関西大学社会学部教授・阿部潔先生より『スポーツの魅惑とメディアの誘惑 身体/国家のカルチュラル・スタディーズ』(世界思想社)を贈呈していただきました。じつは、北京オリンピックの開会前に届いていたのですが、TVが連日伝える熱戦に夢中になってしまっ て、活字を読むどころではなかったため、つい紹介が遅れてしまいました。たぶん著者も版元も、北京に合わせて配本日を決めたのでしょう。8・8前に私のところへ送っていただいたのも「見る前に読んで!!」ということだったとしたら、ほんとにどうもすみませんです。しかし、しかしですよ。これは弁解ではありませんが、獲得メダル数金8銀6銅9、大会も残り5日となった現時点で、本書を開いてみると、これがなかなか面白いのです。いまだから、読むべき本だと思いました。谷亮子は銅では喜べないし、北島康介も200mで世界新でなければ笑顔もいまいち。その一方で、ボルトは100mで9.69秒の世界新を出しても、あのひょうきんぶり。競技の結果とその結果を出したアスリートの感情がかならずしも一致しないということを、液晶やプラズマ画面に映し出される選手の顔を見ることで察知してしまうのです。TVはなぜアスリートの目や鼻や口をあんなに大写しにする必要があるのか。情動表現と感情の不一致、生身の身体とデジタル画像としての肉体表現の乖離。われわれがオリンピックを見るということは、TVを見るということであり、表象/代表(represent)の回路に巻き込まれるということを意味しています。オリンピックの視覚的体験とは、まさしくメディア体験そのものなのです。本書は、現代のスポーツが置かれている状況を、メディアとの関係から抉り出そうとします。スポーツする身体はどのような形でメディア化するのか。感動はどのような経路を経て「物語」となるのか。スポーツと国家が一体化する瞬間はどこか……、著者はわれわれに問いかけます。ホンモノの花火に混じってCGの花火が使われ、少女の歌は口パクだった。スポーツの祭典そのものがすでにヴァーチャルだとしたら、オリンピックとはなんなのか。身体とは、いかなるものか。北京五輪をもう一度考えるための一冊です。

スポーツの魅惑とメディアの誘惑?身体/国家のカルチュラル・スタディーズ