『談』no.75「バイオ・パワー…利用される生きる〈力〉」が発行になります。28日書店発売
表紙 牛腸茂雄
フーコーは『知への意志』において、「法律的権利によってではなくテクノロジーによって、法によってではなくノルム化によって、刑罰によってではなく統制によって作動し、国家とその機関を越えてしまうレベルと形態において行使されるような権力の新しい仕組み」が二つの形態において発展してきたといいます。一つは、規律=訓練的な権力であり、もう一つは、「人口(集団)の生-政治(学)」です。これは個々人の身体にではなく、集合体としての人間を対象として、出生率や死亡率、寿命といった主として人口政策や社会政策に関わるものですが、この二つは、「生-権力」として総括されているというのです。生-権力は、生かすべき者とそうでない者を選別し、誰の生を保護し発展させていくことが、社会全体の発展につながるかにたえず配慮し、個人の身体の規律=訓練とともに、社会全体、あるいは「種」のレベルでの「正常さ」を保ちながら発展・繁栄を確保して、「退廃」を防止することを目標としています。
「もはや主権の場で死を作動させることが問題なのではなくて、生きている者を価値と有用性の領域に配分することが問題となる」。そして、人々の建設・救貧・公共秩序への働きかけを通した生活(生)の富の拡大、各人の「よき生」を目的とするテクノロジーとして発展を見せたというのです。
「いのちのディレンマ」「ゾーエーの生命論」で、断片的に触れてきた「生-政治」「生-権力」について、人間から生命(バイオ)の「力」を引き出し活かし続ける権力装置としての国家に留意し、「健康言説」の成立、労働/生命の共生、暴力装置としての国家という視点からあらためて批判的検討を行います。

contents
「生-権力」はどのように現れるか 杉田敦
再生産される「生命空間」     藤原辰史
〈対談〉暴力とセキュリティ  仲正昌樹×萱野稔人
[特別企画]写真集『ある日、』で注目される気鋭の写真家・菱田雄介の待望の新作「チェチェン武装勢力によって占拠されたベスラン中等学校」を掲載