以前鵜飼哲さんにインタビューした時、そのタイトルを「記憶の記憶、忘却の忘却」としたのだが、これは、ニーチェの能動的忘却に定位して、人間は忘れることができなくなった動物、すなわち、忘却を忘却したのが人間にほかならない、というところからとったものだった。
この「忘却の忘却」という言葉、他でも読んだことがあるなと思いつつ、それがまったく思い出せなかった(単なる忘却)。それが、あったのだ。最近河出文庫から次々に翻訳が出ているドゥルーズの著作、ほとんど持っているけれど、結局持ち運びができるのでまた買ってしまうわけだが、その一冊『フーコー』を読んでいたら見つけたのです。
「…しかし、主体あるいは主体化としての時間は、記憶と名づけられる。(…)この記憶はそれ自体たえず忘れられて再構成されるからである。その襞はまさに、拡げられた襞と一体である。なぜなら、拡げられた襞は、襞のなかに折り畳まれていたものとして現前し続けるからである。ただ忘却(拡げられた襞)だけが、記憶のなかに(襞そのもののなかに)折り畳まれていたものを再び見出すのである。フーコーが最終的に再発見したハイデッガーがここにいる。記憶に対立するものは忘却ではなく、私たちを外にむけて解体し、死を構成する〈忘却の忘却〉である」。(「湾曲あるいは思考の外」)
ドゥルーズは、『フーコー』におさめられた幾つかの論文で、フーコーを、「襞」あるいは「折畳み」という言葉から、執拗にその外の思考として掴まえようとする。その外は、襞あるいは折畳みという条件において、思考し得る対象としての記憶/忘却の再開の必然性、回帰の不可能性となり、再びわれわれに贈与されるというのである。襞あるいは折畳みは、ドゥルーズをフーコーへ、さらにはニーチェ、ハイデッガーへまさに折り畳んでいくための重要な概念なのだ。
などと考えながら、今日、日仏学院で「アベセデール[D、E、F、G]」を見た。カメラの前のドゥルーズの、なんと饒舌なことよ。クレール・パルネのインタビューに対して語ること語ること、ほとんどしゃべりっぱなし。ある時は、パルネの質問を遮ってまでしゃべり続けるのである。哲学とはまさに語ることだといわんばかりに。
そんな動くドゥルーズをはじめて見て驚いたのだが、もっとびっくりしたのが彼の爪!! 指の先には、まるでジョニー・デップ=エドワードのような長い爪が鎮座ましましていたのである。それも10本の指全部に。しかも、人さし指の爪は、くるっと弧を描いて、丸まっていた。あっ、これって、もしかして「折畳み」のこと? そう、よく見れば、人さし指だけでなく他の何本かも内側に湾曲しているではないか。そうか、ドゥルーズという哲学者にとって「襞」「折畳み」という概念は、自らの身体のメタファだったのだ。いや、逆か、自分の身体こそ、「襞」「折畳み」のメタファだった。ということは、「器官なき身体」はドゥルーズそのものだったってことなの? そんな想像も愉しむことができる「アベセデール[D、E、F、G]」の上映はあと3回。ぜひ見ましょう。クレール・パルネが女性だということもこの映像で知った世間知らずの僕です。
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。