ホテルニューオータニで山崎正和先生のインタビュー。部屋につくなりさっそくマルボロに火をつける。さすが自他共に認める愛煙家、どのような状況におかれても自らに課した儀礼をおこたることはない。煙草呑みを名乗るのであれば、こうでなくっちゃ。テーマは「酒、うちなる祝祭…酩酊の現象学」。あらかじめ送ってあいた質問項目について、先生監修の著書『酒の文明学』の論文「酔いの現象学」と重複するところが多いので(そりゃそうです、このテキストを参考にしたのですから)、それをもとにしながらもう少し新しいことを盛り込みましょう、とインタビューは静かに始まった。生産と消費という対立軸をたてて、消費の徹底としての酒という視点から、「酔い」とは意識が無意識をコントロールする「二つの人格」による愉しみであり、人類にのみ許された高度な文化である、という山崎先生独自の酒論が展開された。
その後考えをさらに深められて、酩酊の記憶、酩酊の感情という特異な心的状態をつくり出すのが酒ではないか、という考えが披露された。「酒には"強い"という言葉があるでしょう、強い人とは、あたかも猛犬を飼いならすように酒を愉しむ人のことです」。要するに呑まれないで呑むことそれ自体を愉しむことが、酒というものの愉しみだというわけだ。酒は山崎さんに言わせるとスポーツと同じものなのだという。なるほど。僕は、咄嗟に中井正一の「スポーツ気分の構造」のことを思い出した。消費=蕩尽=酩酊は、スポーツする身体のまさに裏返された倫理性なのではないか。両者に共通するものはプラトーの持続だ。そのメチエをジムで鍛えあげるのがアスリートであり、バーで磨き上げるのが酔っ払いである、なんちゃって。ほぼ約束通り1時間で終了。TASCの新留さんとかけ足で東京駅へ。この項、翌日に続く。
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