シアターコクーンへ。「浜田真理子&大友良英オーケストラlive〜ほうき星の下で〜」を見る。ひさしぶりに感動してしまった。そもそも歌もののライブにはほとんどいかないのに。こうして座席にすわってじっくりと聴きながら、不覚にも涙を流してしまった。
本日のソングリスト 第一部1.「純愛」2.「カナリア」3.「あしくび」4.「かなしみ」5.「ハバネラ〈恋は野の鳥〉」(訳詞:堀内敬三、作曲:Bizet)第二部1.「一五夜」2.「月の砂漠」3.「のこされし者のうた」4.「爪紅のワルツ」5.「My heart belongs to daddy」6.「Fruitless love」7.「原子の愛」8.「見上げてごらん夜の星を」9.「かもめ」10.「Over the rainbow」アンコール1.「Love song」2.「また逢いましょう」(作詞作曲:曽我部恵一)3.「純愛」
大友さんのメンバーは、津上研太、川口義之、青木タイセイ、栗原正己、高良久美子、Sachiko M、水谷浩、芳垣安洋。
今回は、c「見上げてごらん夜の星を」や「ハバネラ」「Over the rainbow」といったカバー曲が飛び出す。始めてのライブなのに、その程度ではサプライズにはならない。「ふんふん、そんなもんだろう」という感じ。けれども、「月の砂漠」には驚いた。途中でアラビックなこぶしのきいたスキャットが入るが、これがよかった。好みで言えば、「かもめ」かな。浜田さんが歌うと、みんな本歌より、よく聴こえてしまう。ほんとうに不思議なのだけれど、歌っている時は、もうこのひとしかいないというような圧倒的な存在感。なのに、これは歌なんだよ、フィクションなんだよ、と「ひく」浜田さんが次にあらわれる。「かもめ」を歌った時がそうだった。浅川マキさんのなげやりなようで情緒たっぷりな歌い方とは対照的に、恋慕や哀惜がむき出しになりつつも突き放して笑い飛ばす、そんな情動としての歌い方だった。突然、ドゥルーズの言う潜在性という概念が浮かんだ。そういえば、ベーコン論で展開されたあの情動。浜田さんの歌はどれもとても静かだ。しかし、それは激しく厳しいインタンシーフな静寂さである。
今日考えたこと。音楽と視覚表現を分つもの。それは他者性があるかないかだ。音楽は、常に1対1で向かい合うほかないもので、そこには他者が控えている。聴覚だけではなくそれこそ触覚や嗅覚やもちろん視覚も使って、眼前にいる一人のアーティストと対峙する。時には、抱き合い、お互いをまさぐり合うようにしてその音、その声と戯れる。この姿は何かに似ている。そうだ、セックスだ。音楽を聴くという行為は、あたかもセックスをするような、全身体的な行為なのだ。演奏者が何人いようが関係ない。聴衆は、その演奏家とセックスをしているのである。だから、どんなにいい演奏をする人であっても、好きで好きでしょうがないアーティストであっても、他の人間に勧めたいとは思わないのだ。むしろ、二人の関係を知られたくないとすら思う。誰にも伝えずに、そっと自分の中にしまい込む。音楽そのものが親密空間であり、そこにいるのは自分と決定的な「そのひと」だけ。絶対のそして唯一の他者とのインティメイトな持続性。それが、音楽というものの最大の魅力であり、不思議である。浜田さんの声=うたを聴きながらそんなことを考えた。いずれにしても、じつにいいライブだった。
大友さんのメンバーは、津上研太、川口義之、青木タイセイ、栗原正己、高良久美子、Sachiko M、水谷浩、芳垣安洋。
今回は、c「見上げてごらん夜の星を」や「ハバネラ」「Over the rainbow」といったカバー曲が飛び出す。始めてのライブなのに、その程度ではサプライズにはならない。「ふんふん、そんなもんだろう」という感じ。けれども、「月の砂漠」には驚いた。途中でアラビックなこぶしのきいたスキャットが入るが、これがよかった。好みで言えば、「かもめ」かな。浜田さんが歌うと、みんな本歌より、よく聴こえてしまう。ほんとうに不思議なのだけれど、歌っている時は、もうこのひとしかいないというような圧倒的な存在感。なのに、これは歌なんだよ、フィクションなんだよ、と「ひく」浜田さんが次にあらわれる。「かもめ」を歌った時がそうだった。浅川マキさんのなげやりなようで情緒たっぷりな歌い方とは対照的に、恋慕や哀惜がむき出しになりつつも突き放して笑い飛ばす、そんな情動としての歌い方だった。突然、ドゥルーズの言う潜在性という概念が浮かんだ。そういえば、ベーコン論で展開されたあの情動。浜田さんの歌はどれもとても静かだ。しかし、それは激しく厳しいインタンシーフな静寂さである。
今日考えたこと。音楽と視覚表現を分つもの。それは他者性があるかないかだ。音楽は、常に1対1で向かい合うほかないもので、そこには他者が控えている。聴覚だけではなくそれこそ触覚や嗅覚やもちろん視覚も使って、眼前にいる一人のアーティストと対峙する。時には、抱き合い、お互いをまさぐり合うようにしてその音、その声と戯れる。この姿は何かに似ている。そうだ、セックスだ。音楽を聴くという行為は、あたかもセックスをするような、全身体的な行為なのだ。演奏者が何人いようが関係ない。聴衆は、その演奏家とセックスをしているのである。だから、どんなにいい演奏をする人であっても、好きで好きでしょうがないアーティストであっても、他の人間に勧めたいとは思わないのだ。むしろ、二人の関係を知られたくないとすら思う。誰にも伝えずに、そっと自分の中にしまい込む。音楽そのものが親密空間であり、そこにいるのは自分と決定的な「そのひと」だけ。絶対のそして唯一の他者とのインティメイトな持続性。それが、音楽というものの最大の魅力であり、不思議である。浜田さんの声=うたを聴きながらそんなことを考えた。いずれにしても、じつにいいライブだった。
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。