明治大学アカデミーコモンへ。『原生計算と存在論的観測』刊行記念・郡司ペギオー幸夫講演会へ行ってきました。途中、今回の主催者の一つ三省堂神田店の人文書のコーナーを覗く。『自由と暴走』がまだ平積みになっていました。あれ、『匿名性と野蛮』はどこだろうときょろきょろしていたら、ありました、コーナーの一番いいところに。それも気恥ずかしくなるようなPOPが。「…大好評で入荷後すぐに品切れになり、再入荷したものです。北田暁大さんほかこの人選で、この値段はもう買いでしょ!」って、てへてへですよね。会場でその人文書仕入れ担当の女性とご挨拶。さて、その講演会。やはりというか当然というか、なかなかに手ごわい内容の講演でした。

原生計算と存在論的観測―生命と時間、そして原生
「小泉(義之?)さんが書評をするにあたって私にこんなことを聞いてきたんです」というところから口火が切られました。それは、「認識される世界と窺い知れない現実という分離は、要するにタテマエとホンネではないのか、と言われた時に、郡司さんはなんと答えますか」という質問。それに対して僕はこう答えます、という具合に、一つひとつ順を追いながら見解を述べるというスタイルで話は進行しました。そして、最終的に、それが存在的内部観測の解説になるという構成。唐突に舟越桂の彫刻の例が出されたり、例のうまいラーメン屋とオープンリミットの話が引かれたり、あいかわらずアクロバティックな展開で、あやうく煙に巻かれそうになりましたが。全体の細かい議論は措くとして、郡司さんは生命の謎に迫れる唯一の科学的方法論として複雑系科学、内部観測を見ているのだろうと思いました。そして、生命論としてではなくあくまで生物学として、というところに強いアクセントを置く。オートポイエシスがややもするとミステリズム、あるいは一種のファンタジーになりかねないのを警戒しつつ、慎重に存在論への架橋を試みます。講演の全体を通奏低音のように流れていたものは、河本英夫さんのオートポイエシス論への懐疑だったように思います。帰りに講演会に来ていた「インコミ」の副編集長のSさんと、でも、今、面白いのはやはり郡司さんだよね、ということで意気投合。ぜひまた今度は、単独でインタビューをしたいと思います。