「しかし、とハイデッガーは、これにさらにつけくわえる。はじまりの哲学者にとって、ピュシスと同じほどに重要な、もうひとつの根本語があったことを忘れてはならない。それは〈ゾーエー〉ということばだ。ゾーエーはふつう〈生命〉と訳されている。しかし、これはまちがった翻訳で、ビーエーはもともと、ピュシスと同じように、〈立ち現れること〉という意味をもち、生そのものが、この立ち現れのうちに思考されていたのだ」。「ピュシスやゾーエーは、たんなる思索のことばではなく、その世界では、哲学者ならぬ多くの人々が、哲学とはちがった表現形式をとおして、まさにピュシスやゾーエーの現実性を、なまなましいかたちで体験していたのである。それはほかならぬ、ディオニソスの祭儀のことだ」。「ディオニソスの祭儀は、個体であるビオスの生命の内部から、荒々しいかたちでゾーエーが立ち現れてくる。その瞬間をとらえようとする表現の形だったのだ。そのためには、あらゆる個体の中でもっとも美しい個体が選ばれ、その身体をできるだけ暴力的に破壊することによって、その中からゾーエーが露呈される、その瞬間をとらえ、祝うために、人々はこの祭儀をおこなった」。
これは、中沢新一さんの『はじまりのレーニン』(1994年)からの引用。たまたま書庫から引っぱりだしてきたら、こんなことが記されてあった。10年も前ではないか。こんな形でゾーエーという概念は僕の前にすでに登場していたのだった。しかもこの箇所に僕はしっかり線まで引いていた。確か、『ホモ・サケル』を一昨年はじめて読んで、ビオス/ゾーエーという概念に興奮したのだが、あれはいったいなんだったのだろう。僕のビオスは、健忘を促進させているのか。ゾーエーのレベルから記憶と忘却について一度じっくり考えてみることにしよう。
これは、中沢新一さんの『はじまりのレーニン』(1994年)からの引用。たまたま書庫から引っぱりだしてきたら、こんなことが記されてあった。10年も前ではないか。こんな形でゾーエーという概念は僕の前にすでに登場していたのだった。しかもこの箇所に僕はしっかり線まで引いていた。確か、『ホモ・サケル』を一昨年はじめて読んで、ビオス/ゾーエーという概念に興奮したのだが、あれはいったいなんだったのだろう。僕のビオスは、健忘を促進させているのか。ゾーエーのレベルから記憶と忘却について一度じっくり考えてみることにしよう。
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