科学的な根拠とは何を指しているのでしょうか。たとえば、血糖値が高い、体脂肪率が高い、BMIが高い。そうした数値によって、人々は健康かそうでないかに振り分けられ、揚げ句の果てに病気のらく印を押されてしまいます。この場合の数値が、科学的な根拠だとされています。しかし、そうでしょうか。それはただの数値でしかないのです。もっと言えば、何かを意味する記号ですらない、ただ差異があるというだけを記しているにすぎないのです。そんなことをあらためて考えさせられたのは、小泉義之さんの『ドゥルーズの哲学』(講談社現代新書)を読んだからです。
ドゥルーズの哲学―生命・自然・未来のために
ドゥルーズの哲学―生命・自然・未来のために
最新号でインタビューをお願いした小泉義之さんの著書に、とても重要なことを言っている箇所がありました。それは、身体と科学的認識についての指摘です。少し長いけれど引用します。
「健常者と障害者は、身体において違う。違いはどこにあるのか。違いは両者の間にある。差異が、両者の間にある。太郎には手がなくて、花子には手が二本あるとしよう。両者を比較すると、私たちは、どうしても太郎には手が「ない」と非定形で書いてしまう。そして太郎には欠如があって、太郎の側に間違いがあると語ってしまう。しかし現実はそのようになってはいない。現実には、太郎と花子の間に、手の数量の差異があるだけだ。0本と2本の差異としての2、2-0としての2があるだけだ。それなのに私たちは、肯定的な差異を、否定や欠如にすり替えてしまう。こんな思考習慣を捨てなければ、差異を肯定的に認識することはできない。健常者と障害者は、身体の内部においても違う。内臓の機能に差異があるし、内臓が産出する酵素の濃度に差異がある。ところが私たちは、一方を健康と評価し、他方を病気と評価する。一方を正常と、他方を異常と評価する。こんな思考習慣を捨てなければ、差異を科学的に認識することはできないし、健康と病気の差異、正常と異常の差異について、まともに考えることはできない」
健康と病気の間にあるもの。それが差異だとすれば、その差異を考えることこそが大切なのです。対立も否定も、さらには類似や相違を見ることも、差異の思考とは無縁です。ただ差異があること。その重要性にこそ私たちは気が付くべきなのでしょう。
「健常者と障害者は、身体において違う。違いはどこにあるのか。違いは両者の間にある。差異が、両者の間にある。太郎には手がなくて、花子には手が二本あるとしよう。両者を比較すると、私たちは、どうしても太郎には手が「ない」と非定形で書いてしまう。そして太郎には欠如があって、太郎の側に間違いがあると語ってしまう。しかし現実はそのようになってはいない。現実には、太郎と花子の間に、手の数量の差異があるだけだ。0本と2本の差異としての2、2-0としての2があるだけだ。それなのに私たちは、肯定的な差異を、否定や欠如にすり替えてしまう。こんな思考習慣を捨てなければ、差異を肯定的に認識することはできない。健常者と障害者は、身体の内部においても違う。内臓の機能に差異があるし、内臓が産出する酵素の濃度に差異がある。ところが私たちは、一方を健康と評価し、他方を病気と評価する。一方を正常と、他方を異常と評価する。こんな思考習慣を捨てなければ、差異を科学的に認識することはできないし、健康と病気の差異、正常と異常の差異について、まともに考えることはできない」
健康と病気の間にあるもの。それが差異だとすれば、その差異を考えることこそが大切なのです。対立も否定も、さらには類似や相違を見ることも、差異の思考とは無縁です。ただ差異があること。その重要性にこそ私たちは気が付くべきなのでしょう。
そこに,閾を生じさせしめているのは臨床医学の枠組みです。言うまでもなく臨床医学は中立な価値を扱う知識技術体系ではありません。生存−死−苦痛といった諸価値に強く依存してドライブされているものです。
言うまでもなく,医学を始めとした科学の営みも生得的制約から生じる価値や論理学を基礎としていることには変わりはなく,分布の内に差異や意味を自然に見いだすものだという感じがします。差異には生得的制約のにおいがし,分布のほうがより中立的な感じがしませんか。
分布の中に差異や価値を生じるのが生得的な脳−身体−環境の相互作用であるとすると,価値を分布に戻す脳の働きというのは,どこに組み込まれているのかと思うと不思議なことです。