銀座のバウス・オブ・シセイドウで開催されている「生の芸術 アール・ブリュット」展を見る。とにかく、ヘンリー・ダーガーを見たいと思っていたのだが、会場にはいってびっくりした。その59作家、80数点ある作品のどれもが恐ろしいほど緊張感をもって迫ってきたからだ。ダーガーは確かにすごい。しかし、ほかの作家の作品も、ダーガーとおとらぬほど、あるいはそれを凌ぐような強度で描かれている。執拗に細部へ細部へと向かって書き込まれていく線の集団、想念が装飾化し膨張し続けるもの、人なのか都市なのか文字なのか判別不能な形態を反復し続けるもの、空隙をそのまま差し出したような色の構成物…。そこにあるのは、まさに人間の内的衝動が”生”のまま噴出して投射されたような形象である。偏執狂的に、微細な線が繰り返し繰り返し現れる装飾的なタプローをとくに好む僕にとって、アドルフ・ヴェルフリ、マッジ・ギルの作品に釘付けになった。紋様とはデザインである前に、作家の感情や欲動といった内的世界の露出なのだ。意識ではなく無意識、いや無意識ですら構造物であるとしたら、そのさらに深部にある無意識ならざる無意識、情動のようなものが、ただあるがままにタブローへと生成する。純粋さとはなんだろうか、生とは表現にとって何を意味するのだろうか。まったく別の視点から、「生-権力」について考える機会が与えられたような気がした。
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