンファン、スリル型がカサノヴァ。そして、現在の文化はサスペンス型からスリル型に変わってきていると。そのあと議論は、山崎先生の誘導によって文明論へと広がっていきました。と、こう書くといったいなんのテーマかって思いますよね。いずれなんの雑誌か報告しますが、発行になったらぜひ読んでください。ところで、対談が終わったあとの食事で聞いたコネタを一つ紹介しましょう。60年代の京大生の話で盛り上がっていたら、鷲田先生、60年代といえばぼくはジュリーのいたタイガースと対バンをやってましたと。なんと先生は、グループサウンドのバンドをやっていて、ギター担当だったんだそうな。いやぁ、人は見掛けによらないものですねぇ。

北京五輪とはなんだったのか、閉会式前に考察を始める人のための本

関西大学社会学部教授・阿部潔先生より『スポーツの魅惑とメディアの誘惑 身体/国家のカルチュラル・スタディーズ』(世界思想社)を贈呈していただきました。じつは、北京オリンピックの開会前に届いていたのですが、TVが連日伝える熱戦に夢中になってしまっ て、活字を読むどころではなかったため、つい紹介が遅れてしまいました。たぶん著者も版元も、北京に合わせて配本日を決めたのでしょう。8・8前に私のところへ送っていただいたのも「見る前に読んで!!」ということだったとしたら、ほんとにどうもすみませんです。しかし、しかしですよ。これは弁解ではありませんが、獲得メダル数金8銀6銅9、大会も残り5日となった現時点で、本書を開いてみると、これがなかなか面白いのです。いまだから、読むべき本だと思いました。谷亮子は銅では喜べないし、北島康介も200mで世界新でなければ笑顔もいまいち。その一方で、ボルトは100mで9.69秒の世界新を出しても、あのひょうきんぶり。競技の結果とその結果を出したアスリートの感情がかならずしも一致しないということを、液晶やプラズマ画面に映し出される選手の顔を見ることで察知してしまうのです。TVはなぜアスリートの目や鼻や口をあんなに大写しにする必要があるのか。情動表現と感情の不一致、生身の身体とデジタル画像としての肉体表現の乖離。われわれがオリンピックを見るということは、TVを見るということであり、表象/代表(represent)の回路に巻き込まれるということを意味しています。オリンピックの視覚的体験とは、まさしくメディア体験そのものなのです。本書は、現代のスポーツが置かれている状況を、メディアとの関係から抉り出そうとします。スポーツする身体はどのような形でメディア化するのか。感動はどのような経路を経て「物語」となるのか。スポーツと国家が一体化する瞬間はどこか……、著者はわれわれに問いかけます。ホンモノの花火に混じってCGの花火が使われ、少女の歌は口パクだった。スポーツの祭典そのものがすでにヴァーチャルだとしたら、オリンピックとはなんなのか。身体とは、いかなるものか。北京五輪をもう一度考えるための一冊です。

スポーツの魅惑とメディアの誘惑?身体/国家のカルチュラル・スタディーズ

谷根千境とはじつにうまいネーミングだ

日暮里で北口改札前西口方面で待ち合わせ。岡本さんと坂部明浩さん。坂部さんに案内されて、谷中をぶらっと歩く。あのボートが突き刺さっているマリンちゃんのマンションの奥のマンション。自宅の下の部屋を事務所がわりに使用している。坂部さんは谷根千境という言葉をつくった。要するに谷中、根津、千駄木は、台東区と荒川区のマージナルなエリアになっているというところに注目したのだ。そこを通過する種々の身体、さまざまな生活文化。坂部さんが書きたかったことがようやくわかった。いったん事務所にもどって、15時30分よりTASCへ。編集会議、editor's noteに、今回は公開対談で本誌にはそのドキュメントを掲載したとちゃんと明記した方がいいというアドバイスをもらう。これでようやく発行になる。予定は、お盆前。

こんなに弾けたのは何年ぶりだろうか。

今年も、フジロック詣をしてきました。見たものは、KETE NASH、Bootsy Collins Tribute to the Godfather of Soul、GALACTIC featring chali 2na(of Jurassic5)and Boots Riley(of The Coup)、GOTYE、GOGOL・BORODELLO、LETTUCE、JASON・MARAZ、JAKOB・DYLAN・OF・THE・WALLFLOWERS、MICHAEL・FRANTI& SPEAHED、LEE'SCRATCH'PERRY 。僕的にはビートがテーマ。だから、ファンクで盛り上がって、踊りまくりでした。

大西成明さんは 「ロマンティック・リハビリテーション」で何を撮ったのか

写真家 大西成明さんから『大西成明写真集 ロマンティック・リハビリテーション』を贈呈していただきました。

大西さんは、『病院の時代』(2000年)で全国の病院を訪ね歩き、「生老病死」である人間をドキュメントしました。また、『ひよめき』(2004年)では、脳を一個の「存在」として活写しました。いのちの形として、そこにそうして在り続ける物体。ヒトとは、モノであると同時に、生きるからだであり、生命の形象です。このモノといのちが分かちがたく結びついた状態を現象学は、「身体」と呼びました。人間とは、「身体」のことです。そして、それは自己超出するという意味で「存在」そのものなのです。つまり動くこと、動き続けること。

大西さんの眼は、ついにその動く「存在」を捉えたのです。いのちをかけて動き続ける身体としての「存在」。「ロマンティック・リハビリテーション」に登場する人々はみんな生き生きとしています。それは、日々新たに生まれ変わる「存在」であることを、リハビリという現場に立つ誰もが、あたりまえのこととして受け入れているからに他なりません。もちろん、撮影者も例外ではありえない。「存在」をいかにして撮るか。著者は、写真家である以前に、身体としてそこに在ることを自覚します。真実を写す前に、真実を生きよう。大西さんの眼も、真実と同期するように動き回ります。動くこと、動き続けることを捉える続ける眼=写真の誕生です。

He's tried to make me go to rehab but I won't go go go(AMY WINEHOUSE )リハブ? そんなのすぐ目の前にあるじゃん。

大西成明写真集 ロマンティック・リハビリテーション

 

薬は使っていないけれど、これってドーピングでないの?

鷺沼の21世紀スポーツ文化研究所へ。稲垣正浩先生が日体大を退官されたのを機に立ち上げられた研究所だ。すでに、今福龍太さん西谷修さんが来訪されたとのこと。
「大相撲はオリンピック競技になれるか」というテーマでご寄稿をお願いするための訪問。いろいろ面白い話をいっぱい聞いた。S社の水着は、身体を改造している。からだを鍛え上げたトップアスリートなら水着の締め付けを跳ね返すだけの筋力があるから大丈夫だが、成長期にある中高生が使用した場合、事故が起こる可能性があるという。心臓をやられるというのだ。S社の水着は、簡単にいうと、身体を針金のようにさせて、水の抵抗をなくそうというもの。血管を締め付けると、筋力がないとダメージを受けることになる。オリンピックはいいとして、インターハイは着用を認めるのか。これは、一種のドーピングではないか。
今、陸上の幅飛びで、ある身障者のアスリートが注目されている。というのは、義足の技術が進化して、健常者の記録を抜いて世界記録がでるかもしれないから。また、まことしやかに、両足に超高性能義足を付けると健常者より早く走れそうなので、両足を切断してその義足をつけることで世界一を目指している人があらわれたらしいという話。嘘のようなことが、今、どんどん起こっているのだという。
相撲の幕内力士のじつに3分の1は、日本人以外。すでに、大相撲は、日本のどのスポーツより国際化が進んでいるという事実。力士は男芸者と呼ばれているように、相撲は芸に近い。八百長も芸のうち。八百長を八百長とわからないようにやるのが、力士というプロの芸なのではないかと。おっしゃるとおり。まったく、いつもながら稲垣先生はラディカルだ。もう大学という看板をしょわなくていいのでガンガンやるといってらしたが、学校にいた時から十分過激でしたよ、先生は。だからこそこうしてまた原稿を依頼しているわけだ。稲垣先生とは、長く付き合えそうな気がする。この原稿が掲載されるのは、北京オリンピックが終わった頃。楽しみにしていてください。

傍らにいたワンダ

石川直樹さんの展覧会と授賞式へ。会場にサトエリがいらっしゃった。どうやら、お友達らしい。そのあと神楽坂のワイン・バー「ルパイヤート」に入る。箸で食べる超庶民的ビストロ。M嬢は、今宝石にハマっている。夜になるとケータイの通販のコンテンツとにらめっこらしい。それと、皮。最近購入した紅色のクロコダイルの財布。そして靴だ。彼女の踝の下にはFerragamo。彼女は、スキンとジュエリーという、快楽の究極に目覚めてしまったのである。思うに、スキンを愛撫し、その中にしまい込まれている宝石(原石)を愛でるという行為は、究極のエロスである。素肌にジュエリーをつけ、ヒールを履き、毛皮のコートを身に纏う。もちろん下着などつけずに。これぞ、ザッヒェル・マゾッホ、毛皮をきたヴィーナス。なんとぞくぞくする姿。僕の傍らにワンダがいたなんて…。彼女は、究極の美を発見した。そして、僕はその姿に、究極のエロスを発見したのだ。

「うつ病は、現代のペストにも匹敵するような問題」らしい。

出社すると机の上には、贈呈本が3冊。いつも送っていただくあの方からかな、こっちは時々送ってくれるさるお方、これは最近知り合ったあの先生にちがいない…なんてドキドキしながら、封書をひらいてみたら、あらららっ、三冊とも著者は同じ。香山リカ先生。最近は、「月刊香山リカ」状態ですね、と以前ブログに書きましたが、すでにそれも過去のこと。いまや「週刊香山リカ」の時代なんです。というのも、つい数週間前にも『セックスがこわい 精神科で語られる愛と性の話』『いじめるな! 弱いものいじめニッポン』(辛淑玉との共著)を送ってもらっていたからだ。さて、それはともかく、三冊いっぺんに斜め読みして、面白かったのは『うつ病が、日本を滅ぼす!?』。というか、かなりマジで考え込んでしまうような内容の本でした。

「自尊心が強く自分幻想も大きく、他人からの評価には傷つきやすく、落ち込んだかと思うと時には攻撃的になることもある人たちが、ちょっとした挫折をきっかけとして、少し耐えて乗り越えようとすることもなく、次々と「私、うつ病です」と戦線離脱していくと、会社も役所もそのうち成り立たなくなるのではないか」と、香山先生は半ばホンキで心配しているのです。

あとがきにあるように、「うつ病は、現代のペストにも匹敵するような問題」なのか。精神分析家の十川幸司さんは、治療を目的とする薬物の市場拡大がうつ病の患者さんを増加させていると危惧されていました。また、精神科医の春日武彦さんは、うつ病を躁病との関連で捉え直す必要性を提起されておられます。『談』でも、何度かうつ病についてはとりあげてきましたが、深刻な問題なだけに、粘り強く考察をしていく必要性を感じています。その意味で、本書の問題提起はとても重要だと思いました。

うつ病が日本を滅ぼす!?

~「特に」語学に効く心理学~おとなの学習 自己チュー宣言!

精神科医ですがわりと人間が苦手です

セックスがこわい?精神科で語られる愛と性の話
いじめるな!?弱い者いじめ社会ニッポン (角川oneテーマ21 A 80)

今福龍太さん、西谷修さんが参加したシンポジウムの採録

今年3月末に日本体育大学を定年退職された稲垣正浩さんからスポーツ文化・社会科学系紀要『IPHIGENEIA』第8号(2007)を贈呈していただきました。同誌には、昨年11月末に行われたシンポジウム「グローバリゼーションとスポーツ文化」が採録されています。じつは、このシンポジウムにお誘いいただいたのですが、ちょうどフランス取材と重なってしまい、参加できなかったのです。出席者は、稲垣さんの他に、今福龍太さん、西谷修さん。編集後記には、4時間にわたって白熱した討論が展開されたとあります。事実ページを繙くと、『談』no.79の稲垣さんのインタビューでも主題となった「スポーツと暴力」。スポーツにとって根源的なこの問題に対して、相撲、メディア、フーリガン、太極拳、北京オリンピックを俎上に乗せて、大胆かつ深みのある議論が交わされたことがわかります。読みごたえ十分な内容になっています。今回のを含めた同じ顔ぶれによる過去4回のシンポジウムは、オリンピックに合わせて単行本化することが決まったようです。楽しみですね。ところで、稲垣さんは、4月より新たに「21世紀スポーツ文化研究所」を立ち上げました。それに伴い『IPHIGENEIA』を引き継ぐ形で、そのPARTIIを発行していくそうです。『談』としても陰ながら応援していきたいと思っています。

聴覚と脳のしくみの不思議摩訶摩訶な面白話。

公開対談最終日は、柏野牧夫さんと池谷裕二さんの対話。
柏野さんが、まずデモを中心としたプレゼンを行う。というか、最後まで、PPの映像を出しっぱなしにして、池谷氏が質問やコメントすると、それに相応しい画像を「これですね」と柏野さんがすぐに出すというしくみ。みごとなかけあいだった。柏野さんが問題を出して、オーディエンスに答えてもらうという実験もやった。「え〜?!」となるような意外な結果が出て、一同びっくり。そんな感じで演者、聴衆、一体となって議論は進んでいった。
ゆらぎの重要性、安定/不安のパラドクス、耳の解剖学的構造、知覚の研究、バナー効果、運動系とのつながり、声の問題、タイミングとズレ、音痴とは何か、新奇性と親近性、魅力度=新奇性×分解能、予測と報償系回路の関係、自発活動と知覚の遷移の問題…などなど。2時間20分がまたたくまに過ぎていった。このままやっていたら、永遠に終わらないのではないかと思えるような熱心な対話。あまりに面白かったので、逆に活字にするのは難しいかも。なんて、言ったら怒られそうですね。でもあえて言わせてください。今回のは、ライブだからこそ面白さ100倍でした。

「壷中天」を都市論として読み替えるというのはどうだろうか

とある学会に発表する原稿のプランを考える。「ぽたらいぶ」の体験を頭に、これまでいくつかのぞいてきた路地とリヨンのクロワ・ルスが、なぜぼくをして興奮させ魅了させるのか。それは、そこに人の気=龍脈が流れているからであり、なによりも都市の魅力とは、その龍脈の湾曲と螺旋が、われわれの歩行(行為)を誘発し続けるからである。どんなに美しく、便利であっても、それがない都市には、魅力は感じない。まち歩きがブームである。小さなまちにも、それぞれ固有の歴史があり、民俗文化がある。それを観光資源と捉えて、ボランティアによる、まちおこしに乗り出したところがある。それをただ紹介するだけでは観光地リストにあらたな名前を加える(しかも小さな)意味しか生まれないだろう。もう一歩踏み込んで、人の気配、龍脈の発見に向かうべきではないか。ピーター・ブルックのいう「何もない空間」が大いに参考になる。ソンタグは、この「何もない空間」にブレヒトの「叙事詩的演劇」とアルトーの「残酷演劇」がフーガ的に交錯し結合する演劇の未来型を見出した。すでに古典化しつつある演劇理論から読み出し、都市の理論へダウンロードしてみたい。それは、21世紀の「今日の世界は、演劇によって再現できるか」の再演、いいかえれば、中国の気、龍脈の理論の象徴としての「壷中天」を都市論として読み替えることである。

「音語り」『談』公開対談のお知らせです

『談』公開対談のお知らせです。
4月22(火)、23(水)、5月7(水)に吉祥寺sound caf? dzumiにて、公開対談を行います。
トークショー告知jpg
ご応募をお待ちしております。
●入場料 各回1000円(1ドリンク付)  
● 対談終了後懇親会を行います
参加料1回1500円(つまみ付)  ドリンクは別料金になります

■定員 20名 先着順(定員に達し次第締め切らせていただきます)
■受付 メールにてお申し込み下さい。
入場希望日をお書きの上、お名前、ご連絡先、懇親会参加の有無を明記して→oubo@dan21.com へ

『談』最新号 特集「〈共に在る〉哲学」3月28日発行!!

『談』no.81 特集「〈共に在る〉哲学」

3月28日に発行になります。一部書店では、4月1日店頭発売。

106ベージ 800円(+税)

◆木村大治 どのように〈共に在る〉のか……双対図式から見た「共在感覚」

◆西村ユミ 病いが形づくられる時、ケアは共に始まっている

◆河野哲也 「こころ」は環境と共にある……「自分探し」という不毛を超えて

表紙 勝本みつる

ポートレイト 新井卓

 Gallery 石川直樹

 談81 販売店広告

 

 

土取利行さんと初めてお話をした。

TASCで『談』の編集会議。次号は「音」、次々号は「パターナリズム」。その趣旨と構成案をプレゼンした。「音」の方は、昨年提案させてもらっていて、今回正式な承認を得た。当初、世界音楽という切り口に重心を置き、まだ「音楽」にこだわっていたのだが、今回構成を改め「音」そのものに照準する企画に修正した。「音」を、哲学、音響学、情動を中心とする脳科学といった観点から掘り下げようというものだ。とくに、聴こえない音、静寂、沈黙から、「音」に迫ってみたい。全て対談、ディスカッションにし、澤野×萱野対談で試みたように公開で行い、それを『談』に採録するということを考えている。できれば三日三晩、「音」にどっぷりつかるようなものにしたい。さて、その構成だが、かなり異色のキャスティングを予定していて、実現すればそうとう面白いものになるはず。乞うご期待。

会議の後、その会場になる吉祥寺sound caf? dzumiにて打ち合わせ。なんとこの日打楽器奏者の土取利行さんが来店しておられた。初対面だったのでご挨拶。長年にわたるピーター・ブルックとの作業について、また僕が芦川羊子さんらの仕事をしばらく手伝っていたと言うと、70年代からの舞踏関係とのコラボレーションについてお話してくれた。結局のところ舞踏とは本当の意味でのコラボはできないんだよ、という言葉に、ちょっとショックをうけたけど……。即興というものを常に考え抜いているアーティストの言葉は重く鋭い。貴重な会見だった。

KPOで舞踏と身体宇宙のシンポを手伝ったあの日のこと

KPO(キリンプラザ大阪)の20年のあゆみを「新日曜美術館」が特集したので見る。始めの方で、白桃房の公演のビデオが流れた。90年にこの公演と一緒にシンポジウムや写真展をやったのを思い出す。メディア・アーキテクトという肩書きで全体のディレクションとシンポでは司会もやった。放送では、その公演の様子がちょっと流れた後は、KPOアワードを中心に、第1回受賞者のヤノベケンジ、束芋さんの作品などが紹介していた。それを見ながら、やはり思い出すのは自分がやった企画の方。戸田ツトムさんに舞台のADをやってもらい、山村俊雄さんがそれを形にする。写真展は、伊奈英次さんに白桃房の人たちの顔を超ドアップで撮り下ろしてもらった写真を展示。インスタレーションもやりました。そして、そのシンポジウム。今福龍太さんや植島啓司さん、香山リカさんらにまじって中沢新一さんにも出席してもらった。打ち上げでは、中沢さんの本みんな読んでるし〜、っていったら、ほっぺたにキスしてくれたっけ。あの中沢さんにですよ。坂田明さんとは「新世界」で飲んだし。今にして思うと、あの時がぼくのピークだったのかもしれない。なんて、思ってみたりしてね。

トランスする身体と痙攣は無関係?!

財団法人喫煙科学研究財団主催、研究集会「喫煙行動研究の新たな可能性を探る」に参加しました。ある研究会でご一緒させていただいている廣中直行先生(科学技術振興機構ERATO下條潜在脳機能プロジェクトグループリーダー)が座長を務めるというので馳せ参じたのです。日頃喫煙に関する研究助成をしている財団ですが、今回廣中先生の意向もあって、研究対象を認知、情動、社会行動へ拡げ、新たなパラダイムを探ろうというものです。そうした主催者側の意気込みもあってか、どの研究発表も意欲的で興味深いものでした。
中でも澤幸祐先生(専修大学文学部心理学科)の「ラットにおける因果推論-新たな研究パラダイムの可能性」、本田学先生(国立精神・神経センター神経研究所)の「生存戦略としての美と快」に感銘をうけました。前者は、ラットにおいてもヒトと同様に「観察と介入の区別」に関する複雑な因果推論を行っている可能性を示唆し、「動物研究の先にあるもの」を模索するもの、また、後者は、脳の報酬系が主導する情動-理性-感性による行動制御のメカニズムを、バリ島社会のフィールドワークを通して脳科学から探ろうというもの。とくに、本田先生は、芸能山城組のメンバーでもあって、バリ島の祭儀に見られるトランスする身体から、生物の生存戦略を読み解いていくという大変刺激的な発表でした。『談』no.77.「〈いのち〉を記録する」にご登場いただいた池谷裕二先生が、今最も会いたい人とおっしゃっているという話を聞いていましたが、なるほどうなづけました。
ところで、80年代の初頭、池袋の西武百貨店にあった「スタジオ200」で、「バリ島の生態学」という4日間にわたる連続シンポジウムを企画したことがありました。その時、芸能山城組に企画と連動してケチャをライブでやってもらいました。ぼくは、その企画の下見でバリ島に行ったのですが、思えばそれが海外旅行初体験。ミュージシャンのYASUKAZUさんや高田みどりさんなどとの道行きは、興奮の連続だったなぁと思い出してみたり。山城組とは、浅からぬ縁があるのです。
その時はさすがに実際に村人がトランス状態になる場面を見ることはできませんでしたが、これがきっかけで陶酔する身体としてのトランスというものへの関心が芽生えたのでした。このトランス、しばしば激しい痙攣を伴いますが、懇親会で直接お話しすることができたので本田先生にうかがったところ、あれはいわゆる癲癇などの痙攣とは、まったく関係のないものなのだそうです。じゃ、あの身体の振動はなんなんだ? じつは、それこそ報酬系のポジティヴ・フィードバック回路と深く関係する身体現象だというのです。う〜む、これは面白い。この話を聞いた瞬間、『談』の特集企画が一つできました。はて、それは…、たぶん、次々号あたりに日の目をみることになるでしょう。

凄いDVD『ホモ・エクササイズ 生き抜くことへの讃歌』

河本英夫先生からDVD作品『ホモ・エクササイズ 生き抜くことへの讃歌』(作・演出◎河本英夫)を贈呈いただく。さっそく見ると、これが面白いのだ。「リハビリの現場をアートとして活用するもので、リハビリとエコを組み合わせたもの」と紹介されていたが、まったくそのとおりである。48分の中に、さまざまなシーンがモンタージュされて、比較的ゆっくりとしたリズムに同期するように、医療と人間、自然とアートが交錯する。なかでも、障害をもった児童とダンスをオーバーラップさせたシーンが強く印象に残った。「病みの身体は闇の肉体に通じ、その極北に舞踏するからだがある」という舞踏家の遺言を座右の銘にしていたぼくにとって、ダンスとはすべからく病いのことであると思い続けてきた。ところが、逆なのだ。いや、逆転することがあるというほうが正確だろう。病いこそダンスそのものであり、すべての身体表現の原基である。ダンスとは、環境に拡がる病みそれ自体なのである。ぼくは、このDVDを見て始めてaffordの意味を、具体として掴むことができた。本来のエコロジーとはこうでなければいけない。それは、身体と環境の終りなきエクササイズのうちに開きゆくものなのだ。次回作は、『メメント・イマジカ 身体の記憶へ』だそうです。
ところで、本編は3月29〜30日に東京芸術大学主催の「ネグリさんとデングリ対話 マルチチュード饗宴」で上映が予定されている。ていうか、アントニオ・ネグリの初来日するこのイベントもすごいぞ。
→ 「ネグリさんとデングリ対話 マルチチュード饗宴」

アスリートはギブソニアンの条件かもしれない。

玉川大学へ。文学部人間学科准教授・河野哲也先生にインタビュー。人間の行動の原因はその人の内面にある。だから、行動を変えるには、その人のこころを変えなければならない。社会現象を社会や環境からではなく個々人の性格や内面から理解しようとし、また、「共感」「ふれあい」「自己実現」といった言葉で解決を図ろうとする。こうした考えが今われわれの周囲にはびこっていないだろうか。これを「心理主義」と呼んで、本来は、社会的・政治的であるはずの問題を、個人の問題へとすり替えていると河野哲也氏は厳しく批判する。なによりも「自分探し」という言葉が問題なのだ。みうらじゅんの言葉にならえば、ヒデがしなくてはならなかったのは「自分探し」ではなく「自分無くし」、久米田康治的に言えば「自分さらし」だ。そして、ほんとうに彼は十分に自分を無くしているし晒している! と、これはどうでもいい話。
河野哲也先生は、ぼくを見下ろすような背の高い人で著書のイメージと違っていた。あとから伺うと先生は剣道をずっとやられていたとのこと。またしてもアスリートだ。以前から『談』を何冊か買っていただいていたようで、大変うれしい。著書の趣旨をまずお話いただく。教育と福祉、J.J.ギブソンとノーマライゼーションをメルロ=ポンティでつなぐ試み。何が知能なのか。それは、身体と環境のセッティングによって変わっていくものだ。何が価値なのか。それは、行為の多様性から生まれてくるものだ。学習の問題、成長の問題、環境の問題、さらには法の問題。いずれも身体とニッチの関係から読み解くことができるという。非常に有意義なインタビューとなった。しかし、またしてもメルロ=ポンティ。メルロ=ポンティの哲学とアスリートは相性がいいのかもしれない。ついでに言うと、ギブソンもそうだ。アフォーダンスを一発で理解するには、まず400mを全力疾走してみるといい。あるいは、クロールで2000m泳ぐのもいいし、もちろん竹刀で面打ちを決めるのでもいい。中井正一ではないけれど、スポーツ気分が了解できた時に、キアスムもアフォーダンスも自らの体験として会得できるはずだ。今度、「スホーツ気分」の研究でもやってみることにしよう。

ケアや援助の実践を肉化するメルロ=ポンティの思想

万博記念公園内にある大阪大学コミュニケーションデザイン・センターへ。准教授で看護学がご専門の西村ユミ先生のインタビュー。「専門家であろうとなかろうと、同じ人間の苦悩である限り、〈病い〉は、私たちを執拗に引き寄せ、押し戻し、その傍らに立ちすくませる。この志向性は、私たち人間が根源的に抱えている〈病むこと〉への態度であり、そして、ともに〈病い〉を形づくることの現れではないか」。ご著著『交流する身体……〈ケア〉を捉えなおす』(NHKブックス)でこう語る西村先生。「共在感覚」という考えをケアという観点から読み返すことによって,身近な問題として捉え直すことができるのではないかと思いインタビューとあいなった。
著書の途中で何度かメルロ=ポンティからの引用がある。てっきり、メルロ=ポンティを読む過程でケアや介護の問題にぶつかったのかと思っていたら、じつは逆。ケアや介護という実践の過程で、メルロ=ポンティと出会ったのだそうだ。自らの実践活動の意味を分析する時に、メルロ=ポンティの身体論が役に立ったのだという。学生時代バタイユに傾倒したぼくは、彼のエロティシズムの問題をやはりメルロ=ポンティの身体論に引きつけて読んだ記憶がある。メルロ=ポンティはけっこう使えるのだ。余談だが、今年はメルロ=ポンティ生誕100年にあたる。今秋立教大学で大きなシンポジウムが予定されているという。再び、ぼくの中でメルロ=ポンティが息を吹き返すかもしれない。
インタビューは、非常にいいものになった。それもこれも西村さんの人柄によるところが大きい。その語り口がとてもチャーミングなのだ。なにより実践家であるところがいい。思想も身体があるかないかが分かれ目である。ところで、西村先生は若い時にハンドボールをやっておられたとのこと。それもゴールキーパー。アスリートだとわかって、なるほどと思った。身体や五感に感心のあるひとは、かなりの頻度でそういう経歴の人が多い。五感研究の山下柚実さんは競技スキーだしオートポイエーシスの河本英夫氏は陸上競技。そして、かくいうぼくも中高とサッカー部だった。いずれ、アスリートの経験をもつ哲学者、思想家の特集をやってみたいと思っている。

「共在感覚」とは何か、まず手始めにその命名者をインタビュー。

『談』の次号特集「〈共に在る〉哲学」の取材で京都へ。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科准教授木村大治先生を訪ねる。ごHPのポートレイトの写真では、無精髭姿でいかにも人類学者然としていたが、本人は普通のやや地味な感じの人。しかし、研究室は普通ではない。畳張りなのだ。机のあるところは掘りごたつ式。アフリカから帰ってくると、やはり日本の生活が恋しくなるのかも知れない。
著作に書かれていた内容に沿ってお話を聞く。たとえば、日本人の常識ではありえないような100mも離れた者同士が大声で口げんかをし、相手を特定することなく発話するボンガンドの人々。このザイール・ボンガンドの文化では、150〜200m以上離れてようやく挨拶を交わす対象となる。そうかと思えば、同時に多数の人々が発話したかと思うと、普通なら気まずくなるような長い沈黙が突然起こるようなカメルーンのバカ・ピグミーの文化もある。彼ら/彼女らは、いつとはなしに静かにやってきてずっと見つめ合ったかと思えば、すうっと静かにいなくなる。自己と他者の関係、それをとりもつ会話や行為。こうしたいわゆるコミュニケーションのあり方自体がことほどさように多様なのだ。アフリカの二つの文化を比較しながら、「共在感覚」をキーワードに、木村先生はコミュニケーションのあり方を捉え直す。先生は、そこで「双対図式」というとてもユニークなアイデアを提案する。今回のインタビューは、まさにその「共在感覚」と「双対図式」の関係をご教示いただこうというものだ。たっぷり2時間、非常に有意義な取材となった。詳しくは、3月発行の『談』をお読み下さい。
ところで、木村先生のHPに、ボンガンドの投擲的発話とバカ・ピグミーの発話重複、沈黙の様子を記録した動画ある。↓がそれ。これは必見!!
共在感覚

身体における所有/被所有が曖昧になる瞬間

例の研究会。今回のゲストは鈴木謙介さん。この前は、TASCの公開鼎談に参加してもらい、今回は講演会。カーニヴァル、陶酔、社会システムがキーワード。ぼくは、身体と所有の問題、日常/非日常のアフォードする空間の変容として捉えてみたいと思った。社会の枠組みを空間論として捉えれば、身体は所有されるものに帰結するが、それを時間論で捉え直すと、所有するものイコール身体ということになって、所有/被所有という関係そのものが成り立たなくなる。カーニヴァルとは、まさに身体における所有/被所有が曖昧になる時間性を内在しているのだ。今後突き詰めてみたいところである。

千里眼の噂の先生

関西の方の精神科医に連絡を入れる。電話をしたのだが出ないので、そのまま切った。しばらくたったところで、その先生から直接電話がきた。留守番電話に残していないのに、どうしてぼくがかけたとわかったんだろうか。この先生、以前から千里眼のうわさがたっている。はじめて先生を訪ねた知り合いは、研究室のドアをノックするがはやいか、ドアをあけて、「あなたが来るのを待っていたところですよ」といって、中に招き入れたという。それまで、全く面識もないし、たまたま用のあったところがそばだという理由で、しかもアポなし。なのに、待っていたというから、彼はとても驚いたという。他にも、似たような話が幾つかあって、それ以来千里眼の噂がたっていた。まさかと思うけれども、事実こうやって向こうからかけてこられるとにわかに信じたくもなってくるものだ。

ドゥルーズのシザーハンズ、あるいは忘却の忘却

以前鵜飼哲さんにインタビューした時、そのタイトルを「記憶の記憶、忘却の忘却」としたのだが、これは、ニーチェの能動的忘却に定位して、人間は忘れることができなくなった動物、すなわち、忘却を忘却したのが人間にほかならない、というところからとったものだった。

この「忘却の忘却」という言葉、他でも読んだことがあるなと思いつつ、それがまったく思い出せなかった(単なる忘却)。それが、あったのだ。最近河出文庫から次々に翻訳が出ているドゥルーズの著作、ほとんど持っているけれど、結局持ち運びができるのでまた買ってしまうわけだが、その一冊『フーコー』を読んでいたら見つけたのです。

「…しかし、主体あるいは主体化としての時間は、記憶と名づけられる。(…)この記憶はそれ自体たえず忘れられて再構成されるからである。その襞はまさに、拡げられた襞と一体である。なぜなら、拡げられた襞は、襞のなかに折り畳まれていたものとして現前し続けるからである。ただ忘却(拡げられた襞)だけが、記憶のなかに(襞そのもののなかに)折り畳まれていたものを再び見出すのである。フーコーが最終的に再発見したハイデッガーがここにいる。記憶に対立するものは忘却ではなく、私たちを外にむけて解体し、死を構成する〈忘却の忘却〉である」。(「湾曲あるいは思考の外」)

ドゥルーズは、『フーコー』におさめられた幾つかの論文で、フーコーを、「襞」あるいは「折畳み」という言葉から、執拗にその外の思考として掴まえようとする。その外は、襞あるいは折畳みという条件において、思考し得る対象としての記憶/忘却の再開の必然性、回帰の不可能性となり、再びわれわれに贈与されるというのである。襞あるいは折畳みは、ドゥルーズをフーコーへ、さらにはニーチェ、ハイデッガーへまさに折り畳んでいくための重要な概念なのだ。

などと考えながら、今日、日仏学院で「アベセデール[D、E、F、G]」を見た。カメラの前のドゥルーズの、なんと饒舌なことよ。クレール・パルネのインタビューに対して語ること語ること、ほとんどしゃべりっぱなし。ある時は、パルネの質問を遮ってまでしゃべり続けるのである。哲学とはまさに語ることだといわんばかりに。

そんな動くドゥルーズをはじめて見て驚いたのだが、もっとびっくりしたのが彼の爪!!  指の先には、まるでジョニー・デップ=エドワードのような長い爪が鎮座ましましていたのである。それも10本の指全部に。しかも、人さし指の爪は、くるっと弧を描いて、丸まっていた。あっ、これって、もしかして「折畳み」のこと? そう、よく見れば、人さし指だけでなく他の何本かも内側に湾曲しているではないか。そうか、ドゥルーズという哲学者にとって「襞」「折畳み」という概念は、自らの身体のメタファだったのだ。いや、逆か、自分の身体こそ、「襞」「折畳み」のメタファだった。ということは、「器官なき身体」はドゥルーズそのものだったってことなの? そんな想像も愉しむことができる「アベセデール[D、E、F、G]」の上映はあと3回。ぜひ見ましょう。クレール・パルネが女性だということもこの映像で知った世間知らずの僕です。

フーコーはなぜ「老い」の問題を避けたのか。

『談』no.51で「〈臨床医学の誕生〉を読む」という鼎談を行った。現大阪大学学長・鷲田清一さん、現同志社大学政策学部教授・柿本昭人さん、現情報科学大学院教授・小林昌廣さんにご出席いただき、フーコーのほとんどの著作が翻訳されているわが国で、この本のみその他の著作とはやや異なる読まれ方をしてきたのではないか、という問題提起から始められたディスカッションだった。その後、『パラドックスとしての身体 免疫・病・健康』(河出書房新社)に採録されたが、最近あるきっかけから再読してみて、ここで交わされた議論の射程は、現在でも十分有効性をもつことに改めて驚いたのである。とくに、柿本さんの『臨床医学の誕生』の柱である「空間、ことば、死」に関して、フーコーが生の消尽点/零度の生としての「死」という見方を持ち込んだ重要性は認めつつも、それがかえって「老い」への「まなざし」を遠ざけているという指摘は、フーコーの「生-権力」論を現代の「生-政治」の文脈で語る時のある種の困難を、先取りする批判であったように思う。フーコーの未発表の講義録が翻訳され始めている現在、「老い」について『臨床医学の誕生』で微妙に避けられていた意味を考えることは、きわめて重要だと思われるのだ。
そんなこともあって、今日、ご無沙汰していた柿本昭人さんにご連絡をとった。そして『TASC monthly』にご寄稿をお願いしたのである。今回お願いしたテーマは「脳年齢になぜかくも躍起になるのか」。鼎談の議論とは直接つながるものではないが、「老い」と「生-政治」の交錯という問題を踏まえてであることはいうまでもない。さて、どんな議論が展開されるのか、今から楽しみだ。

『談』no.79号本日書店にて一斉発売!!

『談』no.79号特集「〈祝祭〉する身体---陶酔と暴力のはざまで」が本日発売になりました。
特集内容をお知りになりたい方は、左のナビゲーションバー下の最新号にアクセスしてください。

『談』no.79号が8月20日発行になります。

『談』no.79が発行になります!!

8月20日発行!! 書店発売は21日です。

特集 〈祝祭〉する身体---陶酔と暴力のはざまで
定価[800円+税]

「私の身体が私の身体であって私の身体ではなくなる」

トップアスリートの誰もが体験する「エクスターズ」の瞬間を
暴力、熱狂、陶酔から解き明かす。
私は誰の身体なのか。いや、そもそも、私とは何ものなのか。

●清水諭(筑波大学大学院人間総合科学研究科准教授/スポーツ社会学)
祝祭としてのスポーツ
『甲子園野球のアルケオロジー スポーツの「物語」・メデイア・身体文化』(新評論)でスポーツのカルチュラルスタディーズの領域を切り開いた清水諭が、再び、スポーツとスポーツ観戦者が一体となってつくり出す「スタジアム」の魔術性について語ります。


●稲垣正浩(日本体育大学大学院教授/スポーツ史)
スポーツと暴力……思考のパラダイム・シフトに向けて
『〈スポーツする身体〉を考える』(叢文社/2005)でスポーツのパラダイム変換を企てるスポーツ史の稲垣正浩が、スポーツの源泉である暴力について言及します。


●冨田晃(弘前大学教育学部准教授/文化人類学・写真家・アーティスト)
カーニヴァルの身体……非合理性、死、美意識
『祝祭と暴力 スティールパンとカーニヴァルの文化政治』(二宮書店/2005)で暴力への欲望を快楽へと昇華する「祝祭」についてフィールドワークした冨田晃が、身体の根源にある二重性に切り込みます。

●特別企画
写真家・神山貞二郎が、舞踏家・上杉満代の舞踏を撮り下ろした最新作。

表紙 木原千春

談no79.表紙.jpg

TASCの助成研究報告会で藤原辰史さんの発表を聞く。

神谷町の虎ノ門パストラルへ。TASCの助成研究報告会。会場はほぼ満員。驚いた。トップバッターは藤原辰史さん。「再生産される〈生命空間〉」(『談』no.75所収)でインタビューさせていただいた京都大学人文科学研究所助教。助成研究のテーマは「台所のナチズム ナチスの食生活と〈無駄なくせ闘争〉」 。「ナチスのむき出しの女性蔑視、男性中心主義にもかからず、なぜ主婦は、戦争に動員されたのか。食生活の中心に位置する台所という場から問う」という斬新な研究。食の内実が均質化し、主婦の人間性剥奪されるかわりに、台所という場が、あたかも生命をもった有機体のようになる。ナチズムの本質にある自然志向が、今回の発表からいっそう明らかになった。「生-権力」の問題をしつこく追っかけてきた『談』としては、いいヒントをもらったように思った。これまで、研究発表会なるものにほとんど出席したことがなかったが、活発な議論が交わされていて、正直びっくりした。助成する限りは、厳しいジャッジは当たり前か。僕もがんばらなくては。JTとも関わりができたので、会場で挨拶する人が増えた。

中座して、中目黒へ。『談』のデザイナー河合君と待ち合わせて写真家の神山貞次郎さんの事務所へ。目黒側沿い。3Fに黒い猫ちゃん。さっそく写真をみせてもらう。最近上杉満代さんの舞台を撮ったんだけど見る?とおっしゃるので 拝見する。これまでの神山さんの写真とはちょっと違う感じ。しかし、これがいいのだ。河合君も閃いたらしく、3点すぐに決まった。これで、ヴィジュアルも揃ったし、あとはeditor's noteだけだ。で、明日がその企画会議。

富くじとしてのサッカーを知り抜いている男

夕食を食べながらアジアカップ準々決勝。オーストラリア戦。後半先制されるが、その2分後に高原のワールドクラスのゴールで追いつき、延長戦でも決着がつかずPK戦。オシムはいつものようにベンチに引き込み結果を待つ。やはり、能活はアジアカップになると運を引き寄せる男だ。最初のふたりのシュートは確実にゴールに突き刺さるはずだった。が右に左にシュートをはじき返す。そのあと日本は高原がはずすが中澤が決めて勝利。準決勝へコマを進めた。オシムはじつにサッカーをよく知っている。どんなに強くても運に見放されたらおしまいだ。実力と運がなければ勝てないのがサッカー。サッカーは結局のところ富くじとそう変わらないゲームであるということを、オシムは知り抜いているのである。清水諭先生もおっしゃるように、偶然性に強く支配されているのがサッカーで、それは野球にはない魅力である。ロッカールームで薄目をあけて試合の行方を見つめるなどということは、バレンタインには無縁のことなのだ。

規律権力/カオスの「グラストンベリー」か、生-政治のFUJIか

イギリスの野外ロックフェスティバル「グラストンベリー」。30年以上の長きにわたり開催されてきたこの伝説的野外フェスのドキュメンタリー映画を観た。過去の資料映像も交えて、ジュリアン・テンプルが監督したライプ映像満載の映画だが、UKの若者文化を活写しているところが面白かった。 FUJI ROCK FESTIVALに代表される日本の野外フェスを体験したことのない人がこの映画を観るとどんな反応をするだろうか。おそらく野外フェスというものはとんでもない「祭り」に映るだろう。トラヴェラーズという得体のしれない連中が闊歩しているかと思えば、ヒッピー、ドラッグ、セックス、暴力のてんこ盛り。裸の男女が泥まみれになって踊り、騒ぎまくる3日間。こんな危険極まりない乱痴気騒ぎが苗場で行われているのだとしたらとんでもないこと、うちの村では絶対反対、と地元の人は思うに違いない。しかし、一度でもFUJI ROCK FESTIVALに行ったことのある人ならば、その反応は全く逆なはずだ。グラストンベリーと比べて、なんとFUJIはきれいで、おとなしくって、ピースフルな祭典、と思うに違いない。日本の野外フェスは、こういってよければテーマパークだ。主催者もアーティストもオーディエンスも、安全・安心のセキュリティ空間の中で身の丈にあったビジネスをし、演奏し、愉しむ。関わったすべての人間が何がしかの満足感、達成感、感動を得れば、とりあえず成功。なにより怖いのは事故であり、リスクを完全にヘッジできれば大成功なのだ。生-政治が完璧な形で貫かれているのが日本の野外フェスなのである。それに比して、「グラストンベリー」の3日間は、いまだ規律権力が力を発揮するイベントである。そこには、他者がいるし、暴力が横行する。しかし、それと同じだけの剥き出しの「生」が存在することも事実だ。「ビオス」を食い破って現出する「ゾーエー」が、裸の状態で乱舞する空間。だからこそ、「グラストンベリー」には、そうした荒ぶる身体の横溢を囲い込むために、高さ5メートルのフェンスが必要なのだろう。さて、われわれはどっちをよしとするか。そりゃ「グラストンベリー」でしょう、と言いたいところだけれど、やっぱりシャワーも浴びたいしお布団で寝たいし、乱暴者はごめんだし……、カンファタブルな空間で普通に音楽が愉しみたいので、テーマパークのFUJIがいいや。なんと軟弱なぼくだこと?!

10年ぶりに赤川学先生にお会いしました。

東京大学大学院人文社会系研究科准教授・赤川学さんに面会。TASCで9月に予定している講演のお願いのため。数年前Webマガジン「en」に原稿を依頼した時に電話でお話をしたが、直接お目にかかったのは、『談』no.57「トランスセキュアリティ」以来で10年ぶり。当時信州大学の助手をしておられて、インタビュー内容は「日本人のセックス、日本人の身体」。近代日本におけるセクシュアリティは、 常に「性欲=本能」と「性=人格」という二項対立によって語られてきたが、 果たして性欲は単なる本能なのか、それとも高尚なものなのか、というかなりハードなお話だった。今回は、それとはまったく違って、健康の言説と統計の関係について、社会学的に見るとどう捉えられるのか、といったようなことをお話してもらおうと思っている。赤川先生は67年生まれ。始めてお会いした時はまだ30歳になるちょっと手前で、ういういしさが残る学者先生という感じだったが、今回お会いして、やっぱりお変わりありませんでした。講演楽しみだ。

特別公開企画「PTSDと「記憶」の歴史 アラン・ヤング教授を迎えて」開催

立命館大学大学院先端総合学術研究科・天田城介准教授から以下の内容のお知らせをいただきました。
「、今月7月21日(土)13:00〜(於:立命館大学)、立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点が主催となって「PTSDと「記憶」の歴史 アラン・ヤング教授を迎えて」という企画を行うことになりましたので、お知らせ致します。

もしご都合が宜しければ、ぜひとも皆様の積極的にご参加頂き、またご関心のある方々にアナウンスして頂きますよう、図々しくもお願い申し上げる次第です。
なお、詳細は以下のホームページに掲載しておりますので、そちらをご参照ください。
「生存学」創成拠点(arsvi.com)のトップページから入って下さい。

「PTSDと「記憶」の歴史 アラン・ヤング教授を迎えて」

1991年の8月にもう一度時計の針を戻して見よう。

「正しいこと」をそれぞれが全うしようとするがために暴動へと発展していく過程を軽妙に描いて絶賛されたスパイク・リー監督86年の作品『ドゥ・ザ・ライト・シング』。後にブルックリンで実際に起こるクラインハイツ暴動を予見させたということで、スパイク・リーは一躍、時の人になった。ぼくも、ビデオになってからすぐに借りて見て、衝撃を受けたことを覚えている。しかし、冨田晃さんの『祝祭と暴力』を読んで、少し見方が変わった。この映画は、あることを巧妙に避けているというのだ。「スパイク・リーは、ブルックリンの多様性を表現するために、「黒人」「イタリア人」「プエルトリコ人」「韓国人」「警察」とキャスティングしているが、各黒人が持つ文化的・歴史的背景の多様性や黒人内の集団間の対立の問題には触れ」ず、「ブルックリンの黒人の大半が、カリブ海地域生まれか、その二世であるにも関わらず、「黒人=アフリカ系アメリカ人」として描いた」というのである。80年代後半、真の黒人監督として評価を受けたスパイク・リー。だが、彼の考える黒人とは、抽象化され一元化された「黒人」であり、「黒人」であることの多様性を自ら否認してしまったのだ。米国史上最悪の人種暴動の一つ「クラインハイツ暴動」。それをどう解釈するか。ブルックリンの黒人居住地の真ん中にあるルバヴィッチ派ユダヤ人との宗教的な対立? 貧困からくる矛盾? ブラックパワーこそ正義? 同じ移民たち同士の共生の難しさ? いや、問題はそんなに単純ではない。ブラックアフリカンだけがブラックではないように、ユダヤ人にもさまざまな顔がある。ミックスジュースからサラダボールへ。そして、今は「モザイク」。だが、この「モザイク」という言葉に潜む陥穽をこそ問われなければならない。人種、国籍、国家、宗教……。いったい、その何が「モザイク」なのか。今問われるべきは、「モザイク」の意味そのものだ。

〈悲しみ〉という情動のもつ意味

浅野俊哉さんより『思想』6月号を贈呈していただく。浅野さんの論文「〈良心〉の不在と遍在化」が掲載されている。今日「良心」という言葉を自ら口にすることも、また他者の口から聞くこともほとんどない。こうした「良心」の不在という状況において、スピノザの論究する「良心」について、あらためて問い直そうというもの。
スピノザは「良心の呵責」について、「悲しみ」という情動に解消したと言われている。そのことが、人間の社会的・倫理的な行動契機を奪うことにつながりかねないと研究者から指摘されていた。浅野さんは、そこに注目して、「その考えが従来型の良心論が持つ、個人という枠内の自意識の問題にそれをとどめてしまう傾向を突破して、汎化された〈環境に対する能動的な関心と反応能力〉を私たちにもとめていくものではないか」と、むしろそこにこそ可能性を見出そうというのである。
「今日の様々な社会闘争の直接のきっかけとそれを持続する意志に力をあたえているのは、〈悲しみ〉という情動なのではないだろうか。言い換えれば、自己や他者の生命が何らかの形で傷つけられていくことに対する、ほとんど身体レベルから発せられる異議申し立てーーすなわち媒介を経由しない直接的・一時的かつ否定することの不可能な情動ーーなのではないだろうか。しかもそれは同時に、能動的な〈喜び〉の情動の増殖を求めて自らを貫通する関係性を構成し直し、新しい共同体を構築しようとする、個人性にはけっして限界づけられない集団的欲望なのではないだろうか」
浅野さんはこの論文で、『談』インタビューのその次を展開しているのである。

『談』のインタビュー、今日は、ダブルヘッダー。

サウンドイメージ研究所/Laboratory Cafe dzumiへ。泉さんすっかりマスターになっている。今日、このスペースをお借りして弘前大学の冨田晃さんにインタビューをするのだ。窓際のテーブル席でインタビュー開始。冨田先生はサックス奏者でスティールパン奏者で三味線弾きで彫刻もやる、文化人類学者にして美術の先生。生きながら死んでいくより、死んだように生きていく方をとると言い、つまらないものを守るよりも、身体が感じているものを守りたいと強い調子で言い切る。クリエイティヴであり続けるための戦略と戦術にたけてるひと。カーニバルとは本来目的がないから面白いのであって、その意味では遊びと同じだ。ラテンの感覚を強くもつとても気さくな人だった。道を挟んだ向かいにあるフレンチの店、芙葉亭で食事。2時15分を回ってしまったので、タクシーで次なる目的の場所、日体大へ。15時15分。ドアを開けるとすでに研究会は始まっていた。思ったより沢山の参加者がおられる。ちょうど稲垣正浩先生が発言中。これは前の発表者に対するコメントだった。われわれを加えて、いよいよ稲垣先生の発表。「スポーツと暴力」は、興味を引くテーマだ。先生の発表は、休憩を挟んで、2時間以上に及んだ。内容は、ソレルとベンヤミンの暴力論を手がかりに、暴力そのものが両義的な概念であり、スポーツは暴力ではないかという仮説に基づいて、検討していくというものであった。近代スポーツがドーピングという事態を引き起すのは、論理的にみれば必然である、という議論はとても興味のあるところだ。この講演会をもとにインタビュー記事にするという目論見。さて、はたしてうまくまとめることができるだろうか。

スポーツを現代思想する先生

日本体育大学教授・稲垣正浩先生の研究室へ。先生はお食事中だった。さっそく、打ち合わせに入る。僕のことばが少なかったことをあらためて詫びて再度正式に依頼をする。先生は話し好きだ。こちらの話をちゃんと聞いて、それから、口を開くと湯水のように言葉が湧き出てくる。お面の話から太極拳の話へ、西谷修さんの話から、スポーツそのものの話へ。気がつくと1時間30分はしゃべっておられた。これならテープを取っておけばよかったと後悔。それでも、来週あらためてインタビューにうかがうと約束し研究室を後にする。今度の企画、予想以上に面白いものになるかもしれない。

感情の起伏を丸ごと包み込んだ身体の出会い

清水諭先生のインタビュー。朝お電話をして、研究室の所在を確認する。筑波循環バスで「筑波西」で下車してくださいとのこと。大学のHPのキャンパスマップでは体育科学系棟は「南地区」に位置する。これでは始めてくる人間は混乱してしまうだろう。聞いておいてよかった。
清水先生は会議室をとっておいてくれた。さっそくインタビュー。祝祭としてのスポーツというテーマ。こちらは祝祭を伝統的なのイメージで捉えていたが、近代スポーツでは、祝祭のレヴェルがいくつもあるところに大きな違いがある。また、身体、他者、言説、メディア性、文化産業というものが幾重にも層をなしていて、複雑に絡み合っていることも過去のスポーツ、身体行為を核とするまつりと違うところだ。アスリートにフォーカスしてみれば、偶発的な即興性が強度をともなって唐突に出現することの驚異にスポーツを観る者は驚き熱狂する。しかも、それは技術、スキルに裏打ちされ、さらには身体の美的なフォルムと一体化している。それが、単なる物語性、言説、政治、人種、民族、ナショナリティ、ジェンダーといった枠組みを、越えて表出してくるところに、スポーツのスポーツたるところがあるのだ。感情の起伏を丸ごと包み込んだ身体が他者の身体と出会いつながることの特異性についても言及された。
2時間半近いインタビューとなった。先生はクルマでつくば駅まで送ってくれた。クルマのなかで、山口昌男さんのテニスのお相手であったことを教えてくれた。なるほどそれで「中心と周縁」なんですね。

「祝祭」という身体の内的体験を探る。

TASCで企画会議。07年度の『談』の企画をプレゼンする。4本提案したが、順番にやって行こうということになった。次の特集は「〈祝祭〉する身体---Aha、Alea、Ilinx」。「遊び/愉しみ」の継続企画だ。トップアスリートたちのほとんどが体験するのは、「わたしの身体がわたしの身体であって私の身体ではなくなる」ことだという。言い換えれば、「わたしの身体を超え出ていく身体」、つまりエクスターゼ(ハイデガー)、エクスターズ(バタイユ)する身体知覚のこと。スポーツの哲学を提唱する稲垣正浩先生の発言からインスパイアされた企画だ。「スポーツおよび舞い・踊り・ダンスといった身体技法を、祝祭という切り口から、自己と他者の交錯する開かれた身体の内的体験として捉え直そう」というものである。ぼく的には、すごく愉しい企画。さっそくアポ取りを始めよう。7月発行ですから。

ひとりでいると、小指がもえるって、どういう現象だ?!

まったくの個人的な趣味で、昭和歌謡の歌詞を調べている。毎回いろいろ驚くことがあるのだが、今日は伊東ゆかりの「小指の想い出」。「あなたが噛んだ 小指が痛い 昨日の夜の 小指が痛い」はそらでも歌えるが2番は知らなかった。「あなたが噛んだ 小指がもえる ひとりでいると 小指がもえる」とあるのだ。萌えるではなくて燃えるだろうが、想像するに大変意味深い歌詞だ。このあとに「そんな秘密を知ったのは あなたのせいよ」とくる。有馬三恵子さんの作詞だけれど、こんな歌詞が昭和42年第9回レコード大賞「歌唱賞」を受賞してしまうのである。その前年紅白に初出場した城卓矢が歌ったのが「骨まで愛して」。「生きているかぎりは どこまでも 探しつづける 恋ねぐら 傷つきよごれた わたしでも 骨まで 骨まで 骨まで愛してほしいのよ」。当時小学生だったぼくは、通学中によく鼻歌で歌っていたけれど、あらためて聴いてみると、とんでもない歌詞だ。なんてったって、骨ですから。で、誰が作ったのかと思ったら、なんとまあ川内康範先生でした。驚いたのは川内先生、じつは月光仮面の原作者でもあるんです。

『談』no.78号特集は「〈遊び/愉しみ〉のコミュニケーション」

『談』no.78号特集「〈遊び/愉しみ〉のコミュニケーション」が本日発売になりました。取り次ぎをお願いしている地方小出版流通センターの棚卸しにあたるため、一部地域では発売が4月3日以降になります。
特集内容をお知りになりたい方は、左のナビゲーションバー下の最新号にアクセスしてください。

『談』no.78号が3月29日に発行になります。

ちょっと月間ペースですが、『談』no.78号が発行になります。
3月29日発行!! 発売は30日です。
特集は、「「遊び/愉しみ」のコミュニケーション」

なぜひとは愉しいことが好きなのか。したがるのか。
人間の「愉しみ」の根源に迫ります。

キーワードは、プラモデル、発達の最近接領域、ボケとツッコミをするロボット。

●小川純生(東洋大学経営学部教授/マーケティング)
遊び概念を拡張する……面白さの根拠はどこにあるか
●神谷栄司(佛教大学社会福祉学部教授/保育論)
「遊び」の発見……ヴィゴツキーの「情動」、「発達」、「コミュニケーション」の理論的射程
●岡田美智男(豊橋技術科学大学知識情報工学系教授/ロボティクス)
「愉しみ」としての身体……次世代コミュニケーション、遊び/遊ばれる、エコロジカル・マインド

『談』no.78表紙.jpg

●特別企画
アーティスト勝本みつるの立体作品を3点掲載
● 表紙 木原千春

定価800円+税

オートポイエーシスを練習するためのエクササイスの本が出た。

オートポイエーシスの河本英夫さんから、『哲学、脳を揺さぶる オートポイエーシスの練習問題』を贈呈していただいた。まずびっくりしたのが、本書の発行所だ。『投資の王道』や『M&A最強の選択』、『イノベーションの本質』といったマネージメントや投資、経済関係の書籍を出している日経BP社である。ということは、本書も位置づけはビジネス書? 確かにそうともいえる。とはいえ、一風変わったビジネス書であることは言うまでもないが。
河本さんが本書で目指したものは、身体行為とイメージの活用法である。イメージを一つの手がかりにして、それを行為に接続することで新たな経験の領域をつくり出そうというのである。河本さんの言葉で言えば、「創造性の科学哲学」ということになる。
「手は外に出た脳であり、身体は外に出た脳の容器である。頭蓋骨のなかに納まっているのは、脳の構造部材であり、この構造部材を有効に活用するためには、外に出た脳に有効なエクササイズを課すしかない」。そのために必要になるのが身体行為を含めたイメージの活用であるという。
凡百のノウハウ本が体のいい学習方法しか提示できていないのに対して、本書が提起するのは能力それ自体の形成である。そのためには発達を再度リセットする必要があり、能力そのものの形成に働きかけるようなエクササイズを設定することが重要だと説く。
「発達のリセットには、わかるとは別の仕方で「できるようになる」という広範な裾野がある。こうした領域ではイメージが決定的に利いている」というのだ。ここで展開されようとしているのは河本オートポイエーシス論の具体的な活用方法である。
『談』no.76の河本英夫、十川幸司対談で、情動回路ともその作動を共有するイメージの領域がポイントとなると河本さんは強調されたが、まさにその「イメージ」が本書の中心的な課題なのだ。『談』の対談をさらに深く理解したい読者は、ぜひ本書をお読みいただきたい。
なお、次号で登場する文化庁メデイア芸術祭大賞の木本圭子さんの作品が参照されていたり、次々号の特集で全面展開されるヴイゴツキーの重要概念「最近接領域」にも言及されていて、『談』とは縁の深い一書であることも付け加えておこう。
哲学、脳を揺さぶる オートポイエーシスの練習問題

ザーウミ、ズドーヴィク、そしてペルジバーニエの内的論理

●ロシアの未来派の詩人たちは、ザーウミ(超言語)などの誌的実践の背後にいくつかの音の関係の論理を想定していたが、その一つが「ズドーヴィク(位置ズラシ)」であったという。「…音の内的な構成のずらしが、言葉の運動という出来事を生じさせる。地震の振動という偶発事によってずらされた建物の内的構成、そこからその崩壊という出来事をとらえようとしたヴィゴツキー…。ズドーヴィクは既成の音構成の把握とその変形可能性がセットとなって詩的言語の内的論理となっている…」。 ●クラシックバレエのにおけるダンサーの動きは、基本的には「パ(pas)」という単位に分節されている。「あらかじめ規定された構造と機能をもつ〈パ〉。これを基本単位としてクラシックバレエはさまざまな動きのバリエーションをつくり出し、その文法を歴史的に蓄積してきた」。しかし、ウィリアム・フォーサイスは、この身体-意味関係の惰性と転倒であるクラシックバレエに「…一つの〈パ〉に別の〈パ〉を〈貫入〉させることで、その安定した運動の輪郭を崩し、そこに非定型的に振動する眩暈のような身体の生成的運動を現出させようとした」のだ。「…倒れつつある身体のそのもののメカニズムの解明。すなわち崩れの論理の形式的把握。この地点でわれわれはダンスにおけるフォーサイス的な問題設定と発達心理学におけるヴィゴツキー的な問題設定が交差することな気づく」。 ●『談』no.58でインタビューをさせていただいた高木光太郎さんの著書『ヴィゴツキーの方法』を読み返していたら、こんなすごいことが書かれていたのを発見した。ヴィゴツキーに「ベルジバーニエ」という、一種の意識の単位があるとおっしゃっていたのが佛教大学教授の神谷栄司さんだった。それからずっとこの言葉が気になっていたのだが、どうも、これはズドーヴィクと関連付けることで、とてつもない概念に発展するような予感を得た。まだ、予感にすぎない。しかし、ベルジバーニエが、ズレ、差異、ゆらぎ、よどみへと連続する、生命に根源的な振動性と接触する概念であるように思えるのだ。言語、身体、行為、そしてカオス脳……。まだよくはわからないが、何かが来ていることは間違いない。

快感サーキットの逆回転てありますか?

某企業の会議で、廣中直行さん、篠原菊紀さん、山下柚実さんらと同席。このお三方、じつは4年前のEIフォーラムとその発展系であった研究会のメンバー。これから、しばらく定期的に合うことになるわけで、今から楽しみ。今回は、その準備会。終了後の懇親会でのこと。篠原さんに、パチスロに盛んにアニメやテレビネタが使われているのはなぜと尋ねると、「それぼくよ」と。やはりというか、パチスロ業界のアドバイザー篠原さん自らが仕掛けたらしい。『さよなら絶望先生』のネタでは、最近の若いもんは、「アタックno.1」も「北斗の拳」も「幻魔大戦」も出会いはまずパチスロ。その後アニメやコミックに行くらしい。ベクトルが逆向きというか回帰現象(!?)。そのうち、パチスロでまずリリース。それから実写になってアニメやってコミックになって、なんてことがどんどん起こってくるかも。それをまた篠原さんがNRSで…。同じように、脳内報酬系のサーキットも逆回転しだしたらとても面白いことになりますね。ていうか、これが廣中先生の言うcravingかしらん。

ニューロンは意志を経由しないでチョキを出させた?!

池谷祐二さんに言わせると、ニューロンの活動の方が意識より早いという。そのため、自由意思などないという見方をする神経生理学者がいるという。意識する以前に、脳の方が活動してある行動を起こしている。そんなことがあるのだろうかと思っていたら、確かにそれを実感できる時があることに気がついた。じゃんけんの場面だ。たとえば、じゃんけんぽん! で、ぼくがチョキを出したとする。他のひとは全員パーを出したのでぼくの勝ち。わっ勝ったぞと一瞬喜ぶけれど、それはぼくが熟慮したうえで決定したわけではない。気がついた時には、チョキを出していたのだから。そして、出し終わった時には、じゃんけんというのは、もう自分の意志で決定したような気になっている。これがホントだとすると、これまで直感と思われていたことも、ほとんどはニューロンの活動の結果なのかもしれない。シナプスが発火し、手がチョキを出す、そして最後にチョキを出すぞと閃く。脳→行動→意識のタイムラグ。人間にはまったく異なる3つの時間が流れている。しかも、意識が一番遅れてくるという事実!!

急増しているといわれる「30代うつ」は新たな病気?

香山リカさんから『仕事中だけ《うつ病》になる人たち』(講談社)を贈呈していただいた。昨今、30代に顕著な「うつ」が急増しているらしい。職場では不調だが、好きな趣味は精力的に行える。学歴が高く、まじめだが、やや自己中心的。自分が「うつ」であることの自覚が強い。一定のレベルで快復するが、なかなか復職に踏み切れない。不安感、恐怖感、あせりといった感情の動揺がひどい。などなど。こうした「30代うつ」は、個人のワガママや未熟な性格の問題と思われがちだが、そうとは言い切れない。現代社会が生んだ新しい病である可能性がある、と香山さんは見る。新たな病気といえそうな「30代うつ」はどんなひとなのか、そしてなぜ、今、増加しているのか。自らの臨床体験をもとにしながら分析し、香山さんはこう結論する。「うつは心のカゼ」といったソフトな言い方で、現実から目をそらすことがあってはならない。「30代うつ」をとりあえず新たな疾患単位として認め、早急にそれに見合った治療法や会社、家庭での対策が必要だと。確かに、見渡すと、ここであげられているような「うつ」らしい人はいる。しかし、これまで気にもかけていなかった。正直ぼくのような人間は少なくないように思う。みなさん、ぜひ一度読んでみてください。 仕事中だけ「うつ病」になる人たち??30代うつ、甘えと自己愛の心理分析

行為の予期的待機状態の視覚化、「ビル・ヴィオラ: はつゆめ」展を見る。

森美術館へ。ビデオアーティスト「ビル・ヴィオラ: はつゆめ」展を見る。今日が最終日。会場に入ると、いきなり高さ4メートルのスクリーンの裏表に炎に包まれる男と水に打たれる男の映像が飛び込んできて、度肝を抜かれる。この「The Crossing 」もそうだが、そのあと、高速度撮影により超スローモーションな映像作品が続く。
1分間の映像を81分に引き伸ばした「Anima」、正面の何かに向かって縦に並んだ人々の視線が釘付けになる「Observance」、マニエリスムの画家ポントルモの作品「聖母のエリサベツ訪問」に着想を得たという、3人の女性の45秒間の出会いを10分間に引き伸ばした「The Greeting」。水に服を着たまま男が飛び込むシーンをスローモーションの5つの独立した映像にした「Five Angels for the Millennium」、19人の男女が立つところに突然ホースから噴射された大量の水が襲う「The Raft」など。どの作品も、ぼくの日頃の問題意識、時間と身体行為の関係性と重なるものばかりで、とても興味深かった。
超スローモーションによる身体を写し取った映像は、原理的には知覚不可能な領域で発生するイベント。それを可視化するということはそれ自体パラドクスである。その反知覚的体験が引き起こす混乱と眩暈。まさに、ぼくの好むところだ。また、「Anima」や「The Greeting」は、人間の情動・感情というものが、行為とどのような仕組みで接続するか、その有り様を垣間見せてくれる作品だ。
行為とは、アナログ的に連続した行為の連続体であるとは限らない。その行為のはるか後に表出する別種の行為系に引き継がれる行為を、いわば先取りして表れる時がある。行為の予期的待機とぼくは名付けているのだが、そういう離散的に連接する行為というものがあるのだ。
ある手の動きがあるとして、それが数分後まったく無関係な別の手を使用する行為に連接する。ある口の表情が、その数十分後に表れる別の口の表情を、あたかも予期するように(先取りするように)表れるのである。そういう身体現象が存在する。これはここ何年かのぼくの仮説である。それが、ビル・ヴィオラの映像によって、実際にこの目で確認することができた。正直驚いている。ほんとうにそんなことが起こっているとは。ビル・ヴィオラの映像作品を、身体の生態学として見直すこと。自分にとって、じつにいい「はつゆめ」となった。
最近の記事
Monthly article
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:



『談』とは
 
●最新号

No.131
空と無
 
●バックナンバー
No.93以前のバックナンバーにつきましては、アルシーヴ社(03- 5779-8356)に問い合わせください。

No.130
トライコトミー……二項対立を超えて

No.129
ドロモロジー…自動化の果てに

No.128
オートマティズム…自動のエチカ

No.127
自動化のジレンマ
 
 
●別冊

Shikohin world 酒

Shikohin world たばこ

Shikohin world コーヒー
 
『談』アーカイブス