楽劇「ニーベルングの指環」第1日「ワルキューレ」を鑑賞。ひさびさに、オペラを堪能した。通称「トーキョー・リング」は、今回で2度目。2001年から毎年1作品を上演して話題を呼んだ初演から4年をたたずに再演が実現、日本にはそれだけワグネリアンが多いということか。
100年目(1976年)にして大胆な演出が注目されたバイロイト音楽祭。たまたまラジオでそのことを知って、当時前衛ものしか興味のなかった僕が、唯一ピピーンと反応したのがワグナーの歌劇だった。それから30年、バイロイト詣はいまだ果たせずにいるけれど、こうしてとにもかくにも、その1作をこの目と耳で(というか全身で)体験できたことは大変嬉しい。
今回の「トーキョー・リング」の演出は、キース・ウォーナー。76年を転機とする演出主導のチクルス(4作セットの上演)をさらに大胆に解釈してみせた。まず、物語から歴史というものを引き剥がす。登場人物たちは、時間/空間から放り出されて、いわば宙吊り状態におかれることになる。出自は十分に主張されつつも、実体感の乏しい存在。存在の有限性と無限性が、常に極端な形で表れてくるのである。たとえば、もののスケールの崩壊。たとえば、現在と過去・未来の時間性の混乱。たとえば、映写機、ストレッチャー、剣道のお面などの道具の使用…。意味の剥奪と過剰な付与。その結果、舞台そのものが重層的なものになるのだ。歓喜と悲哀という情動の崩壊と再生が「指環」のモチーフだとすれば、ミクロ/マクロ、男性原理/女性原理の意図的な変換と混同によって、むしろ曖昧になる。その曖昧な様態、その継続こそ、じつはウォーナーが今回の「指環」に込めた解釈ではなかったかと思う。
「ワルキューレ」の第1幕、舞台中央にドーンと据えられた巨大なテーブルと椅子。ジークリンデ、ジークムント、フンディングの3人は、この館の中ではまるで小人のようであったし、物語が進行するなかで、時折、天上から床から大きな矢印のオブジェが飛び出してくるが、それは、心理状態を方向づけるシーニュだともいえる。最後、ジークムントがトネリコの幹から霊剣ノートゥングを引き抜く場面は、恍惚と不安が入り交じり、これからの道程が、決して幸福なものとならないことを暗示させる。
第2幕には、白い大きな開口部をもつ光の空間が背景として大胆に設置されている。それは、いわば人間心理を映し出す巨大なスクリーンだろう。ブリュンヒルデ=ワルキューレとヴォータン(父・主神)との感情の変容。それは、忌まわしき死の到来を示す。
第3幕に登場する病院、馬に乗る女性、すベてを焼き放つ火。精神分析ではありふれたイコンであるけれども、それをあえて物語のシンボルに据えてみせるところが、大胆というか、あざといというか…。愛による救済は果たして成し遂げられたのか。感情こそじつは情動に支配される機械状無意識にすぎない。ヴォータンの希望は、あらかじめ挫折させられるものとして提示されるのである。曖昧な二つの様態。それは、歌を伴うものだからこそ可能になるのだ。祝祭でなければならない意味がここにある。
いずれにしても、ウォーナーの「トーキョー・リング」は、ワグナーの祝祭(歌劇)の魅力を、初心者にも十分に伝えられたことは確かだ。だって、来年の2月3月に予定されている「指環」の後半「ジークフリート」と「神々の黄昏」を、すでに絶対に見るぞ、というモードになっている自分がここにいるのだから。
「トーキョー・リング」の今後のスケジュール
100年目(1976年)にして大胆な演出が注目されたバイロイト音楽祭。たまたまラジオでそのことを知って、当時前衛ものしか興味のなかった僕が、唯一ピピーンと反応したのがワグナーの歌劇だった。それから30年、バイロイト詣はいまだ果たせずにいるけれど、こうしてとにもかくにも、その1作をこの目と耳で(というか全身で)体験できたことは大変嬉しい。
今回の「トーキョー・リング」の演出は、キース・ウォーナー。76年を転機とする演出主導のチクルス(4作セットの上演)をさらに大胆に解釈してみせた。まず、物語から歴史というものを引き剥がす。登場人物たちは、時間/空間から放り出されて、いわば宙吊り状態におかれることになる。出自は十分に主張されつつも、実体感の乏しい存在。存在の有限性と無限性が、常に極端な形で表れてくるのである。たとえば、もののスケールの崩壊。たとえば、現在と過去・未来の時間性の混乱。たとえば、映写機、ストレッチャー、剣道のお面などの道具の使用…。意味の剥奪と過剰な付与。その結果、舞台そのものが重層的なものになるのだ。歓喜と悲哀という情動の崩壊と再生が「指環」のモチーフだとすれば、ミクロ/マクロ、男性原理/女性原理の意図的な変換と混同によって、むしろ曖昧になる。その曖昧な様態、その継続こそ、じつはウォーナーが今回の「指環」に込めた解釈ではなかったかと思う。
「ワルキューレ」の第1幕、舞台中央にドーンと据えられた巨大なテーブルと椅子。ジークリンデ、ジークムント、フンディングの3人は、この館の中ではまるで小人のようであったし、物語が進行するなかで、時折、天上から床から大きな矢印のオブジェが飛び出してくるが、それは、心理状態を方向づけるシーニュだともいえる。最後、ジークムントがトネリコの幹から霊剣ノートゥングを引き抜く場面は、恍惚と不安が入り交じり、これからの道程が、決して幸福なものとならないことを暗示させる。
第2幕には、白い大きな開口部をもつ光の空間が背景として大胆に設置されている。それは、いわば人間心理を映し出す巨大なスクリーンだろう。ブリュンヒルデ=ワルキューレとヴォータン(父・主神)との感情の変容。それは、忌まわしき死の到来を示す。
第3幕に登場する病院、馬に乗る女性、すベてを焼き放つ火。精神分析ではありふれたイコンであるけれども、それをあえて物語のシンボルに据えてみせるところが、大胆というか、あざといというか…。愛による救済は果たして成し遂げられたのか。感情こそじつは情動に支配される機械状無意識にすぎない。ヴォータンの希望は、あらかじめ挫折させられるものとして提示されるのである。曖昧な二つの様態。それは、歌を伴うものだからこそ可能になるのだ。祝祭でなければならない意味がここにある。
いずれにしても、ウォーナーの「トーキョー・リング」は、ワグナーの祝祭(歌劇)の魅力を、初心者にも十分に伝えられたことは確かだ。だって、来年の2月3月に予定されている「指環」の後半「ジークフリート」と「神々の黄昏」を、すでに絶対に見るぞ、というモードになっている自分がここにいるのだから。
「トーキョー・リング」の今後のスケジュール
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