早稲田大学法学学術院教授・吉田裕先生にインタビュー。「無意味の意味/非-知の知」のテーマは、ジョルジュ・パタイユから借用させてもらったが、バタイユ思想の核心ともいえる「無意味」について、「非-知」との関連でお話していただこうというのが狙いだ。吉田先生は、ご著書『バタイユの迷宮』で、バタイユの思考についてこんな風に整理している。「『有用性の限界』と『有罪者』から始まり、『内的体験』を導き出し、再び最初の書物に戻り、さらに、『呪われた部分』を出現させるが、それは〈謎〉をめぐる転位として実行されている。『有用性の限界』が〈謎を解〉こうとする書物だとすれば、『内的体験』は〈謎を生き〉ようとする書物だった」のではないかと言うのだ。この過剰であり残余である「呪われた部分」を、バタイユのもう一つの重要な概念「非-知」とどう連接しているのか、おそらくそのつながりを追究することによって、「無意味」というものの「意味」を逆説的にあぶり出せるのではないかと考えてみたのである。「〈呪われた部分〉は、エネルギーの使途においてあらたな富を生み出さないために、功利性を原則とする社会から、無益なものとして排除された部分、すなわち〈非生産的な消費〉を指し、バタイユにとっては〈有用性の限界〉の主題をより広範囲にかつ象徴的に表す表現」となっているとしたら、さしあたって、われわれはこの『有用性の限界』を精確に読み解くことから始めなければならない。こうして、吉田先生は、『有用性の限界』を読むことによって、〈非生産的な消費〉をも含んだ問題系に、「消費(spend)」から「消尽(consumption)」への異同を確認するのである。
戦争、供儀、笑、交感(コミュニカシオン)、そして死。バタイユ思想には繰り返し出てくるこれらの言葉は、まさに「有用性の限界」において「消尽」そのものを表す概念なのである。そして、その先にあるものは、ほとんど「無意味」といっていい「呪われた部分」なのだ。ついでに言っておくと、この「消尽」へと向かうベクトルの延長線上にあの秘密結社「アセファル」があるとみれば、これまで不可解さにおいてバタイユ思想の最大の謎であった「アセファル」の意図もおぼろげながら感知できるのである。
戦争、供儀、笑、交感(コミュニカシオン)、そして死。バタイユ思想には繰り返し出てくるこれらの言葉は、まさに「有用性の限界」において「消尽」そのものを表す概念なのである。そして、その先にあるものは、ほとんど「無意味」といっていい「呪われた部分」なのだ。ついでに言っておくと、この「消尽」へと向かうベクトルの延長線上にあの秘密結社「アセファル」があるとみれば、これまで不可解さにおいてバタイユ思想の最大の謎であった「アセファル」の意図もおぼろげながら感知できるのである。
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