「ゴドーを待ちながら」を観劇する。我が家から徒歩5分のところに劇団グスタフのアトリアがある。新人公演として「ゴドー」をやるというのでいこうかなと思っていたら、近隣にお住まいの方から、招待券があまっているからと下さった。劇団グスタフは、数年前、工場跡をそのままアトリエに転用し、地域に根を下ろして活動しているユニークな劇団。ストリンドベリの作品をスウェーデン大使館でやったり、年間5、6回のペースで公演をやっている。さて、「ゴドー」はいわずと知れたサミュエル・ベケットの作品。初めて観たのは、20年以上前になる。確か紀伊國屋ホールだったと思う。一本の木とベンチがあるだけのきわめてシンプルな舞台に、最小限の動きしかないミニマルな演出だったという印象は残っているものの、誰が出ていたのか全く覚えていない。ひどいもんだ。今回の「ゴドー」は、舞台構成、演出ともに原作に忠実のように見えた。ウラジミールとエストラゴンの、饒舌にして寡黙、反芻し口ごもるという、ベケット劇独特の相反する台詞回しは原作の味をよく表現していたように思えたが、ポッツォとラッキー、少年とその兄弟の人物設定には不満も残った。やはり新人公演故の力不足か。舞台中央に堂々とそびえ立つ大木は、ちょっといただけない。また、音の使い方にも疑問が残る。ベケットはモダニズムを徹底的化させることによって、ポストモダニズムへの回路を切開いた作家である。しかも、「ゴドー」はべケットが本業である小説を書く合間に気晴らしで書いた作品として知られている。演出に凝りすぎると、そのミニマルなインテンションが薄れ、わざとらしい言葉遊びに見えてしまう。気晴らしとしての「ぬけ」こそ、「ゴドー」の最大の魅力と思っている僕には、それが少々不満だった。とはいえ、「ゴドー」をあえて新人公演でやるという気概には拍手をおくりたい。
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