最初から答えのない「問い」を、問い続けること。イメージだけを頼りにして、とにもかくにも「問い」を問い続ける。答えのない「答え」を答え続ける。答えが用意されていない「問い」にとにかく答え続ける。禅問答のような対話。禅問答へと向かう自分。
「自分探し」の旅に出て、仮に自分が探せてしまったら、その時どうなるのだろうか。その瞬間、「自分探し」の自分は消滅してしまう。すなわち、自分がいるということに気付くだけだ。そして、きれいさっぱりそれ以前の自分は忘却されてしまうに違いない。探されている自分がもうどこにもいないのだから。
どんなにがんばっても逆上がりができずにいた自分。ところが、ある時なにかのはずみで逆上がりができしまった。その瞬間、もはや逆上がりができなかった自分に戻ることはできない。なぜ逆上がりができなかったのかすらわからない。逆上がりができてしまった自分になった時から、逆上がりができるようになりたいという自分は消滅するのだ。
河本英夫さんの「オートポイエシスの第四領域」は、「禅問答」と「自分探し」と「逆上がり」がじつは同じ経験を基盤にした「世界の獲得」であることを教えてくれた。われわれはいつのまにか何か別のものになっている。私がいる場所に、もう私はいない。私の不在こそ、私そのものにほかならない。ウィトゲンシュタインのいない、ウィトゲンシュタインの対話。
「自分探し」の旅に出て、仮に自分が探せてしまったら、その時どうなるのだろうか。その瞬間、「自分探し」の自分は消滅してしまう。すなわち、自分がいるということに気付くだけだ。そして、きれいさっぱりそれ以前の自分は忘却されてしまうに違いない。探されている自分がもうどこにもいないのだから。
どんなにがんばっても逆上がりができずにいた自分。ところが、ある時なにかのはずみで逆上がりができしまった。その瞬間、もはや逆上がりができなかった自分に戻ることはできない。なぜ逆上がりができなかったのかすらわからない。逆上がりができてしまった自分になった時から、逆上がりができるようになりたいという自分は消滅するのだ。
河本英夫さんの「オートポイエシスの第四領域」は、「禅問答」と「自分探し」と「逆上がり」がじつは同じ経験を基盤にした「世界の獲得」であることを教えてくれた。われわれはいつのまにか何か別のものになっている。私がいる場所に、もう私はいない。私の不在こそ、私そのものにほかならない。ウィトゲンシュタインのいない、ウィトゲンシュタインの対話。
具体的に体を動かして制作し続けているといつか、出来なかったことが出来ている。よくわかります。
不在をひきうけることで獲得される世界。なんとも写真家に似つかわしい言葉であることか、と勝手に感じました。