神山貞次郎展「舞踏光景 1973〜」を見る。笠井叡、大野一雄、山田せつ子、上杉貢代、大森正秀らの舞踏写真展。神山さんの舞踏家への視線には、常に批評性が内在している。「舞踏とは何か」と絶えず問い続ける写像群。そこに現象するものは、行為する肉体とも舞踊するからだとも異なる、舞踏そのものとしての身体だ。神山さんの視線がすでに舞踏をしている。舞踏を撮る写真家はたくさんいるけれど、写真が舞踏になってしまっている、そういう写像をわれわれの前に突き出してくる写真家は神山さんをおいて他にない、と常々僕は思っていた。笠井叡の舞踏写真の1枚でも見れば僕の言いたいことはわかるだろう。大野一雄の身体は撮れるだろう。土方巽の身体を撮ることも不可能ではない。しかし、笠井叡の身体は撮れないのだ。それは原理的に不可能である。なぜならば、そこにある身体は舞踏そのものだからだ。何が言いたいのか。舞踏とは決して表現ではないということだ。身体を仮に何千枚、何万枚撮影しても舞踏という本質には届かない。表現を視るという接近方法を断念しなくてはならない。舞踏を撮るには舞踏写真という領野を拓く以外にない。大野一雄も土方巽もそれがあまりにも異質なものだから撮れば舞踏らしくなってしまう。しかし、笠井叡のそれは、まともに撮れば単なるダンスになってしまうだろう。笠井叡は、徹頭徹尾舞踏しかしていない。なのにダンスにみえてしまうのはなぜか。その写真が表現しか掴まえていないからである。神山貞次郎の写真には、笠井叡の舞踏がしっかり撮影されている。彼の撮っている行為そのものが舞踏だからである。舞踏を撮れる写真家はすでに一人の舞踏家である。
「土日画廊」(中野区上高田3-15-2/03-5343-1842)西武新宿線新井薬師前下車12日まで。
「土日画廊」(中野区上高田3-15-2/03-5343-1842)西武新宿線新井薬師前下車12日まで。
神山さんて、舞踏写真家だったんだよな。