禁煙ファシズムについての余談。ファシズムという言葉から、ぼくたちはすぐにナチズムを、全体主義を連想してしまいがちだ。しかし、両者は明確に区別されなければならない。ドゥルーズ=ガタリは、次のように言う。「ファシズムは、モル状の切片とも、切片の中央集権化とも混同されえない分子状の体制をともなうものだと考えていい。全体主義国家の概念は、確かにファシズムの創意にはちがいない。しかしファシズムを、ファシズム自身が創造した概念によって規定する必要はないのだ。スターリン主義タイプ、あるいは軍部独裁タイプの、ファシズムなき全体主義国家の概念がいくつも存在するからである。全体主義国家の概念が有効なのは、マクロ政治学の尺度に照らして、硬質な切片性と、統合および中央集権化の特殊な様態を考えるときにかぎられる。ところが、ファシズムは、繁茂し、点から点へと跳び移り、相互に作用し合う分子状の焦点と不可分の関係にある。(…)ファシズムを危険なものに変えるのは、それが群衆の運動であるという意味で、ミクロ政治学的な、あるいは分子的な力能だ。つまり、全体主義の有機体ではなく、むしろ癌におかされた身体である」。(『ミル・プラトー』p247) 禁煙ファシズムは、決して全体主義ではない。あれは、ドゥルーズ=ガタリの言葉を借りれば、端的に癌に侵された身体なのだ。たばこをがん(病い)の元凶とまくしたてる禁煙運動自体がじつはがん(病い)そのものだとしたら……。もちろん、これは比喩である。比喩であるにはちがいないのだけれど、何かものすごいリアリティを感じてしまうのは、はたしてぼくだけだろうか。