ダイアリー
かる〜く書けるものなら、この手がある。こういうのに味しめちゃうとぼく的にはじつによくないけどね。
3月には発行になるので、どこかでみつけたら(って基本的にはTASCの会員にならないと貰えませんが)よんでみて下さい。
(Web版では、修正済みです)
p11.editor's note before の末尾
sound cafe zdumi(吉祥寺)→sound cafe dzumi(吉祥寺)
p93.書物のフィールドワーク46の◎呪われた部分
バタイユ 魅惑する思想 坂井健 →バタイユ 魅惑する思想 酒井健
バタイユ入門 坂井健 →バタイユ入門 酒井健
エロチシズム G・バタイユ 坂井健訳 →エロチシズム G・バタイユ 酒井健訳
p102.『談』取扱い店
立川 オリオンノルエ →オリオンノルテ
もともとこのミュージャンのファンだったという阿木譲さんの名前がでたのがきっかけで、一気に70年代末から80年代初頭にかけて、群雄割拠した東京undergroundシーンの話題に花が咲いた。驚いたのはコクシネルなどの演奏が入ったコンピレーションアルバムをなぜか泉さんがもっていたこと。ぼくもどういうわけか、カセットテープでもっていたりして、何十年ぶりかぐらいで聴く。さらに、泉さん「たこ」のファーストアルバムなんかも出してくるではないか。ついでに、それも聴いてしまった。すっかり忘れていたのだが、このアルバムには、1曲香山リカさんがボーカルで参加している曲がある。「たこ」のリーダー山崎春美さんは、じつは香山リカさんの名付け親。そんな関係で彼女も参加しているのである。細川周平さんが曲の幕間に各国語を使い分けてナレーションやっていたり、坂本龍一が1曲やっていたり、今思うとものすごいアルバムだ。つくづく面白い時代だったなぁと思う。
「天国注射」というイベントがあった。今でいうところの音響派になるのか、パンク、ニューウェーブのミュージャンに交じって、実験的なサウンドを追究していた若者がこのイベントの周辺には沢山いた。この頃のミュージャンを中心に、当時のカルチャーシーンをマップ化してみると面白いと思う。じつは、香山リカさん(まだ学生)が『フールズメイト』誌上でそれをやっていたのだ。思えば、そういう時代の空気を吸いながらぼくは今の仕事をはじめ、なにをかくそうその延長線上で、泉さんとも出会ったのである。思わぬところで、あの時代を思い出すことになった。『遊』『ヘプン』人脈で当時を回顧した文章をかつて読んだことがあるが、今度は、ぜひ音楽人脈でそれを書いて欲しい。
インタビューが終わって学バスがくるまで、図書館で待つ。ここに設置されているソファやテーブルは、一見アルヴァ・アアルトのもののように見えたが、そんなわけはないだろう。いくらリーズナブルとはいえ、半端じゃない数が置かれているから、もしも本物だとすると教室1棟が建ってしまう値段になるかもしれない。たぶん本物に違いないと思い込みながら、ぼくたちはバスの来るのを待った。今年も「偽」の時代になりそうな予感。
事務所にもどって、さっそくインタビューを予定している3人にメールで依頼状を出すと、一人から即レスで快諾。それが、それが渦中の人だった。ぼくがなぜこの人にお願いしたいと思ったのかというと、きっとこの企画に乗ってくれると思っていたからだが、そのとおりだった。この特集にあえてアフォーダンスから切り込むというのが、じつに『談』らしい、とでき上がってみるときっとわかっていただけると思う。
TASCで『談』no.80の編集会議。editor’s noteの読み合わせ。これで承認されれぱ、オーケーだ。バタイユの説明で、「非生産的消費」とか「有用性の限界」とか「呪われた部分」についてはしつこいほど語っているのに、肝心の「無意味の意味」との関連性について触れられていないのはどうしてか、という鋭い質問があった。確かに。本誌が発行された時に確認していただければいいのだが、インタビューの冒頭で、無意味を意味との対比で捉えようとする時に、バタイユにはそういう傾向がある、という指摘がなされる。じつは、無意味の意味が登場するのはその一箇所だけのだ。確かに、これでは、どうしてバタイユなの? と思われるのも無理はない。といっても、ここのところは微妙で、軽はずみに論じると、やけどをしそうなので、加筆、修正は勘弁してもらった。だいたい特集タイトルの「無意味の意味/非-知の知」の「非-知の知」についても、ほんのちょっぴり触れただけ。バタイユを知らない人は、この言葉自体に??? かしれない。しかし、これもあえて何も言わない方がいいのではという配慮なのである。それでは詩ではないか、と批判されそうだが、ここは一つご勘弁願うとして、そんな意味などわからなくても、十分面白いインタビューなのでそっちを楽しんでいただきたい。
夜は、『TASC monthly』で1年間連載をしていだいた中川五郎さんのご苦労さん会を渋谷のワイン居酒屋VINで開催。中川さんの12月のスケジュールはライブがびっしり並んでいる。今日も昨夜「五つの赤い風船」のコンサートで宿泊された名古屋からの帰りだという。そんな中をぬって、私たちのために時間をつくってくれたのだ。感謝感謝。そのライブ、じつは営業的にはなかなか厳しいらしい。ミュージシャンというのも大変なんだぁと思った。サンセールとポムロール、ローヌにブルゴーニュとフランスワイン巡り&ジビェとフォグラで、愉しい語らいの時間をすごしました。
ラフォーレ原宿のヤン&エヴァ シュヴァンクマイエル展最終日。図録を編集している渡辺裕之さんにチケットもらったので。すばらしい展覧会だった。物量が凄い。なぜ、触覚主義、シュールレアリズム、人形なのか。その真相がつかめた気がした。記憶である。記憶とその形象。つまり、イメージ、それも自分のではなくメディウムの。この場合のメディウムは、霊媒。にわかに、シュールレアリズムがマイブームに。
帰りにオズヴァルド・チルトナー追悼展。ギャラリーに2点だけの展示。それと、画集。じつはここは小出由紀子事務所の一室。こういう見せ方もあるのかと、ちょっと新鮮。というか、うちの事務所でもできるぞ。
駒場アゴラのある商店街では盆踊りが行われていた。クルマ1台やっと通れるような商店街に老若男女がたくさん集まっている。浴衣姿も多い。お店の前で焼きそばを売っていたり綿飴や金魚すくいの屋台が出ている。
受付開始。サロンのような場所のテーブルの前にいた青年が主宰者の岸井大輔さんだった。案内用のフライヤーの入ったビニール袋と、POTALIVEの参加者であることを示すシールをもらう。それを次回持参すれば、200円で入れるという。つまり1回600円! なんと安いことよ。
キャンセル待ちも加えてたぶん13人の参加者。今回の案内役、村井美樹さんがあいさつ。村井さんは、現在ドラマ「麗しき鬼」や「アニメギガ」の司会で活躍する女優さん。浴衣がよく似合うステキなお譲さんだ。さっそく商店街に繰り出す。盆踊りは終わったばかり。商店街はまだその余韻が残っていて、すぐには帰らずにまだ多くの人々が残っている。村井嬢の話がゆっくりと始まる。続きを読む
撮影しながら自転車で3時間ちょっとかかった。たぶん、歩いて帰る場合は、この倍はかかるだろう。震災はいつくるかわからない。帰宅支援ルートを実際に歩いてみるのはいいことだ。もっともぼくは自転車だったけれど、それでも何が妨げになるか、何が必要になるか、少なくともそのイメージだけはつかめたのでよしとしよう。
ところで、FUJIってなんですか、とよく聞かれます。さて、説明しようとすると、じつはこれがなかなかむつかしいのです。一言で言えば、苗場スキー場を会場に行われる日本最大の野外フェスティバルということになりますが、千〜万人単位が収容できる野外ステージが4つ、屋内ステージ1つ、百人単位の小さいステージが3つ、内外の百数十組のアーティストが出演し、飲食関係だけでも100以上が出店、サーカスにダンスホール、ゲームセンターにキッズランド、さらには、映画上映や大道芸などもあり、入場者数は10万人をゆうに越え、三日三晩ほぼ24時間態勢で盛り上がるという巨大なお祭り、といったところでしょうか。
期間中キャンプサイトで寝泊まりする人だけでも数万人。色鮮やかなテントが1万以上並ぶ姿は、日本広しといえどもFUJI以外にはないそうです。今年は、幸い天候に恵まれてウィンドウェアの世話になる機会はほとんどありませんでした。しかし、毎年必ず一日は雨にたたられ、各会場はまるで湿地帯。それでも負けじと踊りまくる数万人の熱気で、屋外であるにも関わらず湯気が立ちこめる光景を目にした時は、感動すら覚えました。
そんな巨大イベントにもかかわらず、ゴミの分別収集が徹底し、喫煙者の誰もが携帯灰皿を持参。ソフトエネルギーを積極的に活用し、あるブースは電力をほぼすべてクリーンエネルギーで賄うという試みすらなされています。あくまでも公式的にではありますが、暴力事件や事故もなく、海外のフェスティバルではつきもののドラッグも皆無、酔っ払いすらほとんどいないという、まるで嘘のようなhappyでpeacefulな三日間なのです。
肝心の音楽はというと、いわゆるロックだけではなく、ワールドミュージック、ジャズ、スカ、ファンク、ブラックミュージック、テクノ、エレクトロ、さらには、クラブミュージックに日本ではFUJIから火がついたジャム系ミュージックまで、とにかく、ありとあらゆる音楽が会場を埋め尽くします。個人的に嬉しいのは、Jポップが少ないこと。かわりに、今年はダンス系のバンドが多く、最後は踊りまくって深夜を迎えるというステージが多かったのはなお悦ばしいことでした。
と書いてはみましたが、もちろんこれらはFUJIの全体のほんの断片に過ぎません。とにもかくにも、体験せずにFUJIを知ることは無理。でも、こんなに愉しく、身も心もフレッシュになれる3日間が世の中にあるということだけは伝えておきましょう。
最後に、僕の今年のベスト5は、The John Butler Trio、Groove Armada、Battles、V∞redoms、Gov't Mule。もちろんみんな踊っちゃいました。
すでにみなさんには、原稿はお渡しして読んでいただいているので、発表しないでもいいような雰囲気だった。でも、予習をしたので(自分の原稿を予習してどうするというツッコミはいれないで)、発表させてもらった。みなさんの印象はというと、意外な反応が……。今回はそれぞれのインタビューは分かりやすかったのに、editor's noteが難解だというのである。難しい先生の話を、誰にも解るように説明するのがその役目だったのではないか。それが、インタビューより難しいとは。前号は、分かりやすくてよかったのにと。どうしても専門的な言葉を使わざるを得ないということもあるんですけどね。「まぁ、いろいろな意見があるのはいいことではないでしょうか」とまとめたら笑われてしまった。
木原千春さんの表紙画、神山貞次郎さん撮影の上杉満代さん舞踏、共にOKが出て、あとは発行するのみ。8月20日発行予定。
夕食を食べながらアジアカップ準々決勝。オーストラリア戦。後半先制されるが、その2分後に高原のワールドクラスのゴールで追いつき、延長戦でも決着がつかずPK戦。オシムはいつものようにベンチに引き込み結果を待つ。やはり、能活はアジアカップになると運を引き寄せる男だ。最初のふたりのシュートは確実にゴールに突き刺さるはずだった。が右に左にシュートをはじき返す。そのあと日本は高原がはずすが中澤が決めて勝利。準決勝へコマを進めた。オシムはじつにサッカーをよく知っている。どんなに強くても運に見放されたらおしまいだ。実力と運がなければ勝てないのがサッカー。サッカーは結局のところ富くじとそう変わらないゲームであるということを、オシムは知り抜いているのである。清水諭先生もおっしゃるように、偶然性に強く支配されているのがサッカーで、それは野球にはない魅力である。ロッカールームで薄目をあけて試合の行方を見つめるなどということは、バレンタインには無縁のことなのだ。
出席者は、玉川大学教授・岡本裕一朗さん、関西学院大学社会学部教授・阿部潔さん、国際大学グローバルコミュニケーションセンター研究員・鈴木謙介さん。今回のテーマそのものが、『空間管理社会─監視と自由のパラドックス』(新曜社)で出された幾つかの論点をもう一度議論していただくというのがねらい。なので、司会進行役をその本の編者のお一人である阿部潔さんにお願いした。
従来のような権力側による人々の監視・管理といった一元的な動きとは異なる、現在の監視社会の諸状況を「両義性」という切り口で捉えることはできないかという問題提起を受けて、「防犯カメラ」「個人情報の収集管理」「コミュニティパトロール」「メディアによるセレブリティの管理」「警察権力による国民の監視」など現実に起こっているさまざまな事象を拾い上げながら、密度の濃い議論が展開された。現代の管理を考える場合に、テクノロジーの変化が管理の内実を変容させている意識の変化とどうリンクしているのか、その点を把握することが一つ重要な鍵になると思われる。現代社会において誰が誰をなんのために管理しているのか、その大前提こそが問われなければならないのである。
今欠けているのは悪に対する想像力ではないか、祝祭空間のもつ意味をあらためて考える必要があるのではないか、秩序/反秩序という枠組みを越えるための脱秩序化という発想の重要性などが提起された。ちょうど、『談』の次号特集のキーワードが「祝祭」。特集を編集するに当たって、いい参考になった。
今回の鼎談は、『TASC monthly』(何号かは決まっていないが)に掲載予定。

個人的に面白かったのは映画におけるやばい台本について。それは内容ではなく、ましてやキャストでもない。沢山人が出る、スタッフが沢山いる、役者が沢山出るように書かれている、この三つが「やばい」のだと。なぜなら、それは、非常にリスキーだから。もしも、オールロケで、雨で撮影が中止にでもなってごらんよ、予算がいくらあっても足らない、という。カメラが回らないのにお金だけが出ていく。気象条件にものすごく左右される点では、映画も野外フェスと同じライブ・エンタメなんだ。オープンエアのスポーツイベントのお弁当屋さんと同じ?
いつにもましてボリューム感があり、大河のような太い音のうねり。なによりもアンサンブルがいいのと全体の構成がよかった。途中で本日のゲスト、ジェームス・チャンスが登場。へんてこな踊りと甲高いい音をキンキンいわすサックスプレイは、おそらくチャンス独自のもの。面白かったが、サックスからキーボード、キーボードから歌、再びキーボードへ、またまたサックスへと目まぐるしく楽器を取り換えながら演奏する。じつに落ち着きがないのだ。それがかえって興味を削がれる原因に。演奏についても、渋さとどうしても比較してしまう。圧倒的に渋さの方がうまいし面白い。申し訳ないが、こういうゲストならば渋さオンリーの方がよかったかも、などと思ってしまった。後半また、渋さ全面展開。片山さんがブリブリすっ飛ばす。約2時間以上のライブだけど、とても満足した。本日も「Nadam」で巨大風船が天上を浮遊し、ラスト主題歌「本多工務店」で巨大な手の風船が舞ったことを報告しておこう。
終了後、ホワイエでメンバーが引続き演奏しているのを遠巻きに観ているお客さんの中になんと鷲田清一さんを発見! 阪大総長は渋さのファンなのか。
森下さんは少し変わってきて、全体的に見ても統一性がないように思うのだけれどと言うが、いえいえそんなことはありません。僕の眼にはむしろ筋が一本通っているような見えました。いつものようにどれも構造がしっかりしているし、精緻なフレーミングが写真の本来のあるべき姿を喚起させる。本人的は割合無意識にレンズを向けているらしいが、ぜんぜんそんな風には見えないな。ベランダと建物を撮影したものが妙に印象に残った。今回持参された作品のミニチュア版をポートフォリオにして預かることになった。つまり、僕が森下君に代わって営業活動をせよってことですね。ええ、ええ、頑張りますとも。まかせてください。
これで、堀口さんのところで仕入れた豆をみるっこで挽いて、コーノ式のドリッパーで淹れれば天下無敵だ。いよいよ全国珈琲店、道場破りの旅に出る時がきたのかもしれない。これかなり本気ですから。
都市を描き直す。ある時は巨人の眼で、またある時は小人の眼で。マクロとミクロの視点を交錯させながら、自在に都市のディテールへ忍び込む。東武ワールドスクエアで撮影された「ニューヨーク」をはじめてちゃんと見る。アトリエでちらっと見せてもらったものより少しサイズを小さくしたように思う。この一連の作品は、現在の建築写真への強烈な批判。フォトジェニックなプロポーションばかりを探すことにご執心な建築写真家諸君、心せよ。
ライトボックスを利用して実際の透過光を見せる「光のマケット」の美しさにうっとりする。汐留の電通ビルが、浜離宮の湖面に映ってゆらいでいる、虚業へのアイロニーか? ミルトン・キーンズの家屋群とマルセイユの超高層マンション、これらは、近代というものの病を愚直に表象している。
全体を見て思ったことは、「なんだかとても悲しい」。小さいけれど強く感じるこの寂寥感はなんだろう。以前、畠山さんの作品は幽煙の撮る写真だと称したことがあるけれど、それは幽煙ゆえの悲しさなのか。まだよくわからないが、すごく重要なことが隠されているように思う。少なくとも、この寂寥感は、畠山さんの写真を語るうえで、重要な鍵になることは間違いない、と思う。
ところで、今回の展覧会の畠山さんの図録に、同館企画課長の水沢勉さんが文章をよせているが、『談』no.64所収の佐々木正人さんとの対談「写真と生態心理学」が引用されていた。「カメラ・オブスキュラのプロジェクトは、カメラの中に暮らしているような感覚だ」という例のくだり。幽霊という言葉が思いついた発言箇所でもあって、なにやらか暗示的な気がした。
→ 「畠山直哉展Draftsman's
Pencil/鷲見和紀郎展 光の回廊」
酒井さんは、最近上京すると浅草詣をしているとのこと。それとなく聞き出すと、大衆娯楽についていろいろ調べていて、なんと宝塚も見ているというではないか。じつは、ぼくもレビュー文化と都市の関わりをテーマに、かなり前からエノケン、ロッパ、田谷力三、そしてペラゴロを中心に資料を集めていたのだ。一時は宝塚のムラ(大劇場)にも何度も通ったこともコクる。どうやら酒井さんも同じようなラインで関心をもっているらしい。浪曲や大衆演劇まで視野に入れているというから、これはかなり強力なライバルの出現である。ぼくの場合は、少女の大幽閉、交通都市、歌舞音曲のポリフォニーという三つの切り口を考えているのだが、おちおちできませんね。アイデアだけでは勝てそうにないので、ここはひとつ協力して……、なんてことにはならないだろう、絶対に。でも、なんか面白いことが起こりそうな気がした。なんだか、昨日と同じだな、これって。
新井卓さんHP
座談会、インタビューの原稿をまとめる時、いつも感じるのは話し言葉と書き言葉の落差。論脈はとりあえず無視して、話している時のリスムや感情をできる限り活かすか、逆に論旨が適確に伝えられることをいの一番に考えるか、迷うところであるが、本来はやはり100%後者をとるべきなのだろう。論旨をきちっと伝えたうえで、前者の見られるようなブレ、ゆがみ、脱線をもうまく取り込めたら、きっといい原稿になるのだろうし、それが可能な人間が、本当の意味でのライターなのかもしれない。ぼくなど、まだまだひよっこというべきか。ぼくは、いったいいつプロになれるのだろうか。