鶯谷の「東京キネマ倶楽部」へ。どうやらここはかつてグランドキャバレーだったビルのようだ。三層吹き抜け、ステージの高さも高い。サイドに階段があって一段高くなった小さなサブステージが設えてある。もちろん天井にはミラーボール。レトロな感じがぼく好み。
20時を少し回ったところでROVOのメンバーと今回の来日メンバー、フェルナンド・カブサッキ、サンチャゴ・ヴァスケス、アレハンドロ・フラノフの3人が現れる。演奏が静かに始まる。じつは、始まってすぐ後悔した。イスの前が通路のようになっていて、演奏が始まっても観客が行き来している。となりのスモーキングスペースでは、紫煙をくゆらせながら大きな声でおしゃべりしている一群がいるし。まったく緊張感がない。なんか演奏がBGMみたいに聞こえる。いい加減我慢も限界にきて、席をたち前方のフロアで見ることにした。カブサッキらは、日本ではアルゼンチン音響派と呼ばれているミュージシャンたち。ジャンルにとらわれない姿勢と即興に重心を置いた演奏スタイルで、あらたなムープメントをつくり出している。ロック、ジャズ、エレクトロニカなどを解体・融合し、みずからのアルゴリズムで編成し直す彼らのアプローチは、音楽界のデコン派と呼んでもいいだろう。そんな彼らと、すでに東京とアルゼンチンで二度のセッションを行いCDをつくってきたROVOとのフリー・セッション。面白くならないわけがない。
20時を少し回ったところでROVOのメンバーと今回の来日メンバー、フェルナンド・カブサッキ、サンチャゴ・ヴァスケス、アレハンドロ・フラノフの3人が現れる。演奏が静かに始まる。じつは、始まってすぐ後悔した。イスの前が通路のようになっていて、演奏が始まっても観客が行き来している。となりのスモーキングスペースでは、紫煙をくゆらせながら大きな声でおしゃべりしている一群がいるし。まったく緊張感がない。なんか演奏がBGMみたいに聞こえる。いい加減我慢も限界にきて、席をたち前方のフロアで見ることにした。カブサッキらは、日本ではアルゼンチン音響派と呼ばれているミュージシャンたち。ジャンルにとらわれない姿勢と即興に重心を置いた演奏スタイルで、あらたなムープメントをつくり出している。ロック、ジャズ、エレクトロニカなどを解体・融合し、みずからのアルゴリズムで編成し直す彼らのアプローチは、音楽界のデコン派と呼んでもいいだろう。そんな彼らと、すでに東京とアルゼンチンで二度のセッションを行いCDをつくってきたROVOとのフリー・セッション。面白くならないわけがない。
演奏は次第に盛り上がりをみせ、独特な音像を描いていく。フラノフのシタールや笛、ヴァスケスの創作パーカッション(なんとドラムセットにはヤシの木も立っている!)、ロバート・フィリップゆずりのカブサッキのギタープレイ。迎え撃つは、勝井裕二のバイオリン、山本精一のギター、芳垣安洋、岡部洋一のツイン・パーカッション、益子樹のシンセ、原田仁のベースというおなじみROVOのメンバー。リズムを変え、テーマを変え、音圧を変えながら、モザイクのような音像をつくり出す。誰か一人がフロントになるということがない。流れの中で、ある楽器が際立つことがあってもそれは一瞬で、すぐ別の楽器にリレーされていく。ある時顕微鏡を覗く機会があって、倍率を変化させながらずっとレンズ越しに対象物をみ続けていたことがあった。一つのものを見ているのに、次々に新しい視覚世界が現れてきて驚いたことがあったが、今ステージの上で起こっていることは、ちょうどそんな感じだった。全体はみごとにアンサンブルをなしているが、それぞれの個性的な音が一瞬前景化するのである。しかし、次の場面では、また別の音が、楽器が前面に現れる。その繰り返し。しかもグルーヴがあるから、それが連続性をもつように感じられるのだ。インプロビゼーションの緊張感を失うことなく、それらをグルーヴで包み込み、今ここにしかないサウンドスケープを形成する。
休憩を挟さんで二部構成。後半も同じような展開で進んでいった。サウンドとは、連続量だ。カオス的遍歴(津田一郎)といってもいい。つくっては壊し、つくっては壊し…、と音が途絶えることなく継続していく。そして、退路は断たれているから、つくり替えていく他ないし、現にそうやって音はつくり変えられている。微弱な音から始まって、微弱な音で終わる。しかし、始めにつくり上げられたサウンドスケープは跡形もない。まったく別の音像にとって変わってしまった。「音」が一個生成したのである。
情動回路についてずっと考えていたことが、このライブで一つわかった。ヒントは、グルーヴだ。音楽におけるグルーヴは、一種情動をコントロールする要素として機能しているということだ。質の強弱や差異は、グルーヴがあれば連続量としてとらえられるのである。これは、もっと考えてみる必要がありそうだ。
音響派の音響とは、そこに生成する全ての音をさす。菊池成孔によれば、サイン波の対極にあるものこそ音響だという。とすれば、アルゼンチン音響派のつくり出した音は、今ここにあるすべての音だということになる。そしてそれはいつとはなしに始まり、今も生成し続ける過程にある。濁りのない情動などないし、それは連続量としてしか覚知できないものなのだ。
休憩を挟さんで二部構成。後半も同じような展開で進んでいった。サウンドとは、連続量だ。カオス的遍歴(津田一郎)といってもいい。つくっては壊し、つくっては壊し…、と音が途絶えることなく継続していく。そして、退路は断たれているから、つくり替えていく他ないし、現にそうやって音はつくり変えられている。微弱な音から始まって、微弱な音で終わる。しかし、始めにつくり上げられたサウンドスケープは跡形もない。まったく別の音像にとって変わってしまった。「音」が一個生成したのである。
情動回路についてずっと考えていたことが、このライブで一つわかった。ヒントは、グルーヴだ。音楽におけるグルーヴは、一種情動をコントロールする要素として機能しているということだ。質の強弱や差異は、グルーヴがあれば連続量としてとらえられるのである。これは、もっと考えてみる必要がありそうだ。
音響派の音響とは、そこに生成する全ての音をさす。菊池成孔によれば、サイン波の対極にあるものこそ音響だという。とすれば、アルゼンチン音響派のつくり出した音は、今ここにあるすべての音だということになる。そしてそれはいつとはなしに始まり、今も生成し続ける過程にある。濁りのない情動などないし、それは連続量としてしか覚知できないものなのだ。
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