物理学者・橋本淳一郎さんは、ベルクソンの『創造的進化』について、こんなことを記している。
「生命は、進化こそ自然選択にまかせるものの、個体としては創造的に行動する。その秘密は何か。それは、ひとえに30億年を越える時の重みである。科学では、一億年という歳月をこともなげに扱うが、一億年を実際に経験することは、神の恩寵などを超える何かであるはずである。この長い歳月の間に、奇跡が起こったと考えてもよいであろう」。
30億年、いや1億年ですら生き続けている生命はいない。確かにそうだ。なのに、それを考えてしまえる自分が現にここにいる。これは凄いことである。われわれは、そのことをまだ十分把握しきれていない。人間の認識能力の計り知れなさに、われわれはもっと驚くべきである。
と同時に、こんなことも想像してしまった。仮に30億年生き続けていれば、奇跡としか思えないことを何度も経験するのではなかろうか、と。ヒトの一生はたかだか80年。脱皮した蝉は、夏しか知らない。蝉の生涯は約170時間。われわれらからみれば、なんと短い人生(蝉生?)だろうかと思う。しかし、かくいうわれわれだって、30億年生きる生き物から見れば、一瞬(佛教でいう刹那)だ。じっさい、縄文杉にとって屋久島の人々の出現は、その一生(杉生?)にほんのちょっぴりかかわるささいな事件程度でしかないだろう。今後奇跡としか思えないことが起こっても、なんら不思議ではない。
距離と時間が物理学者にとっては基本概念である。速度はそこから導かれる派生的量としか見なされてこなかった。生命の視点に立つと、この物理学の常識は覆される。速度が全てに優先するからだ。速度がまず基点に置かれ、距離や時間は派生的なものと見なされる。
生命論とは、この速度=運動から世界を見返すことではないか。そこに、生命を思考することの真の意味があるように思える。30億年を想像できること、われわれはそのことにもっと震撼すべきなのだ。
「生命は、進化こそ自然選択にまかせるものの、個体としては創造的に行動する。その秘密は何か。それは、ひとえに30億年を越える時の重みである。科学では、一億年という歳月をこともなげに扱うが、一億年を実際に経験することは、神の恩寵などを超える何かであるはずである。この長い歳月の間に、奇跡が起こったと考えてもよいであろう」。
30億年、いや1億年ですら生き続けている生命はいない。確かにそうだ。なのに、それを考えてしまえる自分が現にここにいる。これは凄いことである。われわれは、そのことをまだ十分把握しきれていない。人間の認識能力の計り知れなさに、われわれはもっと驚くべきである。
と同時に、こんなことも想像してしまった。仮に30億年生き続けていれば、奇跡としか思えないことを何度も経験するのではなかろうか、と。ヒトの一生はたかだか80年。脱皮した蝉は、夏しか知らない。蝉の生涯は約170時間。われわれらからみれば、なんと短い人生(蝉生?)だろうかと思う。しかし、かくいうわれわれだって、30億年生きる生き物から見れば、一瞬(佛教でいう刹那)だ。じっさい、縄文杉にとって屋久島の人々の出現は、その一生(杉生?)にほんのちょっぴりかかわるささいな事件程度でしかないだろう。今後奇跡としか思えないことが起こっても、なんら不思議ではない。
距離と時間が物理学者にとっては基本概念である。速度はそこから導かれる派生的量としか見なされてこなかった。生命の視点に立つと、この物理学の常識は覆される。速度が全てに優先するからだ。速度がまず基点に置かれ、距離や時間は派生的なものと見なされる。
生命論とは、この速度=運動から世界を見返すことではないか。そこに、生命を思考することの真の意味があるように思える。30億年を想像できること、われわれはそのことにもっと震撼すべきなのだ。
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