TASC主催の京都大学大学院人間・環境学研究者教授・大澤真幸さんの交流会(講演+懇親会)。酒井隆史さん、赤川学さん、香山リカさんときて、今回は4回目。テーマは「不可能性の時代」。そう、岩波新書の新刊のタイトルと同じだ。大澤さんは、本でも紹介しているように、戦後日本の精神史を見田宗介にならって、1.理想の時代、2.夢の時代、3.虚構の時代と区分したうえで、今は不可能性の時代と捉えることができるのではないかと提言する。
講演では、本には書かなかったが、この区分とあらたな時代相「不可能性の時代」を、二つの映画を比較検討することで説明された。二つの映画とは、若松孝二監督作品「実録・連合赤軍」とコーエン兄弟監督作品「ノーカントリー」。「実録・連合赤軍」では、共産主義は無条件に善でありそれに対して私的欲望は悪である。理想の時代はたとえそれが殺人という結末へ向かったとしても、そこには善と悪という図式がかろうじて生きていた。ところが、「ノーカントリー」において展開する究極の無差別殺人では、善と悪はいずれも絶対であることにおいて、その本来の意味は剥奪されている。つまり、善と悪が簡単に反転してしまうのだ。そこに露出するのは絶対的な「現実」である。
かつて真木悠介( =見田宗介)は、「〜からの疎外」に先立って「〜への疎外」があるといった。たとえば、貨幣からの疎外が不幸なのは、人がまず貨幣へと疎外されていからである。貨幣が普遍的な欲望の対象として措定され、人々をあまねく捉えているという状態がまずあって、そのうえで人々の間に貨幣から疎外されている層(貨幣を持たない層)と貨幣からの疎外に見舞われていない層(富裕層)との区分が起こる。連合赤軍の時代では、未だ「〜への疎外」に留まっていた。ところが、「ノーカントリー」では、いわば「「〜への疎外」からさらに疎外された状態が剥き出しになっているのだ。それを大澤さんは「不可能性の時代」と呼ぼうというのである。
講演の密度は、恐ろしく濃かった。しかし、聴衆のJTの役員、社員さんたちは、非常に熱心に聴き入っていた。後半の質疑応答も大盛り上がりで、場所を移しての懇親会も大盛況。大澤さんの話をちゃんと理解してくれる人たちがいるというのは、驚きといわずしてなんと言ったらいいのだろうか。
講演では、本には書かなかったが、この区分とあらたな時代相「不可能性の時代」を、二つの映画を比較検討することで説明された。二つの映画とは、若松孝二監督作品「実録・連合赤軍」とコーエン兄弟監督作品「ノーカントリー」。「実録・連合赤軍」では、共産主義は無条件に善でありそれに対して私的欲望は悪である。理想の時代はたとえそれが殺人という結末へ向かったとしても、そこには善と悪という図式がかろうじて生きていた。ところが、「ノーカントリー」において展開する究極の無差別殺人では、善と悪はいずれも絶対であることにおいて、その本来の意味は剥奪されている。つまり、善と悪が簡単に反転してしまうのだ。そこに露出するのは絶対的な「現実」である。
かつて真木悠介( =見田宗介)は、「〜からの疎外」に先立って「〜への疎外」があるといった。たとえば、貨幣からの疎外が不幸なのは、人がまず貨幣へと疎外されていからである。貨幣が普遍的な欲望の対象として措定され、人々をあまねく捉えているという状態がまずあって、そのうえで人々の間に貨幣から疎外されている層(貨幣を持たない層)と貨幣からの疎外に見舞われていない層(富裕層)との区分が起こる。連合赤軍の時代では、未だ「〜への疎外」に留まっていた。ところが、「ノーカントリー」では、いわば「「〜への疎外」からさらに疎外された状態が剥き出しになっているのだ。それを大澤さんは「不可能性の時代」と呼ぼうというのである。
講演の密度は、恐ろしく濃かった。しかし、聴衆のJTの役員、社員さんたちは、非常に熱心に聴き入っていた。後半の質疑応答も大盛り上がりで、場所を移しての懇親会も大盛況。大澤さんの話をちゃんと理解してくれる人たちがいるというのは、驚きといわずしてなんと言ったらいいのだろうか。
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