機能から形態へ。モルフォロジー科学を復活させる意味はどこにあるのか。ぼくの仮説はこうだ。たとえばクルマは、止まる機械という見方がある。確かに、走り出したら止まらないでは困るのであって、走ることを目的にしながらも、止まることができなければクルマとはいえない。クルマは制御の機械である。しかし、これは半分しか正しくない。クルマは当然のことながら、走る機能を特化させて機械でもあるからだ。見方が違うのである。機能から見る限り、こうした混乱は常に起こりうることである。現に走っているただ中で止まることはできないし、またその逆もない。それは、機能から見ているからだ。
形から見てみよう。走っているクルマを写真に撮るとする。写真という静止画のなかでは、クルマは止まっている。静止画像のクオリティを上げていけば、ますますそれは確かなものになるだろう。静止画のなかのクルマは、走っている=動いているのか止まっているのか、厳密には判別できない。おなじことは、たとえばサッカーのフェイント。ロナウジーニョの足下にボールがきたという場面を写真に撮った。彼は、トラップをし、次の動きを始めようとしているかのように見える。ところが、実際は、その一瞬後、彼はダイレクトで見方にパスを出したのである。切り取られた写真を見る限り、トラップをしているようにしか見えない。機能から推論するから、ロナウジーニョはフェイントの魔術師になる。
形から考える意味は、まさにここにあるのだ。形とは、この場合の静止画を意味している。形は、時間を凍結した姿として現象する。常に、そこには動こうとする方向と止まろうとする方向が共在している。同時に全く正反対のベクトルが内在しているのだ。クルマは形のなかでは、動くことと止まることが同時に起こっている。ロナウジーニョの身体は、トラップしようとすることとキックしようとすることが判別できない形で同時に起こっているのである。形から発想する意味がここにある。同時に起こることは、機能の論理構造では「矛盾」となる。形には、機能が凍結している。もとより、それはそう見えるにすぎない。じつは、あらゆる動き、方向、運動を同時に内在し、にもかかわらず止まっているのが形というものの本性なのだ。分岐しつつある今が、形というものの正体である。
モルフォロジー科学の可能性がここにある。それは、河本英夫氏の言う二重作動であり、ヴィゴツキーの言う発達の最近接領域であり、またマッテ・ブランコの言う二重論理である。ウォディントンは、それを科学の言葉で言い直した。「エピジェネティック・ランドスケープ」がそれである。