国立劇場へ。ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団の公演「カフェ・ミューラー」と「春の祭典」を観る。20年前に初来日した時の演目と同じ。じつは、この公演を僕は見ている。「春の祭典」は、圧倒的なダンスだった。床にまかれた土の上を走り回る男女の肉体。大地の礼賛と太陽神イアリオの怒り、そのイアリオに捧げられる少女、そして生け贄の死。生命が一斉に芽を出す季節は、死と隣り合わせでもあるのだ。オルギアを介して両者は凄まじい速度で互いに互いを反復し合う。今回、改めて見て思ったのは、溢れ出る肉の饗宴としてのダンスは、まったく変わっていないこと。生命の匂いにむせ返るようだ。とくに女性ダンサーたちが、すさまじい。踊れば踊るだけ、内面が露になる。むき出しのいのち。またしてもゾーエーだ。ということは男性たちのそれはビオス? もう一つの演目「カフェ・ミューラー」は、ピナ・バウシュが自ら踊る数少ない作品として知られている。今回も、終止舞台に設えられたカフェのテーブル、イス、回転ドア、ガラスの壁の間をゆるゆると彷徨していた。あたかもそれは亡者のよう。ピナ・バウシュによれば、「カフェ・ミューラー」は自伝的意味合いの強い作品なのだそうで、彼女が演じているのは少女時代の自分自身だという。この作品もまた、人間の内面に潜む孤独感や寂寥感、性的な欲望、非対称性としての他者の存在がテーマになっているように思えた。首から下のげっそりと痩せたピナ・バウシュの肉体は何を訴えようとしているのか。少女時代の記憶、不安と決して癒されることのない傷痕…。すでに65歳。その年齢はむしろダンスに円熟味をあたえている。しかし、肉体が枯れはじめているのは確かだ。熟成と枯渇というアンビバレンツな共在。それは、踊り手がわれわれに差し出す肉(chair=シェール)の贈り物だ。贈与、デリダの言う不可能性としての贈与。われわれはピナ・バウシュの肉の前でたじろがざるを得ない。ダンスの源流を見たような気がした。