発行元から『大森荘蔵 -哲学の見本 再発見日本の哲学』(講談社)を贈呈していただきました。野矢茂樹さんによる大森荘蔵論です。ぼくがどれだけ大森荘蔵さんから影響をうけたか、これまで『談』に載せた拙稿をお読みいただければ十分わかっていただけると思います。何か書きあぐねている時、必ずや大森さんの考えに逃げ込むのが常でしたから。フーコー、ドゥルーズ、デリダらフランス現代思想と遭遇したのとほぼ同じ頃、大森哲学に出会いました。ぼくとってそれは、まさに衝撃ともいえる事件でした。年譜によれば、プリンストン高等学術研究所客員所員として渡米された年に大森さんは『ことだま論』を発表します。その2年後、記号論を一つの引き金に、いわゆる現代思想ブームの幕が切って落とされようとした75年、『エピステーメー』創刊号において、後に歴史的快挙と称されることになる誌上シンポジウム「記号・ことば・〈ことだま〉」が行われたのです。大森さんはその席上最後にこう言ってのけるのです。「…音声としての言葉はこっちにあり、その音声としての言葉が呼び起こす事物がこちらにある。その中間に〈意味〉なるものが存在し、意味を通じて意味越しに(ものごとが理解される。しかし、それは間違っている。)いま喋っている私の声が、じかにそれを呼び起こしている(のであって、そこに意味を持ち込むことは、全く必要のないことだ。世界は、つねに現在ただいま〈立ち現れ〉ているだけなのだ。ぼくは意味を抹殺したいのです。)」言語も記号も、哲学も思想も、脳も意識も、仮想も実在も、世界で起こっている一切を「立ちあらわれ」から考え直してみよう。ぼくの思想の旅は、大森哲学とともにリスタートしたのでした。さて、本書を送っていただい理由は、じつはそれとはまったく関係なく、中に登場するポートレイトが、no.54特集「唯[脳-身]論」での養老孟司さんとの対談「脳は脳をどう見ているか…デカルトが開いたジッパーを閉じる試み」に使用した写真の転載だからです(ちなみに撮影者は鈴木理策さん)。この対談、録画もあり、ナビゲーションバーの「『談』アーカイヴス」のno.54をクリックすると見れます。画像は非常に悪いのですが、今となっては貴重な記録映像です。
大森荘蔵 -哲学の見本 (再発見日本の哲学)

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