思想

いよいよ明日14日B&Bにてトークイベント開催!!

いよいよ明日14日B&Bにてトークイベントが開催されます。
70回目を迎える終戦記念日の前夜に、桂英史さんと今福龍太さんがアメリカについて考え、語り合います。
お席にまだ余裕があるようです。ぜひこの機会に、お二人の話にじっくり耳を傾けましょう。
参加ご希望の方は事前申し込みをお願いします。
出演:桂英史、今福龍太
司会:佐藤真(『談』編集長)
【日時】
8月14日(金) 20:00〜22:00(19:30開場)
【場所】
本屋B&B
東京都世田谷区北沢2-12-4 2F
【入場料】
1500yen+1drink order(500yen)

『談』 no.103「メディア化するコミュニケーション」刊行記念トークイベント

『談』no.100 特集「 人間、もう一度見つけだす。」が7月10日に発売になります。

『談』no.100 特集「 人間、もう一度見つけだす。」
7月10日 全国一斉発売!!
表紙は、桑原盛行さん

談no.100.表紙


デカルトを嚆矢とする機械論的世界観の登場は、人間を機械と見做し、世界を動かす物理的なシステムの構成要素、いわば歯車に還元しました。歯車と最も遠くにあると思われていた人間が、歯車そのものになってしまったのです。歯車でありかつ歯車でないもの。近代以降、現代に至るまで、人間は、この相容れない両輪の、いわば「また裂き状態」に置かれ続けているのです。
このまた裂き状態のなかで、われわれに対し「新たな人間」という概念を模索する必要性を問うたのが、2011年3月11日に発生した東日本大震災でした。地震・津波・原発事故が、われわれに突きつけたものは、機械としての歯車から、自然である歯車への構造転換ではないでしょうか。今こそまた裂き状態からの脱却が求められているのです。
3.11から3年、未だ被災地の復興は道半ばですが、すでにあの時の記憶は薄れつつあります。それとともに、3.11が投げかけた「新たな人間」という問いかけも風化し始めているのではないでしょうか。だからこそ、もう一度、3.11が突きつけた問題、すなわち「人間」そのものについて、さらには「また裂き状態」からの脱却を模索する必要があるでしょう。『談』は今号で、100号を迎えます。この記念すべき号を人間再考の第一歩とします。

インタビュー者は以下の先生方です。

人間は生き物であり、自然の中にある……科学者と共につくる生命論的世界観
・中村桂子さん
(JT生命誌研究館館長)

科学技術が自然と向き合っていない。東日本大震災で明らかになったのは、この事実であり、現代の科学文明が抱える問題は、おしなべてこの事実に集約できるでしょう。科学が生まれ、そこから開発された科学技術によって進歩を続けてきた近代。16,17世紀の科学革命を経て、自然を一種の「機械」と見なす機械論的世界観が近代を形付けてきました。機械論の特徴は、一切を数値化するところにあります。徹底した数値化は、自然を操作可能な対象へと変えてしまった。要するに、自然を「死物化」したのです。私たちがやらなければならないことは、今一度自然と向き合い、自然を生き返らせることではないでしょうか。それは、近代の機械論的世界観から生命論的世界観への転換を意味します。
人間が生きものであり、自然の中にあると考える立ち位置を決め、そこに足場を置き、科学がつくってきた世界観を科学者の立場から問い直すこと。東日本大震災後の人間観について、主に科学と人間のかかわりから考察します。


人間の自由、あるいは思考のための退屈のススメ
・國分功一郎さん
(高崎経済大学経済学部准教授)
國分さんは、著書『暇と退屈の倫理学』で、「退屈と気晴らしが入り交じった生、退屈さもそれなりにあるが、楽しさもそれなりにある生、それが人間らしい生」だと言い、楽しむことは思考することにつながると断言します。楽しむことも思考することも、どちらも受け取ることにおいて同じであり、人は楽しみを知っている時、思考に対して開かれているというのです。
退屈とどう向き合っていくかという問いは、あくまでも自分にかかわる問いであると國分氏は言います。しかし、退屈と向き合う生を生きていけるようになった人間は、おそらく、自分ではなく、他者にかかわる事柄を思考することができるようになるとも付け加えます。だとすれば、3.11以降、われわれが求めている「人と人とのつながり」を、どう解釈すればよいのでしょうか。それは〈暇と退屈の倫理学〉のなかであげられた、「どうすれば、皆が暇になれるのか、皆に暇を許す社会が訪れるか」という次なる課題と、どう関連していくのでしょうか。暇・退屈・楽しみを切り口に、3.11以後のエシックス(倫理学)を開陳していただきます。


「人間的」のなかには、「非人間的」が内蔵されている
・鷲田清一さん
(大谷大学教授、仙台メディアテーク館長)
ヒューマニズム、あるいは人間主義。それは、「人間」というものに、他の何とも替えることのできない固有の「尊厳」を見出す思想です。ひとがどのような境遇にあろうとも、すなわち、どのような階層に属し、どのような国籍、性別をもち、どのような年齢にあろうとも、それら一切とかかわりなく「人間」としてその存在が尊重されねばならないとする思想です。「人権」という観念もここに由来します。しかし、この「人間的」(human)という審級は、どこにその根拠をもつのでしょうか。
「人間的」という言葉を措くことで、人間は、何を伝えようとしてきたのか。そして、3.11以前と以後とで、「人間的」という概念に、意味の異同が生じてはいないでしょうか。「人間的」という言葉を批判的に検討することで、3.11以後の新しい「人間」像に迫ります。

[インタビュー者プロフィール]
・中村桂子(なかむら・けいこ)さん
1936年東京都生まれ。東京大学大学院生物化学修了。三菱化成生命科学研究所人間・自然研究部長、早稲田大学人間科学部教授、大阪大学連携大学院教授などを歴任。1993年、自ら提唱する「生命誌」の理念を実現する「JT生命誌研究館」を設立、副館長に就任。2002年より館長。著書に、『生き物が見る私たち』(和田誠と共著)青土社、2014、『ゲノムに書いてないこと』、青土社、2014、『生命誌とはなにか』講談社、2014、『科学者が人間であること』岩波新書、2013、『生命科学から生命誌へ』小学館、1991、他多数。また館の季刊誌「生命誌」をまとめた生命誌年刊号を毎年編集・刊行。

・國分功一郎(こくぶん・こういちろう)さん
高崎経済大学経済学部准教授/哲学
1974年千葉県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。パリ第10大学、パリ社会科学高等研究院DEA取得。博士(学術、東京大学)。現在、高崎経済大学経済学部准教授。専攻は哲学。著書に、2013、『ドゥルーズの哲学原理』岩波現代全書、2013、『暇と退屈の倫理学』朝日出版社、2011、『スピノザの方法』みすず書房、2011、訳書に『カントの批判哲学』ジル・ドゥルーズ著、ちくま学芸文庫、2008、『マルクスと息子たち』ジャック・デリダ著、岩波書店、2004、他。

・鷲田清一(わしだ・きよかず)さん
1949年京都生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。大阪大学教授、大阪大学総長などを歴任。現在、大谷大学教授、せんだいメディアテーク館長。哲学・倫理学を専攻。著書に、『「自由」のすきま』角川学芸出版、2014、『〈ひと〉の現象学』筑摩書房、2013、『パラレルな知性』、晶文社、2013、他多数。

辻井喬さんがほんとうに目指したこととは。

新聞、TVなどですでに皆さんもご存知でしょうが、作家の辻井喬さんが、亡くなられました。セゾングループ元代表(堤清二)として80年代、90年代、生活総合産業を掲げ、西武百貨店、西友、パルコを中心に、日本の流通・小売業をけん引してきましたが、一方、総合的かつ革新的な文化運動の推進者でもありました。文学、美術、音楽、舞台、映像といったジャンルで、また、自ら詩人・作家としてさまざまな表現分野にもかかわり続けました。辻井喬さんのこうした幅広い活動を、「戦後日本の文化創造」という観点から位置付け直し、同時代およびその後の時代にどのような影響を与えたかを掘り下げたのが、『談』no.90特集「辻井喬と戦後日本の文化創造…セゾン文化は何を残したか」(2011年発行)でした。セゾングループの拡大路線がバブル崩壊で破たん、グループ企業の経営からは退きましたが、辻井喬さんの目指した文化とビジネスの融合は、2000年代に入っていよいよその意義が問われています。辻井喬さんの業績をたどるとともに、あらためてその思想の深部を捉えることは、意味のあることだと思います。最新号とあわせて、ぜひこの機会にご購読いただくことをおススメします。

 no.90表紙




哲学者による、とてつもなくぶっ飛んだインタビュー集

医学書院の編集者・白石正明さんから村上靖彦著『摘便とお花見 看護の語りの現象学』を贈呈していただきました。本書は4人の看護師さんにインタビューをし、その逐語録を著者の専門である現象学という方法を用いて分析したものです。こう言ってしまうと、「な〜んだ、看護師さんの語りを起こしたものか、それもたった4人、それでいったい何がわかるっていうの」という言葉がすぐにも返ってきそうですが、さにあらず。本書はとんでもなくぶっ飛んだインビュー集なのです。
帯に「看護師の尋常ではない語りに耳を傾ける」とあるように、たった4人ではあるけれども、その4人の口から溢れ出る言葉の群れは、おそろしいまでに多様かつ多彩です。時に澱んだり、反復したり、すっとんだり。あるいは自ら発した言葉に激しく反応するなんてこともしばしば。しかし、それは決して感情や心理状態を表すものではないし、著者はむしろそうしたものからできるだけ逃れようとすらしている。言葉の密林にわけ入っていくことで、逆に言葉ならざる言葉、行為ならざる行為に出会ってしまう私という不思議。たった4人の肉声のなかに何千人もの声が反響しあう。そんな瞬間、瞬間の連鎖が、われわれの日常というものの本性なのかもしれない。
とても尋常とはいえない営みのなかに見出された「とるにたらない日常」。生きるとはまさに矛盾そのもの。インタビューというありふれた手法が、じつは、ぜんぜんありふれていないということを、本書は静かに、しかし確信をもって示そうとしているのです。
付章として書かれた「インタビューを使った現象学の方法」が秀逸。この最後の章は著者のインタビュー論であると同時に、「現象学入門」でもあります。ただし、とてつもなくぶっ飛んだものなので、取り扱いには気を付けましょう。



節目を迎えた第12回臨床哲学シンポジウムは、木村敏氏と鷲田清一氏がご登壇!

毎年お知らせしていますが、今年も臨床哲学シンポジウムが開催されます。テーマは「臨床哲学とは何か」。今年は、本臨床哲学シンポジウムを精神医学から主導してきた木村敏氏と、哲学から臨床哲学を立ち上げてきた鷲田清一氏が発表を行い、そこに指定討論が加わるという特別企画です。

企画趣意(津田 均)
 私自身は精神科医であるがゆえに、木村敏氏の、おもに内因性精神病の臨床経験から、自己論、時間論を経て生命論的差異という独自の構想へ進んだ骨太な思想の流れは、身近なものとなっている。鷲田清一氏については、壮麗な整合的体系を作りあげるという哲学の通説を覆し、聴取の力と起結を持たないエッセイの力を表舞台に出す構想が、精神医学の経験を広く取り込み、その冪乗を精神医学にも送り返していることを読みとる。
 以下ごく手短に、未完成ながら私的な問題意識を述べたい。
 3つの透明性を考えてみる。他者の透明さ、自己の透明さ、そして精神疾患に付随する透明さである。3種類の透明さに触れることには、それぞれに含意がある。それはまずは、本来不透明なはずの他者も透明に与えられる面がありそうだが、何がそれを可能にしているのか、一方、自己には自己に不透明なところがありそうだが、それはいかに生じてくるのかという問である。そしてさらに、精神疾患には、われわれに、「何か」を、独特の仕方で透明に与えるところがあるのではないかという展望である。
 とりわけこの3つ目に挙げた透明さが、われわれにある道筋を辿らせるのではないか。それは、元来語り得ないように見える経験の深奥に達する語り、「0次からの語り」を紡ぎ出す道筋である。この道筋は多様であってよいが、強靭な思考により拓かれ、繋がっていなければならないであろう。ここで精神医学は、哲学的思考力を必要とする。同時に、とはいっても、この道筋の繋がりを作る思考が、その強靭さに自閉し、実践に体系的抑圧をかけてはならないであろう。そこで入れ替わりに現れてくるのが、哲学に発する臨床哲学が強調する関係の「独自性」ではないか。ただし、このことを治療場面で問題にするとき、けっして特権的治療局面のことだけが問題となるわけではないだろう。特別な転回点なく進んだ治療、マスに適用されて十分有効な治療を、次元の低いものと考える必然性はわれわれにはない。そうでなければ、精神医学の領域には、無数の凡庸な治療と、特権的だがある種のいかがわしさを払拭し得ないエピソードが残るということになりかねない。それでも、関係の独自性は常に治療の場にあり、柔軟にそこで働き続けているし、働き続けていなければならないと言ってよいのではないか。 多くの交錯を期待しつつ当日の議論を待ちたい。

日時 2012年12月16日(日)11:00〜18:00
会場 東京大学鉄門記念講堂
〒113-0033 東京都文京区本郷7-3-1 医学部教育研究棟4F

【プログラム】

木村 敏 (発表1) 11:00〜12:00
「臨床の哲学」
コメンテーターとの討論
木村敏vs野家啓一・鈴木國文・兼本浩祐・出口康夫  12:00〜13:00

(昼食 13:00〜14:00)
鷲田清一 (発表2)            14:00〜15:00
「哲学の臨床」
コメンテーターとの討論
木村敏vs野家啓一・鈴木國文・兼本浩祐・出口康夫  15:00〜16:00
(休憩 16:00〜16:15)
全体討論            16:15〜18:00

司会 谷徹、内海健

参加料 1000円 資料代含む 学生無料
事前の申し込みは不要です。
お問い合わせ シンポジウム本部事務局 tel:052-735-1706

河合塾グループ/第12回 河合臨床哲学シンポジウム/サービス案内

地に足がついた探求

新潟県長岡に来ています。三島億二郎の足跡をたどるため。長岡といえば、河井継之助と山本五十六が有名ですが、三島は、越後長岡藩士で長岡の復興と近代化に尽力した事業家であり政治家。長岡のまちづくりに貢献した一人として、長岡では知らない人がいないといわれる名士です。ところがなぜか、地元以外では知られていないんですね。そこで、その知られざる巨人を訪ねて長岡にやってきたわけですが、さすが地元です。三島億二郎はとてもよく知られていました。地方には、そういう人がたくさんいるものです。まち歩きが大好きな僕は、「人」を入り口に、そのまちの最深部へ向かいます。ヒト、モノ、コトを訪ねる旅。『談』でも、いずれこうしたフィールドワークものに挑戦したいと思っています。思想を深めるためには、地に足がついた探求が絶対必要ですね。

『談』最新号「特集 魂の承継」本日発売!!

『談』最新号「特集 魂の承継」のアブストラクトとeditor's noteを「最新号」にアップしました。
右のメニューバーの最新号をクリックしてください。

いかにしてわれわれは、暇な時間のなかで、自ら楽しむことができるか。

『tasc monthly』8月号で「生存の外部…嗜好品と豊かさ」というテーマで寄稿いただいた國分功一郎さんに、今度は、「豊かさとは何か、楽しむとは何か」というテーマで講演をお願いした。「豊かさは〈無駄〉と切り離せない。何もかもが必要のギリギリしかなかったら、誰も豊かさを感じることはできない。とはいえ、無駄を肯定するというのもしっくりこない。ぜいたくをして、ものを浪費して、それでいいのかという疑問は当然である」。ここに難問が生まれると國分さんは言う。じつは、この難問は「楽しむ」という行為そのものの意味とかかわっているというのが國分さんの主張だ。現代社会は私たちから「楽しむ」ことの可能性を奪っているのではないか。「〈楽しむ〉ことを巡る諸問題は、たとえば消費社会、環境問題、あるいは現代の健康志向など、さまざまな問題と絡み合っている」という。嗜好品というものをヒントにしながら、現代社会の問題点、そしてこれからの社会のあるべき姿についてお話いただいた。
講演内容は、『tasc monthly』に掲載予定。

スペキュレイティヴ・ターンにジェームス・ブレイクが出会う時。

そういえば、昨日のインタビューで、篠原先生の口からジェームス・ブレイクの名前が挙がった。グレアム・ハーマンやカンタン・メイヤスらのスペキュレイティヴ・リアリズム(思弁的実在論…『コラプス』、『スペキュレイションズ』をベースに生まれた新たな哲学潮流)に言及した際に、「言語的転回以降を経験した者にとっては、ひきこもることの方がよほど重要」だと指摘、その兆候はすでに随所に出始めていると述べられた時、ふいにその名前が挙がったのだった。「ジェームス・ブレイクなんてまさにそうでしょ、僕の言ってるひきこもることってブレイクの音楽のことですよ」。
ちょうど今年のフジロックで、ジェームス・ブレイクのライブを見て、ぶったまげた僕は、この発言にすぐに膝を打ったのは言うまでもない。ポスト・ダブステップの貴公子かどうかはどうでもいいことだが、そのライブの異常さは尋常ではなかった。ホワイトステージに集まった数千人の観客は、まるで夢遊病者のように踊り続けていた。沈黙より深い静謐な時間。そのなかでダンスすること。インテンシティとは、まさしくこのことだと思ったし、それこそ「ひきこもる」ことのもうひとつの意味なのだ。なにより、思弁的転回の意味を論じているまさにその論脈において、ジェームス・ブレイクが引きあいに出されること。スペキュレイティヴ・ターン(思弁的転回)は、本当に起っているのだ。

「痛み」の声を聴くこと。

『談』no.96「特集 痛みの声を聴く」のインタビューが始まった。今日は、その第1日目、つまり今回の特集の皮切りだ。大阪大学大学院国際公共政策研究科特任准教授・篠原雅武さんにお話をうかがった。近著『全-生活論 転換期の公共空間』の一つのカギが「痛み」である。「痛み」の感覚の麻痺、鈍麻からの可能性を促し、「痛み」それ自体が麻痺させられていることの仕組みを明らかにしていただこうというのが今回の趣旨だ。生活世界を「包み込む全体性」として取り戻すこと。それはいかにして可能か。もろさ、脆弱さ、あやうさがもたらすであろう私たちの未来に対して、その予兆が「痛み」ではないかという指摘は、アガンベンのいう装置としての例外空間が偏在する時代にあって、きわめて示唆的であるといえる。環境はいうまでもなく社会も精神も壊れていく実在空間において、今、私たちにできることは、「痛み」の声を聴くことなのではないか。この問いかけは、次にインタビューする粥川準二さんに引き継がれるであろう。
ところで、一昨日別の媒体(『city&life』)の対談(千葉大学教授・木下勇さんと東京学芸大学教授・松田恵示さん)で、お二人が指摘された社会に多義的な意味を了解してくことの重要性は、まさにここでいう「痛み」と呼応するように思われる。手前味噌ながら、「痛み」という言葉は、今を語るうえで重要なキーワードなのかもしれない。

霊感でもなく、パワースポットでもなく、オカルトでもない、本当に大切な「魂」の話 11月10日全国一斉発売!!

『談』no.95の特集は「魂の承継」。
からだから遊離してしまう「魂」のことを失われた「いのち」といいます。けれども、われわれの前にある、失われた「いのち」とは、死者のことなのでしょうか。
もともと「魂」は人間だけではなく、生きているすべてのものに存在すると考えられてきました。なんらかの形で受け継がれ、受け継いでいくものとしての「魂」。「魂」の原義や違いについて古今東西の思想を掘り下げながら、「魂」の意味するものを捉え直し、日本人やヨーロッパ人の死生観、あるいはその言説に寄り添いながら、魂を受け継ぐこと=「魂の承継」について、死生学、ヨーロッパ思想史、宗教学の視点から考察します

■インタビュー
◎島薗進さん(東京大学大学院人文社会学系研究科教授)
「日本人の死生観と魂の承継」
ごく普通に考えるならば、「死の研究」と訳されるはずの言葉が、わが国ではなぜか「死生学」として定着しました。それは、「死生観」という言葉がすでに存在していたからにほかなりません。生と死を表裏一体のものとして捉えてきた日本人。その独自の思考方法は、日本人の「魂」観と深いつながりがあります。日本人の死生観において「魂」はどのように位置づけられてきたのか、そのことを踏まえながら「魂を受け継ぐ」ことの意味を探ります。

◎神崎繁さん(専修大学文学部哲学科教授)
「魂の像/道具としての身体…ヨーロッパ思想のなかで「魂」はどう捉えられてきたか」
ホメロスの時代に形成され、そしてプラトン、アリストテレスにおいて一つのまとまった概念として、その哲学大系に位置づけられた魂(プューシケー、アニマ)。それは、近代哲学の始まりを告げるデカルトの思想へもつながっていきます。ギリシャ以来のヨーロッパ思想史を「魂」観の系譜として捉え直し、魂と身体の分離/結合、集中と分散のベクトルの交錯を軸に、「魂」の含意するものを探ります。

◎安藤泰至さん(鳥取大学医学部准教授)
「死のなかの生、生のなかの死…宗教、魂、スピリチュアリティ」
たとえば、生命倫理の問題は、「生とは何か」「死とは何か」、さらには生きているとはそもそもどういうことをいうのかという根源的な問いをわれわれに突き付けます。元来宗教や宗教学は、そうした問いを問いとしてまるごと受容し、なんらかの「答え」を出すものとして機能してきました。その根底には、「魂」への深い共感があるからでしょう。個別宗教を超えて、いわば宗教を越境するように存在するスピリチュアリティとしての「魂」。宗教と「魂」の関係をスピリチュアリティを軸に考えます。

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表紙1

現代思想をアップデイトする。

以前『TASC マンスリー』にご登場いただいた玉川大学教授・岡本裕一朗先生と編集者・ライターの斎藤哲也さんから『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる現代思想』を贈呈いただきました。発刊のご案内にもありましたが、この手のガイドブックは少なからず類書が出ているのに、取り上げられている思想家の顔ぶれはどれも同じ。時代が変わってあらたな思想も台頭し、またニューヒーローも出てきているのに、なぜかそうした動向は無視されたまま。そこで本書は、構造主義・ポスト構造主義のフランス現代思想、フランクフルト学派を中心とするドイツ現代思想は押さえながら、英米の正義論、システム論や近代世界システムの社会学を取り込んで、現代思想そのものをアップデイトしようと書かれました。最終章「この思想家を見よ」で、ネグりやバトラー、レッシグ、アガンベンらを取り上げているところに、本書の特徴がよくあらわれています。現代思想と言いながらやや”現代性”に欠けていた現代思想。本書は、旬の思想にスポットをあてることで、現代思想が今も進化し続けていることを私たちに教えてくれるのです。なにを隠そう本書の発行元である日本実業出版社で『哲学・思想コーパス事典』をつくったのはアルシーヴ社でした。それから26年、アップデイトされたのは私だったというわけですね(笑)。
フシギなくらい見えてくる!  本当にわかる現代思想
フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる現代思想
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ファシズム時代の日本とドイツの「食・政治・思想」をめぐる問題

藤原辰史先生著『ナチスのキッチン』(水声社)の刊行記念 としてトークショーが開催されます。
ジュンク堂書店池袋本店HPより

■2012年5月31日(木) 19:30〜
「食べること」から見るファシズム
藤原 辰史(東京大学大学院講師)×山室 信一(京都大学人文科学研究所教授)

モダニズムの洗礼を受けつつも、「血と土」を標榜したナチス・ドイツ。
このいっけん背反するヒトラー政権のイデオロギーのもと、民衆のキッチンはいかに設計され、どのような器具が用いられたのか。
そして、どのような食材が調理され、何を食べて戦時下を生きたのか。
―19〜20世紀にかけて刊行されたレシピやキッチンカタログを駆使してこのテーマに挑んだのが、水声社より4月下旬に刊行が予定されている、藤原辰史さんの『ナチスのキッチン』です。
では、かつての日本の現実はどうなっていたのか?
そしてわたしたちが生きるこの社会で、「食」の未来はどう変容してゆくのか。
近代日本政治史をめぐって先駆的な研究をされている山室信一さんをゲストにお招きして、とくに第一次世界大戦後からファシズム時代にかけてのドイツと日本、この2つの国の「食・政治・思想」をめぐる問題を語り合っていただきます。

◆講師紹介◆
藤原 辰史(ふじはら・たつし)
1976年生まれ。東京大学大学院農学生命科学研究科講師。専攻は農業思想史・農業技術史。
主な著書に『ナチス・ドイツの有機農業』(柏書房、2005、日本ドイツ学会奨励賞)、『カブラの冬』(人文書院、2011)など多数。訳書にE・ブロッホ『ナチズム』(水声社、2008)がある。

山室 信一(やまむろ・しんいち)
1951年生まれ。京都大学人文科学研究所教授。専攻は近代日本政治史・法思想史。
主な著書に『キメラ―満州国の肖像』(中公新書、1993/2004、吉野作造賞)、『思想課題としてのアジア』(岩波書店、2001、アジア・太平洋賞特別賞)、『複合戦争と総力戦の断層』(人文書院、2011)など多数がある。

■会場 ジュンク堂書店池袋本店 4階カフェにて
■定員 40名(お電話又はご来店にてお申し込み先着順)
■入場料 1000円 (ドリンク付)
■受付 お電話又はご来店(1Fサービスカウンター)にて先着順に受付。
※トークは特には整理券、ご予約のお控え等をお渡ししておりません。
※ご予約をキャンセルされる場合、ご連絡をお願いいたします。

イベントに関するお問い合わせ、ご予約は下記へお願いいたします。
ジュンク堂書店池袋本店
TEL 03-5956-6111
東京都豊島区南池袋2-15-5


岡本裕一朗先生の「ネオ・プラグマティズム」入門はほんとうにわかりやすい。

『tasc monthly』(2007年11月 No.383)で座談会「空間管理社会」にご出席いただいた玉川大学文学部教授・岡本裕一朗先生より新刊『ネオ・プラグマティズムとは何か ポスト分析哲学の新展開』(ナカニシア出版)を贈呈していただきました。
「1979年にローティが『哲学と自然の鏡』を出版して以来、彼の思想は〈ネオ・プラグマティズム〉として注目されるようにな」り、「アメリカ国内だけでなく、世界中に影響を与えるようにな」りました。「今日では、〈ネオ・プラグマティズム〉を無視して、現代思想を語るのは不可能」といいます。ところが、日本には、「〈ネオ・プラグマティズム〉を全体として理解できるような入門書がな」く、ローティ以降の思想となると、ごく限られた専門家が注目するくらい。ならば、自分で書くしかないと一念発起、わが国最初の「ネオ・プラグマティズム」入門書が上梓されたというわけです。
ポストモダニズムが衰退したのを横目に見ながら、ネオ・プラグマティズムは、今、まさに多様な可能性を切り開きつつあるのではないか。その意味で、ネオ・プラグマティズムこそ、ポスト近代へ向けた知の組み換えそのものだと岡本先生は主張します。
本書がきっかけでネオ・プラグマティズムに興味をもった人には、理解を深めるためのブックガイドが用意されています。また、ネオ・プラグマティズムの新展開である「環境プラグマティズム」についても一章割いて論じられているのがうれしい。
ネオ・プラグマティズムとは何か−ポスト分析哲学の新展開−
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「西谷修さんを囲む会」のお知らせです。

稲垣正浩先生から「第58回「ISI・21」3月東京例会の開催について」のご案内がきましたので、転載します。
                 
「第58回「ISI・21」3月東京例会の開催について」
●日時:2012年3月19日(月)13:00〜18:00
場所:青山学院大学・ガウチャー礼拝堂のある建物の5階第13会議室(正門をまっすぐ進んで突き当たりの右手にある大きな建物がガウチャー礼拝堂のある建物です)
●プログラム
 第1部:13:00〜14:30 情報交換(研究情報,近況報告,ブックレヴュー,     学会情報,など)
 第2部:14:45〜18:00 西谷修さんを囲む会
     テクスト:ナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン』──惨事便乗型資本主義の正体を暴く(幾島幸子・村上由見子訳,岩波書店,2011年刊)から,なにを読み取るか。
     コメンテーター:三井悦子,竹谷和之,ほか(交渉中)
     司会:稲垣正浩
世話人:河本洋子,稲垣正浩
※なお,例会終了後,懇親会を予定しています。参加を希望される方は3月13日(火)までに,河本洋子,または稲垣正浩までご連絡ください。
※この例会についての趣旨は,「稲垣正浩Web」(インターネットで検索するとでてきます)の2月24日のブログにかなり詳しく書いておきましたので,そちらを参照してください。
※その他の問い合わせは,メールでお願いします。
※以上。
稲垣先生から以下のような注文が…
ひとつは,スポーツ史・スポーツ文化論の研究者の集まりであること。
ふたつめは,人数に限りがありますので,早めに稲垣(メール:inagaki@isc21.jp)に
連絡をして了解をえること。できれば,主たる関心事(専門,仕事,など)を教えてい
ただけると幸いです。なお,当日,名刺をいただける方(匿名は困ります)。

グローバル都市における「自由空間」は、いかにして可能か。

国際研究ワークショップ 「空間とガバナンス」のお知らせ
主催:大阪大学グローバルCOE「コンフリクトの人文学国際研究教育拠点」(横断するポピュラーカルチャー研究プロジェクト) 、京都大学グローバルCOE「親密圏と公共圏の再編成をめざすアジア拠点」コモンズ大学ノマディスト・スユノモN●対抗的公共圏であると共にオルタナティヴ親密圏としても機能する自由空間の創出と運営をめぐって、その具体的実践に焦点を合わせて労働と遊びの視点から考察。同時に、グローバル都市における開発資本と対抗的占拠の緊張関係から自由空間の未来を展望します。(開催趣旨より)
●日時:2012年1月14日(土)15日(日)
(時間は午前10時〜終日を予定しています。)
●会場:京都市地域・多文化交流ネットワークサロン(希望の家)
〒601−8006 京都市南区東九条東岩本町31
●報告/コメンテーター予定者(順不同・敬称略):
イジンギョン、パクウンソン、チェジンソク、今政肇、ユソン、伊藤公雄、濱西栄司、冨山一郎、渡邊太、高橋淳敏、吉澤弥生、堀江有里、古川岳志(他)
(プログラムは決定次第お知らせします。)
横断するポピュラー・カルチャー 国際研究ワークショップ 「空間とガバナンス」

複数のルネサンスのくり返し

ふりかえってみると、『談』では中世スコラ哲学の周辺をめぐる議論を何度も紹介してきました。そんな中世哲学の読み直しの試み! 神崎繁氏、熊野純彦氏の編集、執筆者には山内志朗氏も。「講談社BOOK倶楽部」の本書紹介より。
神と存在と言語と……哲学史を変える哲学史! 中世哲学を鮮烈に読み直す
中世哲学とは、複数のルネサンスのくり返しであった――。三位一体論とはなにか。一なる神の本質と三つの位格とは。イスラーム哲学とキリスト教世界の交錯とは。アウグスティヌスとトマス・アクィナスを大きな峰としながら、複数性、脱中心性、多文化性を特色とするその多様な思考の世界を、「再開の哲学」として再構成する、意欲的な試みの第2巻!
目次序論 再開の哲学 鈴木泉 1 ヘレニズム哲学 近藤智彦 2 教父哲学 土橋茂樹 3 中世の言語哲学 永嶋哲也・周藤多紀 4 イスラーム哲学――ラテン・キリスト教世界との交錯 山本芳久 5 盛期スコラとトマス 上枝美典 6 中世における理性と信仰 加藤和哉 7 志向性概念の歴史 藤本温 8 様相概念 山内志朗
西洋哲学史 2 「知」の変貌・「信」の階梯 (講談社選書メチエ)
西洋哲学史 2 「知」の変貌・「信」の階梯 (講談社選書メチエ)
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人生の深淵どころか、宇宙の深淵が……

『談』no.93インタビュー2人目は、能楽師(下掛宝生流)の安田登さん。安田さんは、他にも公認ロルファー(アメリカのボディワーク、ロルフィング専門家)、論語研究者、甲骨文字研究者、中小企業診断士などの肩書をもつ、まさに多才多能の人だ。今回は、本職である能楽についてお話を伺った。
能の主役はシテであり、能について知ろうとするとたいがいはシテが中心になる。しかし安田さんが注目するのはワキだ。ワキに魅了されて27歳の時能楽師になった。ワキは脇役でしかないといわれているが、果たしてそうだろうか。能におけるワキは、決して脇役=副次的役割を担う人という言葉ではくくりきれない複雑な存在だと安田さんは言う。ワキの役割とは、シテの物語を引き出し能世界をつくる、だが、決して表には出てこない一種の「場」のような存在であり、だからこそ能においてはシテ以上に重要な存在だというのだ。
ワキの立場から見ると、能とは、ワキが異界の住人であるシテと出会う物語だといい直すことができる。二人の出会いが実現した時、そこに異界が出現する。その出会いを実現するためには、ワキは自分の存在をできるだけ無に近づける必要がある。その行為が、ワキにおける旅だという。しかもその旅は、乞食の行であり、そうであるからこそ、ワキは異界との出会いを通して、新たな生を生き直すことができるというのだ。
能における不思議な存在ワキ。ワキこそ、他者の他者としての〈自分〉ではないか、そんな仮説をぶつけてみた。さて、安田さん、果たしてどうお答えになったか。これがとんでもない方向に発展して、あれよあれよという間に、一大文明史が開陳されたのであった。人生の深淵どころか、宇宙の深淵がぽっかりと大穴を開けて待ち構えていた! みなさん、こうご期待ですぞ!!

西谷修先生を迎えて、バタイユ『宗教の理論』の徹底的読解!!

『談』で何度かお世話になっているスポーツ史家・稲垣正浩先生からイベントのお知らせです。
西谷修先生を迎えて、バタイユ『宗教の理論』の徹底的読解!! 参加自由なので、みなさんふるってご参加ください。
          「ISC・21」6月東京例会の開催について

 標記の件について下記のとおり開催いたしますので,万障お繰り合わせの上,ご参集いただけますようご案内いたします。
                  記
1.日時 2011年6月18日(土)13:00〜18:00
1.場所 青山学院大学15号館4階15408教室
    (15号館は,正門入ってメインストリートの突き当たり手前右手にあるガウチ     ャー記念礼拝堂の建物です)
1.プログラム
 第一部:13:00〜14:00
     ブックレヴュー,情報交換,近況報告,など。
 第二部:14:15〜18:00
     ジョルジュ・バタイユ著『宗教の理論』をどのように読み解くか。
     ──スポーツ史・スポーツ文化論的読解の試み
〔問題の所在〕・・・人類が「動物性」の世界から「人間性」の世界へと<横滑り>したとき,なにが起きたのか。すなわち,自己感情の世界から離脱し,自己意識の世界に移動するとき,なにが起きたのか。そのことがのちのちの人類の生き方になにをもたらすことになったのか。また,「宗教」の発生現場と「スポーツ的なるもの」の出現現場は不即不離であった,という仮説は可能か。これらの問題について『宗教の理論』読解をとおして考える。
     問題提起:稲垣正浩(「ISC・21」主幹研究員)
     応答者:西谷 修(東京外国語大学大学院教授)
                               以上。

※例会終了後,夕食を兼ねた懇親会を予定しています。参加希望者は,6月15日(水)までに稲垣(inagaki@isc21.jp)宛てにご連絡ください。
※使用するテクストは,ジョルジュ・バタイユ著,湯浅博雄訳『宗教の理論』,ちくま学芸文庫です。
※テクストのうち,訳者による「意識の経験・宗教性・エコノミー──解題に代えて」(P.183〜241)は必読です。バタイユ思想のなかでの『宗教の理論』の位置づけを理解する上でたいへん便利です。
※できれば,『呪われた部分・有用性の限界』(ジョルジュ・バタイユ著,中山元訳,ちくま学芸文庫),『贈与論』(マルセル・モース著,吉田禎吾/江川純一訳,ちくま学芸文庫)もお目通しいただけると助かります。議論のなかで,しばしば話題にのぼることになるとおもいますので。その他では,『非−知』(ジョルジュ・バタイユ著,西谷修訳,平凡社ライブラリー)も必見です。                以上。
                 6月東京例会世話人:河本洋子・稲垣正浩。

次号特集は、「理性の限界、知性の限界」です。

ツイートしましたように、4月22日午前中に大阪大学コミュニケーションデザインセンター准教授・平川秀幸さんに「自然はいつでも〈想定外〉、科学の不確実性とどう付き合うか」をテーマに、午後には、南山大学人文学部キリスト教学科准教授・柳澤田実さんに「ノンコミュニケーションを含みこむコミュニケーション…生の流れを妨げない思考」をテーマに、お話を伺いました。いずれも、内容の濃い、充実のインタビュー。no.91号は、6月末発行の予定。乞うご期待。

人々はなぜ、『』、『』、()、《》、“”を使ってしまうのか。

括弧の意味論括弧の意味論
著者:木村 大治
エヌティティ出版(2011-02-10)
販売元:Amazon.co.jp
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『談』no.81 特集「〈共に在る〉哲学」で、「共在感覚」というユニークな概念を披露された京都大学の木村大治さんから、『括弧の意味論』を贈呈していただきました。
括弧とは、『』、「」、()、〈〉、《》、“”など、文中に出てくるあの括弧のこと。あの括弧たちはなぜ多用されるのか、いつから使われるようになったのか、なんのために使われるのか、それよりなにより括弧とはそもそもなんなのか。さまざまな括弧をめぐりながら、人間のコミュニケーションのありように迫るというもの。
冒頭木村さんは、『週刊新潮』(2010年9月9日号)の車内つり広告の見出しを取り上げます。
・「管側近」と「小沢側近」ゴマすり爛丱疊罎
・「ホメオパシー」を持ち上げて叩いた「朝日新聞」
   ↓
・管側近と小沢側近ゴマすりバカ比べ
・ホメオパシーを持ち上げて叩いた朝日新聞
としても、文章的になんの問題もないのに、なぜ使われるのか。余分であるように見えながら、妙に気を引くのが、こうした括弧の存在。
木村さんは、じつは学生の時から括弧の存在が気になっていたといいます。そこで本腰を入れて調べ始めたら、面白いことがたくさんわかってきました。しかも、ご自身の専門である人類学とも大いに関連があるというのです。身近な事例を取り上げながら、一般向けの読物として書き下ろされたのが本書です。
「(…)括弧のもつ働きが、「本流」(とつい括弧をつけてしまうが)の言語学が対象とする書字的な領域を超えて、コミュニケーションという現象のもっとも根本的な機序にふれているのではないか(…)それは、まさに私のこれまでおこなってきた、人と人との相互行為に関する研究の興味と一致している」と木村さん。筆者を含めて、日頃括弧を多用しているライターや著者の先生、なぜ自分は『』や()を使ってしまうのか、一度じっくり考えてみるのもいいのでは、などとちょっとエラそうかな、かっこ、笑、かっことじる、なんちゃって。

春日先生から届いた「老いの見本帳」

老いへの不安 歳を取りそこねる人たち
老いへの不安 歳を取りそこねる人たち
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「人生なんて呻(うめ)き声をあげたくなるようなことの連続ではないか。ましてや老いたら、それはそれで独自の当惑や〈釦(ボタン)の掛け違い〉、恥や失望や悔しさが待ち受けているに決まっている。ならばそのようなものを、まずは他人事として味わってみるのも一興ではないか。それが人生の参考になるとか他山の石になるというのではなくて、ああ、こういったことってあるかもしれないなあと思ってもらえれば十分である。あるいは意地悪な楽しみであっても構わない。
気負った言い方をするならば、種々様々な悲しみや煩悶や屈託を見知ってこそ、我々は豊かになれる。その上で、若作りをする初老期を笑うのも結構だし、共感を寄せるのも結構ということになる。
こうして、活字を追っている間にも、刻一刻と我々は老いていく。そして歳を取りそこねる人もいれば、スマートに歳を取っていく人もいる。老いの見本帳(ダークサイド版)として本書を読んでいただければ幸いである」。

春日武彦先生、本出しすぎ!!って、つい数日前にここに書いたら、また新刊が贈られてきました。
あいかわらず春日先生の筆致はさえまくってます。残念ながら、寄り道は少ないけれど、その分老いの周囲をいったりきたり。ぜんぜん前に進んでいかない。それがまたなんとももどかしい。帯には「老いることは、むずかしい。」とあります。でもね、いや、そうでもないぞ、とほんとは言いたいんじゃないですか。だからダークサイド版なんですよね、先生。

佐々木中さんのトークショーのお知らせ

佐々木中さんのトークショーのお知らせです。
佐々木さんからのメールをそのまま転載します。佐々木中です。

4月15日19時から紀伊國屋サザンシアターで「前夜はいま」と題してトークライヴをすることになりました。詳細は以下の通り。

http://www.kinokuniya.co.jp/label/20110324120718.html

内容は、坂口安吾研究会が中止になってしまったので、そこで考えていた話をしようかと思っていますが、正直まだ本決まりというわけではありません。

ここはキャパシティが400人で、ゆえ30人ほどの無料ゲスト枠がいただけることになりました。先着順でご招待しますので、もしお時間そして場処が合えばご一報下さい。無論みなさまご多忙と存じますので、必要ない場合は返無用でよろしくお願いします。

では! 

『つまらない人生入門 鬱屈大全』を贈呈していただきました。

臨床の詩学
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つまらない人生入門 (鬱屈大全)

つまらない人生入門 (鬱屈大全)
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2月に贈っていただいた『臨床の詩学』を紹介しようと思っていたら、ポストに『つまらない人生入門 鬱屈大全』が入っていた。春日武彦先生の新刊だ。昨年の10月に『天才だもの。』を出して、わずか半年で3冊。もちろん、月刊誌なみに、次々と本を出す人はいるし、50歳の節目に200冊目を出版することができましたなどと、その業績を誇る御仁もいるにはいる。それから比べれば、決して早いとはいえない。しかし、春日先生の本を一度でも手に取ったことがある人ならば、そのペースは、およそ先生らしくないと思うにちがいない。春日先生の生み出す言葉は、いつも、決まって少しだけ余所見をしている。いや、余所見というより、寄り道だ。少し寄り道をするうちに、ずんずんと寄り道が過ぎて、気が付くとまるで関係のないところをうろうろしている、ということがしばしば起こるのである。そんな文章だから、いや、そんな文章ばかりだから、とてもたくさん本を出すような人のようには、どうしても思えないのである。
寄り道というと、子供の時分のことを思い出す。愉しいものだから、ついつい寄り道をして……、しかし、先生の寄り道は、そういうのとは違う。先生の寄り道は、ちっとも愉しそうではない。むしろ、それをどこかで呪っているようにすらみうけられる。なのに、ずんずん行く。
新刊のタイトル。これはなんなんでしょうか。目次をみると、第1話「絶望感」、第2話「喪失感」、第3話「嫌悪感」、第4話「脱力感」……、こんな調子で、芋づる式にネガティヴこのうえないテーマが続く。吉野朔美さん(大ファン!!)の漫画がそれぞれの話におまけのようにくっついているのだが、これがまた話に輪をかけて後ろ向きなのである。それで、ずんずんと行くものだから、しだいにその後ろ向きが、なんだかとてもふつうに、居心地良いものに思えてもくるから不思議だ。ネガティヴなもの、それはゆっくりしたもののことなのか。つまり、スローライフ?  先生、やはり1年1冊くらいのペースがよろしいかと。

『談』のインタビューが採録された佐々木中さんの新刊

みなさまからご本を贈呈していただいたのに、お礼もまた紹介もできずにいました。ほんとうに申し訳ございません。これから、過去にさかのぼりつつ、取り上げていきます。
今日は、佐々木中さんの新刊。『足ふみ留めて  アナレクタ1』です。アナレクタ(analecta)とは、著者によれば「残肴すなわち残り物ひいては拾遺余禄のたぐいを指す羅語」。この総題のもとに今まで折に触れ依頼あれば書いてきた随筆、書評、対談、討議、インタビューなどを選書として発刊していくといいます。「当て所もなく迂路を踏み迷う思考の足跡をひと区切り束(つか)ねておくというその特質ゆえ加筆修正は行わず、後から発見した過誤や幼さもその折々のおのれの未熟の刻印として残すことにした」とのこと。近々続刊も刊行されるようです。
本書をなぜ佐々木さんは贈ってくれたのでしょうか。じつは、『談』no.85特集 生存の条件で行った佐々木さんへのインタビューがそっくり採録されているからなのです。しかも、インタビューの本文の下段に『夜戦と永遠』より引用・転載させていただいた第一〇二節も、そっくり掲載されています。ぼくとしてもこのインタビューはとても印象深いものでしたし、佐々木さんの思想の核心部ちょっと手前までは近づけたかなと思っていたので、こうして単行本に入れていただけたことはとてもうれしいです。他にも、未発表の対談や、『現代思想』の白石嘉治さんと松本潤一郎さんによるロングインタビューが収録されています。
足ふみ留めて---アナレクタ (アナレクタ 1)
足ふみ留めて---アナレクタ (アナレクタ 1)
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被災地の早期の復旧をお祈り申し上げます。

311日の東北地方太平洋沖地震により、

お亡くなりになられた方の

ご冥福をお祈り申し上げます。

また、被災された多くの方に心からお見舞い

申し上げますとともに、

被災地の早期の復旧をお祈り申し上げます。


更新を怠っている間に、大変なことになってしまいました。
すでに、『談』でお世話になった先生やライター、写真家、デザイナー、印刷所の方々、それぞれのやり方で行動を起こしておられます。
思想、言論においても、3.11以前と以後では、その在り方(存立も含めて)それ自体も、変わらざるを得ないでしょう。
『談』もその例外ではありません。今後の特集は、3.11を新たなる出発点と捉え、思考停止することなく、「以後」を生きるべく、言説空間を掘り起こしていきたいと思います。


最新号web版をアップしました。

『談』no.88のweb版をアップしました。左のメニューバー「最新号」にアクセスしてください。

タイムライン的リアリティと空っぽの「リアル」

ツイッターの向こうに広がる世界 現実とバーチャルの融合が生み出すタイムライン的リアリティ。 わたしは、いま、からっぽの「リアル」の入り口に立っている……。 ツイッターのリアル、ケータイのリアル……つながりを求めて、つながりから離脱する「私」鈴木謙介 関西学院大学社会学部准教授 理論社会学 「生きられる時間」はどこにあるのか……高速化の中、時計からはみ出す私一川誠 千葉大学文学部行動科学科准教授 実験心理学 無内包の「現実」あるいは狂った「リアル」入不二基義 青山学院大学教育人間科学部心理学科 ●特別企画日高理恵子 空との距離より 表紙 吉澤美香最新号 8月31日発売!! 『談』no.88 表紙.jpg

『談』最新号「リアルはどこで生まれるか」明日8月30日発行!!

『談』の読者のみなさま。またしても更新を怠ってしまいました。この間、さまざまなことがあったのですが、つい、怠けて、書きそびれて、明日は書こう、明日は書こうと思いつつ、気がつくと、すでに6月。アッチャー、ですって書いてから、再び2ヶ月間のだいぶランク。みなさんどうもすみません。 さて、明日8月30日、『談』no.88が発行になります。書店発売は、31日、どうぞよろしくおねがいいたしま〜す。 『談』no.88 ■ ●ツイッターのリアル、ケータイのリアル……つながりを求めて、つながりから離脱する「私」鈴木謙介  関西学院大学社会学部准教授 理論社会学 ●「生きられる時間」はどこにあるのか……高速化の中、時計からはみ出す私一川誠  千葉大学文学部行動科学科准教授 実験心理学 ●無内包の「現実」あるいは狂った「リアル」入不二基義  青山学院大学教育人間科学部心理学科教授 ●特別企画日高理恵子 空との距離より 表紙 吉澤美香

表紙.jpg

自己啓発本こそ司牧権力から派生した「統治性」のことだ。

「勝間和代を目指さない」のコピーが目を引く香山リカさんの新刊『しがみつかない生き方』が評判だ。このブログでも、紹介したが、本書の主張は「ふつうの幸せ」こそ最高の幸福で、その基本は「しがみつかない」生き方だ、というもの。「成功を呼ぶ○○」だとか「○○で年収10倍アップ」だとか『成功のための心理学』とか、ちまたにはいわゆる自己啓発を呼び掛ける書籍があふれている。それらは、結局のところ単なる自慢競争にすぎない。「ふつう」でオッケー。むしろ「ふつう」であることをこそ貫き通すベきだ。もちろん、香山さんはそんなに強く言ってるわけではない。いや、「ふつう」でいることの方が、じつはよほど大変なんだという。だからこそ、「ふつう」でいいのだというわけだ。
ところで、自己啓発本である。今や、本屋の棚のかなりのスペースがこの類いの本で占められている。ビジネス書のコーナーに自己啓発書がいつから並ぶようになったかは定かではないが、確かなことは、その占める割合が増えていることだ。デール・カーネギーの『道は開ける』とか最近ではスティービン・R・コヴィーの『七つの習慣』とか、ベストセラーになったものもいくつかある。これら自己啓発本こそ、じつはフーコーのいう司牧権力から派生した「統治性」である。「統治性」とは、まさにビジネス書の世界に他ならない。こう断言するのが『夜戦と永遠』の著者佐々木中さんだ。
佐々木さんは言う。「歴史的事実として、ベンサムのようなリベラリズム、自由主義の元祖のような人たちが、デール・カーネギーのような「うまくやっていく」ための処世術、マネジメント、生き方の処方箋みたいな本を書いているのです。まさにフーコーが批判的に取り上げた「一望監視装置」のベンサムがね。これが、フーコーの言う宗教的な「司牧権力」の後継としての統治性の結果なのです」
そして、『七つの習慣』には、とんでもないことが書かれていると言い、それを真っ向から批判する。佐々木さんはなんと言ったか……。詳しくは『談』最新号佐々木中インタビュー「この世界における別の生……霊性・革命・芸術」をお読み下さい。

『談』特集「生存の条件」が発売になりました。

特集「生存の条件」が発売になりました。

左のメニューバー最新号からアクセスしてください。

表紙は、齋藤芽生さんの作品「花輪其の五・君待つ宿」より「彼誰茶屋」。
生存の条件の特集タイトルの中央に花輪です。なんとアイロニカルなデザイン!!
また、ヴィジュアルページには、池田学さんの超絶細密作品を掲載しています。   
まさに、ここに描かれているのは生存をめぐる壮絶な興亡史!! 『談』no,85表紙

場が励起する「speak、talk、 and think」

「三鷹天命反転住宅」にて開催された「トポロジル・トーク・セッション」無事終了しました。パネリストの先生方ならびに観覧者の皆さん、また、場所を提供していただい たABRFのスタッフの方々および『談』発行元のTASCの皆さん、ごくろうさまでした。正味5時間の白熱した議論。いくつも仮説が飛び出し、身体への新たな見方が提出され、まさにこの場所だからこそなしえたディスカッションだったと思います。トポスの力。ランガージュは場所の励起が生み出すものだということを、今回のトーク・セッションであらためて確認しました。常にそのランガージュの先端に向って耳を開くこと。そして、身体を開くこと。『談』は、これからも「speak、talk、 and think」に拘り続けます。今回のトーク・セッションは、『談』no.86特集「エンボティメント」10月末発行に収録予定。楽しみにお待ちください。

山田規畝子さんの「自分で自分の身体を意識する練習」とは。

神戸文化ホールで開催された「第10回日本認知運動療法研究会学術集会」に参加した。ちょうど2000年第1回の大会がやはり神戸で開かれたが、その時の会員は200名。それが今年、2000人に膨れ上がったという。申し訳ないけれど、小さな集会程度と思っていたので、ホールエントランスをうめつくす人々に、正直たいそう面食らった。会場ではじめて宮本省三さんにおめにかかる。挨拶を交わし、いざホールへ。学術集会長・高木昭彦さんの話のあと 、『壊れた脳 生存する知』の著者・山田規畝子さんの招待講演。その後、パネリストを交えディスカッション。認知運動療法の体験者でもある山田さん。高次機能障害を当事者の側からその世界を語り、また、認知運動療法のリハビリを受ける側から語る。とくに、ディスカッションでは、山田さんは左半身に麻痺があり、それまで左を無視する生活が続きイヤなことも体験された。それが、リハビリの過程で、自分で自分の身体を意識する練習を重ねることで、身体の左側が自分であることを獲得していく。今まで自分のものでなかった身体の半分を、自分の身体として意識できるようになっていく、そのプロセスをまさに生きる身体として語るその姿に、僕は驚かされた。認知機能における右と左の問題、これは自然界における対称性の崩れの問題に直結する。すごく密度の高いディスカッションになった。昼食後、講師控え室で河本先生と宮本先生で12日の件の打ち合せ。一般演題(ポスターセッション)会場に行ってぶったまげた、ものすごい人なのだ。それも学生が多い。こういう若い連中が今リハビリの現場で研究と実践に励んでいるのか。今、知というものはどうもこいうところにあるらしい。午後にもう一つ「我々の臨床は変革できるのか」というシンボジウム。そして。本日のフィナーレを飾ったのが河本先生の映像+パフォーマンス作品。認知の樹プロジェクト「ディア・インディヴィジュアル」。レセプションパーティーで、パフォーマンス(朗読)で参加された人見真理さんを紹介していただく。『現代思想』別冊「メルロ・ポンティ」特集で「「ゼロのキネステーゼ」 までに 脳性麻痺児の身体」を書かれた女性。いずれ河本・人見対談を実現させたいと思った。学術集会は明日もあるのだが、僕は最終で帰宅する。

フリッツ・パールズによる自伝的ゲシュタルトセラピーの入門書

フレデリック・パールズ著『記憶のゴミ箱 パールズによるパールズのゲシュタルトセラピー』(新曜社)を訳者・原田成志さんより贈呈していただく。ゲシュタルトセラピーは、フリッツ(フレデリック)・パールズ、ローラ・パールズ、ポール・グッドマンによってつくられた理論で、名称が示すように、ウェルトハイマーやゴルドシュタインのゲシュタルト心理学から強い影響を受けている。1952年にニューヨーク・ゲシュタルト研究所が設立され、本格的な研究が開始されたという。本書は、創始者の一人パールズの自伝である。自伝というかたちをとりながら、ゲシュタルトセラピー誕生とその深化の過程が明らかにされている。とくに、内部領域、中間領域、外部領域での気づきやコンタクトの理論、4つの抵抗システム、投影、取り込み、反転行為、融合といったゲシュタルトセラピーの基本理論が丁寧に解釈されていて、ゲシュタルトセラピーの入門書としても読むことができる。とりわけ、自身の癖や性格をあからさまにしたうえで,それをゲシュタルトセラピーによって分析・解決するという構成になっているところがユニークなところだ。ところどころに詩が効果的に使われ、ふんだんに使用されているイラストが親しみをもたせる。近年ゲシュタルトセラピーへの関心が再び高まっているという。今後の動向を知るうえでも、本書は格好のテキストとなるだろう。


記憶のゴミ箱?パールズによるパールズのゲシュタルトセラピー
記憶のゴミ箱?パールズによるパールズのゲシュタルトセラピー
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「トポロジカル・トーク・セッション」のタイムテーブル発表

■7月12日 公開連続対談「トポロジカル・トーク・セッション」のタイムテーブル発表

12時開場

13時 開催の挨拶

13時5分〜14時25分
 ●セッション1[近さと経験] 
 河本英夫(東洋大学文学部教授/システム・デザイン)
   ×
 柳澤田実(南山大学人文学部キリスト教学科准教授/哲学・倫理学、宗教学)

休憩+「三鷹天命反転住宅」の説明(15分)

14時40分〜16時
 ●セッション2[私はどのように動いているのか…運動・予期・リハビリテーション]
 宮本省三(高知医療学院学生部長、日本認知運動療法研究会会長/理学療法士)
   ×
 河本英夫(同上)

休憩(10分)

16時10〜17時30分
 ● セッション3[からだのなかにヒトが在る…動物・暴力・肉体] 
 稲垣正浩(21世紀スポーツ文化研究所主幹研究員)
   ×
 柳澤田実(同上)
 
17時30分 終了の挨拶

その後懇親会会場「吉祥寺 sound caf? dzumi」へバスにて移動

イエス、アスリート、そしてバタイユの夜。

鷺宮の21世紀スポーツ文化研究所へ。1時間30分以上遅くなったことをわびる。さて、まずは乾杯。さっそくタイムスケジュールをみながら、内容の検討。先生は、とにかく対談のお相手の柳澤女史にえらく感激している。さっそく送っていただいた論文とともにいただいメールになんて書いてあったと思います?「「イエスは十字架に磔になったあとボールになったのではないかと考えています」さらに、「イエスを、ある種の、アスリートとして語り直すことが目下のわたしの目標です」というんですよ!! この一言でこの女性はとんでもない人だと思いましたよ。がぜん対談が待ち遠しくなってきたと続けるのである。おう、それは、良かった。たぶん、先生が期待する以上に、ぶっ飛んだ対談になるでしょう。何よりもそれを愉しみにしているのは企画者である僕ですから。それから、先生の出された会報『IPHIGENEIA』とその巻頭を飾る鼎談の話。銀座・文藝春秋画廊で開催された「柏木裕美・新作能面展」のオープニング・イベント、西谷修さん、今福龍太さん、稲垣正浩さんの鼎談が採録されているのである。今福龍太さんをじつは「三鷹天命反転住宅」の管理人にしてABRFの社長本間さんがとても敬愛していると伝えると、だったら今福さんを誘い出して、「反転住宅」でイベントをやろうよ、と話は勝手にどんどん広がっていく。ぐるぐる観念宇宙をめぐりいつのまにか「セックスとスポーツこそ身体論の最大のテーマである」という結論に落ち着いていたのである。

仲正流ウィットの利いた人文学の「トリセツ」

仲正昌樹さんから『〈学問〉の取扱説明書』(作品社)を贈呈していただきました。哲学、思想、法学、政治学、社会学、経済学…といった人文系の知を俯瞰的に捉え、その賢い使い方を伝授しようというもの。まさに「トリセツ」というネーミングがぴったりな本。大学院生と学部生の質問に先生が答えるという一見わかりやすい構成になってはいるものの、仲正流ウィットが利き過ぎていて、いわゆる左翼系現代思想派にはカンに障るところもないわけではない。しかし、そこがまた仲正本の仲正本足る所以と鷹揚にかまえて読むのがよろしいのでは。とにかく、ぼくは面白く読ませていただきました。


〈学問〉の取扱説明書
〈学問〉の取扱説明書
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労働と賃金はその端緒から分離されたものだった!?

津田塾大学国際関係学科准教授・萱野稔人さんにインタビュー。これまで、『談』では、仲正昌樹さんと「暴力とセキュリティ」、澤野雅樹さんと「いかにして消尽したものになるのか」の2回対談に出席していただいた。今回は初めて単独でお話を伺いました。テーマは「「労働と賃金の分離」の前で資本主義は沈黙するか」。 カネには交換とは別の起源と機能があると萱野氏は著書で指摘しています。奪うものと奪われるものがあり、奪う側が権利関係を無理やり組み立てて、労働の成果、すなわちカネを吸い上げていく。つまり交換は、資本主義を生み出さないというのです。カネは交換のためにあるのではなく、むしろ、国家の徴収ないし収奪のためにこそあるという。たとえば、ベーシック・インカムが提起するのは、ここの問題にかかわってくる。労働と賃金のつながりを切断しようとするのが現代の資本主義だとすれば、ベーシック・インカムはまさにその関係を逆転しようとします。働かなくたってカネはもらってもいい、ベーシック・インカムは、労働と賃金が連動していないという資本主義社会の現実を、まったく裏返しのかたちで暴くというわけです。賃労働ではない労働によって支えられている資本主義。生存と労働の関係が根本から崩れたところに発生する生存の危機について考察していただきました。 インタビューの詳細は『談』最新号をお読みいただくとして、いつものように余談を一つ。萱野さんは、昔ブルースハーピストだったそうです。なるほどあの語り口は、ブラックミュージックのグループだったんだ、と妙に納得してしまいました。

フーコーもルジャンドルも、そしてラカンさえも……

佐々木中さんにインタビュー。Tシャツ短パンにキャップ。いよいよ、こういうアカデミシャンがでてきた。いいことだ。しかし、思想的強度はそこらの教科書だけ読んでお茶をにごしているインチキ学者よりよほどすごい。で、話が始まった。この人、言葉が発せられるととたんに表情がどんどん変わっていく。大声で顔を真っ赤にして喋ったかと思うと、蚊の鳴くような声になったり。鋭い眼差しでにらみつけたかと思うと、仏様のような柔和なお顔になったり。身振り手振りが加わって、まるで舞台俳優のようだ。シアトリカルなデンケンって…、と思ったけれど、佐々木さんに限ってはそれは好感度になる。彼にかかるとフーコーもルジャンドルも、そしてラカンすらこれまでの評価は一変してしまう。今まで五万という人間が語り、批評し、論究したきたはずなのに、そのどれとも違うフーコーやラカンやルジャンドルになる。五万の人間たちは、いったい何をみていたのかと思うほど。「ちょっとむりやりな企画だとは思ったんですが」とあらかじめことわると、「そうですね」っ薄笑いをうかべていたのに、いざ始まってみれば、むりやりどころか、ほとんどストライクゾーンに直球だ。やはり、佐々木さんのインタビューを最後にもってきてよかった。とこれは、『談』の次号特集「生存の条件」に収録されます。

なぜ日本には海洋文学が少ないのか。

京王プラザホテルで、三浦雅士さんと西成彦さんの対談。西さんとは、じつは30年ぶりの再会。今日のカメラマン、伊奈英次さんも同じ。その昔、今はテレビのコメンテーターをやったりCMにもででいる荒俣宏さん宅へ一緒に尋ねていった仲なのだ。今や、向こうは大学院の教授。エッセイが映画の原作にもなって、一時期マスコミにも登場することもあったが、今は、ご自身の研究で世界を飛び回っている。なぜ日本には海洋文学が少ないのか。言語とクレオール、海と文学の関わりについて、あっと驚く理論的展開。文藝春秋発行『嗜み』第4号に収録予定。乞うご期待。

センの潜在能力アプローチの重要性にあらためて気づく。

京都へ。立命館大学大学院先端総合研究科後藤玲子教授にインタビュー。テーマは、「〈生存〉、潜在能力アプローチから考える」。アイザイア・バーリンは自由には積極的自由と消極的自由があると分類して、自由の平等な保証は、消極的自由に限定すべきだと主張した。それに対して、アマルティ・センは、むしろ積極的自由の概念に着目する。センによれば、自由とは「本人が価値をおく理由のある生を生きられる」ことを意味し、「自己にも他者にもその理由をつまびらかにしながら、ある生を価値あるものとして選び取っていくという個人の主体的かつ社会的な営みが、実質的に可能であることを意味する」という。後藤玲子氏は、「このような広義の自由を人々に平等に保障すること、そのために必要な制度的な諸条件の整備……生存を支える物質的手段の保障から個人の主体的な生を支える社会的諸関係や精神的・文化的諸手段を整えることまで……を的(object)とした」として、センの経済学において、「自由」がキー概念になると指摘する。経済システムの分析・評価・構築にあたっては、広義の意味での自由の保障……意思・利益・評価主体である個人を尊重すること……を外的視点として明示的に導入すること。センの経済学の中心にある社会的選択理論&潜在能力アプローチの重要性は、まさにその「自由」の概念にあるというのだ。人間における生存とは、また、その条件とは何か、アマルティ・センの思想をたどりつつ考察していただいた。

和魂洋才とは、結局のところ内包量の問題だった。

高木史朗著『レビューの王様…白井鐡造と宝塚』」を読み直す。小林一三が「国民演劇」に託した意味を高木さんは推理しているが、それによれば、小林は真に日本に根ざした歌劇の誕生を夢見ていたらしい。和魂洋才は、決して恥じることではなく、むしろそこから新しい日本文化は生まれるだろうと確信していたのだ。これは、もとより歌劇だけに特有なものではない。戦後の現代美術、現代音楽、映像、音楽、ダンス…、すべての創作活動に共通することだろう。形式と内包量の問題だ。形式は真似事でも極端に言えば、フェイクでもかまわない。そして、その内容もオリジナリティというよりは、質が問題になる。つまり、クオリティなのだ。質とはこの場合強度のことをいう。宝塚の類い稀なる面白さは、やはりその強度にあった。すでに25年も前に、宝塚の魅力は、直感的に「愛のシンクロトロン」と言ってみたことがあるが(拙著「天使の誘惑」『小説月光』所収)、まさにそのことが裏付けられたのである。

物事の本質に切り込まれると、人はただただ狼狽えてしまうものだ。

稲垣正浩先生の主宰する21世紀スポーツ研究所へ。『談』の特集企画の相談。仮目次を見せる。稲垣先生とあるスポーツ社会学の先生との対談を企画したのだが、稲垣先生難色を示す。「彼はぼくの顔を見たらきっと逃げ出すよ」と。そうか、そういう関係だったのか。スポーツ学の周辺では、稲垣先生はとても恐れられているらしい。要するにこうだ。稲垣先生は、どんな状況でもスポーツの本質にずばり切り込んでいくからだろう。スポーツの専門家であれぱあるほど、それが怖いにちがいない。しょうがない、もう一度一から構成を考え直そう。

特集「真逆のセキュリティ!?」が発売になりました。

no.84表紙

『談』 no.84号

特集「真逆のセキュリティ!?」が発売になりました。

左のメニューバー最新号からアクセスしてください。

表紙は、齋藤芽生さんの作品「晒野団地四畳半詣」シリーズより 「花咲爺の色褪せぬ神木」 また、ヴィジュアルページには、松江泰治さんの写真作品を掲載しています。

『談』「特集 真逆のセキュリティ!?」全国有名書店で31日発売!!

『談』no.84特集「真逆のセキュリティ!?」が発売になります。
最新号の書店さん用のチラシです。

●芹沢一也さん 〈民意〉の暴走……生命の重みが、生存への配慮を軽くする
●濱野智史さん 環境管理社会であえてアーキテクチャを活用する方法
●檜垣立哉さん 賽の一振り……無限を含んだ自己が跳躍する時


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「ブレ」ていいものと「ブレ」てはいけないもの。

某雑誌の編集会議。編集部が出した企画案を検討する。前号同様、コンセプト、ターゲット、コンテンツにブレがあるように思う。言い換えれば、ポジショニング、ストラテジー、オペレーションがブレているのだ。思うに、それぞれの中でブレるのはかまわない。というか、大いにブレるべきだとすら思っている。ブレとは、多様性のことだからだ。しかし、コンセプトからコンテンツまで、つまり、ポジショニングからオペレーションまでの流れには一貫性がないとダメである。これが揺らいでいるとちぐはぐに見える。要するに、「軸がブレる」というやつだ。 ところで、世の中的には「ブレ」はよくないものと思われている。だから、この人は「ブレがないんですよね」と紹介されると、つい、ニンマリしてしまう。しかし、繰り返すまでもなくブレたらなんでもダメというわけではない。むしろブレがあることによって、幅や奥行きがでてくるものもある。ブレていいものとダメなものを、ごっちゃにしてはいけない。コンセプトがころころ変わるのが悪いのではない。コンセプトとターゲット、コンテンツがちくはぐだからまずいのだ。 どういう位置づけで、どういう戦略をもって、どう展開するか。この軸さえきちっとしていれば、それぞれのブレはむしろ強力な武器になる。これ、マーケティングの常識です。

パラドクスを説明しようとすることがそもそも逆理なのかもしれない。

原稿のプロットづくりを始めようと思っていたら、濱野さんから最終修正稿が届く。その転記になってしまった。おやまあ、前半部分にも再び手が入っているではありせんか。たっぷり1時間以上かかってしまった。すぐに、TASCで編集企画会議。やはり、3本目の檜垣先生の原稿の説明で紛糾。ぜんぜん言っていることがわからないとキツいご意見。ここは最も説明しにくいところになるとふんでいたが、案の定、きた〜っ!!という感じ。じつは、僕もちょっぴりそう思っていました。反省。それでも、なんとか話して、とりあえずは了承していただいた。表紙の絵やヴィジュアルについて説明する。びっくりしたのは、今号のヴィジュアル、松江泰治さんの写真作品が、意外にも好評だったこと。やはり、人の好みというのはわからないものですなぁ。

現代思想として読むヘーゲル

玉川大学文学部教授岡本裕一朗先生から、ご著書『ヘーゲルと現代思想の臨界-- ポストモダンのフクロウたち』(ナカニシヤ出版)を贈呈していただきました。 しかし、なぜ今ヘーゲルなのか。岡本氏は、「はじめに」でこう記しています。「それは、ヘーゲルが今日的な意義をもっているからだ。ヘーゲルの考えでは、〈哲学〉は、〈自分の時代を思想の形で捉えたもの〉だが、ヘーゲルの捉えた時代は今でも決定的な作用を及ぼしている。〈ポストモダン〉と呼ばれる現代においても、ヘーゲルの考えは有効性は失っていない」。現代思想は、一般にヘーゲルの外で思考することだと思われているけれども、よくよく考えてみると、ヘーゲルの影響が陰に陽に現われていて、現代思想はヘーゲルの亡霊(ガイスト)にたえず付きまとわれ、それを必死で振り払おうとしているようにすらみえるという。現実と対決するために、今こそ、ヘーゲルは読み直されなければいけないだろうというのです。歴史的な、つまり過去の大哲学者としててはなく、むしろ現代思想家として読むこと。そうすることで、ヘーゲル哲学のアクチュアリティを見出すことができるという。 全体の構成は、第I部「『精神現象学』の神話」第II部「〈体系〉神話とヘーゲル神話」第III部「現代思想を生きるヘーゲル」ときて、最終章でヘーゲルの「絶対知」は、つねに現代思想であり、「フクロウ」が飛び立つのは、「きたるべき未来」へ向けてであるという言葉で締められる。 本書は、専門的な研究書ではなく、あくまで入門書だと断っていますが、まともにヘーゲルとつきあってこなかった者にとっては、『大論理学』におとらぬ大著です。先生には申し訳ないのですが、ゆっくり、じっくりと、時間をかけて読ませていただきます。 ヘーゲルと現代思想の臨界?ポストモダンのフクロウたち
ヘーゲルと現代思想の臨界?ポストモダンのフクロウたち
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『談』no.83 特集 「パターナリズムと公共性」が12日に発行になります。

最新号『談』no.83   特集 パターナリズムと公共性定価[800円+税]

 

パターナリズムが私たちを自由にする?! ……ワンクリック・パターナリズムの時代の倫理と行動

●人間の合理性とパターナリズム  瀬戸山晃一(大阪大学留学センター准教授)

…… 規制やルールに埋め込まれているパターナリズム。パターナリズムを所与のものとして捉えたうえで、どういうパターナリズムを私たちは選択すべきか。公共性の概念と照らし合わせながら検討します。

●「同意」はバターナリズムを正当化できるか。  樋澤吉彦(長野大学社会福祉学部福祉学科専任講師)

……パターナリズムは、「自己決定」を支えるための必要不可欠な要素ではないか。この仮説のもとに、ソーシャルワークという実践活動から、パターナリズムの可能性について考察します。

●〈鼎談〉幸福とパターナリズム……自由、責任、アーキテクチャ 大屋雄裕(名古屋大学大学院法学研究科准教授)×北田暁大(東京大学大学院情報学環准教授)×堀内進之介(現代位相研究所首席研究員)

……生活環境を「快適」にさせる善意のシステムがパターナリズムではないか。自由と規範、自己責任と承認、アーキテクチャの権力といったキーワードを手掛掛かりに、現代の幸福感との関わりからパターナリズムの本質に迫ります。

 ●特別企画「アール・ブリュット パッション・アンド・アクション」より

表紙 齋藤芽生

民主主義の暴走が始まったのはいつからだろうか。

SYNODOSは、オシャレなマンションの1階。本日のインタビューイーは慶應義塾大学、京都造形芸術大学講師、「SINODOS」代表の芹沢一也さん。ちなみにとてもイケメンだ。取材は、ご著書を例に出しながら、その動機とテーマについて、順番にお話していただくところから始まった。もともと臨床心理を学んでいたことから、精神医療に関心があった。フーコーは、精神医療を貫く権力の構造を析出するが、日本では、そうした権力構造を精神医学に見出すことはできなかった。その違いがどこからきているのか。その構造自体が、しかし変容する。狂気あるいは精神病の患者さんは、治療の対象から犯罪者の予備軍に仕立てられていく。日本では生-権力が、まさに下からやってくる。そこから民主主義の暴走が始まる……。『談』の最後を飾るには、じつに当を得たインタビューとなった。3月末発行予定なので、ぜひ期待してください。
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『談』とは
 
●最新号

No.110
幸福の空間戦略…地域再生〈新〉論
 
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No.93以前のバックナンバーにつきましては、アルシーヴ社(03-5779-8356)に問い合わせください。

No.109
〈ポスト真実〉時代のメディア・知性・歴史

No.108
おいしいってなに?……ひとは食をどう表現してきたか

No.107
老い衰えゆくからだ……話す・動くから考える

No.106
人と動物……動物は動物なのか

No.105
科学を科学する…領域を超えて
 
 
●別冊

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Shikohin world コーヒー
 
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