書店販売に先立ち、一足先に『談』ウェブサイトでは、各インタビュー者のアブストラクトとeditor's noteを公開しました。
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◉新虚実皮膜論……アウラの消滅と再生

内容紹介
人形浄瑠璃・歌舞伎の脚本作者である近松門左衛門の芸術論「虚実皮膜論」はすでに検証し尽くされたといわれています。しかし、そうでしょうか。この虚の意味するものは、いまだ大いなる謎としてわれわれの眼前に横たわっているです。われわれはそこに一つの補助線を引いてみます。ベンヤミンの重要な概念であるアウラの導入です。「いま・ここ」にしかない特有の一回性。複製技術の時代においてアウラは雲散霧消したかに見えました。ところが、アウラは生きていたのです。どこに? 皮と肉の間に。フィクションという新たな顔をもって。虚と実、その境界で戯れることの愉快  。

〈虚実皮膜と現代思想〉
虚/実の交錯……相対主義への内在

千葉雅也(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。専門は哲学、表象文化論)

現代のネット社会が、接続過剰で息苦しさを増し、圧迫的なコミュニケーションに陥っていくならば、それに対抗する別のコミュニケーションが必要です。そこで「接続〈と〉切断」を両義的にもつコミュニケーション、つまり適度に切断しながらもつながり続ける具体的な方法として千葉氏が挙げるのが「儀礼的社交」です。接続過剰の状況に風穴を開ける儀礼的社交的空間。「虚」と「実」が反転する空間で、儀礼的社交空間をいかにして組織するか。

〈虚実皮膜とミメーシス〉
フィクション、現実を宙づりにする
久保昭博(関西学院大学文学部文学言語学科教授。文学博士。専門は、文学理論、フランス文学)

なぜ人は、フィクション的な活動に好んで身を委ねるのでしょうか。あるいは逆に、なぜその行為を忌避する伝統があるのでしょうか。それまでのフィクションをめぐる議論を一新したのが、ジャン=マリー・シェフェールの『なぜフィクションか?』です。一言で言えは、フィクションとは人類に普遍的に備わる「心的能力」です。本書の訳者であり紹介者である久保氏によれば、この心的能力、すなわちフィクション能力は、端的にミメーシス(模倣・再現)をある特定の仕方で用いる能力であり、フィクションとは、「共有された遊戯的偽装」であると提起します。このきわめて「人間的」な営みであるフィクションについて、人間学的観点から考察します。

〈虚実皮膜とデジタルメディア〉
亡霊としてのメディア……模倣と感染
石田英敬 (2019年3月末まで、東京大学大学院総合文化研究科教授および同大学院情報学環教授。専門は記号論、メディア論)

「見えない」テクノロジーの文字は、今では人間の「見えた」という意識が成立するための条件になっています。この状況を石田氏はメディアの「技術的無意識」という。フランスの哲学者デリダは、この技術的無意識を「亡霊」の問題に引きつけて、アナログメディア革命以降の世界を、おびただしい亡霊が闊歩する時代と論じました。亡霊というイメージが喚起する現代のメディア環境とはいかなるものか。記号論を新たな視点から再生させた石田氏が開陳する最新メディア論。

インタビュー者について
◾️千葉雅也(ちば・まさや) 
1978年生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。
著書に『意味がない無意味』(河出書房新社、2018)、『思弁的実在論と現代について 千葉雅也対談集』(青土社、2018)他
◾️久保昭博(くぼ・あきひろ)
1973年生まれ。関西学院大学文学部文学言語学科教授。
著書に『表象の傷 第一次世界大戦からみるフランス文学史』(人文書院、2011)、訳書に、『なぜフィクション? ごっこ遊びからバーチャルリアリティまで』ジャン=マリー・シェフェール著、(慶應義塾大学出版会、2019)他
◾️石田英敬(いしだ・ひでたか)
1953年生まれ。2019年3月末まで、東京大学大学院総合文化研究科教授および同大学院情報学環教授。
著書に『新記号論』東浩紀と共著(ゲンロン、2019)、『大人のためのメディア論義』(ちくま新書、2016)、編著書に『デジタル・スタディーズ』全3巻(東京大学出版会、2015)他