『談』no.51で「〈臨床医学の誕生〉を読む」という鼎談を行った。現大阪大学学長・鷲田清一さん、現同志社大学政策学部教授・柿本昭人さん、現情報科学大学院教授・小林昌廣さんにご出席いただき、フーコーのほとんどの著作が翻訳されているわが国で、この本のみその他の著作とはやや異なる読まれ方をしてきたのではないか、という問題提起から始められたディスカッションだった。その後、『パラドックスとしての身体 免疫・病・健康』(河出書房新社)に採録されたが、最近あるきっかけから再読してみて、ここで交わされた議論の射程は、現在でも十分有効性をもつことに改めて驚いたのである。とくに、柿本さんの『臨床医学の誕生』の柱である「空間、ことば、死」に関して、フーコーが生の消尽点/零度の生としての「死」という見方を持ち込んだ重要性は認めつつも、それがかえって「老い」への「まなざし」を遠ざけているという指摘は、フーコーの「生-権力」論を現代の「生-政治」の文脈で語る時のある種の困難を、先取りする批判であったように思う。フーコーの未発表の講義録が翻訳され始めている現在、「老い」について『臨床医学の誕生』で微妙に避けられていた意味を考えることは、きわめて重要だと思われるのだ。
そんなこともあって、今日、ご無沙汰していた柿本昭人さんにご連絡をとった。そして『TASC monthly』にご寄稿をお願いしたのである。今回お願いしたテーマは「脳年齢になぜかくも躍起になるのか」。鼎談の議論とは直接つながるものではないが、「老い」と「生-政治」の交錯という問題を踏まえてであることはいうまでもない。さて、どんな議論が展開されるのか、今から楽しみだ。
そんなこともあって、今日、ご無沙汰していた柿本昭人さんにご連絡をとった。そして『TASC monthly』にご寄稿をお願いしたのである。今回お願いしたテーマは「脳年齢になぜかくも躍起になるのか」。鼎談の議論とは直接つながるものではないが、「老い」と「生-政治」の交錯という問題を踏まえてであることはいうまでもない。さて、どんな議論が展開されるのか、今から楽しみだ。
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