自転車で仙川の「東京アートミュージアム」へ。「二つの山」展 の畠山直哉さんの展覧会の初日。オープニングを記念して畠山直哉さんと翻訳家の管啓次郎さんのアーティスト・トークがあるというので、田井中麻都佳さんと会場で待ち合わせをする。いつも畠山さんの展覧会では不意打ちに似た衝撃を受ける。テーマがなんでありその対象にどうアプローチしたか、あらかじめご本人からうかがっていても、いざ会場で作品と対面すると、決まってガツーンとくる。これはいったいなんなんだ、これまで見たことのないもの? 見たことのない風景? 確かにそういうものもある。しかし、日常見なれたものや風景であっても、なんなんだこれは! と頭をぶん殴られたような衝撃をうけるのである。しかし、それでもマットに沈むようなことはなかったのに、今回の山の写真は違った。軽く100回ぐらい殴られた感じ。ほとんどKO負け状態。アルプスの写真である。スイス・ユングフラウ地方にロケーションして撮り下ろされた山岳写真である。写っているのは山。本物は見ていなくても、絵はがきや印刷物、TVなどで一度は目にしたことのあるありふれたアルプスの風景。しかし、そこに現出していたものは、強度とピュイサンスを孕んだ驚くべき写像であった。
作品に人間が写っている、単なるネーチャーフォト、空撮のようなアングル、今まで畠山さんの写真に馴染んできた者には、それも驚きだったにちがいない(そんな写真を撮るような作家だとは思ってもいないから)。ただ、そんなことはどうでもいい。なにより不意打ちをくらったのは、写真そのものにあった。畠山さんの写真に肝心の畠山さんがいない。畠山直哉という作家が作品から消滅してしまったのである。痕跡すらない。写真家が写真の中にいない写真を撮る写真家によって撮影されたアルプスの風景写真。そんなことがどうして可能なのだろうか。今回の写真展には、カメラオブスキュラのドローイングが数点展示されていた。いつもよりさらに数段手が込んでいる。自作の大きな暗箱(カメラオブスキュラ)に入り込んでレンズを通して入ってきた外の光を模写するというドローイング。今回は、それを透明なフィルムに描いた後に、暗室でネガに起こしてプリントにしたという。つまりコンタクトになっていて、ドローイングとはいえ一個の写真なのだ。アーティスト・トークで、このドローイングの過程を畠山さんが話すのを聞きながら、一つ決定的なことがわかった。畠山さんは、今回の作品で本当に自分を消してしまったのだ。ヌーヴォロマンが言ったような作家の死ならそれはつまらない技法の問題になってしまう。そうではなく、創作者というものを創作物そのものから排除してしまったのだ。では、何が作品をつくっているのか。写真機である。畠山さんは、ついに一個の写真機となって対象物と向き合った。つまり、写真機という機械となって自然、風景、世界に対峙しているのである。機械への生成変化。ドゥルーズ=ガタリ的欲望する諸機械。しかも、その写真機は、時に心的風景をすら表象してしまう。機械が見た風景。機械の感じる寂寥感。そんなことが、本当に起こってしまったのである。「BLAST」にはまだ遠隔操作することによってシャッターを切る写真家がいた。ところが、今度の写真は、リモートコントロールする主体などどこにも存在しない。あえていえば、写真装置が自らでシャッターを切る写真。畠山さんは、ついに本当に暗箱になってしまったのである。驚くべき写真作品の誕生だ。突然、鋼の錬金術師のアルフォンス・エルリックが流した涙のことを思い出した。機械=無機物にだって感情はあるのだ。