少し時間がたってしまいましたが筑波大学大学院人文社会科学研究科教授・好井裕明さんから『差別論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』(平凡社新書)を贈呈していただきました。好井さんには、『談』no.39「理論のプレシオジテ」という特集でインタビューをさせていただいただきましたが、昨年『TASC monthly』への原稿執筆のお願いで20年ぶりにお会いしました。(「日常的な差別や排除を考えること」というタイトルで、『TASC monthly』no.372号に掲載)。本書は、その原稿ももとになっていると「あとがき」に記されています。
「差別。確かにそれは、差別する者の行為や意識に宿っており、差別を受ける人々のこころや日常を侵害していくものだ。これは間違いないだろう。しかし、この発想だけで差別を考えるとき、差別は「事件」となり、私たちの日常生活からは、確実に離れたものとなるだろう。そうではない、差別は常に、私たちが生きている日常で起こっていることであるし、これまで生きてきた歴史の中で、起こってきたことなのである」。「とりあえず、こう考えを変えておきたい。差別は「してはいけないこと」「あってはならないこと」ではない。差別は、「してしまうもの」であり、「あってはならないと思うが、そのためには、何をどのようにし続けたらい(ママ)のか」と自らが日常生活のなかで考え、いろいろと実践するうえでの"意味ある手がかり"であると」(本文より)。
差別とは、自分と世の中をつなぐひとつの形ではないか。私が、差別といかにして出会えるか。そこから、具体的な差別とのつきあい方を立ち上げようと提言します。そのための一歩は、まず「決めつけ」「思い込み」を崩すこと。すべてはそこから始まります。
差別原論?〈わたし〉のなかの権力とつきあう
「差別。確かにそれは、差別する者の行為や意識に宿っており、差別を受ける人々のこころや日常を侵害していくものだ。これは間違いないだろう。しかし、この発想だけで差別を考えるとき、差別は「事件」となり、私たちの日常生活からは、確実に離れたものとなるだろう。そうではない、差別は常に、私たちが生きている日常で起こっていることであるし、これまで生きてきた歴史の中で、起こってきたことなのである」。「とりあえず、こう考えを変えておきたい。差別は「してはいけないこと」「あってはならないこと」ではない。差別は、「してしまうもの」であり、「あってはならないと思うが、そのためには、何をどのようにし続けたらい(ママ)のか」と自らが日常生活のなかで考え、いろいろと実践するうえでの"意味ある手がかり"であると」(本文より)。
差別とは、自分と世の中をつなぐひとつの形ではないか。私が、差別といかにして出会えるか。そこから、具体的な差別とのつきあい方を立ち上げようと提言します。そのための一歩は、まず「決めつけ」「思い込み」を崩すこと。すべてはそこから始まります。

このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。