書店販売に先立ち、一足先に『談』ウェブサイトでは、各インタビュー者のアブストラクトとeditor’s noteを公開します。
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大気化学者パウル・クルッツェンと生物学ユージン・F・ステルマーは、私たちがもはや「完新世」ではなく、人間活動が地球の生態系や気候に重大な影響を与える「人新世」という新たな地質年代を生きていると唱えた。人新世のアイデアは、地球環境への人間の影響力を重視するが、そもそも人間は、地球環境に深く依存していたのではなかったのか。そうした考えは、人間と地球環境の切り分け、すなわち人間と自然の分割がほとんど意味をなさない、曖昧なものではないかという議論へ発展していく。自然と人間という二元論が意味をなくす。人新世では、自然と人間の二元論が消滅するだけではない。自然科学と人文科学という学問の二分法もまた意味をなさなくなってきているのだ。
今日、人文科学は、人間を超えた視野を獲得し、西洋思考に潜在する人間中心主義を脱中心化しつつある。人新世のアイデアは、こうして、地球科学、考古学、自然人類学、歴史学、文化人類学、生物学、さらには文化表象など、人間と自然のかかわりすべてを対象とする学問へと思考の方向を大きく転換させようとしている。新たな自然学の誕生だ。


インタビュー1.〈人新世の哲学〉
「脆さと定まらなさ、自己・他者・ものたちのある場所」
篠原雅武(京都大学総合生存学館〈思修館〉特定准教授。専門は、哲学、環境人文学)

ハンナ・アーレントが『人間の条件』で問うたことは、人間そのものというよりは、人間の条件をめぐるものであった。では、人間の条件とは何か。人間の営みを支え、成り立たせているものであるが、アーレントはこれを、人間の内面性とは独立の世界、つまりは事物性のある世界として考えようとした。その観点から見れば、カンタン・メイヤスーやティモシー・モートンらの思弁的実在論、あるいはオブジェクト指向存在論で展開しようとする新しい実在論を先取りするものと考えることもできるだろう。
アーレントの問題関心である「人間的なものと自然的なものが区別されつつ切り離されないものであること」を人新世という文脈においてどう考えたら良いのか。すなわち、人間と自然という問題系を踏まえ、そのうえでアーレントが思考する「人間の条件」について、篠原先生にお聞きします。


インタビュー2.〈時間スケールと自然環境〉
「人新世と10万年スケールの森の歴史」
林竜馬(滋賀県立琵琶湖博物館研究部主任学芸員。専門は、微古生物学、古生態学、森林環境学)

歴史時代の植生を、長期的な時間スケールにたって、“人新世”的な状態と見るならば、現在の里山の変化はその“人新世”的な森と人との関係が再び変容し、現生的な森の姿へとたくましく遷移している過程とも捉えられる。人新世は、現在そして未来の人と地球について、人間自身の問題として考えていくうえで、きわめて有効な概念枠だといえるだろう。人新世を手がかりにして、人間と森、環境、世界の歴史的かかわりについて林先生に考察していただきます。

インタビュー3.〈物質代謝論の射程〉
「人新世と脱成長コミュニズム」
斎藤幸平(大阪市立大学大学院経済学研究科・経済学部准教授。専門は、経済思想、社会思想)

環境危機での批判理論の役割は、分析を通じて環境危機の歴史的・社会的原因を概念化し、新しい社会のビジョンを提示することに他ならない。マルクス主義も「物質代謝の亀裂」論と人新世の分析を融合し、資本主義の矛盾として、地球温暖化、砂漠化、種の絶滅といった問題に取り組んでいる。ところが、人新世をめぐる一部の議論は、人間と自然の「ハイブリット」や「一元論」を強調することで、環境危機の社会的原因の所在を曖昧にし、近代主義的な技術信奉によって、不都合な真実を隠蔽しているのである。今必要なことは、人新世の議論をより生産的な方向性へ軌道修正することである。それはとりもなおさず、マルクス主義をエコロジカルな観点から読み直すことだ。新世代のマルクス研究者・斎藤先生と考えます。

◎写真家・新井卓の撮り下ろし最新作「渚にて」を同時掲載。