鶴岡八幡宮へ。開催されていたぼたん庭園で葉牡丹を鑑賞。お参りをして神奈川県立近代美術館鎌倉へ。本日の目的「畠山直哉展Draftsman's Pencil/鷲見和紀郎展 光の回廊」を見る。製図家の鉛筆というタイトルがつけられているように、これまでの仕事を、あたかも一人の製図家に成り代わって世界=都市をドローイングしていくというものなのか。明らかにトルボットの「自然の鉛筆」のメタファだ。じつに畠山さんらしい。
都市を描き直す。ある時は巨人の眼で、またある時は小人の眼で。マクロとミクロの視点を交錯させながら、自在に都市のディテールへ忍び込む。東武ワールドスクエアで撮影された「ニューヨーク」をはじめてちゃんと見る。アトリエでちらっと見せてもらったものより少しサイズを小さくしたように思う。この一連の作品は、現在の建築写真への強烈な批判。フォトジェニックなプロポーションばかりを探すことにご執心な建築写真家諸君、心せよ。
ライトボックスを利用して実際の透過光を見せる「光のマケット」の美しさにうっとりする。汐留の電通ビルが、浜離宮の湖面に映ってゆらいでいる、虚業へのアイロニーか?  ミルトン・キーンズの家屋群とマルセイユの超高層マンション、これらは、近代というものの病を愚直に表象している。
全体を見て思ったことは、「なんだかとても悲しい」。小さいけれど強く感じるこの寂寥感はなんだろう。以前、畠山さんの作品は幽煙の撮る写真だと称したことがあるけれど、それは幽煙ゆえの悲しさなのか。まだよくわからないが、すごく重要なことが隠されているように思う。少なくとも、この寂寥感は、畠山さんの写真を語るうえで、重要な鍵になることは間違いない、と思う。
ところで、今回の展覧会の畠山さんの図録に、同館企画課長の水沢勉さんが文章をよせているが、『談』no.64所収の佐々木正人さんとの対談「写真と生態心理学」が引用されていた。「カメラ・オブスキュラのプロジェクトは、カメラの中に暮らしているような感覚だ」という例のくだり。幽霊という言葉が思いついた発言箇所でもあって、なにやらか暗示的な気がした。
「畠山直哉展Draftsman's
Pencil/鷲見和紀郎展 光の回廊」