「個人と対立して暴力を独占しようとする法のインタレストは、法の目的をまもろうとする意図からではなく、むしろ、法そのものをまもろうとする意図から説明されるのだ。法の手中にはない暴力は、それが追求するかもしれぬ目的によってではなく、それが法の枠外に存在すること自体によって、いつでも法をおびやかす。(…)「大」犯罪者のすがたは、かれのもつ目的が反感をひきおこすばあいでも、しばしば民衆のひそかな賛歎をよんできたが、そういうことが可能なのは、かれの行為があったからではなくて、ひとえに、行為が暴力の存在を証拠だてたからである。」(ベンヤミン「暴力批判論」13p)。これをデリダは、次のように読解する。「こうして法権利は、まさしく自分の利益・関心(インタレスト)のために暴力を独占する。(…)この独占がめざすのは、正義にかないかつ合法的なさまざまな特定の目的を保護することではなくて、法権利そのものを保護することである」。この二人の発言から、萱野稔人氏はこう警告するのだ。「国家が他の暴力を取り締まるからといって、それを正義の実現だとかんがえてしまう素朴な発想はやめになくてはならない」と。「国家がまずあるのではなく、暴力の行使が国家に先行する」。デリダの一周忌の言葉にかえて。
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