森美術館へ。ビデオアーティスト「ビル・ヴィオラ: はつゆめ」展を見る。今日が最終日。会場に入ると、いきなり高さ4メートルのスクリーンの裏表に炎に包まれる男と水に打たれる男の映像が飛び込んできて、度肝を抜かれる。この「The Crossing 」もそうだが、そのあと、高速度撮影により超スローモーションな映像作品が続く。
1分間の映像を81分に引き伸ばした「Anima」、正面の何かに向かって縦に並んだ人々の視線が釘付けになる「Observance」、マニエリスムの画家ポントルモの作品「聖母のエリサベツ訪問」に着想を得たという、3人の女性の45秒間の出会いを10分間に引き伸ばした「The Greeting」。水に服を着たまま男が飛び込むシーンをスローモーションの5つの独立した映像にした「Five Angels for the Millennium」、19人の男女が立つところに突然ホースから噴射された大量の水が襲う「The Raft」など。どの作品も、ぼくの日頃の問題意識、時間と身体行為の関係性と重なるものばかりで、とても興味深かった。
超スローモーションによる身体を写し取った映像は、原理的には知覚不可能な領域で発生するイベント。それを可視化するということはそれ自体パラドクスである。その反知覚的体験が引き起こす混乱と眩暈。まさに、ぼくの好むところだ。また、「Anima」や「The Greeting」は、人間の情動・感情というものが、行為とどのような仕組みで接続するか、その有り様を垣間見せてくれる作品だ。
行為とは、アナログ的に連続した行為の連続体であるとは限らない。その行為のはるか後に表出する別種の行為系に引き継がれる行為を、いわば先取りして表れる時がある。行為の予期的待機とぼくは名付けているのだが、そういう離散的に連接する行為というものがあるのだ。
ある手の動きがあるとして、それが数分後まったく無関係な別の手を使用する行為に連接する。ある口の表情が、その数十分後に表れる別の口の表情を、あたかも予期するように(先取りするように)表れるのである。そういう身体現象が存在する。これはここ何年かのぼくの仮説である。それが、ビル・ヴィオラの映像によって、実際にこの目で確認することができた。正直驚いている。ほんとうにそんなことが起こっているとは。ビル・ヴィオラの映像作品を、身体の生態学として見直すこと。自分にとって、じつにいい「はつゆめ」となった。