慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスへ。総合政策学部教授大江守之先生にインタビュー。開口一番、「都市はシュリンキングしていないというのが僕の立場だけど、いいの?」そうなんです、大江先生は、都市が転換期にあるという認識はもっているものの、縮小しているとは見ていないのでした。シュリンキング・シティなんていったい誰がいいだしたのかとすら言うのだった。

シュリンキングの最大の問題点は、人間を人口としてしかみていないことだという。人間は、原子のような抽象的なモノとみなして、その量が増えたとか減ったとか言って騒いでいる。人間は生き物であり、人それぞれちがう。先生は、だから世帯や年齢層で捉えなければいけないとおっしゃる。人口縮小といってもその中身は多様なのだ。

たとえば、1930年代、40年代生まれの世代が戦後家族をもって郊外に居を構える。都市のスプロール化は、彼らが地方から都市へ移動してきて、郊外に住むことによって起こった現象だ。夫がサラリーマンで妻は専業主婦、子供は2人ぐらい。閉じたサービスシステムとして家庭があるというのが、彼らの平均的プロフィールである。やがて、60年代70年代になると彼らの子供世代が家庭をもつようになる。子供たちは独立して家を出る。

郊外では、高齢者夫婦ばかりが目だつようになる。かつてのような子供たちの歓声が聞こえない。商店街からは賑わいが消え、かわって病院ばかりが流行る。この光景を目の当たりにすると、ついに都市収縮が始まったのか、いよいよ本格的な高齢化社会の到来だ、と思ってしまうのだ。単に世代によるライフスタイルの違いが表面化したにすぎない。中身を見るとはそういうことで、人間は単なる集合体ではないのである。

思えばこのことは、『談』でずっと言い続けてきたことだった。うかつにもすっかり忘れていたのである。人口という量の増減だけで一喜一憂すること自体、土台おかしいのである。ある現象を前にして、さまざまな見方があるし、あり得るのだ。いつもそういって、とにかく先入見を排して目の前にあるファクトを見ることを心がけてきたというのに。思い込みとはかくも恐ろしきもの。ここは、もう一度肝に銘じて、「現象そのものへ帰ろう!」。