とある食品企業の広報誌の企画会議。今度の特集は「スイーツ」。自由ケ丘「モンサンクレール」の辻口博啓や吉祥寺「アテスウェイ」の川村秀樹、尾山台「オーボンヴュータン」の河田勝彦とか、カリスマ・パテイシエが活躍する時代に、手作り系の巻き返しはあるのでしょうか。その秘策は、というのが今回私たちに与えられたミッションなのです。そこで考えたのが、現代のスイーツこそ精神分析的対象なのではないかという仮説です。
スイーツというのはそもそも料理、ごはん、とは違うもの。料理の外にあるものです。デセール(デザート)とはそういう意味。お腹を満たすことをとりあえずの目的とする料理とは自ずと異なるのです。そこには、スイーツ独自の論理があります。僕は、それをナルシシズムと見ました。ナルシシズムが深い影を落としている世界、それがスイーツなのではないかと。スイーツの世界では、シェフと食べ手という通常のレストラン料理の関係は成り立たちません。パティシエはパティシエとしてのナルシシズムを満足させるためにつくります。食べ手は食べ手のナルシシズムを満足させるために食べます。レストランがレストレーションという語源を持つように、レストラン料理は回復の、復帰の、再生のためのもの。シェフの目的はただ一つお客様を満足させることです。再生させ、現状復帰させることによって、お客様のお腹とこころを満たしてあげること。そのための努力を惜しまない。それがシェフの仕事です。しかるに、スイーツをつくるパティシエはどうでしょうか。彼らは、まずそのスイーツが自分の美意識とズレていないかに細心の注意を払います。自分の創作物にまずどれだけ満足できるか、パティシエはパティシエのために最大の努力を払うのです。パティシエのターゲットとはほかならぬ本人自身なのです。同様に、お客様である食べ手も、スイーツに求めるものは満足感です。それも、空腹とか味覚とかという前にある欲望。自分の満足感を満たしてくれるものかどうかをまず値踏みします。そして、それが予想通り満足に足るものであった場合、その満足度は最大値になるのです。つまり、食べ手も自分のために、自分の満足感を充足するためにスイーツに手を出すわけです。両者に共通するものは、それがある種の自慰的な行為だということでしょう。スイーツを前にして見せる乙女たちの含羞の表情。自分の創作物に対してみせる、パティシエのあのうっとりした表情。すべての鍵はそこにあります。ナルシシズムの産物であり、ゆえにグルメ批評やましてや栄養学というものからは最も遠いところに位置するもの、それがスイーツです。だから、スイーツは精神分析的対象と呼んでもいいものなのです。スイーツの精神分析。甘くせつなく、その誕生からすでに去勢されているような口唇体験。男根主義を徹底して拒否するナルキッソスの贈り物。スイーツをとりあえず精神分析的対象物として捉えてみると、面白いことがいろいろ見えてきます。よしながふみの『西洋骨董洋菓子店』が腐女子のバイブルになりうるのは、最初からスイーツには男色的デコレーションがほどこされているからです。スイーツへの羨望と二次元に萌えるオタクの視線とは、じつはまったく同質のものなのです。スイーツのフィギュアをつくること。まるで食べられるような見事なフィギュアとしてのスイーツ。海洋堂の次の一手はこれしかありません、とか余計なことまで考えてしまいました。
ところで、今日、二子玉川のアンリ・シャルパンティエで秋の新作をゲットしてきました。その名も、「ポム・タタン」。サフランのムース、キルシュのババロアの上に、はちみつとリンゴジュースでコンポートした紅玉リンゴのスライスが薄く乗っかっているという、気品溢れる一品。他の4品もそそられるものばかり。今月中に完全制覇の予定。