銀座シネパトスでソクーロフ監督の『太陽』を見た。毛利嘉孝さんが国内での上映はありえないのではないかと言われたあの天皇ヒロヒトの映画である。なんと毎回満員御礼。こういう映画が満員になること自体うれしいことだ。年配の人より若い人、とくにカップルの姿が目立つ。映画は退避壕で一人洋食を食べるシーンから始まる。現人神であるヒロヒトが、それも連合国の料理をナイフとフォークをつかって食すシーン。そのあと向かった御前会議では周囲を唖然とさせる発言をする。皇居の中にあった生物学研究所。戦争のさなか、それも敗戦色濃い終戦間際に研究所で優雅にヘイケガニを愛でていたヒロヒト。この映画はどこまでが真実でどこからがフィクションなのか、そんなことはどうでもいい。ぼくは、ヒロヒトについて、じつは何も知らなかったということをこの映画を見てあらためて思い知らされたのである。天皇ヒロヒトは神様ではない。しかし、ヒロヒトはなぜ神様でなくなったのか。そもそもヒロヒトとはどういう人物であったのか。『太陽』はヒロヒトを真正面から扱ったおそらく世界でただ一つの映画である。
天皇家について、あるいは皇居の内部がどうなっているかなんてことすら知らなかった。でも、ぼくだけではないかもしれない。日本人の多くは、真実のヒロヒトについて、ぼくと同程度の理解しかないのではないか。戦後になって人間宣言をしても、天皇および皇室はずっとタブーであり続けた。いつしかわれわれも深く知ろうとは思わなくなった。ここに描かれているヒロヒトの言動、しぐさ、立ち居振る舞い、すべてが始めて見ることばかりなのだ。ヒロヒトがマッカーサーと会見する時に英語を使用したこと。ヒロヒトは英語ばかりでなく、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、中国語を話すということも知らなかった。チャップリンに似ていると撮影にきたアメリカ軍の兵隊たちはヒロヒトをからかう。しかし、ヒロヒトはかえっておどけてみせる。ヒロヒトってこんな人だったの?! ソクーロフは、なんともいえない魅力ある人物としてヒロヒトを描いてみせた。イッセー尾形演じるヒロヒトはどこまでも無邪気な人物だ。ヒロヒトが午睡中に見る東京大空襲を思わせる悪夢。飛来するB29がいつのもにか魚になり、卵を産み落として行くシーン。CGを駆使したこの幻想的なシーンは印象に残る。空中か水中か判然としない空間を、からだをくねらせて泳ぐ魚=B29。そして無数の落下する卵=爆弾。機械と生き物が融合しあった戦争というイメージは、宮崎アニメにも通低するものだ。最後に桃井かおり演じる皇后が、ヒロヒト同様に「あっそう」を連発し、人間宣言を録音した技師が、その後自決したという事実を聞かされて唖然とするヒロヒトの手を握り部屋を後にするラストシーン。ソクーロフは、このシーンでヒロヒトという人物の核心を突いたように思う。ソクーロフはヒロヒトに好意的だ。ヒロヒトは最初から人間であることを十分理解しながら神として生きてきた。その矛盾を自覚的に正そうとはせずに、絶対矛盾としてそのまま内面化する。内面化して放擲するのだ。するとかならずそこには他者がやってくる。退避壕では侍従長が、研究所では研究所長が、アメリカ大使館ではマッカーサーが、ラストシーンでは皇后が、そして終止陰から見守る老僕。彼/彼女らが他者である。他者はその矛盾を矛盾のまま素直に受け入れようとする。そこに軋轢も亀裂もない。無垢なるものとしてのヒロヒト像。彼を受け入れる他者たち。ここにあるのはただの空虚なる関係だ。何もないからこそ、その関係はユートピアを生む。ロラン・バルトが東京のど真ん中に大いなる空虚を発見したように、ソクーロフはその場所に住うヒロヒトの内面に同等の空虚を見出したのである。しかし、ソクーロフにとってはその空虚こそ敬愛すべきものであり、無垢なるもの(神)としての人間そのものなのだ。戦後一貫して空間としての空虚は埋められることなく、内面としての空虚はボコボコと周囲に増殖し続けている。ヒロヒトと日本人は結局同じ穴のムジナ。ソクーロフは、ヒロヒトを通して日本人の内面を炙りだしたのである。










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