「天命反転住宅」をご存知だろうか。三鷹の東八道路沿いに建つ集合住宅である。ひときわ目立つ赤、青、緑、黄の外壁。しかし、なによりもユニークなのはその形態だ。円筒、半円、球、四角で構成されたユニット(住居)が9つ集まってできているのである。その中に一歩踏み込むと、さらに仰天。平らな床は、一つもなく、というよりも、凹凸の床になっていたり、床と壁と天上の境すらない球体のスペースがある。家具はすべて天上のフックにつり下げて使う、という部屋もある。
この「天命反転住宅」の設計者、荒川修作+マドリン・ギンズの新刊『死ぬのは法律違反です 死に抗する建築 21世紀への源流』を、翻訳と解題を執筆された河本英夫さんから贈呈していただいた。前著『建築する身体』との姉妹編をなす一冊で、「天命反転住宅」を含む日本での建築プロジェクトの全容を明らかにしたもの。現段階のアラカワ・プロジェクトを知る手引書でもある。
決して分かりやすい本ではないが、ひとつだけ分かったことがある。「天命反転住宅」を前にして、たぶんほとんどの人はこう思うに違いない。「天命反転住宅」とはなんなのか、これは建築なのか、建築だとしたら、荒川さんがなぜこれをつくったのか。これは、人のすむ家なのか。家だとしたら、荒川さんは、なぜこんな不思議な家とは到底思えないような家を、わざわざ住宅としてつくったのか。じつは、この問いこそまったく的外れだったのである。アラカワ・プロジェクトとは、問いというもののもつ意味を、問題にしているのだった。「天命反転住宅」とは何か、ではない。正しくは、こう問わなければいけなかった。「天命反転住宅」を前にして、なぜ、われわれはこれは何かと問うてしまったのか。とは何か、と問うこと。このことを、問題にしていたのだ。問いとは、すでに行為である。その行為を遂行していることが、すでに問いということなのであって,その結果ではないし、ましてや前提でもない。「天命反転住宅」がすでにそこにあること、そこになにがしかの意味があるとしたら、問いという行為の過程において見出すこと。いや、この言い方も正確ではない。問うということを問いのうちに見出し、そのことが「天命反転住宅」なのだ。「天命反転住宅」とは、その意味でオートポイエーシスそのものだということが分かったのである。

死ぬのは法律違反です?死に抗する建築:21世紀への源流