書店発売に先立ち、一足先に『談』Webサイトでは、各インタビューのアブストラクトとeditor’s noteを公開します。
右メニューの最新号no.129の表紙をクリックしてください(3月1日正午公開)。
『談』no.129 特集◉ドロモロジー…自動化の果てに
企画趣旨
近代特有の「先へ前へ競わせ駆り立てる仕組み」をフランスの思想家P・ヴィリリオはドロモロジー(dromologie)と名付け、瞬間を抹消させるものだと批判した。ドロモロジーは、最終的に絶対速度(光速)を手に入れ、リアルタイムによる世界同時時間(世界時間)という時間体制を可能にしたからだというのだ。この世界同時時間は、いくつもの弊害を生み出す。「世界の老化」もその一つである。
それは、時間的間隔ばかりか、地理空間的間隔も省略されて、時空の差異が消滅することを、つまり世界全体が退縮することを意味する。さらにそこに、電子工学技術(人工衛星・情報収集技術網)による「パノプティコン(一望監視システム)」が追い打ちをかける。世界規模での「警察化(監視化)」が進行する。狭く老いて元気をなくしただけでなく、自由を奪われ「拘禁」されているという閉塞感情が瀰漫する。〈今ここ〉で生きているこのリアルな空間や光景を喪失する。それが世界の老化であり、ドロモロジーの行き着く先だ。今こそ自動化を減速させ、思い切って自律性=オートノミーへ舵を切ろう。
〈ドロモロジーと時間〉
「瞬間を生きること…ドロモロジーから遠く離れて」
古東哲明(ことう・てつあき)広島大学名誉教授、NHK文化センター教員
瞬間抹消。それが近代人の生活習慣病であり、自動化の行き着く先だ。未来時に期待し今日この場をカットするこの生き方は、しかし結局、道を歩まない歩き方。一歩一歩を歩まず(刻一刻を生ききらず)、目的地に到達しようという歩き方だからだ。これでは、じつは目的地へたどり着かない。なのに、いかにもどこか目的地へたどり着くかのように、見せかけている。じつに奇妙な逆説だ。未来のある到達点に至りたいなら、足元の大地を一歩一歩踏みしめ、刻一刻の今この瞬間を地道に歩むしかない。その結果として、ゴールにたどり着く。逆ではない。未来を大切にしたいなら、刻一刻の〈今ここ〉を生きるしかない。〈今ここ〉を生きる技法はその意味で「未来を大切にする技法」なのである。
〈現象学の転回〉
「動きのなかに入り、共に動くこと…「顕現しないものの現象学」から考える」
永井晋(ながい・しん)東洋大学文学部哲学科教授
永井氏は、「一者の根本経験」とよぶ事態のありようと、それを学問的に把握し記述するための方法論を説明する。一者とは、歴史的には、「神」「空」などさまざまな名称で呼ばれてきたものである。永井氏によれば、それは生命の運動そのものであるような絶対者であるという。それは、人間の通常の対象認識的な意識に対しては、決してあらわれることがないにもかかわらず、だがすべてを包摂する生命原理のようなものとして人間に対して特別な仕方で現象する。この現象を、人間はいかにして捉えることができるのか、ということが永井氏の当面の問題なのだ。一者は、通常の認識活動にあらわれてしまえば不可避的に偶像になってしまうにもかかわらず、しかし、それ自体で人間に対して顕現する。この一見するところ不可能な事態は、一者が自ら顕現すること、そして、人間がこの自己顕現の動きに同調して一者の「動きのなかに入って共に動」き、その動きを通して自己顕現する一者を「内部から直接体験」することとして生起する。一者の体験が開く自動性というあらたな地平。言い換えれば一者が複数性へと炸裂する時を捉えること、ここにあるのは人間の、時間の、唯一無為の「瞬間」である。
〈認知神経リハビリテーションの方へ〉
「経験する主体、オートノミーとリハビリテーション」
宮本省三(みやもと・しょうぞう)日本認知神経リハビリテーション学会会長、高知医療学院学院長
認知運動療法を研究・実践する宮本省三氏は、すべての運動麻痺を「身体を使って世界に意味を与えることができなくなった状態」と解釈する。それゆえ、運動機能の回復とは、「世界に意味を与える身体」を取り戻すことだと喝破する。そのコンセプトをもとに、損傷しているのは神経回路網であり、治療すべきは身体ではなく、脳であるというのだ。その確信のもとに始まったのが認知運動療法である。認知運動療法の最大の特徴は、従来の運動療法のように単に身体を動かしたり、動作を反復するのではなく、患者に思考=「考えること」を要求するのである。脳の中に身体を発見し、身体を脳と陸続きに考えるまったく新しい医療=リハビリテーションの地平。認知運動療法の創始者カルロ・ペルフェッティは、運動イメージは言語だという。主観的言語でも、客観的言語でもなく、「経験の言語」こそが生きる主体の言語である。「自動」という〈今ここ〉の身体意識へ。それは身体を脳へ開き、同時に脳を身体へ開く、あらたな運動イメージの言語化なのだ。
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『談』no.129 特集◉ドロモロジー…自動化の果てに
企画趣旨
近代特有の「先へ前へ競わせ駆り立てる仕組み」をフランスの思想家P・ヴィリリオはドロモロジー(dromologie)と名付け、瞬間を抹消させるものだと批判した。ドロモロジーは、最終的に絶対速度(光速)を手に入れ、リアルタイムによる世界同時時間(世界時間)という時間体制を可能にしたからだというのだ。この世界同時時間は、いくつもの弊害を生み出す。「世界の老化」もその一つである。
それは、時間的間隔ばかりか、地理空間的間隔も省略されて、時空の差異が消滅することを、つまり世界全体が退縮することを意味する。さらにそこに、電子工学技術(人工衛星・情報収集技術網)による「パノプティコン(一望監視システム)」が追い打ちをかける。世界規模での「警察化(監視化)」が進行する。狭く老いて元気をなくしただけでなく、自由を奪われ「拘禁」されているという閉塞感情が瀰漫する。〈今ここ〉で生きているこのリアルな空間や光景を喪失する。それが世界の老化であり、ドロモロジーの行き着く先だ。今こそ自動化を減速させ、思い切って自律性=オートノミーへ舵を切ろう。
〈ドロモロジーと時間〉
「瞬間を生きること…ドロモロジーから遠く離れて」
古東哲明(ことう・てつあき)広島大学名誉教授、NHK文化センター教員
瞬間抹消。それが近代人の生活習慣病であり、自動化の行き着く先だ。未来時に期待し今日この場をカットするこの生き方は、しかし結局、道を歩まない歩き方。一歩一歩を歩まず(刻一刻を生ききらず)、目的地に到達しようという歩き方だからだ。これでは、じつは目的地へたどり着かない。なのに、いかにもどこか目的地へたどり着くかのように、見せかけている。じつに奇妙な逆説だ。未来のある到達点に至りたいなら、足元の大地を一歩一歩踏みしめ、刻一刻の今この瞬間を地道に歩むしかない。その結果として、ゴールにたどり着く。逆ではない。未来を大切にしたいなら、刻一刻の〈今ここ〉を生きるしかない。〈今ここ〉を生きる技法はその意味で「未来を大切にする技法」なのである。
〈現象学の転回〉
「動きのなかに入り、共に動くこと…「顕現しないものの現象学」から考える」
永井晋(ながい・しん)東洋大学文学部哲学科教授
永井氏は、「一者の根本経験」とよぶ事態のありようと、それを学問的に把握し記述するための方法論を説明する。一者とは、歴史的には、「神」「空」などさまざまな名称で呼ばれてきたものである。永井氏によれば、それは生命の運動そのものであるような絶対者であるという。それは、人間の通常の対象認識的な意識に対しては、決してあらわれることがないにもかかわらず、だがすべてを包摂する生命原理のようなものとして人間に対して特別な仕方で現象する。この現象を、人間はいかにして捉えることができるのか、ということが永井氏の当面の問題なのだ。一者は、通常の認識活動にあらわれてしまえば不可避的に偶像になってしまうにもかかわらず、しかし、それ自体で人間に対して顕現する。この一見するところ不可能な事態は、一者が自ら顕現すること、そして、人間がこの自己顕現の動きに同調して一者の「動きのなかに入って共に動」き、その動きを通して自己顕現する一者を「内部から直接体験」することとして生起する。一者の体験が開く自動性というあらたな地平。言い換えれば一者が複数性へと炸裂する時を捉えること、ここにあるのは人間の、時間の、唯一無為の「瞬間」である。
〈認知神経リハビリテーションの方へ〉
「経験する主体、オートノミーとリハビリテーション」
宮本省三(みやもと・しょうぞう)日本認知神経リハビリテーション学会会長、高知医療学院学院長
認知運動療法を研究・実践する宮本省三氏は、すべての運動麻痺を「身体を使って世界に意味を与えることができなくなった状態」と解釈する。それゆえ、運動機能の回復とは、「世界に意味を与える身体」を取り戻すことだと喝破する。そのコンセプトをもとに、損傷しているのは神経回路網であり、治療すべきは身体ではなく、脳であるというのだ。その確信のもとに始まったのが認知運動療法である。認知運動療法の最大の特徴は、従来の運動療法のように単に身体を動かしたり、動作を反復するのではなく、患者に思考=「考えること」を要求するのである。脳の中に身体を発見し、身体を脳と陸続きに考えるまったく新しい医療=リハビリテーションの地平。認知運動療法の創始者カルロ・ペルフェッティは、運動イメージは言語だという。主観的言語でも、客観的言語でもなく、「経験の言語」こそが生きる主体の言語である。「自動」という〈今ここ〉の身体意識へ。それは身体を脳へ開き、同時に脳を身体へ開く、あらたな運動イメージの言語化なのだ。
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