「いのち」を記録する。一見簡単そうに思えるが、これ、けっこう難しいことだと思う。東洋大学教授・河本英夫さんに、運動、移動という事態をどう記述するかと質問したところ、こんな答えが返ってきた。「細胞の動きをmovieで撮影しても、それは細胞を記述したことにはならない。しょせんペラペラマンガの域を出ないからです」。つまり、静止画像の連続状態を視覚の(錯視する)メカニズムを頼って、見る側が勝手に「動いている」ように見ているアニメーション(映画同じ)と、それ自体で動き続けてる細胞とは、まったく別だというのである。「いのち」を記録するということは、ある意味で細胞の動きを記録することでもある。とすれば、これまで行われてきたどのような記録方法も、「いのち」それ自体をドキュメントしたことにはならないのではないか。あまたある「いのちの記録」は、そのどれもがいわばアニメーションとして見た世界の記述に終始していた、とはいえまいか。生態学的心理学のアプローチは、ほんの少しそれに成功しているとは思うが、いまだ生命体の記述にとどまっているようにも思える。「いのちのディレンマ」を、記録という行為から考察してみる、次号に向けてのアイデア。「ロシアン・エレジー」のアレクサンドロ・ソクローホフや「阿賀に生きる」の佐藤真さん(!)、「A」「AII」の森達也さんの仕事が気になってきた(森さんには『いのちの食べかた』という著作もある)。学術方面では、倉地幸徳さんらの「年齢軸生命工学センター」が長時間軸のエージ機能について、分子レベルからの接近を始めている。この研究なども参考になりそうだ。