とりあえず「写っている」モノが目の前にあるから、とりあえず手にとってみて、とりあえず見ている。いや、実際はもっと無自覚だ。ただぼくの目に写真という形式をもった画像が、次から次へと飛び込んできて、それを意識したりしなかったりしている、というのがホントのところだろう。どうやら、写真とぼくとの関わりは、常にこんなものだったのだ。写真と真剣に向き合い、凝視し、煩悶し、なんとかして目の前にあるモノに言葉を与えようとしたこともあるにはある。写真とは何か、それは技芸なのか、表現なのか、はたまた自意識なのか。真面目に考えては見るものの、大概は手痛いしっぺ返しを食らうことになる。そもそもこのアプローチにムリがあったのだ。そう、写真は、いつも目の前にあるものであり、そのように日常化したモノそのものだったのだ。ものすごく陳腐な言い方をあえてしてみようか。写真は見るものである前に、「感じる」ものだった。

作家の大竹昭子さんから、『この写真がすごい2008』(朝日出版社)を贈呈していただきました。これがめっぽう面白いのです。「誰が撮っても、どこにあっても写真は写真」を切り口に、大竹さんがこの1年間に見た写真……写真集、写真展、雑誌の投稿ページ、広告、 webなど……の中から、「すごい」「おもしろい」「見飽きない」を基準に、100点選んだもの。「なぜこの写真?」か、1点1点に、練りに練られた(に違いない)コメントがつけられている。これらの写真を眺めつつ、大竹さんの言葉を読めば、なるほど「だからこの写真!」、と、すとんっと胸に落ちてくる。なんという心憎い編集。なんか、やられたって感じです。

それにしても、ナンバー59の十文字美信の「猿の剥製」からページをめくるたびに、北村弘の「パンツの大写し」、小倉昌子のモノクロの「花札する兄弟」、畠山直哉の「大阪球場内の住宅展示場」が展開する、この台割りはなんだ。エディトリアル・デザインに恐怖を覚えたのはこの本が始めてです。

この写真がすごい2008