そういえば、昨日のインタビューで、篠原先生の口からジェームス・ブレイクの名前が挙がった。グレアム・ハーマンやカンタン・メイヤスらのスペキュレイティヴ・リアリズム(思弁的実在論…『コラプス』、『スペキュレイションズ』をベースに生まれた新たな哲学潮流)に言及した際に、「言語的転回以降を経験した者にとっては、ひきこもることの方がよほど重要」だと指摘、その兆候はすでに随所に出始めていると述べられた時、ふいにその名前が挙がったのだった。「ジェームス・ブレイクなんてまさにそうでしょ、僕の言ってるひきこもることってブレイクの音楽のことですよ」。
ちょうど今年のフジロックで、ジェームス・ブレイクのライブを見て、ぶったまげた僕は、この発言にすぐに膝を打ったのは言うまでもない。ポスト・ダブステップの貴公子かどうかはどうでもいいことだが、そのライブの異常さは尋常ではなかった。ホワイトステージに集まった数千人の観客は、まるで夢遊病者のように踊り続けていた。沈黙より深い静謐な時間。そのなかでダンスすること。インテンシティとは、まさしくこのことだと思ったし、それこそ「ひきこもる」ことのもうひとつの意味なのだ。なにより、思弁的転回の意味を論じているまさにその論脈において、ジェームス・ブレイクが引きあいに出されること。スペキュレイティヴ・ターン(思弁的転回)は、本当に起っているのだ。