2008年06月25日
「ラディオ・アリチエ」のフランコ・ベラルディと粉川哲夫さんの対話
アウトノミア運動のスポークスマンで、自由ラジオ「ラディオ・アリチエ」の活動を通して、フェリックス・ガタリと協働し、また、最近はテリストリートの活動によって、常にメディアを刺激し続けるフランコ・ベラルディ(bifo)。7月1日に、粉川哲夫さんと対談します。明治大学リバティータワー1128教室にて、18時30分より。また、その前日には、ニューヨークのインデペンデント・メディア「Autonomedia」のジム・フレミングを囲んでのバネルディスカッションもあります。こっちは、司会進行が酒井隆史さん。
詳細は、→
G8対抗国際フォーラム
2008年06月16日
言葉は可塑性をもっているからいいという面もあるのです
「この店の餃子、マジ、ヤバい!」と思わずでっかい声。カウンターのとなりに座っていたご高齢の男性が、「えっ、もしかして、毒入り……」と口に半分収まりかけていた餃子を吐き出すように、皿に戻したのです。「ちっ違いますよ! むちゃくちゃ美味しいってことですよ」と、ぼくは、あわてて言葉をつなげた。
「やばい」という言葉。昨今、まったく反対の意味で使われる場合が多い。ぼくも、すっかりその使用方法が身に付いてしまい、「マジ、ヤバい」を連発してしまうのですが、本来の使い方しか知らない人には、とんでもないことに聞こえてしまうらしいのです。これをもって日本語が乱れていると嘆く方もいらっしゃるでしょう。しかし逆に見ると、これこそ言語の大いなる特徴なのです。それだけ流動性をもっているということでもあり(今風に言えば、可塑性をもっている)、さらにいえば、発語される意味されるもの(シニフィエ)とその言葉の意味するもの(シニフィアン)は、言語の端緒から恣意的な関係にあるということの証しなのです。そして、これは日本語に特徴的なものではなくて、ほぼ世界の言語に共通した普遍的な性質ですらあるのです。
ジャマイカに行った時のことでした。友だちになったタクシードライバーのボブ君は、調子にのってくると、所かまず「bad!」「bad!」とわめきちらします。じつはこれは「good!」の意味。ジャマイカでは、
価値観が完全に転倒してしまうような、こんな使い方はざらにあるのです。しかも、そうした使用法が沢山載っている「ジャマイカン・イングリッシュ集」なる辞書まであるのです。
言葉は、その使い方を間違うと命取りにもなります。が、そもそもかなりいいかげんなものなのだということを知っておくことも大事なこと。だからこそ「ことば」は面白いと、ぼくは常々思っているわけです。
2008年06月13日
今、ラディカルな人は、じつは昔からずっとラディカルだった
『tasc monthy』で「シネマ・シガレッタ」の連載をお願いしている粉川哲夫さんのテキスト「もしインターネットが世界を変えるとしたら」(1996年)が公開されているので読む。読み進めてみて驚いた。現代の状況を適確に予測しているとかいうレベルではなくて、ガタリを援用しながら、その可能性と不可能性に言及し、それを自由ラジオ、ミニFMの延長で、いかにラディカルに使い倒すか、徹底的に掘り下げているのだ。先生の現在やっているワークショップはとても刺激的なのだが、その思考のプロセスから必然的に生まれたものだったのだ。僕が今学生だったら(昔々じつは学生でした)、絶対に飛びつくなぁと思ったのだった。
2008年06月12日
「ディスポジション」を手がかりにした実践的思考の冒険
萱野稔人さんから『ディスポジション 配置としての世界』を贈呈していただきました。
「世界は配置(disposition)であり、人間は自らを取りまく配置によってたえず態勢づけらている(disposed)。」
「ギブソンのレイアウト(layout)、フーコーの装置(dispositif)、ドゥルーズの配置(agencement/arrangement)といった諸概念は全て、世界や人間を諸要素の配置(disposition)として捉えることを可能にするコンセプトである。これらの概念は、世界を、人間の意識によって総合される表象ではなく、生物としてのヒトを取り囲む環境として捉えることを可能にする方途であ」ると編著者の一人柳澤田美は言い、「ディスポジション的な思索の妥当性は、それが意識化されていない生活者の現実を十全に言い表している以上の何かにもとめられるべきだろう」と提言します。そして、この未だ十分な言葉が与えられていない何かについて、哲学、倫理、生態心理学、建築、アートから、領域横断的な思考を展開するのが本書であるという。ディスポジションを一つの手がかりにして、より実践的観点から、その可能性を探求した論考集。
ディスポジション:配置としての世界―哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に
出版を記念して6月21(土)にイベントが行われます。↓
「うまくいく」ことの倫理と技術―「Disposition: 配置としての世界」
2008年04月20日
まだ、わずかお席があります。
4月22(火)、23(水)、5月7(水)夜
吉祥寺sound cafe dzumiにて『談』の公開対談をやります
と4月5日付けブログで告知しました。
4月22(火)、23(水)、5月7(水)いずれの日も、
まだわずかお席があります。
少々狭い会場ですが、それゆえインティメイトな対話世界を堪能できると思います。
ぜひこの機会に、会場に足をお運びください。
応募は専用メールで→oubo@dan21.com
2008年04月03日
システム・ソリューションこそが問題なのだ
東京日仏学院へ。「かつて、ノルマンディーで」を見る。1835年に起きたピエール・リヴィーエールによる父と妹殺人事件を分析したフーコーの研究書『ピエール・リヴィエールの犯罪』発行(1974)の2年後に、ルネ・アリオがこの事件を映画化する。映画は、ノルマンディーに暮らす全くのシロウトによって演じられたという意味で話題となった。その時に助監督をしていたニコラ・フィリベールが、30年後2006年に、同作品に出演した人びとを訪ね歩き、当時の思い出を語ってもらうというドキュメンタリー作品を発表する。それが「かつて、ノルマンディーで」だ。
この映画をテキストに廣瀬純さんが講演を行った。
「「わたしの人生はへたくそにモンタージュされ、へたくそに演じられ、うまくかみ合っていない吹き替え映画のようなもの」とマルグリット・デュラスは言ったが、リヴィエールもまたフーコーに同じことを語りえたのではないか。フーコーが、リヴィエールに見出した「物語=殺人の装置」もまた吹き替え映画をなしている。D=Gは言う。「マルクスが示すのはふたつの"主要な"要素が出会うということだ。一つは、脱領土化された労働者であり、彼は自由で何も持たない労働者となり、自分の労働力を売らなければならない。もう一つは、脱コード化されたカネであり、これは資本となり、労働者の労働力を買う能力を持っている」。ここで問題となっているのは、まさにへたくそにモンタージュされ、うまくかみ合っていないもう一つの吹き替え装置のことである。言い換えれば、二重化された装置のことではないか」。
二重化された装置は、解決不能な問題として問題の出題者へと送り返される。共訳不可能な問題としての問題。もはや、解決(ソリューション)は、最も陳腐で堕落した問題への単なる注釈に過ぎない。われわれは、問題の問題こそ、問いとして生き続けなくてはならないのだ。
物語と殺人、音と映像、労働と資本、「と」によって連結する二つのもの、こと、様態…。この共訳不能な、決定不能な問題こそが、システム=社会の問題の核心である。システム・ソリューションは、じつは問題そのものからの撤退でしかないということを、肝に銘じる必要がある。問題を解決したと思った瞬間、われわれは問題そのものから滑り落ちていくのである。というようなことを講演を聞きながら思ったのでした。
2008年04月01日
ネグリ来日中止の裏の裏の裏…
あえてここでは触れなかったが、先週末は、アントニオ・ネグリが来日していろいろな催しが行われていたはずだった。
ぼくも、22日に開催されるはずだった国際文化会館の「ネグリ講演会」を予約していた。しかし、全てお流れ。「私たちを残して、飛行機は日本へ飛び立った」というネグリとジュディット・ルヴェルのメッセージがむなしくWeb上を漂流したのだった。今回の来日中止について、当然腹が立ったが、何か釈然としないのだ。わかったようなわからないような、なんともへんな気持ちがずっとしていた。そんな時に、こんな文章に出会った。『TASC monthly』でもお馴染の粉川哲夫さんの日記。なるほどこういう見方もあるのか。
粉川哲夫の雑日記
2008年03月28日
『談』no.81 特集「〈共に在る〉哲学」が発行になりました。
談』no.81 特集「〈共に在る〉哲学」が発行になりました。表紙は勝本みつるさん、ポートレイトは新井卓さん、Galleryは石川直樹さん。インタビューのアブストラクト、editor's note before、afterは左のナビゲーションバーの「最新号」からアクセスできます。
2008年03月08日
ホントウに80年代がいっぱい詰まった本をいただきました。
香山リカさんから最近刊の「ポケットは80年代がいっぱい」(バジリコ)を贈呈していただきました。さっそく開いてぱらぱらめくっていたら、ありましたよ、ぼくの記述が。「〜人間的にとてもやさしく義理人情にも厚い人、〜」とある。これは、うそでしょう。かなりはずかしいです。
それはともかく、彼女をいろいろな人にひきあわせ、また、知り得る限りのメディア関係者と接触できるようにしたことはホントです。その一人がここにも書かれている泉秀樹さん。そうdzumiの店長です。セゾンが面白いことをばんばんやっていた時、その仕掛け人の泉さんに、今はなき六本木のWEVEで引き合わせたのは、ぼくでした。彼女にとって、それはその後の生き方にいろんな意味で影響を残しと思います。
思えば、ピテカンやカルデサックなんていう、もうとっくになくなったカフェ・バーや、まだ健在のCAYやロイズといったエイジアン、パンパシフィック系レストラン、名前は忘れたけれど2階の屋上から満月がとてもキレイだった青山の古い1軒家のビストロなんてところへ引き回したのもぼくでした。彼女は、このビストロが気に入って、その後鈴木慶一さんも来たCD発売記念(彼女は今で言うエレクトロのリミックスアルバムを2枚もプロデュースしている)のパーティ会場につかったりしてましたっけ。美味しいものをけっこう一緒に食べましたね。でも、あとから、彼女は「著作多数」の一冊で、自分は食べることにほとんど興味がないと書いておられて(確かにそれは感ずいていましたが)はぁ、そんなもんかいなぁと思ったものです。
それはさておき、マルチな彼女の活動の中で、思想系でサブカルチャーにも通じている才女というキャラづくりに、少しは貢献できたかなとは思っています。ところで、帯と奥付に貼り付けてある彼女の87、88年のお姿は、どうみてもクリスタル系ですね。ワンレンじゃないのが救いですけど。ご本人は、その当時松本伊代似と言われていたと書いていますが、ぼくは早見優かキムタクの妻似だと思ってました。
以前『タコ』のファーストアルバムに彼女が参加していたのを知って驚いた、とここで書きましたが、あれじつは香山リカさんではない別の香山リカさんなんだって。そんなに何人もいるのかって、いるんですよ、これが。その秘密を知りたい人は、ぜひ本書をお買い求めください。
ポケットは80年代がいっぱい
2008年01月11日
アスリートはギブソニアンの条件かもしれない。
玉川大学へ。文学部人間学科准教授・河野哲也先生にインタビュー。人間の行動の原因はその人の内面にある。だから、行動を変えるには、その人のこころを変えなければならない。社会現象を社会や環境からではなく個々人の性格や内面から理解しようとし、また、「共感」「ふれあい」「自己実現」といった言葉で解決を図ろうとする。こうした考えが今われわれの周囲にはびこっていないだろうか。これを「心理主義」と呼んで、本来は、社会的・政治的であるはずの問題を、個人の問題へとすり替えていると河野哲也氏は厳しく批判する。なによりも「自分探し」という言葉が問題なのだ。みうらじゅんの言葉にならえば、ヒデがしなくてはならなかったのは「自分探し」ではなく「自分無くし」、久米田康治的に言えば「自分さらし」だ。そして、ほんとうに彼は十分に自分を無くしているし晒している! と、これはどうでもいい話。
河野哲也先生は、ぼくを見下ろすような背の高い人で著書のイメージと違っていた。あとから伺うと先生は剣道をずっとやられていたとのこと。またしてもアスリートだ。以前から『談』を何冊か買っていただいていたようで、大変うれしい。著書の趣旨をまずお話いただく。教育と福祉、J.J.ギブソンとノーマライゼーションをメルロ=ポンティでつなぐ試み。何が知能なのか。それは、身体と環境のセッティングによって変わっていくものだ。何が価値なのか。それは、行為の多様性から生まれてくるものだ。学習の問題、成長の問題、環境の問題、さらには法の問題。いずれも身体とニッチの関係から読み解くことができるという。非常に有意義なインタビューとなった。しかし、またしてもメルロ=ポンティ。メルロ=ポンティの哲学とアスリートは相性がいいのかもしれない。ついでに言うと、ギブソンもそうだ。アフォーダンスを一発で理解するには、まず400mを全力疾走してみるといい。あるいは、クロールで2000m泳ぐのもいいし、もちろん竹刀で面打ちを決めるのでもいい。中井正一ではないけれど、スポーツ気分が了解できた時に、キアスムもアフォーダンスも自らの体験として会得できるはずだ。今度、「スホーツ気分」の研究でもやってみることにしよう。
2008年01月07日
『談』no.80 特集「無意味の意味/非-知の知」が発行になりました。
『談』no.80 特集「無意味の意味/非-知の知」が発行になりました。今号から表紙は、勝本みつるさんの作品です。インタビュー、対談のアブストラクト、editor's note before、afterは左のナビゲーションバーの「最新号」からアクセスできます。

2007年12月22日
現代の「倫理」的問題に「論理」的にアプローチする「哲学ディベート」
國學院大学文学部教授・高橋昌一郎さんから『哲学ディベート…〈倫理〉を〈論理〉する』(NHKブックス)を贈呈していただいた。
哲学ディベートとは何か。現代社会におけるさまざまな倫理的な問題に対して論理的には何が言えるか、それを考えるというもの。具体的にいえば、「現代社会で生じた現実の事件を論題として設定し、肯定側と否定側に別れてディベートを行う。ただし、(…)その目的は、その背景にどんな〈哲学〉的問題があるのかを論理的に掘り下げて」、今まで気づかなかったあらたな発想を見つけ出すことであり、一種の弁論術を養うことにもつながるという。
章ごとに、「あなたはなぜ正直なのか」→道徳から始まり、「食べるとはどのようなことか」→文化、「いかに産むべきか」→人命、「どのように罰すべきか」→人権、「何をしても許されるのか」→自由、「いかに死すべきか」→尊厳、といった倫理的問題が、先生と学生の討論という形式で展開していく。「普段あまり使わない思考や感情の回路をためされること」になるはずと著者は言うが、なるほどそうである。読み進めるとすぐに夢中になって、自分も学生(役)と同じように、けっこう真剣にその問題と向き合っていることに気づいて、はっとした。まんまと高橋さんの弁論術にはまってしまったというわけだ。
高橋昌一郎さんには、『談』no.69で「科学はなぜ嫌われるのか」というテーマでインタビューをしている。この時もディベートをすることの重要性を説いておられたが、その目的は相手を論破することではなく、あくまでもさまざまな意見を出し合い、比較しながら自分の考えを打ち立てていくことにある。哲学とは、遠くギリシアの時代から、聞くこと(他者の声を)、話すことだったのだ。そして、それはとてもわくわくする体験なのである。哲学することの愉しさをあらためて教えてくれる一書である。
哲学ディベート?〈倫理〉を〈論理〉する (NHKブックス 1097)
2007年12月17日
肝心なものが欠如しているという指摘にドッキリ。
TASCで『談』no.80の編集会議。editor’s noteの読み合わせ。これで承認されれぱ、オーケーだ。バタイユの説明で、「非生産的消費」とか「有用性の限界」とか「呪われた部分」についてはしつこいほど語っているのに、肝心の「無意味の意味」との関連性について触れられていないのはどうしてか、という鋭い質問があった。確かに。本誌が発行された時に確認していただければいいのだが、インタビューの冒頭で、無意味を意味との対比で捉えようとする時に、バタイユにはそういう傾向がある、という指摘がなされる。じつは、無意味の意味が登場するのはその一箇所だけのだ。確かに、これでは、どうしてバタイユなの? と思われるのも無理はない。といっても、ここのところは微妙で、軽はずみに論じると、やけどをしそうなので、加筆、修正は勘弁してもらった。だいたい特集タイトルの「無意味の意味/非-知の知」の「非-知の知」についても、ほんのちょっぴり触れただけ。バタイユを知らない人は、この言葉自体に??? かしれない。しかし、これもあえて何も言わない方がいいのではという配慮なのである。それでは詩ではないか、と批判されそうだが、ここは一つご勘弁願うとして、そんな意味などわからなくても、十分面白いインタビューなのでそっちを楽しんでいただきたい。
夜は、『TASC monthly』で1年間連載をしていだいた中川五郎さんのご苦労さん会を渋谷のワイン居酒屋VINで開催。中川さんの12月のスケジュールはライブがびっしり並んでいる。今日も昨夜「五つの赤い風船」のコンサートで宿泊された名古屋からの帰りだという。そんな中をぬって、私たちのために時間をつくってくれたのだ。感謝感謝。そのライブ、じつは営業的にはなかなか厳しいらしい。ミュージシャンというのも大変なんだぁと思った。サンセールとポムロール、ローヌにブルゴーニュとフランスワイン巡り&ジビェとフォグラで、愉しい語らいの時間をすごしました。
2007年12月15日
意味の森のウィトゲンシュタイン、言葉の海のソシュール
beforeでいきなりのウィトゲンシュタイン、afterでは、唐突にソシュール。「意味の病い」からの逃走をアジってはみたものの、またぞろ「言語の病い」にすっかりからめとられている。セミオティック>セマンティックorセマンティック>セミオティックか。この問題、ぼくの中でじつに30年間、いまだに決着がついていない。今回の特集、その突破口になるのではと期待したのに、結局また意味の森、言葉の海で右往左往している自分がいる。
2007年11月30日
バタイユの住んでいた(らしい)アパルトマン
パリ最後の日。『談』のインタビューでバタイユ思想に言及したので、サン・シュルピス寺院のすぐ隣にあるバタイユのアパルトマンを見てきました。吉田裕さんにお聞きした番地は25番地。とすれば、もしかしてお隣の2階? ふ〜む。
2007年11月17日
「attention economy」をどっちのスタンスで理解するか。
「ルネッサンス・ジェネレーション(RG)」に参加しました。今年11回目のテーマは「[情動]ー欲望・操作・自由」。10回で終了する予定だったはずが、1dayセッションとして新たに開催されることになったというわけです。レギュラーの監修者、下條信輔さんとタナカノリユキさんの他に、今年はゲストスピーカーとして、廣中直行さん、十川幸司さん、ビデオ録画によるインタビューとしてクリスチャン・シャイアさん、酒井隆史さんが出席。
この顔ぶれを見て、『談』の読者の方なら、「えっ?!」と思われるのではないでしょうか。そう、no.76の特集「情動回路」とかなりカブっているのです。出演者からそれとなく聞いたところでは、実際に企画の段階で、『談』の特集にインスパイヤーされたとか。それにしても、一種のサプライズとして紹介された酒井さんのビデオレクチャー。『談』が出てなかったら、このインタビューもなかったのではとちょっと思ってしまいました。情動がなぜ権力や労働、資本主義と関係するのか、それは、no.76の肝でしたが、今回のシンポでもやはりひとつの論点になっていました。
そもそも下條信輔さんはno.64で、廣中直行さんは、no.66、no.70でインタビューや対談に参加してもらっていますし、その後も某企業が主催する研究会に参加をお願いしたりして、お二人とは懇意にさせていいただいてます。情動というテーマ自体が、その研究会の中心課題でした。そんなわけで、今回のRGは、いつにもまして楽しみにしていたのです。
さて、内容はどうだったか。一言で言うと、例年通り下條先生のかじ取りでみごとな盛り上がりを見せたのですが、肝心の「情動」そのものに迫りきれたかというと、やや消化不良かな、というのが正直な感想。
最もそれを感じたのが、論点ともなった「attention economy」について。潜在的マーケティングを実践するシャイアは、無意識のレベルで働く情動を解明することから「attention economy」の可能性を探求しますが、むしろ消費者はそれを裏切り続けるのが実態だと解く。それに対して、酒井氏は、情動に直接関与する「attention economy」のもつ危険性を示唆する。両者は、同じことを問題にしながら、結論がまったく逆なのはなぜだろうか、という形で問題提起がなされ、この違いはかなり重要だと指摘されました。しかし、この理由はあまりにもはっきりしているのではないでしょうか。シャイアにはクライアントがいるけれど、酒井さんにいない。ただその違いだけです。要するに、情動を資本の中に組み込みたいのか、逆にそれに抗いたいのか。単なる社会学に終始するのか、そうではなく批判理論を目指すのか。この違いは、じつはものすごく大きい。
これは、毎回感じることですが、やはり監修者のスタンスは、サイエンティスト、エンジニアのそれであり、そうである限り、社会と向き合う時にどうしても脇が甘くなります。その脇の甘さが、社会やあるいは人文系の学問に橋を架けるうえで結構重要だと、もしもそのように認識されているならば、それは全くの誤解。RGが工学的知と人文的知の交錯する場所になりうるためには、あとまだ数十回のディスカッションが必要だなぁと思いましたね。というわけで、ぜひまた来年の開催を期待します。
2007年11月04日
メディアは存在しない、ゆえに、メディア論は終わらない。
NTT出版の柴さんから斎藤環さんの新刊『メディアは存在しない』を贈呈していただきました。
雑誌『Inter Communication』誌での同名の連載を中心に、同じく同誌で西垣通さんと交わされた議論、大澤真幸さん、東浩紀さんとの鼎談が収録されています。その連載、開始当初から話題になりましたが、『談』も注目し、no.71での北田暁大さんとの対談は、じつはこの連載がきっかけだったのです。
斎藤さんは、第1章冒頭で本書の目的についてこう書いています。「…私にとってのメディア論とは、つきつめれば、メディアの本質的な不在を論証するための議論を意味している。それは例えば、女性を論じて女性の不在に至るようなパラドキシカルな議論と相似形をなすだろう。そう、セキュシュアリティの根源性を謳いながら、女性の不在を宣告するラカニアンの身振りである。しかし、それははたして本質的な矛盾なのだろうか? そうではない。それはおそらく、存在論的な厳密さの問題なのだ。そう、本書は「メディア」を存在論的な根拠として用いることの不可能性、これを論証することをさしあたりの目標としている」。
「ユビキタス社会への「問い」ーーあとがきにかえて」では、「…メディアは存在しない。しかし、だからこそ、メディア論は終わらない。…かくして「ユビキタス」以降の新しいメディア論(それをもはや「メディア論2.0」などとは呼ぶまい)へ向けて、われわれは引き続き「精神分析」の橋頭堡に立てこもりつづけなければならない。足場を確保しなければ、自由になることすらできはしないのだから」。
メディア論はいかに〈不〉可能か。それは、同時に、精神分析はいかに〈不〉可能か、を問うことでもある。だとすれば、本書の立ち位置は、ラカニアン的身振りを二重化することで、よりいっそう精神分析の〈不〉可能を徹底化させようという、まさにラカニアンのそれにあたるだろう。「メディアは存在しない」という言明それ自体が、すでにメディア化した精神分析の内容証明となっていることのなんというパラドクス! そう、ここで展開されるのは、またしても斎藤環的マジックなのだ。斎藤さんのクロースアップ・マジックには、タネも仕掛けもあるから面白い。
メディアは存在しない
2007年11月01日
野矢茂樹著『大森荘蔵 -哲学の見本』を版元からいただきました。
発行元から『大森荘蔵 -哲学の見本 再発見日本の哲学』(講談社)を贈呈していただきました。野矢茂樹さんによる大森荘蔵論です。ぼくがどれだけ大森荘蔵さんから影響をうけたか、これまで『談』に載せた拙稿をお読みいただければ十分わかっていただけると思います。何か書きあぐねている時、必ずや大森さんの考えに逃げ込むのが常でしたから。フーコー、ドゥルーズ、デリダらフランス現代思想と遭遇したのとほぼ同じ頃、大森哲学に出会いました。ぼくとってそれは、まさに衝撃ともいえる事件でした。年譜によれば、プリンストン高等学術研究所客員所員として渡米された年に大森さんは『ことだま論』を発表します。その2年後、記号論を一つの引き金に、いわゆる現代思想ブームの幕が切って落とされようとした75年、『エピステーメー』創刊号において、後に歴史的快挙と称されることになる誌上シンポジウム「記号・ことば・〈ことだま〉」が行われたのです。大森さんはその席上最後にこう言ってのけるのです。「…音声としての言葉はこっちにあり、その音声としての言葉が呼び起こす事物がこちらにある。その中間に〈意味〉なるものが存在し、意味を通じて意味越しに(ものごとが理解される。しかし、それは間違っている。)いま喋っている私の声が、じかにそれを呼び起こしている(のであって、そこに意味を持ち込むことは、全く必要のないことだ。世界は、つねに現在ただいま〈立ち現れ〉ているだけなのだ。ぼくは意味を抹殺したいのです。)」言語も記号も、哲学も思想も、脳も意識も、仮想も実在も、世界で起こっている一切を「立ちあらわれ」から考え直してみよう。ぼくの思想の旅は、大森哲学とともにリスタートしたのでした。さて、本書を送っていただい理由は、じつはそれとはまったく関係なく、中に登場するポートレイトが、no.54特集「唯[脳-身]論」での養老孟司さんとの対談「脳は脳をどう見ているか…デカルトが開いたジッパーを閉じる試み」に使用した写真の転載だからです(ちなみに撮影者は鈴木理策さん)。この対談、録画もあり、ナビゲーションバーの「『談』アーカイヴス」のno.54をクリックすると見れます。画像は非常に悪いのですが、今となっては貴重な記録映像です。
大森荘蔵 -哲学の見本 (再発見日本の哲学)
2007年10月31日
大人も知りたい『誰が決めたの? 社会の不思議』
橋爪大三郎先生から、新刊『誰が決めたの? 社会の不思議』(朝日出版社)を贈呈していただきました。
「社会には、きまりがあります。でも、このきまりは誰かがきめたものではありません。気がついたら、そうなっていたのです」(「はじめに」より)。
「大人にきいても答えてもらえなかったこととは?」「先生や親に聞いてもムダだと思うけど、やっぱりきいてみたかったこととは?」などのアンケートをもとに、子どもたちにテーマを選んでもらい、ぶっつけ本番で授業をしたのだそうです。本書は、その授業を再現し、コラムなどを加えて編集したもの。目次には、「なぜ勉強しないといけないの?」「死ぬってどういうこと?」「大人はずるい?」「なぜお金でものが買えるの?」……、などという大人にも興味津々の見出しが並んでいます。そうしたテーマをQ&A方式で、橋爪先生が懇切丁寧に説明していきます。
「ホンネで語った」という殺し文句がクリシェになっている今、本書はほんとに「ホンネ」が語られています。やっぱ、橋爪先生だわ、と思わずうならせる本になっています。ただし、「たばことお酒」については、厳しいご意見も。そのへんは、今度、直接聞いてみましょう。「橋爪先生、ほんとうにたばこってそんなにいけないものなんですか?」
だれが決めたの? 社会の不思議
2007年10月25日
肖像画と風景画は、何が違うのか。
GDは、ある女性の質問に、「哲学をすることだって? それは、とても難しいことだ。簡単にできるものではないよ」と応えて、こう続ける。「絵画には二種類ある。肖像画と風景画だ。両者は根本的に異なっている。喩えるならば、哲学史とは肖像画。モデルと正面から対峙し、凝視することで、そのモデルの在りように接近していく。それに対して、風景画とは、アプローチそのものがまったく異なるのだ。風景画とは、何かをつくりあげること、純粋な制作行為である。哲学とは、この風景画のことだ。概念をつくるとは、そういうことであり、そうやすやすとできることではないのである」。
GDは、またこんな言い方もした。「絵画はずっと単色だった。それがある時から色を持つようになった。それは、絵画にとってとてつもない革新である。色を見ること、色を探し出して、色をつけること。こんなことは、ふつうでは絶対にあり得ないことだ。それほど、色というのは重要でありかつ概念に近いものなのだ。したがって、絵画が色を発見したことによって、はじめて哲学の領域に足を踏み込むことができたのである」。今日のGDは、まるで、ゴッホのドゥーブルだった。だがもしも、DGだったら、間違いなくそれはベーコンに替わっていただろう。
2007年10月23日
ドゥルーズのシザーハンズ、あるいは忘却の忘却
以前鵜飼哲さんにインタビューした時、そのタイトルを「記憶の記憶、忘却の忘却」としたのだが、これは、ニーチェの能動的忘却に定位して、人間は忘れることができなくなった動物、すなわち、忘却を忘却したのが人間にほかならない、というところからとったものだった。
この「忘却の忘却」という言葉、他でも読んだことがあるなと思いつつ、それがまったく思い出せなかった(単なる忘却)。それが、あったのだ。最近河出文庫から次々に翻訳が出ているドゥルーズの著作、ほとんど持っているけれど、結局持ち運びができるのでまた買ってしまうわけだが、その一冊『フーコー』を読んでいたら見つけたのです。
「…しかし、主体あるいは主体化としての時間は、記憶と名づけられる。(…)この記憶はそれ自体たえず忘れられて再構成されるからである。その襞はまさに、拡げられた襞と一体である。なぜなら、拡げられた襞は、襞のなかに折り畳まれていたものとして現前し続けるからである。ただ忘却(拡げられた襞)だけが、記憶のなかに(襞そのもののなかに)折り畳まれていたものを再び見出すのである。フーコーが最終的に再発見したハイデッガーがここにいる。記憶に対立するものは忘却ではなく、私たちを外にむけて解体し、死を構成する〈忘却の忘却〉である」。(「湾曲あるいは思考の外」)
ドゥルーズは、『フーコー』におさめられた幾つかの論文で、フーコーを、「襞」あるいは「折畳み」という言葉から、執拗にその外の思考として掴まえようとする。その外は、襞あるいは折畳みという条件において、思考し得る対象としての記憶/忘却の再開の必然性、回帰の不可能性となり、再びわれわれに贈与されるというのである。襞あるいは折畳みは、ドゥルーズをフーコーへ、さらにはニーチェ、ハイデッガーへまさに折り畳んでいくための重要な概念なのだ。
などと考えながら、今日、日仏学院で「アベセデール[D、E、F、G]」を見た。カメラの前のドゥルーズの、なんと饒舌なことよ。クレール・パルネのインタビューに対して語ること語ること、ほとんどしゃべりっぱなし。ある時は、パルネの質問を遮ってまでしゃべり続けるのである。哲学とはまさに語ることだといわんばかりに。
そんな動くドゥルーズをはじめて見て驚いたのだが、もっとびっくりしたのが彼の爪!! 指の先には、まるでジョニー・デップ=エドワードのような長い爪が鎮座ましましていたのである。それも10本の指全部に。しかも、人さし指の爪は、くるっと弧を描いて、丸まっていた。あっ、これって、もしかして「折畳み」のこと? そう、よく見れば、人さし指だけでなく他の何本かも内側に湾曲しているではないか。そうか、ドゥルーズという哲学者にとって「襞」「折畳み」という概念は、自らの身体のメタファだったのだ。いや、逆か、自分の身体こそ、「襞」「折畳み」のメタファだった。ということは、「器官なき身体」はドゥルーズそのものだったってことなの? そんな想像も愉しむことができる「アベセデール[D、E、F、G]」の上映はあと3回。ぜひ見ましょう。クレール・パルネが女性だということもこの映像で知った世間知らずの僕です。
2007年10月22日
「ジル・ドゥルーズとともに」というイベントが開催されている
「ジル・ドゥルーズとともに」というイベントが開催されている。
『シネマ2*時間イメージ』『シネマ1*運動イメージ』(2007年12月刊行予定)を記念して、ドゥルーズの作品の引用で構成されたポスター展、ドゥルーズがさまざまな概念や自分の人生について語った貴重なドキュメンタリー『アベセデール』の上映、ドゥルーズの「シネマ」に関連する映画上映、レクチャー、シンポジウムを開催するというもの。すでに20日(土)にオープニングイベント「ドゥルーズ・アナロジック」というサウンド、映像、パフォーマンスのプログラムがスタートしていて、今月31日まで行われる。
なんといっても今回の目玉は、生前上映を禁止することを条件に撮影されたTVドキュメンタリー「アベセデ−ル」がすべて放映されること。Aは動物、Bはお酒、Cは欲望…というように、キーワードを手がかりとしてAtoZでドゥルーズ自身が自由に語りおろした記録。動くドゥルーズが見られるのは、これが最後かもしれない。
『TASC monthly』にご執筆いただいた廣瀬純先生も、25日にレクチャーを行う予定。
『談』をお読みいただいているみなさん、これは必見ですぞ。
イベントの詳細・スケジュール→東京日仏学院主催「ジル・ドゥルーズとともに」
2007年10月19日
フーコーはなぜ「老い」の問題を避けたのか。
『談』no.51で「〈臨床医学の誕生〉を読む」という鼎談を行った。現大阪大学学長・鷲田清一さん、現同志社大学政策学部教授・柿本昭人さん、現情報科学大学院教授・小林昌廣さんにご出席いただき、フーコーのほとんどの著作が翻訳されているわが国で、この本のみその他の著作とはやや異なる読まれ方をしてきたのではないか、という問題提起から始められたディスカッションだった。その後、『パラドックスとしての身体 免疫・病・健康』(河出書房新社)に採録されたが、最近あるきっかけから再読してみて、ここで交わされた議論の射程は、現在でも十分有効性をもつことに改めて驚いたのである。とくに、柿本さんの『臨床医学の誕生』の柱である「空間、ことば、死」に関して、フーコーが生の消尽点/零度の生としての「死」という見方を持ち込んだ重要性は認めつつも、それがかえって「老い」への「まなざし」を遠ざけているという指摘は、フーコーの「生-権力」論を現代の「生-政治」の文脈で語る時のある種の困難を、先取りする批判であったように思う。フーコーの未発表の講義録が翻訳され始めている現在、「老い」について『臨床医学の誕生』で微妙に避けられていた意味を考えることは、きわめて重要だと思われるのだ。
そんなこともあって、今日、ご無沙汰していた柿本昭人さんにご連絡をとった。そして『TASC monthly』にご寄稿をお願いしたのである。今回お願いしたテーマは「脳年齢になぜかくも躍起になるのか」。鼎談の議論とは直接つながるものではないが、「老い」と「生-政治」の交錯という問題を踏まえてであることはいうまでもない。さて、どんな議論が展開されるのか、今から楽しみだ。
2007年10月02日
「強度」のある対談、「消尽したもの」から遠く離れて。
サウンド・イメージ研究所ラボ・カフェ・ズミとのコラボレーション企画 『談』公開対談 「いかにして消尽したものになるか…死の贈与、生の贈与」を開催した。なにせ初めてのイベントなので、みなさん本当に聴きにきてくれるのか、内心ドキドキしていたが、開場してみると、応募者で欠席された方は一人だけ。立ち見でもいいからぜひ参加させて、といううれしい強引組をあわせると17人(既に定員オーバー)。それに、『談』の発行元のTASCの方々やスタッフが加わって、気が付けば、会場は立錐の余地もない。トイレに行くのもままならない感じ。さて、そんな中で公開対談は始まった。今回の特集を思いついた一つのきっかけが澤野雅樹先生の『不毛論』。時あたかも2001年、9.11の年に発行。何かリンクするものがあったのではないかという問い掛けから対談をスタートさせた。議論は、有用性/無用性の話からダメ連に。それを受けて赤木智弘さんの論文「気分は、戦争」をネタに、若者は、無用であることに絶えられなくなっている。自分の承認がモーターにならないと現状を分析。しばらくそのあたりの議論が続いたところで、ドゥルーズのベケット論『消尽したもの』に。そこから、器官なき身体、同一性、資本主義、スピノザからヘーゲルへ(?!)。澤野さんがルジャンドルを持ち出すと、じつは萱野さんも関心をもっておられて、宗教、ドグマ、国家というキーワードから、さらには暴力の問題へと議論は展開していった。たっぷり2時間の対談は、予想通り非常に内容の濃い、強度に満ち満ちたものになった。やはり、「ドゥルーズと子供たち」(スピノザ論的に)は、そもそも何かが根本的に違う、それがなんなのかはいまだにわからないのだが、少なくとも言語/論理の強烈な磁場を現出させる「力」は、今、この周辺からしか生まれないような気がする。それに立ち会えただけでもぼくはとてもうれしかった。 当日来て頂いたみなさん、ありがとうございました。
2007年09月27日
バタイユにとって「「アセファル」とはなんだったのか。
早稲田大学法学学術院教授・吉田裕先生にインタビュー。「無意味の意味/非-知の知」のテーマは、ジョルジュ・パタイユから借用させてもらったが、バタイユ思想の核心ともいえる「無意味」について、「非-知」との関連でお話していただこうというのが狙いだ。吉田先生は、ご著書『バタイユの迷宮』で、バタイユの思考についてこんな風に整理している。「『有用性の限界』と『有罪者』から始まり、『内的体験』を導き出し、再び最初の書物に戻り、さらに、『呪われた部分』を出現させるが、それは〈謎〉をめぐる転位として実行されている。『有用性の限界』が〈謎を解〉こうとする書物だとすれば、『内的体験』は〈謎を生き〉ようとする書物だった」のではないかと言うのだ。この過剰であり残余である「呪われた部分」を、バタイユのもう一つの重要な概念「非-知」とどう連接しているのか、おそらくそのつながりを追究することによって、「無意味」というものの「意味」を逆説的にあぶり出せるのではないかと考えてみたのである。「〈呪われた部分〉は、エネルギーの使途においてあらたな富を生み出さないために、功利性を原則とする社会から、無益なものとして排除された部分、すなわち〈非生産的な消費〉を指し、バタイユにとっては〈有用性の限界〉の主題をより広範囲にかつ象徴的に表す表現」となっているとしたら、さしあたって、われわれはこの『有用性の限界』を精確に読み解くことから始めなければならない。こうして、吉田先生は、『有用性の限界』を読むことによって、〈非生産的な消費〉をも含んだ問題系に、「消費(spend)」から「消尽(consumption)」への異同を確認するのである。
戦争、供儀、笑、交感(コミュニカシオン)、そして死。バタイユ思想には繰り返し出てくるこれらの言葉は、まさに「有用性の限界」において「消尽」そのものを表す概念なのである。そして、その先にあるものは、ほとんど「無意味」といっていい「呪われた部分」なのだ。ついでに言っておくと、この「消尽」へと向かうベクトルの延長線上にあの秘密結社「アセファル」があるとみれば、これまで不可解さにおいてバタイユ思想の最大の謎であった「アセファル」の意図もおぼろげながら感知できるのである。
2007年09月18日
公開対談のお知らせ!!
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★公開対談のお知らせ★
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■対談 いかにして消尽したものになるか……死の贈与と生の贈与
パネリスト
●澤野雅樹氏 明治学院大学社会学部教授
●萱野稔人氏 津田塾大学国際関係学科准教授
『談』no.80 特集「「無意味の意味/非-知の知」〈07年11月末発行に収録予定〉
・人々は、なぜこうまで有用性や合理性にこだわるのでしょうか。意味のあること、役に立つこと、価値のあることを金科玉条のごとく死守する私たち。まるで取り憑かれたように理性を最大限発揮し、知力も体力も、そして感性までもすり減らしながら意味生産のレールをひたすら走り続けます。そして、意味がない、役に立たない、価値がないものに対しては、容赦なく切り捨てる。無意味であることは、それだけで悪であるような空気すら世の中には漂っています。しかし、本当にそうでしょうか。有用でないもの、役に立たないものは、本当に無意味なのでしょうか。
現代人のこの有用性、合理性への信仰(!)は言い換えれば「意味の病い」です。意味の病い、それは知、理性への隷属であり、本源的な意味での生きる自由からの退却です。今こそ、無意味を志向することの自由、無意味なるものの意味を考え直す時ではないでしょうか。
・澤野氏は、「使えないから面白い」、20世紀の偉大なる使えない作家たちと共に、「不毛」の素晴らしさを完膚なきまでに論証し、「有用性」ではなく、「情欲」の資本主義を提唱します。消尽したものの優美さ、役立たずのエレガントこそ、21世紀を生き抜く者たちの倫理であると。
一方、国家をなりたたせ存在させているのは、〈権利〉をめぐる暴力の運動であり、その運動が最初におこなうのは、〈権利〉にもとづかない暴力を取り締まるためにみずからに〈暴力への権利〉を付与することだと萱野氏は言います。暴力装置としての国家から、われわれはいかにして逃走しうるか。贈与/消尽に、その突破口を見出せるとしたら……。
・ドゥルーズ、ガタリ、そしてフーコーを参照しながら、無償性、消尽、暴力、贈与を手掛かりに、「無意味なるもの」「かそけきもの」「寄る辺無きもの」について、徹底的に語り合っていただきます。
■日時 2007年10月2日(火)19時スタート(開場18時より)
■会場 サウンド・イメージ研究所ラボ・カフェ・ズミ
武蔵野市御殿山1-2-3 キヨノビル7F(1階が自転車です)
吉祥寺駅公園口から徒歩5分
地図
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■入場料 無料 ただしドリンクを注文していただきます。
■定員 15名 先着順(定員に達し次第締め切らせていただきます)
■受付 メールにてお申し込み下さい。
対談参加希望とお書きの上、お名前、ご連絡先を明記して→oubo@dan21.com へ
2007年08月31日
次号特集で新たな試み、乞うご期待。
TASCで『談』次号以降の企画検討会。3号分の企画案、ほぼOKで、いよいよ次号の編集開始です。
次のは自分で言うのもなんなんですが、すっごく面白いですよ。乞うご期待です。コンテンツについては、随時アナウンスしていきますが、今回一つ新しいことをやります。愛読者サービスとしまして、公開の対談をやろうと思っています。もちろん、『談』掲載を前提とするものなので、公開といっても少人数を対象とするものになりますが。で、誰と誰がやるの? と当然みなさん興味津々だと思いますが、それはまだ秘密。ものすごくチャーミングなトークセッションになることは、間違いありません。そして、場所がまたサプライズ。ブログでの告知のみになりますので、ぜひ日々のチェックを怠りなく、なんて。
2007年08月28日
立ち位置の違いは決定的ではない。
昨日、今日と二日間にわたる合宿に参加した。レギュラーの研究者の方々とゲストをお迎えしてのディスカッション、非常に中身の濃い議論ができた。今回のゲストは、池田清彦先生と河本英夫先生。池田先生は、構造主義生物学(科学論)からのアプローチ、河本先生は、オートポイエーシスからのアプローチ。一見両者は無関係に見えるけれども、ぼくには、立ち位置が違うだけでじつはお互い非常に近い間柄にあると見ている。もっとも、この立ち位置の違いこそが、ある意味では両者を決定的に別のものにしているとはいえるのだけれど。つまり、外部から、神の目でその事態を見るか、逆に内部から、いわば運動する等のものそのものになってみるか、という違い。立ち位置の違いこそ決定的じゃないか、といわれればそれまでだが、決定論か非決定論か、離散的世界か自己同一的世界かという二項対立の、それ自体を無効とする立場を貫いている、という意味で両者には強い親和性がある、と思うのだ。会議終了後、酒を飲みつつお二人の先生にじっくりと伺ってみたが、この考えに間違いはなさそうだという確信(といえるほどでもないが)を得た。ぼくにとっては、とても有意義な二日間だった。
2007年07月28日
先生の難解な話を翻訳するはずが、かえって難しくしてどうする!?
TASCで『談』の編集会議。何年かぶりで、editor's noteを書き上げて読み合わせをした。思い起こせば、西川さんが担当の時、途中から間に合わなくなって、プロットを書いて、それをもとに原稿にすべきプランを述べるという方法に変えてしまった。やはり、本来の姿にもどして正解。自分でもちゃんと目鼻をつけておかないと、発行したあと中身を忘れてしまう。
すでにみなさんには、原稿はお渡しして読んでいただいているので、発表しないでもいいような雰囲気だった。でも、予習をしたので(自分の原稿を予習してどうするというツッコミはいれないで)、発表させてもらった。みなさんの印象はというと、意外な反応が……。今回はそれぞれのインタビューは分かりやすかったのに、editor's noteが難解だというのである。難しい先生の話を、誰にも解るように説明するのがその役目だったのではないか。それが、インタビューより難しいとは。前号は、分かりやすくてよかったのにと。どうしても専門的な言葉を使わざるを得ないということもあるんですけどね。「まぁ、いろいろな意見があるのはいいことではないでしょうか」とまとめたら笑われてしまった。
木原千春さんの表紙画、神山貞次郎さん撮影の上杉満代さん舞踏、共にOKが出て、あとは発行するのみ。8月20日発行予定。
2007年06月27日
難解中の難解オートポイエーシスがたった15分で……
東洋大学の河本英夫教授の研究室へ。昨年十川幸司さんと対談をしていただいた文学部会議室で打ち合わせ。池田先生と同じある会合で講演をしてもらうための依頼。本論に入る前に、聴衆のためにオートポイエーシスについて軽く話してもらえないかと、恐る恐る尋ねると「わかった15分でやりましょう」と。えっ、ほんとうにそんなことできるのか。もしも先生の言う通り本当に15分で説明できたとしたら、ぼく絶対それ本にしますよ。『世界最速!! インド式〈オートポイエーシス〉論』。どこがインド式??
2007年06月09日
「ゲバゲバ90分!」はぼくの編集の原点かもしれない。
NHK「お宝TVデラックス〈笑の力〉」を見る。「頓馬天狗」「お笑い三人組」「おそ松くん」「ゲバゲバ90分!」の VTRとゲストによるトーク。今回のぼくにとってのハイライトは、楠トシエさん、前武さん巨泉さんがゲスト出演したことだ。「ハッチャン、おはなちゃん、う〜っ!」というあのあまりに有名なせりふのシーンを嬉しそうに見ながら話す楠トシエさんのお顔を見れただけでぼくは大満足。さらに、前武さん巨泉さんの掛け合いは、昔とまったく変わらなかった。「ゲバゲバ90分!」では、あの名プロデューサー井原高忠さんをインタビューしていた。じつは、ぼくは伊原さんの大ファンなのだ。ぼくのものの考え方は、どうも、この人に教わったところが多いように思う。「面白ければなんでもあり」、「不条理からアイデアは始まる」、「シチュエーションと配役の妙」。伊原さんの番組づくりの哲学は、そのままぼくの編集のノウハウに引き継がれていると思っているからである。
2007年06月05日
人選でほぼ決まるのは、サッカーも研究会も同じだ。
『談』に登場していただいた現代思想の専門家で言語学、とくに日本語についての著作も多い先生をゲストにお呼びしたとある研究会。これが大成功。当を得た話題を提供してくれたこともあるが、後半の質疑応答では、まさに立板に水のごとく、どのような角度から質問がきても、スパッと切り返す。ディスカッションは、終了後の懇親会にも引き継がれた。常に研究会がこういう形で行われればいいのだが、経験からいうと、滅多にないことである。やはり、初発での人選でほぼ成功か不成功かは決まるといっていい。帰宅後、録画しておいたキリンカップを見る。海外組が機能しなかった前半の戦いぶりに業を煮やしたオシム監督は、後半羽生を投入。この采配がズバリ効いて、点こそ入らなかったが、後半は別のチームじゃないかと思えるような、いい試合運びだった。やはり、すべては人選だ。誰をどこで使うか。講演もスポーツもこれにつきるような気がした1日であった。
2007年06月02日
天才コッパースウェイト教授のスケッチ集は使えるぞ
BSで、状況劇場「ジャガーの眼」(1985年)を2時過ぎまで見ていたので眠い。「下町ホフマン」「蛇姫様」を観た頃からなんとなく状況劇場からは足が遠のいていた。唐十郎の芝居はその頃と全く変わっていなかった。最近観た友人によれば、今も変わらないらしい。歌舞伎の様式美の域に達しているということか。
『思想』に三脇康生さんの「精神科医ジャン・ウリの仕事」という興味深い論文が載っていたので、ひさしぶりに書庫からジャン・ウリらが執筆している『精神の管理社会をどう超えられるか?』を持ってきた。空間管理という点に注目すれば、まさにこの本は、その現状を、精神医療という場面に則して徹底的に批判している。今度の座談会のヒントになりそうだ。
その本のとなりに『太陽』の熊楠特集があった。『ひたち』の表紙に熊楠の「十二支考」のスケッチを載せたが、熊楠はほかにも沢山の手書きスケッチを残している。粘菌関連のスケッチにも面白いのがいっぱいある。今度、どこかでまた使えるかもしれない。またそのとなりには、『The Secret Scrapbooks of Professor A.J.Copperthwaite』が並んでいた。19世紀から20世紀初頭にかけて奇想建築物のプランをたくさん考え出した天才コッパースウェイト教授のスケッチ集。これは、『ひたち』に使えそうだ。提案してみよう。
よしながふみの「フラワー・オプ・ライフ3」を読む。なんていい話なんだろう。こういう高校生ものがぼくは好きだ。吉田秋生の「蝉時雨のやむ頃」が涙ちょちょぎれたので、そのエピソード1にあたるであろう「ラバーズ・キス」を十数年ぶりに引っ張り出してきて読み直す。これも高校生ネタで、垂涎ものだ。そういえば、集英社コバルトシリーズの作家になろうとマジで思っていた頃がぼくにもあったことを思い出して、ちょっと恥ずかしくなった。
2007年06月01日
〈悲しみ〉という情動のもつ意味
浅野俊哉さんより『思想』6月号を贈呈していただく。浅野さんの論文「〈良心〉の不在と遍在化」が掲載されている。今日「良心」という言葉を自ら口にすることも、また他者の口から聞くこともほとんどない。こうした「良心」の不在という状況において、スピノザの論究する「良心」について、あらためて問い直そうというもの。
スピノザは「良心の呵責」について、「悲しみ」という情動に解消したと言われている。そのことが、人間の社会的・倫理的な行動契機を奪うことにつながりかねないと研究者から指摘されていた。浅野さんは、そこに注目して、「その考えが従来型の良心論が持つ、個人という枠内の自意識の問題にそれをとどめてしまう傾向を突破して、汎化された〈環境に対する能動的な関心と反応能力〉を私たちにもとめていくものではないか」と、むしろそこにこそ可能性を見出そうというのである。
「今日の様々な社会闘争の直接のきっかけとそれを持続する意志に力をあたえているのは、〈悲しみ〉という情動なのではないだろうか。言い換えれば、自己や他者の生命が何らかの形で傷つけられていくことに対する、ほとんど身体レベルから発せられる異議申し立てーーすなわち媒介を経由しない直接的・一時的かつ否定することの不可能な情動ーーなのではないだろうか。しかもそれは同時に、能動的な〈喜び〉の情動の増殖を求めて自らを貫通する関係性を構成し直し、新しい共同体を構築しようとする、個人性にはけっして限界づけられない集団的欲望なのではないだろうか」
浅野さんはこの論文で、『談』インタビューのその次を展開しているのである。
2007年05月26日
『談』のインタビュー、今日は、ダブルヘッダー。
サウンドイメージ研究所/Laboratory Cafe dzumiへ。泉さんすっかりマスターになっている。今日、このスペースをお借りして弘前大学の冨田晃さんにインタビューをするのだ。窓際のテーブル席でインタビュー開始。冨田先生はサックス奏者でスティールパン奏者で三味線弾きで彫刻もやる、文化人類学者にして美術の先生。生きながら死んでいくより、死んだように生きていく方をとると言い、つまらないものを守るよりも、身体が感じているものを守りたいと強い調子で言い切る。クリエイティヴであり続けるための戦略と戦術にたけてるひと。カーニバルとは本来目的がないから面白いのであって、その意味では遊びと同じだ。ラテンの感覚を強くもつとても気さくな人だった。道を挟んだ向かいにあるフレンチの店、芙葉亭で食事。2時15分を回ってしまったので、タクシーで次なる目的の場所、日体大へ。15時15分。ドアを開けるとすでに研究会は始まっていた。思ったより沢山の参加者がおられる。ちょうど稲垣正浩先生が発言中。これは前の発表者に対するコメントだった。われわれを加えて、いよいよ稲垣先生の発表。「スポーツと暴力」は、興味を引くテーマだ。先生の発表は、休憩を挟んで、2時間以上に及んだ。内容は、ソレルとベンヤミンの暴力論を手がかりに、暴力そのものが両義的な概念であり、スポーツは暴力ではないかという仮説に基づいて、検討していくというものであった。近代スポーツがドーピングという事態を引き起すのは、論理的にみれば必然である、という議論はとても興味のあるところだ。この講演会をもとにインタビュー記事にするという目論見。さて、はたしてうまくまとめることができるだろうか。
2007年05月11日
差別とは、自分と世の中をつなぐひとつの形ではないか。
少し時間がたってしまいましたが筑波大学大学院人文社会科学研究科教授・好井裕明さんから『差別論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』(平凡社新書)を贈呈していただきました。好井さんには、『談』no.39「理論のプレシオジテ」という特集でインタビューをさせていただいただきましたが、昨年『TASC monthly』への原稿執筆のお願いで20年ぶりにお会いしました。(「日常的な差別や排除を考えること」というタイトルで、『TASC monthly』no.372号に掲載)。本書は、その原稿ももとになっていると「あとがき」に記されています。
「差別。確かにそれは、差別する者の行為や意識に宿っており、差別を受ける人々のこころや日常を侵害していくものだ。これは間違いないだろう。しかし、この発想だけで差別を考えるとき、差別は「事件」となり、私たちの日常生活からは、確実に離れたものとなるだろう。そうではない、差別は常に、私たちが生きている日常で起こっていることであるし、これまで生きてきた歴史の中で、起こってきたことなのである」。「とりあえず、こう考えを変えておきたい。差別は「してはいけないこと」「あってはならないこと」ではない。差別は、「してしまうもの」であり、「あってはならないと思うが、そのためには、何をどのようにし続けたらい(ママ)のか」と自らが日常生活のなかで考え、いろいろと実践するうえでの"意味ある手がかり"であると」(本文より)。
差別とは、自分と世の中をつなぐひとつの形ではないか。私が、差別といかにして出会えるか。そこから、具体的な差別とのつきあい方を立ち上げようと提言します。そのための一歩は、まず「決めつけ」「思い込み」を崩すこと。すべてはそこから始まります。
差別原論?〈わたし〉のなかの権力とつきあう
2007年05月06日
スポーツを現代思想する先生
日本体育大学教授・稲垣正浩先生の研究室へ。先生はお食事中だった。さっそく、打ち合わせに入る。僕のことばが少なかったことをあらためて詫びて再度正式に依頼をする。先生は話し好きだ。こちらの話をちゃんと聞いて、それから、口を開くと湯水のように言葉が湧き出てくる。お面の話から太極拳の話へ、西谷修さんの話から、スポーツそのものの話へ。気がつくと1時間30分はしゃべっておられた。これならテープを取っておけばよかったと後悔。それでも、来週あらためてインタビューにうかがうと約束し研究室を後にする。今度の企画、予想以上に面白いものになるかもしれない。
2007年03月08日
酒井隆史さんと廣瀬純さんのトークセッション
お知らせです。
『談』no.76の対談ご登場の酒井隆史さんと『TASC monthly』2006年12月号のサロンにご寄稿いただいた廣瀬純さんのトークセッションが開催されます。以下は主催の人文書院編集部からの情報です。
闘争の最小回路??運動・メディア・共同体
酒井隆史×廣瀬純
[司会]櫻田和也(remo)
ひとりひとりの内にある「政治」を可能にするパワー、
行為と力のクリスタル=闘争の最小回路を刺激するメディアとは何か、
そして、共同体と政治・運動の関係とは?
ラテンアメリカ社会運動の最前線から考える、
気鋭の論客による注目の初対談!
日時
2007年4月14日(土曜日)午後6時30分〜(開場:午後6時)
入場無料、予約不要
場所
新今宮・フェスティバルゲート4階 remo
(最寄駅)JR環状線「新今宮」下車すぐ、
地下鉄御堂筋線・堺筋線「動物園前」5番出口直結、
南海本線・高野線「新今宮」徒歩5分、市バス「地下鉄動物園前」
(地図)
新今宮・フェスティバルゲート4階
remo[NPO法人 記録と表現とメディアのための組織]
2007年03月06日
工学は理系では左翼、しかし、文系では右翼。
文理シナジー学会に所属していたこともあって、日頃から文系、理系の間に横たわる深くて暗い川(野坂昭如?)の存在が悩ましく感じられていた。ほんとに文理の融合、文理の総合なんてできるのかと問うことは重要だけれど、その埋めがたい溝がではどうして生まれたか、ぼくにはむしろそっちの方に関心があったのだ。昨夜アーティストの木本圭子さんと話していた時に、ふとこんな仮説が浮かんだ。両者を分かつのは、じつはその見方そのものにあるのではないかということ。どちらの立場から見ているのか、ということ自体が、両者を分けてるいるのではないか。以下がそのアイデア。『談』no.73で広井良典さんがアメリカでは、保守主義が右でリベラルが左、ところが欧州では、リベラルは右で左にあるのは社会民主主義。つまり、社会民主主義ーリベラリズムー保守主義という図式になっていて、この図式が正しく理解されていないと大変な誤解が生じるというものだった。これはそのまま、科学、工学、人文科学の区分けにいかせるのではないかと思ったのだ。つまり、理系では、最も人間の営みから遠くにあるのが科学。さしあたって数学がその権化だろうが、図式で言うと理系の世界の最右翼に位置する。その逆に、人間の生活、生き方に最も近いのは工学。端的に人間、社会に役に立つ、利用可能なのが工学である。工学とは、その意味でまさに応用科学である。したがって、理系の世界では、最左翼に位置付けられる。一方、文系ではどうか。じつは、人間の活動、生活を表象のレベルでみる限り、最も遊離しているのが工学である。まさにそれは機械が活動する領域であって人間が入る余地がない。だからこそ、逆に工学ではヒューマンスケールということが声高にいわれたりもするわけである。つまり、文系の世界では、工学は最も右に位置付けられる。反対の極にあるものはなにか。人文科学である。人間の営み、生活、生き方に最も接近している領域こそ人文科学である。哲学、社会学、精神分析とかがその代表である。
下のような図式になっているのではないか。
理系の世界 工学(engineering) 左←[人間、社会]→右 科学(science)
文系の世界 人文科学(liberal arts) 左←[人間、社会]→右 工学(engineering)
この図式は、理系からみた場合の工学の位置づけ、文系からみた場合の工学の位置づけを表している。さて、どうだろうか。 『談』の最新号のeditor's noteにも記したように、岡田節人さんが、生命科学は、再び生物学に回帰するべきだという言葉をもう一度噛みしめてみたい。理系の世界に棲む人々にとって生命とは物質そのものであり、工学的な操作可能なモノなのだ。ところが、文系に棲む人々は、生命とはスピリチュアリティであって、工学を寄せ付けない「いのち」あるものとして理解している。だからこそ、理系では、その生命に「いのち」あるものを再発見して、再び生物学へと回帰しようとしているのてはないか。だとしたら、文系の人々は、「いのち」をどう捉えているのか。ひょっとすると、理系とはまったく反対の方向に向かいつつあるのではないか。この問題は、少し立ち入って考えてみたいと思っている。
2007年02月27日
『談』最新号、本日全国一斉発売!!
『談』no.77号が発行になりました。2月27日全国書店にて一斉発売!!
特集は、「「いのち」を記録する---生命と時間」
「時間」を組み込んだ、新たな生命科学の可能性を探ります。
西洋美術に深く入り込む「生-政治」を批判し、記憶と時間、脳と意志の関係に大胆に切り込み、枚挙主義に陥る現在の生命科学を、「ゆらぎ」、「よどみ」から検討します。
●岡田温司 いのち(ビオス)としての芸術作品……保存・修復の「生-政治」
●池谷裕二 時間(とき)は脳の中でどう刻まれているのか……生命、複雑性、記憶
●金子邦彦 生命システムをどのように記述するか
非線形数理モデルによる驚愕のヴィジュアル表現!!
平成18年度(第10回)文化庁メディア芸術祭アート部門大賞に輝いた
木本圭子さん (メディア・アーティスト)の、受賞後最新作「Imaginary Numbers」を3点掲載!!
定価800円+税
表紙 木原千春
詳細は左のナビゲーション・バー「最新号」をクリック
2007年02月19日
1月間に3冊の出版! 執筆も立体法ですか。
香山リカさんから、またまた新刊を贈呈していただきました。それも、別の版元から2冊。1年に3冊出したといったら、「今年は飛ばしてますねぇ」と言われるだろうに、香山さんたら2月(1月間)だけで3冊!!
『知らずに他人を傷つける人たち』(ベスト新書)は、職場や家庭でいじめや嫌がらせを表すことばとして新たに登場した「モラル・ハラスメント」、略称モラハラについて。それははたして病気か。モラハラをなくすにはどうしたらいいか。モラハラをしないようにするには何に気をつけるべきか。香山さんが指南する。
『頭がよくなる立体思考法 RIFの法則』(ミシマ社)は、香山さん自らが編み出し、実際の臨床に活かしているという思考法の奥義書。Rは、reality(現実)、I は、inteligence、imagination(知識、情報、想像)、Fは、fantasy(空想、妄想、創造、直感)。ビジネスの法則や経験から導きだされたものではなく、精神医学の知識やこれまでの精神科臨床で得た経験から生まれたもので、香山さん自身が、初めて会う患者さんの診断を猛スピードでしなくてはならない時に、知らず知らずにこのRIF立体思考法」を使っているのだという。
いずれもまだ斜め読みしかしていないので、とりあえず出版されたことをご報告します。
知らずに他人を傷つける人たち
頭がよくなる立体思考法?RIFの法則?
2007年01月22日
トレードマークの赤いベレーと長〜い顎髭の大先生にお会いしました。
経済学者の宇沢弘文さんにご自宅でインタビュー。門の呼び鈴を鳴らすと、先生自ら外の玄関まで出てらして扉を開けてくれました。トレードマークの赤いベレーを自宅でも着用。うかがえば、これはバスク民族へのリスペクトなのだとおっしゃる。そうでしたか、納得。奥様が入院なさっているとのことで、コーヒーとお菓子などをせっせと運んでくださるのです。しばらく外に出ていかれて戻ってこられた時には、焼酎とビールの入った袋をぶら下げておられました。「そうそうワインが残っていた」と、ぼくたちに仏ワインを注ぎ、ご自分は焼酎のお湯割り。まあ、ゆっくりやりましょうと、そしてニコニコしながらインタビューは始まったのでした。
まだ、10時30分です。でも、勧められればやっぱり飲んじゃいますよ、第一口をつけないなんて失礼ですものね。これまで沢山の方にお話を伺ってきましたが、インタビュー相手のお宅におじゃまして、朝からアルコールをご馳走になるなんてはじめて。なんと楽しいインタビューでしょう。
さて、その内容はというと、ジェイコブスの何がそんなにすばらしいのか、彼女の都市の思想について、「いいまちをつくる4つの原則」を軸にお話いただきました。コルビュジェの「輝ける都市」に真っ向から異を唱えたジェイコブス。彼女の主張は一つ、都市とは人間的でなければいけないと。先生は、筑波大学とルーヴァン大学の新キャンパス(ベルギー)を比較して、前者がコルビュジェの思想によってつくられたためにいかにダメか、逆に後者がジェイコブス的視点を取り入れているためにどんなにすばらしい大学になっているか、実感を踏まえて説かれました。詳しくは、『city&life』の83号に掲載しますので、それをお読みいただくとして、余談を少し。じつは先生、東大が大嫌いなのです。心底嫌らしく、ぼくらが東大卒業でないというと、顔を赤らめて喜ばれました。それから、生前のジェイコブスを初めて訪ねたときのこと。先生はどんな感想をおもちになったと思いますか。それがじつは……、いやいや、これはオフレコでした。それを聞いて、ぼくらは腹の底から大笑い、とだけ言っておきましょう。それから若尾文子さんと初めて会ったときに、彼女を……、おっとこれも言ってはいけないことでした。若尾さんといえば、黒川紀章夫人。そうです、ジェイコブスの訳者の……、おっと、こいつもダメ。あぶないあぶない。いずれにしても宇沢先生、本当に楽しい時間をありがとうございました。
2007年01月15日
銀座の煉瓦街の歴史が、ビルとビルの間の路地に堆積していた。
銀座・松崎煎餅店の2階喫茶室へ。法政大学大学院エコ地域デザイン研究所・岡田哲志さんインタビュー。銀座のフィールドワークから得た銀座の場としての底力を、ジェイコブスの残した宿題に絡めながら語ってもらった。場所性をどう論理化するか、都市のプロパーに求められているものは、それに尽きるような気がする。岡田さんの銀座400年の実証的研究こそ、まさにその論理化の豊かな成果だと言える。ご著書『銀座400年 都市空間の歴史』(講談社メチエ)をぜひお読み下さい。
インタビューのあと、銀座の魅力である路地を駆け足で見て回る。4丁目の宝童稲荷神社の置かれているL型の路地。こんなところにお稲荷さんがあるなんて。それと、7丁目の直線にして100mのビルとビルの間に挟まれた路地。ここは途中ビルを中を通り抜けるもの。その入り口と出口にはなんと自動ドアがあって、ビル内路地の両脇の店舗が閉まる夜間でも、24時間通行が可能という驚くべき仕掛けつき。しかもその出口付近に直行するもう1本の路地は、明治の煉瓦街にできた時の名残りだ。歴史が重層する小さな極小の都市空間としての路地。もう一度、写真撮影に来るので、詳細はその時に報告しましょう。
2007年01月03日
永遠のサウダージを変奏するブラジル
管啓次郎さんより『ホノルル、ブラジル 熱帯作文集』を贈呈していただく。「そこにブラジルの美しさがあった。広大さ、不均衡、極端な対立、対立物の一致、すべてを浸すさびしさ。熱帯のマンハッタンみたいなリオの海岸通りにだって、交通の喧騒や人々のざわめきが一瞬止まり、なんともいえない静寂がふわりと漂うときがある。そのとき、ぽっかりと、ある扉が開く。ぼくらは、そこから広大さへと出てゆく。すると永遠のサウダージ(郷愁)を変奏するブラジルがはじまり、ブラジルは誰の人生にとっても、一度はじまったらもう終りをしらない」(本文/おびより)。ブラジルを何度か旅した者にとって、この言葉はとても腑に落ちる。あの終りのない強烈な騒ぎの真っただ中で唐突にやってくる切なさ、そんな時間を誰でも一度は経験することになる。それがブラジルという場所でのみ許された特権的な知覚体験、サウダージュなのだ。イパネマ海岸やアマゾン流域の都市マナウスの忘れがたい相貌。遠いはずの記憶が現在只今この一瞬に身体を貫通していく。粘ついた空気と混じり合うような体温。ぼくはいまどこにいるのか。管さんの本を読むことが、じつは僕にとってすでにもう一つの旅なのである。こうして、またぼくはブラジルの地を踏むことになるのだ。
ところで、本書に収められた最初の6のエッセイは、ぼくらが編集していた雑誌『SNOW』の連載記事の再録である。あの事件さえなければ、たぶんあと2年は続き、もしかすると一冊の独立した本になったかもしれない。編集者としては、ちょっと悔しいですね。
ホノルル、ブラジル?熱帯作文集
2007年01月01日
虹色に輝く球体エル・アレフで始まる1年って…
年の始めにあたって、書庫から一冊持ち出して読むということがここ数年のならいになっている。といっても、年末年始と妻の実家に帰省するので、出がけにあわてて取り出してくることになるのだが。で、今年の栄誉ある一冊は何か。ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『エル・アレフ』。学生時代に旧訳で読んでいたが、一昨年、木村榮一さんの訳で平凡社ライブラリーの一冊として刊行されたのを知って買っておいたのだ。短編集である本書の最初の短編「不死の人」も好きだが、やはり、表題にもなっている「エル・アレフ」が面白い。地下室に存在する直径2、3センチメートルの虹色に輝く球体エル・アレフ。その中に宇宙空間がそのまますっぽり収まっていて、一つ一つの事物が重なり合うようにして無限にあり続ける。夜明けやたそがれや、アメリカの群衆や壊れた迷宮、ピラミッドに巣をつくる銀色の蜘、たばこや雪や鉱脈や胸に癌を患った女性やプリニウスの書物……、とにかく森羅万象ありとあらゆるものがこの球体の中に存在するのである。さらに驚くべきことに、それをのぞき込んでいる自分自身の視線までもそこにはある。しかもそれが無数にあることを、自らの目によって確認できるというのである。乱歩の無限地獄もマンディアルグのプラトン立体も、「エル・アレフ」にとってみれば、その部分でしかないような絶対球体。しかし、なんで今年は『エル・アレフ』だったのか。ほとんど無意識に選んでもってきたので、これを今読みたいと意識したわけではなかった。なんであれ、何かを象徴しているような気もするわけで、今年は波乱万丈な一年になりそうな気配だなあ。
2006年11月24日