自然と人間をめぐる齟齬について。以前『Nature Interface』という雑誌に関わったことがあるが、このネーチャーとインタフェイスということばの解釈が、いわゆる自然科学・工学系の人と人文系の人とではまったく異るということにあらためて気が付いた。自然・工学系の人は、基本的に自然は物理法則に則って規則正しく運動するものと考えている。いわば機械のようなものと見做している。逆に人間は、複雑かつあいまいで、機械とは正反対のものと捉える。両者をつなぐものがインタフェイスで、これもプロトコルのように、機械論的でシステマティックなものと見ている。
一方、人文系の人は、基本的に自然は複雑であいまいなもの、カオスそのものと考えている。また、人間も同じように複雑かつあいまいなものと捉えていて、その意味では自然と人間は同じようなものと見ている。それをつなぐインタフェイスだけが工学的産物と見る。
興味深いのは、生命科学・医学系の立場だ。彼らのスタンスは、人間を機械論的なシステムと捉えていること。精神医学においてすらそう。バイオロジカル・サイカイアトリー(生物学的精神医学)が主流になり、人間は脳という機械に還元されると言ってのける。生命科学・医学系の立場は、自然は複雑かつあいまいであるが、逆に人間は機械のようなものと見做していて、両者をつなぐインタフェイスも工学的道具と見ている(ちなみに、ぼくの立場は、この三つすべてを複雑であいまいなものと考えている)。
さて、この三者が同じテーブルについて議論した時どうなるか。推して知るべしだ。同じ概念、同じ言葉を使いながら、話がまったくかみあわないことにがく然とするはずである。たとえば、もしもあなたが、地球、環境、生態、生きもの、社会、心理…、こういったテーマで議論するシンポジウムに参加することがおありなら、ぜひこのことに留意して聞いてみて下さい。ほんとうこんな風にズレてるんだから。
事態をより複雑にしているのは、話している当の本人たちがそのことにまるで無自覚だということだ。ついでに言うと、そういうことを主催したりコーディネイトしたりしている人も、じつはわかっていない場合が多い。
文理シナジーは依然として分離シナジーなままなのである。