小泉義之さんの文章には、いつも度肝をぬかれますが、『レヴィナス 何のために生きるのか』(河出書房新社)で、こんな言葉に出会いました。「…〈食べ物を〉〈食べ物はないか〉という語は、〈お前が食べ物だ〉と聴き取られ、〈私が食べ物である〉と引き受けられる。この出来事こそが、言葉の受肉である。自分のために生き、身体的な主体として生きることは、驚くべきことに、同時に、他者のための食べ物になりうる肉体を養い維持することでもあるのだ。私は、自分のために生きながら、他者のために生き始めてしまっているのだ。この出来事こそが、言葉の受肉である」。『談』no.53「食の哲学」で考察した食べることの底の抜け方を、小泉さんはこんな風に表現するのです。これは食べることが、日常の食べることが、徹頭徹尾、匿名的な行為でしかないことを示唆しているといえませんか。エンテツさんのスローガン「快食は快便なり」を、編集子は「…→快食→快便→快食→快便→…」という無限循環と理解していましたが、これって身体の匿名性のことだったんですね。匿名性の考察が、突如エンテツ流食の哲理と重なりあってしまったのです。
レヴィナス?何のために生きるのか
レヴィナス?何のために生きるのか
哲学も肉体も、メシとクソのあいだに存在するのである。
そして人生あるいは人生のシアワセとは、「長寿」なのではなく、快食と快便なのですね。
ところで栄養学は、「長寿」をシアワセとすることで人生を「数値」に還元し、食を栄養素という「数値」に還元し、人生と食をツマラナイのものにした元凶ではないでしょうか。
栄養学から食と料理を奪還せねば。