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『談』no.126 リズムのメディウム
企画趣旨
リズムは、音楽と最も強い結びつきのある言葉だが、もとより音楽の専門用語ではない。たとえば、言葉のリズム、心臓の鼓動のリズム、生活のリズム、潮汐の干満のリズム、あるいはたてものの柱のリズミカルな配置など。さまざまな文脈での「リズム」という言葉は、しかし、単なる比喩的な表現ではないことは言うまでもない。大きな広がりをもつ「リズム」という概念の、それぞれの特徴を示す表現なのだ。
たとえば、睡眠時間が不規則になったり食事を摂る時間が不定期になったりすると、私たちは「生活のリズムが乱れた」と表現する。日々繰り返される生活活動、その周期的な繰り返しがこの場合の「リズム」であり、その反復周期の規則性の乱れを「リズムの乱れ」と言っているわけだ。また、心筋の収縮や、潮汐の干満も一定の時間の周期をもって繰り返し起こる。すなわち、一般的に「リズム」とは、人間の活動や自然界の現象に見られる周期的反復性のことであり、その反復周期に一定の規則性が確認できる時、そのリズムが「整っている」と感じられるのである。
広義の「音楽のリズム」は、三つの下位概念、すなわち「拍」、「拍節」、狭義の「音楽のリズム」を含んでいる。音楽の構造という点から見ると、狭義の「音楽のリズム」は表層構造に属し、「拍」と「拍節」は基礎構造に属する。音楽を聴く時、実際に聴こえるのは表層のリズムである。「拍」や「拍節」は、表層のリズムの背後にある構造で、直接聴き取れるわけではない。表層のリズムにあっては、拍のさらに多様な分割から生じるさまざまな下位拍の組み合わせが複雑なパターンを形成する。音楽の表層的なリズムとは、何らかの仕方でアクセント付けられた(目立たせられた)表層拍とそうでない表層拍の組み合わせである。そして、ある拍が目立つかどうかには、その音の長さや強さだけではなく、高さ、音色などの多様な要素が同時に関与していて、一見単純な音の連なりのように聴こえる楽曲であっても、ひとたびリズムに焦点をあてれば、極めて複雑で多彩な音世界をつくり出していることがわかるのだ。
「響き合いの世界」の最終回は、この複雑で多彩な「リズム」について考察する。
参考文献『事典 哲学の木』(近藤譲執筆リズムの項目)講談社、2002
■近藤譲氏インタビュー
「音楽には二種類のリズムが内在する」
時間芸術のひとつである音楽において、時間の形式であるリズムは、当然本質的な意味をもっている。しかしそれにもかかわらず、これまでの音楽のリズムにかんする議論には、ある種の混乱がみられるという。その混乱の主因は、音楽のリズムを一般的な意味でのリズムと直接結びつけて論じようとするからにほかならない。音楽のリズムは、むしろ、音楽固有の組織体系として考察されるべきだと主張するのは作曲家の近藤譲氏だ。もとより、音楽にかかわっているリズムは、音楽のリズムのみではない。一曲の音楽は、連続的に変化するひと続きの音響事象であり、したがってそこでは、一般的な意味でのリズムの形式原理も働いている。人々が音楽に感じるリズムは、じつは、それら二種のリズムの複合なのだ。音楽固有のリズムと一般的なリズムをいかに腑分けし、検出するか。だがそもそもそのようなことにどれほどの意味があるのだろうか。リズムのメディウムの探索はここから始まる。
こんどう・じょう/1947年生まれ。現代音楽作曲家、音楽評論家。作曲作品は、オペラ《羽衣》を始めとして170曲以上。CD録音も多い。
著書に『ものがたり西洋音楽史』(岩波ジュニア新書 2019)、『聴く人(homo audiens)(アルテスパブリッシング 2014)、『線の音楽』(復刻版 アルテスパブリッシング 2013、 朝日出版社 1979)他。
■樋口桂子氏インタビュー
「日本のリズム……身体の深層にあるもの」
日本の音には雑音的な要素が多い。日本人の耳が好む音は、ヨーロッパの教会の鐘のようにどこまでも高く響いてゆくものではなく、雑音の要素を含んだ、鈍く広がって、あたりに滲みゆく音だ。日本の音は、むしろ正確な音程に正しく合わせるよりも、多少音をずらして、あるいは「ツボを外した」音を取り入れようとした。人に聴かせる語り物や講談、地唄、民謡などは、発音の仕方は音程を微妙に揺らすことを選んだ。そうした音がつくり出す気配は、整数倍音で響く音づくりをするヨーロッパの気分とは、当然違ったものにならざるを得なかった。これはリズムにおいても同様の違いを示す。ヨーロッパの人たちがとりわけ動きに対してリズムを捉えるのに対して、日本人は静かに安定したリズム感を好む。それは、「もの」の動きに目を向けるよりも、「もの」から「こと」を見てとり、「こと」のなかにリズムを感じ取ったからだろう。ヨーロッパ人の気分は運動と変化とリズムを捉えている。一方、日本人にとっての気分はあたりを見渡す「わたり」のなかにある。響き渡る、冴えわたる「気配」のなかに「リズム」もまたあるのだ。この違いは、音楽構造の「拍」の領域において、根源的な差異を見出すことになる。音楽のリズム論への果敢なる挑戦であり日本文化論の更新である。
ひぐち・けいこ/大東文化大学名誉教授。専門は美学。
著書に『おしゃべりと嘘』(青土社 2020)、『日本人とリズ感:「拍」をめぐる日本文化論』(青土社、 2017)、『イソップのレトリック』(勁草書房
1995)他。
■河野哲也氏インタビュー
「液体のリズム、新しい始まりの絶えざる反復としての」
1963年東京生まれ。立教大学文学部教育学科教授。博士(哲学)。専門は、哲学、倫理学、教育哲学。NPO法人「こども哲学・おとな哲学アーダコーダ」副代表理事。
著書に『間合い:生態学的現象学の探究』(東京大学出版会 2022)、『人は語り続けるとき考えていない:対話と思考の哲学』(岩波書店 2019)、『境界の現象学:始原の海から液体の存在論へ』(筑摩選書 2014)他がある。
リズムは、自然と生命の波動現象であり、メトロノームが刻むような機械的な拍子とは区別されなければならない。哲学者の河野哲也氏は、生態学的現象学の立場からリズムをこう論じたうえで、私たち生き物が、緩やかなリズムで活動しているとするならば、それは私たちの身体が、柔軟で、緩やかな粘度を持った物体だからであり、一種の流体だからだという。生態学的現象学は、人間の心理を主体と環境との循環的関係のなかでの意味に満ちた経験として記述し、理解しようとする哲学である。生態学的現象学で人間を捉えるとすると、海という流体のなかで、同じくほとんど水分でできた自己の身体を、薄い膜によってかろうじて外部と分け隔てている海月(くらげ)のようなものだというのだ。あるいは、環境を卵と見立て、自分の身体がそのどろりとした半透明の粘り気のある溶液に囲まれている黄身のように考えることもできるだろう。いずれにせよ、モデルとなるのは、環境に充満する液体の一部としての、液体そのものである身体だ。
自然のなかには、純粋に反復する過程などない。自然は、新しいものを繰り返し産出する。その産出されたものの一部が互いに類似しているのである。同一性とは、思考の人工的な産物である。類似しているものは、思考の介在なしで、自然に直接的に経験される。リズムが生じるためには、見えない生命内実が不可欠であり、その後に類似のものが再帰するのである。リズムは、すでに存在している同一のものが反復するのではない。リズムとは、存在が更新されて戻ってくることである。
こうの・てつや/1963年生。立教大学文学部教育学科教授/博士(哲学)/専門は、哲学、倫理学、教育哲学。NPO法人「こども哲学・おとな哲学アーダコーダ」副代表理事
著書に『間合い:生態学的現象学の探究』(東京大学出版会 2022)、『人は語り続けるとき、考えていない:対話と思考の哲学』(岩波書店 2019)、『境界の現象学:始原の海から液体の存在論へ』(筑摩選書 2014)他。
表紙・裏表紙は菅木志雄氏の立体、ギャラリーでは、小池一馬氏の作品を掲載