アート

「新日本風景論」の奇才による林業エンサイペティアついに登場

細密画の鶴岡政明さんからご著書『イラスト図解 造林・育林・保護』『イラスト図解 林業機械・道具と安全衛生』を贈呈いただきました。鶴岡さんには、80、90年代と『談』の表紙を担当していただいた。「新日本風景論」と題したその企画は、志賀重昴の向こうを張って、あくまでも地理学的視点で日本の風景に迫ろうとしたもの。ぼくの中で「風土」というのがテーマになっていて、自然科学と民俗誌を一体化させたようなものをやりたくて彼にお願いしたのでした。最後の数回は、鶴岡さんに細密だけでなくテキストもお願いして、それはそれはいい企画だったのですよ。個人的には「浜岡の砂丘」「奥入瀬渓谷」「屋久杉」あたりがベスト3と思っていますが、砂、霧、瀑布が大気と一体化した環境世界を見事に描き切っています。地形、気候、生活を構成する風景=風土を細密で描かせたら、たぶんこの人の右に出るものはいないと思います。
その鶴岡さんが手がけた林業大全ともいえるものがついに登場。「森林土壌」、「枝打ち」といった直球ものにまじって、「チェンソー」、「ワイヤーロープの種類」、「ヤマビル」対策といった項目もあって、まさに林業のエンサイクロペディアになってます。細密画は言うまでもありませんが、テキストがいい。鶴岡さんて、じつは昔からちょっぴりヘンなところがある人でしたが、そのちょっぴりの部分がトッピングになっていて、うんとこさオモロイものにものになっている感じ。もちろん、ぼくのように林業のリの字も知らない人間でも面白く読めますよ。そういえば、細密画にもこのちょっぴりヘンが、けっこう隠し味になっているのかも。
イラスト図解 造林・育林・保護
イラスト図解 林業機械・道具と安全衛生

ひとり人力シムシティ

新日曜美術館でアール・ブリュットを見る。旭川美術館でやった展覧会は、日本人の作品も多数出品。これが想像以上に凄かった。スイスのローザンヌでも、日本人の作品を紹介する展覧会をやって、やはり衝撃を与えたらしい。毎日同じ内容の日記を書き、その文字の部分を鉛筆で丁寧に塗っていくと、突然想像できないような図像が現れる。まるでカオス画像。鉄道の正面ばかりを丹念に描き続ける者。いきなり俯瞰した家屋を描き始め、次第にそれが町になっていく。これも驚異、全くの想像でどんどん街を描いていく。ひとり人力シムシティ。結婚式のカップルばかりを段ボールに色鉛筆で描く者。巡回する予定で、東京にも来るとのこと。これは必見だ。

「BLACK,WHITE & GRAY」展の塩の迷宮

恵比寿のMA2Galleryで始まった「BLACK,WHITE & GRAY」展へ。以前ブログでも紹介した山本基さんのインスタレーションを始めて見る。「迷宮」と題されたシリーズは、塩(を使用して描かれる)の線が、幾重にも引かれ、複雑な迷宮の世界をつくり出す。今回は、大きなガラス窓の一部を源泉にした塩製の水脈が、一度台地を形成し、しだいに微細な迷宮へと形を変えながら拡散していく。白いラインが入り組みながらまるでクモの巣のように床全体に張り巡らされている感じだ。無色透明な結晶構造は、光を与えられると乱反射を起こして白色になる。それは、単なる回路に過ぎないニューラルネットに刺激を与えると、それまで眠っていたさまざまな記憶が立ち上がり、物語という物質を生成する脳内過程を彷彿させる。生命の源でもある塩という物質が導き寄せた「迷宮」という名の記憶。この迷宮をたどることで、しばし、ぼくはぼく自身の記憶の旅を愉しませてもらった。山本さんは、インスタレーションの他にドローイングの作品と塩を材質にしたオブジェ、平面作品を展示している。
今回の展覧会は、他に関根直子さんのドローイング、藤井保さんの写真とのコラボレーションである。スタイルも表現方法も全く異なる3人の作家が、同一の空間にそれぞれの居場所見つけ出してつくり出したモノトーンの世界は、唯一無為のものだ。ひさしぶりに強いインプレッションを得る展覧会だった。
会場で、塩事業センターの大庭さんと再会。大場さんは、「迷宮」を見て、アステカ文明の残したレリーフやナスカの地上絵を思い浮かべたというが、それは、ここで使用されている精製塩がそもそも中米産のものだからではないかという。文字通り塩の記憶の表象だというわけだ。う〜む、なかなかうまいことをおっしゃる。余談だが、山本さんの仕事を知るきっかけになったのは、茂木健一郎さんからの1本の電話だった。たまたま、金沢21世紀美術館でお二人はトークショーをやり、「en」の連載を思い出して、ご紹介いただいた。そして、ぼくは、「en」の発行元である塩事業センターの大庭さんへとつないだのだった。まさに、縁(「en」)は異なもの味なもの、ですね。
「BLACK,WHITE & GRAY」展

アートがあるとそこにお客さんは自然と引き寄せられてしまうらしい

五感生活研究所の山下柚実さんから『客はアートでやって来る』(東洋経済新報社)を贈呈していただきました。というか、半月ほど前出版を記念するパーティが、この本の主人公「板室温泉 大黒屋」で行われ、代表の室井俊二さんにご招待いただき、その会場で頂戴したのでした。山下さんからようやく書店に並んだよというご連絡をもらったので、今日紹介することにしたのです。「アート」と「経営」を融合させた「奇跡の宿」"大黒屋"。なぜ、7割以上の客がリピーターになってしまうのか、なぜ、1週間以上滞在する客が1割もいるのか、なぜ、海外からも何百人もの客が毎年わざわざやって来るのか。「保養とアートの宿」をコンセプトに、「空間で楽しむアート」を旅館に取り込み、あらたな「アートビジネス」「旅館経営」で成功を収めているその秘密に、室井さんや従業員への取材を通して肉薄しようというもの。もちろん、山下さんが執筆するのですからありがちなビジネス書ではありません。彼女の重心は常に自身の身体に置かれ、これまでの著作同様五感(+六感)を全開にして、大黒屋と格闘しています。提灯記事にいつもうんざりさせられてしまう者にとって、ひさしぶりにちゃんとした「ビジネス」、つまり正直な仕事の本を読んだぞ、という気持ちになりました。働くこと、生きること、それは「楽しく働く」ことでなくてはなりません。では、それをどう実践していくのか。アートとはアルス(技芸)であり、古代ギリシアにおいては、智慧の意でもあります。そもそもアートと仕事とは一体だった。そんなことを私たちに思い起こさせてくれる一書です。 客はアートでやって来る

動くヴィヴィアン・ガールズを見た!

映画美学校試写室にて「In The Realms of The Unreal… The Mistery of Henry Darger」を見る。ヘンリー・ダーガーのドキュメンタリー。ただし、生前の彼を知る人々のインタビューの間に、「非現実の王国」のヴィヴィアン・ガールズのアニメーションが挿入されるという異色作。アニメーションといっても、あくまでダーガーの絵画作品が使われ、登場人物の身体の一部を動かしてみせるというもの。インドネシアの影絵のような感じで手や足が動く。このアニメーションには驚かされたが、期待したほどではなかった。ドキュメンタリーとアニメという全く異なる二つの世界を結合させたために、その連続性ばかりが強調される結果となった。かえって予定調和的になってしまい、その分ダーガーの特異性が霞んでしまったように思われる。オーソドックスにドキュメンタリーで攻めきった方がよかったのではないか。82分という長さですら、ぼくには退屈に感じられた。今春シネマライズで公開予定。

なんてったってデコン派映画?

『TASC monthly』の来年の連載は粉川哲夫さんの映画エッセイ。「シネマ・シガレッタ」というタイトルで、毎回たばことフィルムの微妙なかかわりを、映画作品を基に取り上げてもらう予定。その第一回の原稿が来た。これが、めっぽう面白い。原稿はもちろん、とりあげられた作品がいい。2回、3回がどうなるのか、いまからわくわくの連載スタートです。

批評の脆弱した時代に一石を投じることができるか。

東京経済大学教授・粉川哲夫先生と再会。最後にお会いしたのは、たぶん『消費の見えざる手』でのインタビューだったので、はや15年以上も前だ。なんだか先生は、少し背が高くなったような気がした(というか、自分が縮んだ?)。来年度の『TASC monthly』に連載をお願いするため。以前から先生のウェブ「シネマノート」を愛読してきて、一度ぜひぼくの関わっているメディアに寄稿してもらえないかなと思っていた。「シネマノート」は、1日平均7000アクセスという人気サイト。『談』のブログなど足下にも及ばない。そこで、10年以上にわたって、先生は、観ては書くという作業を続けてこられた。とにかく、更新回数が半端じゃない。ご自身は映画評論家じゃないんだけどなぁとおっしゃる。しかし、この数とクオリティ、はっきりいって某有名評論家以上です。その粉川先生の「シネマノート」紙媒体版(?!)が、いよいよ来年から『TASC monthly』にお目見えする。さて、どんな映画をどんな形で論じるのか。こうご期待。

ところで先生は、海外の都市にでかけていっては、こんなこともやっているアーティストでもあるんです。→パフォーマンス

肖像画と風景画は、何が違うのか。

GDは、ある女性の質問に、「哲学をすることだって? それは、とても難しいことだ。簡単にできるものではないよ」と応えて、こう続ける。「絵画には二種類ある。肖像画と風景画だ。両者は根本的に異なっている。喩えるならば、哲学史とは肖像画。モデルと正面から対峙し、凝視することで、そのモデルの在りように接近していく。それに対して、風景画とは、アプローチそのものがまったく異なるのだ。風景画とは、何かをつくりあげること、純粋な制作行為である。哲学とは、この風景画のことだ。概念をつくるとは、そういうことであり、そうやすやすとできることではないのである」。
GDは、またこんな言い方もした。「絵画はずっと単色だった。それがある時から色を持つようになった。それは、絵画にとってとてつもない革新である。色を見ること、色を探し出して、色をつけること。こんなことは、ふつうでは絶対にあり得ないことだ。それほど、色というのは重要でありかつ概念に近いものなのだ。したがって、絵画が色を発見したことによって、はじめて哲学の領域に足を踏み込むことができたのである」。今日のGDは、まるで、ゴッホのドゥーブルだった。だがもしも、DGだったら、間違いなくそれはベーコンに替わっていただろう。

「ART UNLIMITED」で伊奈英次さんの展覧会

乃木坂のギャラリー「ART UNLIMITED」で写真家・伊奈英次さんの展覧会。81年の「in Tokyo」から06年の「Watch」まで。ちいさな回顧展といったところ。こうして通してみて見ると、それぞれのテーマに一貫性はないものの対象への向かい方、視線には、がんこなまでのこだわりが感じられる。前から言っていることだが、どんなにフォトジェニックにみえても、そこに出現する写像には、現代という時代の相が映し出されている。社会批評としての写真を、美意識に寄り添いながら丁寧につくりあげる彼の手法は、今や「カタ」の域に達している。その「カタ」を、ぼくは眼でなぞるように、繰り返し繰り返し見るのだ。
ところで、「ART UNLIMITED」では、12月に荒川修作の個展をやるとのこと。倉庫に眠っていたネオダダ時代の彫刻作品が偶然発見された。それを、1年がかりで修復、当時とまったく同じ状態で展示されるのだとそうだ。そんなうれしい話をギャラリー社長の高砂三和子さんから聞いていたら、荒川さんの事務所ABRFの本間さんと松田さんが現れた。三鷹の「天命反転住宅」に事務所を構えておられるので、見学のお願いをしたところ、快く承諾してくれた。有志を募って、見学会を催すことにしよう。

まちとアートはどうかかわっていくか、その最良のテキストが「坂のまちのアートinやつお」だ。

昨日から「おわら風の盆」で有名な富山市の越中八尾に来ている。今日から始まる「坂のまちのアートinやつお」を取材するため。昨日、このイベントの実行委員であるCAPの山下隆司さんと実行委員長の越中和紙の製作と展示、販売をしている桂樹舎の吉田泰樹さんにインタビュー。その成り立ちや、「おわら風の盆」との関連、また町おこしとのつながりなどについてお聞きした。今日は、そのサーベイ。
今年で12回目。44個所で20人の作家が参加。八尾の民家や店舗が協力して、作家と共につくりあげるアート・フェスティバルである。旧色街の置屋だった杉風荘とその周辺のいたるところに設置されたぶたのぬいぐるみとたくさんの箱でつくった犬のオブジェのインスタレーションを見る。
八尾毛利館へ。玄関入ったところの吹き抜け空間に設置された富山出身のアーティスト三隅摩里子さんのワイヤーアートのインスタレーションに圧倒される。それから昨日と同じように東町、上新町、諏訪町をぶらぶらする。昨日はまだその準備で作品が展示されているところはほとんどなかったが、今日は参加した店舗や民家は、コラボレーションの場所、ギャラリーにすっかり様変わりしていた。
現代美術系もあれば、平面、立体、陶器、あるいは写真などの作品や、作家ばかりでなく地元のアマチュア作家も参加していて、バラエティにとんでいる。会場に作家さんがいらっしゃらなくても、その会場の提供者である家主さんが入り口に出ていたり、いわゆる展覧会とは一味違った面白さがある。上新町通りの一番はずれの水上味噌醸造元店では、客間に陶製のあかりの展覧会をやっていた。部屋へあがらしてもらうと、高齢のご主人が座っておられる。作品もさることながら、部屋の欄間の意匠に驚くと、そのいわれをいろいろお話してくれた。こういうところが、このアートフェスの特徴なのだろう。玉旭酒造では、チョークアートの展示とともに子供たちにチョークで絵を描かせるワークショップをやっていた。
総合案内所で、山下さん、吉田さんと遭遇。全体を見た感想をいうと、とにかくクオリティが高い。また、それぞれの作家がその展示空間との関係をよく吟味している。さらには、会場でないところも、軒先や玄関周りを花でデコレーションしたりしてそれらしくアート空間を演出している。とにかく、全体に品がよくてセンスがいい。これまでいくつかまちをアート空間にするイベントをみてきたけれど、その中でも出色だ。
こういうと申し訳ないのだが、正直行くまではあまり期待していなかった。ところが、実際に見て体験してみて、「坂のまちのアートinやつお」がいかにすぐれたフェスティバルであるかということが分かったのだ。
アートでまちおこし、まちづくりをすでにやっているところ、またやろうとしているところは少なくない。ぜひ、「坂のまちのアートinやつお」を体験してほしい。それが成功しているかどうかはわからない。しかし、まちとアートがどう関われるのか、ここはその最良のテキストなのだから。

物質界を離陸した生命が出会うもの

美術作家の山本基さん来社。お住まいの金沢の金つばをお土産にいただく。たばこと塩の博物館に行き、それならむしろぼく経由で塩事業センターの大庭さんに聞いてみるのがいいんじゃないか、という助言を受けたとのこと。さっそくtelする。何年ぶりかで話をする。彼は茂木健一郎さんのブログを読んでいて山本さんの仕事は知っていたのこと。それならことは早い、スポンサーになれるかどうか、その辺りのことをお願いしに山本さんと会ってはくれぬかと頼むと、二つ返事でOK。なにせ、大きなインスタレーションになると7トン近い塩を使うという。これまで、会場側が用意できない場合は、自腹切っていたというではないか。作品の製作には、精製塩がかえっていいともおっしゃる。塩に水を混ぜて電子レンジに1時間以上いれておくと、カチンカチンにかたまる。それをブロック状にして、積み上げていくらしい。大きな作品になると、それを何百個と作り積み上げていくわけだ。
初めて、床に塩でつくられた細い線がマンダラのように張り巡らされた「迷宮」を見た時の衝撃は忘れられない。しかし、この塩のブロックを積上げてつくられた巨大な階段「空蝉」には、人をして深淵に突き落とすような、沈黙の力能を感じる。何より、作品を決定づけている「白」がいい。透明の結晶体が、無限に重なりあってつくり出される塩の白色。ホワイトノイズのメタファといっては身も蓋もないが、物質の将来を予感させる色であることは確かだろう。「人は塩を礼賛する」。生命がやがて物質界を離陸した時に発せられるであろう言葉を、シャルル・フーリエはこんな風に表現した。
人間の行く末を「塩」という物質に託すこと。山本さんの仕事を継続させることが、とりあえずはぼくの持続可能な社会への関わり方の一つなのだ。
山本基さんの作品は山本基ウェブサイト

『死ぬのは法律違反です』を贈呈していただく。

「天命反転住宅」をご存知だろうか。三鷹の東八道路沿いに建つ集合住宅である。ひときわ目立つ赤、青、緑、黄の外壁。しかし、なによりもユニークなのはその形態だ。円筒、半円、球、四角で構成されたユニット(住居)が9つ集まってできているのである。その中に一歩踏み込むと、さらに仰天。平らな床は、一つもなく、というよりも、凹凸の床になっていたり、床と壁と天上の境すらない球体のスペースがある。家具はすべて天上のフックにつり下げて使う、という部屋もある。
この「天命反転住宅」の設計者、荒川修作+マドリン・ギンズの新刊『死ぬのは法律違反です 死に抗する建築 21世紀への源流』を、翻訳と解題を執筆された河本英夫さんから贈呈していただいた。前著『建築する身体』との姉妹編をなす一冊で、「天命反転住宅」を含む日本での建築プロジェクトの全容を明らかにしたもの。現段階のアラカワ・プロジェクトを知る手引書でもある。
決して分かりやすい本ではないが、ひとつだけ分かったことがある。「天命反転住宅」を前にして、たぶんほとんどの人はこう思うに違いない。「天命反転住宅」とはなんなのか、これは建築なのか、建築だとしたら、荒川さんがなぜこれをつくったのか。これは、人のすむ家なのか。家だとしたら、荒川さんは、なぜこんな不思議な家とは到底思えないような家を、わざわざ住宅としてつくったのか。じつは、この問いこそまったく的外れだったのである。アラカワ・プロジェクトとは、問いというもののもつ意味を、問題にしているのだった。「天命反転住宅」とは何か、ではない。正しくは、こう問わなければいけなかった。「天命反転住宅」を前にして、なぜ、われわれはこれは何かと問うてしまったのか。とは何か、と問うこと。このことを、問題にしていたのだ。問いとは、すでに行為である。その行為を遂行していることが、すでに問いということなのであって,その結果ではないし、ましてや前提でもない。「天命反転住宅」がすでにそこにあること、そこになにがしかの意味があるとしたら、問いという行為の過程において見出すこと。いや、この言い方も正確ではない。問うということを問いのうちに見出し、そのことが「天命反転住宅」なのだ。「天命反転住宅」とは、その意味でオートポイエーシスそのものだということが分かったのである。

死ぬのは法律違反です?死に抗する建築:21世紀への源流

記憶とその形象、シュールレアリズムがマイブーム。

インタビュー依頼と講演依頼と連載依頼。すべてメールで済ませられるとはいえ、返事がかえってくればすぐさまレスする必要がでてくるし、これはこれでけっこうしんどい。昼食後も、こんなことをずっとやっていた。いつもよりう〜と早く事務所を出ると渋谷駅で号外。安部が辞任。どこまで、○○な人なのだろう。
ラフォーレ原宿のヤン&エヴァ シュヴァンクマイエル展最終日。図録を編集している渡辺裕之さんにチケットもらったので。すばらしい展覧会だった。物量が凄い。なぜ、触覚主義、シュールレアリズム、人形なのか。その真相がつかめた気がした。記憶である。記憶とその形象。つまり、イメージ、それも自分のではなくメディウムの。この場合のメディウムは、霊媒。にわかに、シュールレアリズムがマイブームに。

「鈴木理策 熊野、雪、桜」展のお知らせ

昨日TASCの企画会議の後、東京写真美術館へ。「鈴木理策 熊野、雪、桜」展の内覧会。会場に行って驚いた。ものすごい盛況。で、展覧会はというと、もちろんとてもよかったです。とくに最初の展示室から細い通路のようなスペースを通って次の展示会場に一歩足を踏み込んだ時の驚き ! もともと鈴木さん、あまり小細工は使わない人なのに、今回は違ってました。勝負に出たという感じ。ひさしぶりに写真に感動しました。
「鈴木理策 熊野、雪、桜」展
 東京都写真美術館 2007年9月1日(土)〜10月21日(日) 2階展示室

大人のためのすてきな絵本

Go Smoking の佐藤さんから、すてきな絵本を贈呈していただきました。
『GODOG ほら見えるだろう!』と『なまえ星』

『GODOG』の帯には、こんな言葉が記されてます。
「本当の夢というのは、変装とかくれんぼが大好きだ。
いちど見失うと、再び見つけだすのは容易じゃない」
(本文より)
GODOG(ゴードッグ)はくさりをちぎって飼い主から逃げてきたブルドック。
そのGODOGのとある1日の物語。
大人が日常生活で忘れがちな『夢』を思い出させてくれる、
含蓄のある不思議なストーリーです。

なんといっても、GODOGの表情がとてもいい。
佐藤さん曰く、ご自身の化身だとおっしゃっていますが、
だとしたら、なかなか含みのあるキャラクターと想像されます。

大人向けとはいえ、日頃絵本と親しむことのない大人たちに
ぜひ読んでもらいたい、と、これは僕からのメッセージです。

GODOGナカ.jpg
本文より

『GODOG ほら見えるだろう!』文:戸田昭吾/絵:マックス・ミセリ
発行スカイ・キューブ
GODOG―ほら、見えるだろう!

『なまえ星』文:戸田昭吾/絵:鈴木康昭
発行スカイ・キューブ
なまえ星

映画におけるやばい台本とは

エンタメの授業に、中学時代の親友で現在独立プロ系のプロデューサーをやっている桑山和之君をゲストスピーカーに呼んだ。「BEAUTY」の撮影を終えて、今編集の最中。ちょうどよいタイミングだった。映画において製作はなにをやるのか。一般人にはわかりにくい映画製作の仕事から話を始めてもらった。予算管理、対外交渉などについて、具体的な事例交えながら話してもらうと興味も湧いてくる。前回の南兵衛さんは、話し始めたら止らない感じでしゃべくりまくったが、桑山君はイントロだけしゃべって、まず聞きたいことを質問というかたちで学生から出してもらうという方法をとった。これがよかった。話す方向性を確認できるし、話題を共有できるからだ。「BEAUTY」の8分間のDVD を映写。エキストラ募集用につくられたものだがこれもよかったと思う。やはり、学生の関心は資金集めや新たなメディアの参入によって生じる権利関係やいわゆるライセンスに関すること。製作資金○千万円を市民の寄付から、また文化庁から○千万の助成金を得たという発言に一同驚く。しかも、数年前に同じ地域で撮影した時も、ほぼ今回と同じ寄付を集めている。映画製作において、同じ地域で同額の寄付を得られたていうことは奇跡に近いことなのだという。信頼こそ財産なのだ。
個人的に面白かったのは映画におけるやばい台本について。それは内容ではなく、ましてやキャストでもない。沢山人が出る、スタッフが沢山いる、役者が沢山出るように書かれている、この三つが「やばい」のだと。なぜなら、それは、非常にリスキーだから。もしも、オールロケで、雨で撮影が中止にでもなってごらんよ、予算がいくらあっても足らない、という。カメラが回らないのにお金だけが出ていく。気象条件にものすごく左右される点では、映画も野外フェスと同じライブ・エンタメなんだ。オープンエアのスポーツイベントのお弁当屋さんと同じ?

「ガレリア・グラフィカbis」で「勝本みつる展」を見る

「ガレリア・グラフィカbis」で「勝本みつる展」を見る。最新作は、箱物で、平面性を強く意識したような、密度の濃い作品。ぼく的には、すごくよかった。ご本人がいらしたのでご挨拶。写真家宮本隆司さんの奥さんと演出家の方がいらして、お二人にも挨拶。その昔、写真を借りるためにの宮本さんのお宅へお邪魔したことがある旨を伝えると、覚えておられた。みつるさんに『談』を沢山送ったので、そのお礼にと「初期作品集」を贈呈してもらう。感激! それだからではありませんが、『談』の次々号から、勝本さんの作品を表紙に使わせていただこうと思ってま〜す。

天才コッパースウェイト教授のスケッチ集は使えるぞ

BSで、状況劇場「ジャガーの眼」(1985年)を2時過ぎまで見ていたので眠い。「下町ホフマン」「蛇姫様」を観た頃からなんとなく状況劇場からは足が遠のいていた。唐十郎の芝居はその頃と全く変わっていなかった。最近観た友人によれば、今も変わらないらしい。歌舞伎の様式美の域に達しているということか。
『思想』に三脇康生さんの「精神科医ジャン・ウリの仕事」という興味深い論文が載っていたので、ひさしぶりに書庫からジャン・ウリらが執筆している『精神の管理社会をどう超えられるか?』を持ってきた。空間管理という点に注目すれば、まさにこの本は、その現状を、精神医療という場面に則して徹底的に批判している。今度の座談会のヒントになりそうだ。
その本のとなりに『太陽』の熊楠特集があった。『ひたち』の表紙に熊楠の「十二支考」のスケッチを載せたが、熊楠はほかにも沢山の手書きスケッチを残している。粘菌関連のスケッチにも面白いのがいっぱいある。今度、どこかでまた使えるかもしれない。またそのとなりには、『The Secret Scrapbooks of Professor A.J.Copperthwaite』が並んでいた。19世紀から20世紀初頭にかけて奇想建築物のプランをたくさん考え出した天才コッパースウェイト教授のスケッチ集。これは、『ひたち』に使えそうだ。提案してみよう。
よしながふみの「フラワー・オプ・ライフ3」を読む。なんていい話なんだろう。こういう高校生ものがぼくは好きだ。吉田秋生の「蝉時雨のやむ頃」が涙ちょちょぎれたので、そのエピソード1にあたるであろう「ラバーズ・キス」を十数年ぶりに引っ張り出してきて読み直す。これも高校生ネタで、垂涎ものだ。そういえば、集英社コバルトシリーズの作家になろうとマジで思っていた頃がぼくにもあったことを思い出して、ちょっと恥ずかしくなった。

『談』の表紙の作家木原千春さんの個展が開催されます

『談』no.77.78.の表紙を飾った木原千春さんの個展が開催されます。表紙の作品とはまた違った世界が展開される思います。
「水のかたまりである入道雲のような木原千春はイリュージョンのいろいろなかたちをうみつづける。魁偉な化けものやけものが出現し、天使が舞う。記号化された実体は解体され、美しい花を咲かす」。(美術評論家 ヨシダヨシエ)
木原千春展
 シブヤ西武B館美術画廊 2007年5月29日(火)〜6月11日(月)

写真ってこういうものだよなぁと森下君の作品を見るといつも感じる。

写真家の森下大輔さん来社。さっそく新作十数点をテーブルに並べる。てっきり銀塩のプリントだと思っていたら、インクジェットだという。安藤君、田井中さん、そしてぼく、目を丸くして見入る。
森下さんは少し変わってきて、全体的に見ても統一性がないように思うのだけれどと言うが、いえいえそんなことはありません。僕の眼にはむしろ筋が一本通っているような見えました。いつものようにどれも構造がしっかりしているし、精緻なフレーミングが写真の本来のあるべき姿を喚起させる。本人的は割合無意識にレンズを向けているらしいが、ぜんぜんそんな風には見えないな。ベランダと建物を撮影したものが妙に印象に残った。今回持参された作品のミニチュア版をポートフォリオにして預かることになった。つまり、僕が森下君に代わって営業活動をせよってことですね。ええ、ええ、頑張りますとも。まかせてください。

コーネリヤスとツーショットのポスターで閃いたのだろうか。

Book1stで、書籍版『フォーエバー・ヤン ミュージック・ミーム1 』を購入。一昨日買った CD版『FOREVER YANN Music Meme2』を聴きながら読む。そのあと、同じヤン富田の『Music for astro age』2枚組も購入。再びPCに取り込んで聴きながら仕事。冨田先生対談のお相手にヤン富田さんを指名してきて、冨田/富田のスティールパン対談がいいとおっしゃる。しかし、こっちとしては、スティールパンはあくまで脇役なので、頭をかかえてしまう。もう少し考えよう。藤田美紀さんの『愛煙家にもいわせて!』を読む。こういう声はどんどんあげてほしいけれど、これ書籍というよりコラム?! 10分で読めちゃったぞ。
愛煙家にもいわせて!

秋山由樹さんの写真展「新琉歌?沖縄島」

『談』でポートレイトを撮影してもらっているフォトグラファーの一人秋山由樹さんの写真展が、新宿のコニカサロンで開催中。「新琉歌?沖縄島」。作者曰く「2000年から制作している沖縄を主題にした連作の三作目。沖縄本島と周辺の離島を旅しながら写した写真。偶然のもの、名もないもの、写さなければうつろい永遠に失われてしまうものを写し留めたい」。これがすごくいいのだ。写体の中にぐっとひっぱられていく自分がそこにいる、という感じかな。写真的な作為がみじんもかんじられない。そのくせ、相当に計算しつくされているようにも思う。天性のものかもしれない。あらためて、彼の写真家としての素質に驚いてしまった。

「新琉歌?沖縄島」

勝本みつるさんの「あみもの娘」が登場

巣鴨にあるアーティストの勝本みつる女史のご自宅へ。すばらしい建物。昭和10年代に建てられた鉄筋のモダンアパート。こんなアパートメントがまだ残っているというのは脅威である。しかもアパート名が「ビラ・グル−ネワルト」。ハンス・バルメールの愛人で緊縛写真のモデルでもあるウニカ・チュルン(『ジャスミンおとこ』の作者)が生まれた土地名。家主さんの命名らしいのだが、こんな名前をつけてしまうのだから、かなりの趣味人なのだろう。
河合千明さんと遊びのテーマに合うものをセレクトする。最近の作品は、ますますミニマルな方向に向かっていて、ドキドキしてしまう。「あみもの娘」、「どうぶつの木」、「はんこの迷路」に決める。勝本みつるファンは絶対に買うべし。そしてそして、木原さんの次の表紙は勝本さんの近作でいこうかとマジに考えています。

畠山直哉さんから最新写真集『A BIRD』

畠山直哉さんから最新写真集『A BIRD』を贈呈していただきました。
これは、すごいです。かっこいいです。クールです。
『Blast』のシリーズですが、何かが降りてきたのでしょう。まさに、畠山さん曰く自然の恩寵。これを僥倖といわずしてなんというべきか。書店でみかけたら、ぜひ手に取ってみてください。
A BIRD写真集表紙
A BIRD写真集中
Taka Ishii Gallery発行
『A BIRD』

鎌倉で開催されている「畠山直哉展Draftsman's Pencil」を見る。

鶴岡八幡宮へ。開催されていたぼたん庭園で葉牡丹を鑑賞。お参りをして神奈川県立近代美術館鎌倉へ。本日の目的「畠山直哉展Draftsman's Pencil/鷲見和紀郎展 光の回廊」を見る。製図家の鉛筆というタイトルがつけられているように、これまでの仕事を、あたかも一人の製図家に成り代わって世界=都市をドローイングしていくというものなのか。明らかにトルボットの「自然の鉛筆」のメタファだ。じつに畠山さんらしい。
都市を描き直す。ある時は巨人の眼で、またある時は小人の眼で。マクロとミクロの視点を交錯させながら、自在に都市のディテールへ忍び込む。東武ワールドスクエアで撮影された「ニューヨーク」をはじめてちゃんと見る。アトリエでちらっと見せてもらったものより少しサイズを小さくしたように思う。この一連の作品は、現在の建築写真への強烈な批判。フォトジェニックなプロポーションばかりを探すことにご執心な建築写真家諸君、心せよ。
ライトボックスを利用して実際の透過光を見せる「光のマケット」の美しさにうっとりする。汐留の電通ビルが、浜離宮の湖面に映ってゆらいでいる、虚業へのアイロニーか?  ミルトン・キーンズの家屋群とマルセイユの超高層マンション、これらは、近代というものの病を愚直に表象している。
全体を見て思ったことは、「なんだかとても悲しい」。小さいけれど強く感じるこの寂寥感はなんだろう。以前、畠山さんの作品は幽煙の撮る写真だと称したことがあるけれど、それは幽煙ゆえの悲しさなのか。まだよくわからないが、すごく重要なことが隠されているように思う。少なくとも、この寂寥感は、畠山さんの写真を語るうえで、重要な鍵になることは間違いない、と思う。
ところで、今回の展覧会の畠山さんの図録に、同館企画課長の水沢勉さんが文章をよせているが、『談』no.64所収の佐々木正人さんとの対談「写真と生態心理学」が引用されていた。「カメラ・オブスキュラのプロジェクトは、カメラの中に暮らしているような感覚だ」という例のくだり。幽霊という言葉が思いついた発言箇所でもあって、なにやらか暗示的な気がした。
「畠山直哉展Draftsman's
Pencil/鷲見和紀郎展 光の回廊」

ダゲレオタイプ(銀板)の写真作家が訪ねてくる。

写真家・新井卓さんが来社。鈴木理策さんからの紹介。広告やエディトリアルの仕事をこなす傍ら、ダゲレオタイプ(銀板)の写真制作を続けている。このダゲレオタイプで撮影されたポートレイトのシリーズに釘付けになった。これは面白い。昔の人は、こんな風に写真を撮っていたのか。という驚きとともに、写真とは何かという根源的な問い掛けそれ自体に向かうような視線が気になった。いずれ『談』にご登場願おうと思う。ところで、ダゲレオタイプで制作している写真家は、現在日本には2人しかいないそうだ。
新井卓さんHP

木本さんのメディア芸術祭大賞受賞のお祝い会

木本圭子さんのメディア芸術祭大賞受賞のお祝い会に出席しました。工作舎の石原剛一郎さんが幹事をかって出てくれて、木本さんの縄張りであり工作舎の縄張りでもある勝ちどきの居酒屋「やまに」に集合。グラフィックデザイナーの勝井三雄さん、オートポイエーシスの河本英夫さん、多摩美術大学教授の永原泰史さん、武蔵野美術大学教授の寺山祐策さん、東京都写真美術館キュレーターの森山朋絵さん、写真家の伊奈英次さんらの他に、合原複雑系数理モデルプロジェクトの方が数人参加、さながら文理融合のコロッキウムという感じの、じつに面白い集まりになりました。木本さんは「友だちいないし」と口癖のようにいってますが、どうしてどうしてこんなにすごい人たちが、わっと集まってくるのですがたいしたもんです。それにしても、この受賞、今後の彼女の仕事をさらに飛躍させていくきっかけになるような気がします。もっともっと応援しないといけないな、と自らに言い聞かせたのでありました。余興のじゃんけん大会で、写真美術館の展覧会図録『超ヴィジュアル』のフランス語版をゲット。森山さんありがとうございました。

カオスバッタから、数理の花園へ、駒場の倉庫の密かな愉しみ。

早稲田大学理工学術院教授で同大学都市・地域研究所所長・佐藤滋さんのインタビュー。卒業制作の時期なので、エレベーターを出ると、床につくりかけの作品(模型)がたくさん置かれている。足の踏み場もない状態。佐藤先生には、「ジェイコブスの宿題」で、具体的なまちづくりに引き寄せてお話しいただいた。風土や地理的な環境を活かしたかたちで発展してきた日本の町は、ジェイコブスの暮らしたアメリカや都市の理想としたヨーロッパのそれとは大きく異なる。また、すでにそれぞれの町には地元に根をはやして活動する多種多様なまちのプレーヤーが育っている。ジェイコブスが批判した60年代のアメリカとは、社会的な基盤も違っている。日本的な自然環境を活かした、日本独自のまちづくりをよりいっそう進めていくのがよいという結論。今日はカメラマンに徹していたので、細かい議論は聞き逃してしまったが、たぶんこんな話だったと思う。西武線沿線はなじみがないが、沼袋の他に、新井薬師、野方、都立家政、鷺宮の立体化にあわせて、それぞれの地域でまちづくりが進行している。なかでも、沼袋はがんばっているらしい。
午後は、『談』のデザイナーの河合くんと待ち合わせて東大駒場の生産技術研究所へ。ERATOのオープンラボで、ERATO合原複雑数理モデルプロジェクト技術員・木本圭子さんを訪ねる。倉庫みたいでしょ、と案内されたラボは、なんのなんのステキな工房だ。文化庁第10回メディア芸術祭アート部門大賞(最高賞)になった受賞作品のデモを30インチのモニターで見せていただく。いろいろ話を聞いていたら、じつは最近こんなのつくっちゃったのよ、と奥からもってきたのがなんと立体作品。これが面白い。数理と式の深い森を抜けると、花々が咲き乱れる広い庭に出たという感じ。彼女は、いよいよアートの世界に着地した。しかも今度はカラー。種を明せば、やはりこれも数理が生み出した花園。ますます加速度が上がっている。これを素材にした作品を提供してもらうことで合意。77号の『談』は、いつにもまして、表紙と中のヴィジュアルが強力だ。乞うご期待。

「Imaginary・Numbers 2006」が「文化庁メディア芸術祭」アート部門で大賞受賞!!

Blogでもしばしば紹介しているアーティスト木本圭子さんが、「文化庁メディア芸術祭」平成18年度アート部門で大賞を受賞しました。これは大事件です。お祝いをしなくっちゃ!!
Imaginary・Numbers 2006



「文化庁メディア芸術祭」

行為の予期的待機状態の視覚化、「ビル・ヴィオラ: はつゆめ」展を見る。

森美術館へ。ビデオアーティスト「ビル・ヴィオラ: はつゆめ」展を見る。今日が最終日。会場に入ると、いきなり高さ4メートルのスクリーンの裏表に炎に包まれる男と水に打たれる男の映像が飛び込んできて、度肝を抜かれる。この「The Crossing 」もそうだが、そのあと、高速度撮影により超スローモーションな映像作品が続く。
1分間の映像を81分に引き伸ばした「Anima」、正面の何かに向かって縦に並んだ人々の視線が釘付けになる「Observance」、マニエリスムの画家ポントルモの作品「聖母のエリサベツ訪問」に着想を得たという、3人の女性の45秒間の出会いを10分間に引き伸ばした「The Greeting」。水に服を着たまま男が飛び込むシーンをスローモーションの5つの独立した映像にした「Five Angels for the Millennium」、19人の男女が立つところに突然ホースから噴射された大量の水が襲う「The Raft」など。どの作品も、ぼくの日頃の問題意識、時間と身体行為の関係性と重なるものばかりで、とても興味深かった。
超スローモーションによる身体を写し取った映像は、原理的には知覚不可能な領域で発生するイベント。それを可視化するということはそれ自体パラドクスである。その反知覚的体験が引き起こす混乱と眩暈。まさに、ぼくの好むところだ。また、「Anima」や「The Greeting」は、人間の情動・感情というものが、行為とどのような仕組みで接続するか、その有り様を垣間見せてくれる作品だ。
行為とは、アナログ的に連続した行為の連続体であるとは限らない。その行為のはるか後に表出する別種の行為系に引き継がれる行為を、いわば先取りして表れる時がある。行為の予期的待機とぼくは名付けているのだが、そういう離散的に連接する行為というものがあるのだ。
ある手の動きがあるとして、それが数分後まったく無関係な別の手を使用する行為に連接する。ある口の表情が、その数十分後に表れる別の口の表情を、あたかも予期するように(先取りするように)表れるのである。そういう身体現象が存在する。これはここ何年かのぼくの仮説である。それが、ビル・ヴィオラの映像によって、実際にこの目で確認することができた。正直驚いている。ほんとうにそんなことが起こっているとは。ビル・ヴィオラの映像作品を、身体の生態学として見直すこと。自分にとって、じつにいい「はつゆめ」となった。

『談』の表紙を飾った牛腸茂雄さんの作品が好評だ。

『談』の表紙に使った牛腸茂雄さんの写真に感動して、写真をみてもらえないかと若い女性が作品をもって来社。基本はモノクロームのプリント。全体にアンダー気味で、ややソフトフォーカス。風景、人物(顔は避けられている)、モノ、動物と対象は統一されていない。しかし、最初の数点を見て、このひとは写真がよくわかっているひとだなと直感した。聞くと、写真は基礎を少し学んで程度で、独学で覚えたらしい。スナップのように軽やかなフレーミングで切り取られた対象物、よく見ると厳格にトリミングされている。しかも、大型カメラで撮っているという。個人的にかなり気に入ったので、『談』のADの河合千明さんを紹介した。来年グループ展をやるというので期待しよう。ところで、今回の牛腸さんの初期の作品、けっこう評判。とくに若い読者の何人かから、「表紙いいですね」ということばをもらった。1968年のこんな風景が、もうどこにもないからだろうか。夕方、Yの準備会。ひさしぶりに「はげひげさん」こと篠原菊紀教授と同席。ごく最近、氷川きよしにときめくおばさんファンをつかまえてfNIRStationで脳活動調べておもろかったとはしゃいでおられた。そういう先生の方がよっぽどおもろいよ。これから、また1年、廣中直行先生や下斗米淳先生、山下柚実さんらと定期的なディスカッションが始まる。今から楽しみだ。

「臨界をめぐる6つの試論 Resolution/」という写真展。

TASC「講演会&交流会」の企画を再考し、新たに4人のメンバーを追加してみた。名前はまだ出せませんけど、けっこういいんじゃないかと思う。みなさん、お話うましいし、ディスカッションの好きな人たちばかりだから。家で原稿を書こうと思い事務所をでる。そのまえに伊奈英次さんに招待状もらっていたので、竹橋の近美に寄る。「写真の現在3 臨界をめぐる6つの試論 Resolution/」。伊奈英次さんは世界の監視カメラを撮った「WATCH」と工事中の建物を覆うシートを撮った「COVER」を出品(「WATCH」は『談』no.67「リスクのパラダイム」の表紙などで使用させていただきました)。他に、デジタル処理によってタテとヨコの比率を変化させたシリーズを発表している向後兼一さん、中央で分断し余白をあけた二枚の写真で空間の関係をとい続ける鈴木崇さん、さまざまな集団に属する人々のポートレイトを重ね合わせて一枚に焼き付けた作品を発表し続けている北野謙さん、海に自らつかって水面を撮る浅田暢夫さん、ストリートと塔と植物と庭の連作で「周縁」のイメージを表現する小野規さん。被写体も対象へのアプローチも手法も異なる6人の写真作家を「臨界」という切り口で強引に並べたという感じだった。伊奈さんのは別にして、個人的には、向後兼一さんの仕事が面白かった。ちょっとデザイン的すぎて、思慮深さに欠ける気はするけれど。「写真」表現を突き放しているところがいい。

同緯度の標高数値を元にしたアーティフィシャル・ランドスケープ

事務所へいく前に千代田線で北千住まで行く。東京芸術大学音楽学部アートリエゾンセンターで開催されているインゴ・ギュンター「TOPOLOGY DRIVE 理性、信仰、政治を超える地平」を見る。長年続けているプロジェクト「ワードプロセーサー」の他に、タイトルにもなっている「トポロジー・ドライブ」が圧巻。大教室いっぱいを使って「日米の北端から南端まで、同緯度の標高数値を元にして風景画のように表現した、映像とオブジェのインスタレーション」。しかし、今一、いや今三つぐらいピンときませんでした。展覧会に合わせてつくられた80mm×760mmの細長い「凹凸のある地平線」のリーフレットはかっこよかったけれど。

岡崎乾二郎さんと永井宏さんの個展

デザイナーの事務所に行ったついでに道玄坂の「ゆーじん画廊」に寄る。岡崎乾二郎さんのドローイングの個展を見る。今回は0号の小品が3点出品されていたが、これがなかなかよかった。いつか買える日が来るのを待とう。有楽町のクライアントに顔を出した帰りに青山の「SPACE YUI」で永井宏さんの個展「77 LOVE SONGS」を見る。ドローイング、ブックエンド、アーティストブックによるインスタレーション。会場にいらした永井さんに挨拶。鎌倉で偶然お会いした以来だ。床に積み上げられていた本のオブジェ(アーティストブック)たち。永井さんに「開いちゃだめだよ」と言われたトレーシングペーパーに包まれた1冊を購入する。開きたい気持ちを押さえながら事務所に戻る。しかし、机の前にすわったらやはりどうしても開きたくなった。そしてついに開封。するとどうだろう、浦島太郎のように煙が出てきてあっという間に……。やっぱり開けるんじゃなかった、大後悔。というのはもちろんウソ。ちゃんと包装されたままの状態で、ぼくの机のうえに鎮座ましましています。

芸術の保存・修復を貫く「生政治」の実態

『談』2号分の特集を同時に編集している。今日は、京都大学大学院・人間・環境学研究科教授・岡田温司さんのインタビュー。No.77号の特集テーマは「〈いのち〉を記録する……生命と時間」。 「(…)「生命」=「いのち」とは、それ自体で運動し、絶えることなく生成し続けるものである。静止するということが原理的にはありえない物質である。常に「時間」が入り込んでいる。「生命」科学が、「複雑性」の科学にならざるを得ないのは、この「絶えざる運き」を記述することが、物理学を主軸とする旧来の科学では厳密な意味で不可能だからだ。生命システムを捉えるには、「複雑性」の科学へ踏み込んでいかざるを得ない。これまでの「いのち」を記録する視点に決定的に欠けていた「時間」を組み込んだ、新たな生命科学の可能性を探る」というのが趣旨。 複雑系科学の第一人者と気鋭の脳科学者のインタビューと対談を予定しているが、岡田温司さんには、少し視点を変えて、芸術作品の中に内包されているはずの「いのち」をわれわれはどう評価し、どのような方法でアプローチしてきたかをお聞きした。芸術作品と「いのち」、そしてその時間について。 岡田温司さんは、先頃『芸術(アルス)と生政治(ビオス)』を上梓された。芸術作品の底流に息づく「生政治=バイオ・ポリティックス」の実態を明らかにした好著だ。「絵画の衛生学」と称した章で、保存・修復という行為がじつは作品における「生政治」ではないかという議論を展開している。芸術をめぐる言説に時間が入り込むとすれば、きまってそれは永遠や不死というかたちをともなう。芸術作品にも寿命があり、老いる権利があるというの岡田さんの眼には、現代の保存・修復へのまなざし・行為こそ、「生政治」の実践と映る。芸樹作品の保存・修復へのまなざし・行為と近代の衛生思想、健康志向は、みごとに通底しているというのだ。 保存・修復をよしとしてなんの疑いも持ってこなかったわれわれにはまさに青天の霹靂である。インタビューの内容は、本誌でじっくり読んでいただくとして、ひとつだけ小ネタを紹介すると、岡田さんは無類のオシャレさんでした。茶髪を立たせて、ブルーの縞のシャツにはでな赤い柄のベルト、縦じまのパンツにいかにも高級そうなイタもののシューズ…。さすが、イタリア美術の専門家はちがうと思いました。ほんとうにぼくと同じ年齢ですか?

畠山直哉さんの個展「Zeche Westfalen /II Ahlen」

Taka ishii Galleryへ。畠山直哉さんの個展「Zeche Westfalen /II Ahlen」を鑑賞。畠山さんの今回の個展は、ドイツ・ミュンスターの街Ahlenにある操業を停止していた工場の解体までの様子を撮影したもの。一昨年、畠山さんの暗室をお訪ねした折に一部を見せていただき、早く展覧会をやらないものかと待ちわびていた作品です。畠山さんとは、一緒に1999年にドイツ・ノルトライン・ヴェストファーレン州で開催されていた「エムシャーパーク」プロジェクトを撮影して歩きました。すでに役割を終えたいくつかの巨大工場群を保存・再生し、公共、民間施設として再利用するというプロジェクトに、ぼくたちはおおいに刺激されました。とくに「インダストリアル・ネイチャー」という概念が新鮮で、溶鉱炉が近代の自然観を表象しているという視点には説得力がありました。「また行きたいね」と畠山さんと会う度に話していたのですが、彼はこっそりと同じようなプロジェクトをすでに撮影していたわけです。暗室でその写真を見て、「あっずるい!」と一瞬思いました。でも、作品があまりによかったものですから、ぼくなんぞが行っても何もできないし、畠山さんがこうして写真に残してくれたのだからいいでしょう、とすぐに納得しましたけどね。それしても、今回のはすばらしい。工場が爆発、解体する瞬間を捉えた一連の作品もいいのですが、壊される前の無人の工場内部の写真が群を抜いていい。畠山さんの視線は、工場の記憶を、そっくり記憶のままに記録しようとしています。ドキュメントとは、記憶を残すのではなく、記録を残すもの、というなんとも当たり前の事実をぼくたちに教えようとしているように思います。「記録写真」というものに、あらためて出会えた気がしました。畠山さんは「記録は、未来に属している」なんてかっこいいこと言ってます。確かにそれは正しいかもしれないぞ、と思わせる写真展でした。
「Zeche
Westfalen /II Ahlen」

taka ishii galleryで7月22日(土)まで

菱田雄介さんの写真展「ぼくらの学校」

ニコンサロンJUNA21で「ぼくらの学校 」を見た。『談』no.75に写真作品を掲載させていただいた菱田雄介さんの写真展。チェチェン武装精力のよって行われた学校占拠事件の現場ベスラン中学校の1年後を取材撮影したもの。『談』では紙面の都合からわずか3点しか載せられなかったが、会場には事件当時のままの放置されている教室や銃弾の後も生なましい体育館、かべに貼られた被害にあわれた子どもたちの遺影、また、1年が経過して新しくなった教室で勉強する子どもたちの様子や家族の姿が、映し出されていた。1年という時間によって隔てられた同じ場所のまったく異なる相貌。その対比は何をわれわれにしめそうとしているのか。6月12日(月)まで。

暗箱自がシャッターを切る、写真家の消滅した写真

自転車で仙川の「東京アートミュージアム」へ。「二つの山」展 の畠山直哉さんの展覧会の初日。オープニングを記念して畠山直哉さんと翻訳家の管啓次郎さんのアーティスト・トークがあるというので、田井中麻都佳さんと会場で待ち合わせをする。いつも畠山さんの展覧会では不意打ちに似た衝撃を受ける。テーマがなんでありその対象にどうアプローチしたか、あらかじめご本人からうかがっていても、いざ会場で作品と対面すると、決まってガツーンとくる。これはいったいなんなんだ、これまで見たことのないもの? 見たことのない風景? 確かにそういうものもある。しかし、日常見なれたものや風景であっても、なんなんだこれは! と頭をぶん殴られたような衝撃をうけるのである。しかし、それでもマットに沈むようなことはなかったのに、今回の山の写真は違った。軽く100回ぐらい殴られた感じ。ほとんどKO負け状態。アルプスの写真である。スイス・ユングフラウ地方にロケーションして撮り下ろされた山岳写真である。写っているのは山。本物は見ていなくても、絵はがきや印刷物、TVなどで一度は目にしたことのあるありふれたアルプスの風景。しかし、そこに現出していたものは、強度とピュイサンスを孕んだ驚くべき写像であった。
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小林健二さんの展覧会「XISTUM-怪物の始まり-」

小林健二さんの展覧会「XISTUM-怪物の始まり-」を見る。怪物たちの集う世界。夢の中の夢の広場。そこに夜毎集まる歓喜、悲しみ、希いといった記憶という名の怪物たち。かれらは、何を見ているのだろうか。ゾーエー、大気、それとも憂鬱? ひさびさに、小林健二ワールドを彷徨った感じ。鉱物の見る夢の世界から、怪物たちの棲まう神話の界面へ。ぼくは、小林健二さんの物質の記憶ともいえる形象に何度となく魅了させられてきたが、今回の作品は、なかでも強くぼくを惹き付ける。物語なき時代にあえて物語を構想しようとする小林さんの夢の力が働いているからかもしれない。「ヒルコ」と「イェミル」がとくに好きだ。会場で「Nature interface」編集長の田井中麻都佳嬢と落ち合う。
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針穴という「自然の鉛筆」、田所美惠子さんの仕事

小林健二展(ギャラリー椿)に行く途中ポーラミュージアム アネックスで開催されている「田所美惠子・針穴写真展「静物」」を覗く。つい最近本屋で写真集『針穴のパリ』(河出書房新社発行)を見つけ、どんな写真家だろうと思っていたところだった。今回は、撮影場所を室内に移動して、野菜や果物を撮影したもの。彼女は一貫して撮影に針穴写真機(ピンホールカメラ)を使用している。針穴写真とは、暗箱に極小の穴をあけて、その穴に光を取り込んで撮影する方法。ぼくも子どもの時に、学研の『科学』の付録でつくったことがあった。田所さんは、あえてこの写真の原点である針穴写真機にこだわり撮影を続けている。レンズを使用していないために、ピントのあまい、よくいえばどこにもピントがあった柔らかい描像を得ることができる。とくに今回は対象が野菜や果物。モノクロではあるけれども、あたかも絵画のような世界をつくり出していた。すぐに思い出したのは、カラヴァッジオの腐敗した果物、枯れた葡萄の葉、果物籠。あの質感、量感、テクスチャーと同質のものを目の前の写真にぼくは見出していた。カラヴァッジオの徹底した写実主義。それは、的確な構成力から生まれたものだ。田所さんの写真もまた、精密に構成された「絵画」である。支持体とフィギュールの関係が、カンヴァスから印画紙に、油絵の具から光そのものに置き換わっただけ。静物画では画家のデッサン能力が問われる。しかし、静物写真を決定付けているものは、光のコントロールであるため、写真技術が介入できる余地はほんの少ししかない。そうであるにもかかわらず、田所さんの静物写真に静物画(Still Life)の伝統を一瞬にして見てとってしまったのは、写実とは何かというある種根源的とも言える自然への態度を、彼女自身強く意識しているからではあるまいか。静物画以上に静物画たらんとする静物写真。そこにあるのは、タルボットの「自然の鉛筆」としての写真だ。そういえば、ぼくに「自然の鉛筆」を教えてくれたのは畠山直哉さんだったが、彼もまたカメラ・オブスキュラ(暗箱)で自然を描写するというプロジェクトをしかけた写真家だった。『談』no.64の表紙のドローイングは、その暗箱に入り込んで描かれたもの。「写実」というそれ自体原理的で素朴な自然への対峙の仕方を、針穴写真は現代に蘇らせてくれる。しばらくは、田所美惠子さんの仕事に注目していたいと思う。

円熟と枯渇が共在するピナ・バウシュ という肉(シェール)。

国立劇場へ。ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団の公演「カフェ・ミューラー」と「春の祭典」を観る。20年前に初来日した時の演目と同じ。じつは、この公演を僕は見ている。「春の祭典」は、圧倒的なダンスだった。床にまかれた土の上を走り回る男女の肉体。大地の礼賛と太陽神イアリオの怒り、そのイアリオに捧げられる少女、そして生け贄の死。生命が一斉に芽を出す季節は、死と隣り合わせでもあるのだ。オルギアを介して両者は凄まじい速度で互いに互いを反復し合う。今回、改めて見て思ったのは、溢れ出る肉の饗宴としてのダンスは、まったく変わっていないこと。生命の匂いにむせ返るようだ。とくに女性ダンサーたちが、すさまじい。踊れば踊るだけ、内面が露になる。むき出しのいのち。またしてもゾーエーだ。ということは男性たちのそれはビオス? もう一つの演目「カフェ・ミューラー」は、ピナ・バウシュが自ら踊る数少ない作品として知られている。今回も、終止舞台に設えられたカフェのテーブル、イス、回転ドア、ガラスの壁の間をゆるゆると彷徨していた。あたかもそれは亡者のよう。ピナ・バウシュによれば、「カフェ・ミューラー」は自伝的意味合いの強い作品なのだそうで、彼女が演じているのは少女時代の自分自身だという。この作品もまた、人間の内面に潜む孤独感や寂寥感、性的な欲望、非対称性としての他者の存在がテーマになっているように思えた。首から下のげっそりと痩せたピナ・バウシュの肉体は何を訴えようとしているのか。少女時代の記憶、不安と決して癒されることのない傷痕…。すでに65歳。その年齢はむしろダンスに円熟味をあたえている。しかし、肉体が枯れはじめているのは確かだ。熟成と枯渇というアンビバレンツな共在。それは、踊り手がわれわれに差し出す肉(chair=シェール)の贈り物だ。贈与、デリダの言う不可能性としての贈与。われわれはピナ・バウシュの肉の前でたじろがざるを得ない。ダンスの源流を見たような気がした。

ブルクハルトより安藤忠雄の方に関心が向かってしまった

仙川のTAM(東京アートミュージアム)で、「二つの山」展を見る。今回は、スイス人作家・パルタザール・ブルクハルトの展覧会。世界遺産の熊野と高野山を撮影したもの。日本の山の内包する「信仰」、「神秘」をダイナミックに表現したという。確かに、神々しい。が、何かピンとこない。作家には申し訳ないが、写真作品より、安藤忠雄の建築の方に眼がいってしまった。そう、TAMは仙川で続けているプロジェクトの一つなのだ。外観も美しいのだが、展示空間が気に入った。とくに階段を上りきったところ、内部に突き出した2階部分がある。それは、吹き抜けの展示物を見るためだけにつくられたような場所。ちょうどブルクハルトの大きな縦長の滝の写真を真正面から見れるようになっている。滝を見ながら、結局、僕の心の眼は、ずっと自分の立っている建築物にそそがれていたことを素直に告白しよう。早く、第二部の畠山直哉さんの新作が見たい!!だって、ポスターからしてすごいんだもん。
「二つの山」展

木村伊兵衛のスナップが意味するもの

ブログを過去に遡って更新する。日々綴っている日記から書き写すわけだが、時々これをやると妙に客観的になって面白い。日記は、一見リニアなドキュメンテーションのようにみえるけれど、じつはさまざまな時間が交差する一種のノードなのだ。未来からの視線や現在を過去から覗き見るなどということも日記では普通に行われている。いわゆる「偽りの過去」なんて日常茶飯だし。日記をメディアとして一度ちゃんと考えてみる必要があるかもしれない。そんなことを考えながら、NHK ETV特集「木村伊兵衛の13万コマ〜よみがえる昭和の記憶」を見た。木村伊兵衛はスナップというモダニズムに根ざした写真技法を深化させた写真家だ。彼の生涯のテーマは東京の下町と秋田の農村であったが、両者を捕獲するまなざしには共通点がある。モダンというポジションの一貫性だ。現在あるいはほんのちょっと未来の視点から、世界を眺め直すこと。それをまったく意識しないでやってしまったところに木村という写真家の特質がある。徹底的なモダニズムゆえに、かえって伝統や慣習といったものを写像に蘇らせてしまったのだ。新しさ新奇さを追求することは、新しい「絵」をつくることでは必ずしもない。時にそれは、古いものに目を向けさせることにもなる。木村伊兵衛のモダンの眼は、現在の中に畳み込まれた過去の陰影をあぶり出すのだ。モダニズムのまなざしがなければ、われわれは永遠に文化の古層に出会うことはなかったのではないか。モダニズムを過去へ向かう反対の時間と捉え直して見る。それは、時間を空間化することだ。潜在性の問題系がここにも表出している。

舞踏写真家・神山貞次郎さんの写真展

神山貞次郎展「舞踏光景 1973〜」を見る。笠井叡、大野一雄、山田せつ子、上杉貢代、大森正秀らの舞踏写真展。神山さんの舞踏家への視線には、常に批評性が内在している。「舞踏とは何か」と絶えず問い続ける写像群。そこに現象するものは、行為する肉体とも舞踊するからだとも異なる、舞踏そのものとしての身体だ。神山さんの視線がすでに舞踏をしている。舞踏を撮る写真家はたくさんいるけれど、写真が舞踏になってしまっている、そういう写像をわれわれの前に突き出してくる写真家は神山さんをおいて他にない、と常々僕は思っていた。笠井叡の舞踏写真の1枚でも見れば僕の言いたいことはわかるだろう。大野一雄の身体は撮れるだろう。土方巽の身体を撮ることも不可能ではない。しかし、笠井叡の身体は撮れないのだ。それは原理的に不可能である。なぜならば、そこにある身体は舞踏そのものだからだ。何が言いたいのか。舞踏とは決して表現ではないということだ。身体を仮に何千枚、何万枚撮影しても舞踏という本質には届かない。表現を視るという接近方法を断念しなくてはならない。舞踏を撮るには舞踏写真という領野を拓く以外にない。大野一雄も土方巽もそれがあまりにも異質なものだから撮れば舞踏らしくなってしまう。しかし、笠井叡のそれは、まともに撮れば単なるダンスになってしまうだろう。笠井叡は、徹頭徹尾舞踏しかしていない。なのにダンスにみえてしまうのはなぜか。その写真が表現しか掴まえていないからである。神山貞次郎の写真には、笠井叡の舞踏がしっかり撮影されている。彼の撮っている行為そのものが舞踏だからである。舞踏を撮れる写真家はすでに一人の舞踏家である。
「土日画廊」(中野区上高田3-15-2/03-5343-1842)西武新宿線新井薬師前下車12日まで。

永遠に上映されないかもしれない映画

ある内輪の会で、毛利嘉孝さんから教えていただいたのだが、アレクサンドル・ソクーロフが撮った昭和天皇を主人公とした映画が、大変評判なのだそうだ。昭和天皇をイッセー尾形、皇后を桃井かおりが演じているという。第二次世界大戦の終結後の昭和天皇の苦悩を描いたもので、イッセー尾形が熱演しているらしい。タイトルは『Solntse(太陽)』。ヒットラーを撮った「モレク神」(Молох)、レーニンを撮った『Телец(牡牛座)』の3作目にあたる。まだ、日本での公開は未定らしいが、ものがものだけに、永遠に封切られることはないかもしれない。しかし、なんといってもあのソクローフだし、なんとしてでも見たいものだ。。

20年目の「ゴドーを待ちながら」

「ゴドーを待ちながら」を観劇する。我が家から徒歩5分のところに劇団グスタフのアトリアがある。新人公演として「ゴドー」をやるというのでいこうかなと思っていたら、近隣にお住まいの方から、招待券があまっているからと下さった。劇団グスタフは、数年前、工場跡をそのままアトリエに転用し、地域に根を下ろして活動しているユニークな劇団。ストリンドベリの作品をスウェーデン大使館でやったり、年間5、6回のペースで公演をやっている。さて、「ゴドー」はいわずと知れたサミュエル・ベケットの作品。初めて観たのは、20年以上前になる。確か紀伊國屋ホールだったと思う。一本の木とベンチがあるだけのきわめてシンプルな舞台に、最小限の動きしかないミニマルな演出だったという印象は残っているものの、誰が出ていたのか全く覚えていない。ひどいもんだ。今回の「ゴドー」は、舞台構成、演出ともに原作に忠実のように見えた。ウラジミールとエストラゴンの、饒舌にして寡黙、反芻し口ごもるという、ベケット劇独特の相反する台詞回しは原作の味をよく表現していたように思えたが、ポッツォとラッキー、少年とその兄弟の人物設定には不満も残った。やはり新人公演故の力不足か。舞台中央に堂々とそびえ立つ大木は、ちょっといただけない。また、音の使い方にも疑問が残る。ベケットはモダニズムを徹底的化させることによって、ポストモダニズムへの回路を切開いた作家である。しかも、「ゴドー」はべケットが本業である小説を書く合間に気晴らしで書いた作品として知られている。演出に凝りすぎると、そのミニマルなインテンションが薄れ、わざとらしい言葉遊びに見えてしまう。気晴らしとしての「ぬけ」こそ、「ゴドー」の最大の魅力と思っている僕には、それが少々不満だった。とはいえ、「ゴドー」をあえて新人公演でやるという気概には拍手をおくりたい。

新進気鋭の写真家の最新作が載ります

写真家・菱田雄介 さん来社。現役のテレビマンでもあって、本人曰く「二足のわらじでやってます」。海外の紛争地域にプライベートで行っては精力的に撮影を行っている。写真集『ある日、』に収められているカブール、バクダットのもとになった写真を集めてつくられたポートフォリオを持参された。デザイナーの河合千明さんが少し遅れてやってきた。彼は、すでに『ある日、』から、気に入ったものを数点チョイスしていた。それを並べてどうしようかと話していたら、じつは、6月頃にまた写真展を予定していまして、その作品がこれなんですよと、別のポートフォリオを取り出した。そこには一昨年起きたある衝撃的な事件の現場が映し出されていた。菱田さんのポートフォリオは、生々しい現場の雰囲気を伝える写真の間に間に、人々の息づかいが伝わってくるような、人物写真が差し挟まれている。それが一種独特のリズムを作り出している。ぼくも河合君も意見が一致。掲載するなら絶対にこっちだ。プリントメディアへの露出もまだだし、展覧会は決まっているけれど、どの作品を展示するかまだ決っていない。そんな状況なのに、掲載を快く引き受けてくれた。やった! これで、またひとつ目玉ができた。というわけで、『談』最新号には、新進気鋭の写真家の最新作が紙面を飾ることになります。こうご期待!!

畠山直哉さんを囲んでディープな会食

一昨日のこと。写真家・畠山直哉さん、「ネイチャー・インタフェイス」編集長・田井中麻都佳さんとGrill&Wine Bar Arossaで会食をした。目的は、もちろん食事もあるけれど、うちで編集しているメーカー系PR誌のヴィジュアルページに畠山さんの「BLAST」を1点借用掲載するため。畠山さんとは一昨年お会いして以来だ。あいかわらず精力的に活動されていて、今年もすでにいくつか内外で展覧会が予定されている。3月には米国Nazraeli Pressより『ATOMOS』以来の写真集『Zeche Westfalen ?/? Ahlen』が発行になる。「色校正が出たところなんだ」と見せてくれた。森美術館で開催された「六本木クロッシング:日本美術の新しい展望2004」 で初公開された、巨大鉄鉱工場の爆破直後の風景も含まれている。含まれているというよりも、その爆破された工場がテーマだ。まるでフリードリッヒの世界じゃないかと、初めて見た時思わず叫んでしまった氷河のような崩壊した構築物作品。ドイツロマン派を彷佛させる「凍れるランドスケープ」は、畠山さんの真骨頂。畠山さんと5年前に旅したルール工業地帯「エムシャーパークプロジェクト」がきっかけとなって生まれた作品であるだけに、ぼくとしても感慨深いものがある。20世紀とはなんだったのか、モダンとは何をいうのか、はたまた表現とは、写真とは……、畠山さん田井中さんとの対話に時間も忘れ、気がつくと時計の針は12時をとっくに回っていた。続きを読む

足立正生さんの35年ぶりの新作

『談』別冊「混合主体のエチカを求めて」でみごとにライプニッツ的身体を図像化してくれたアーティストの山村俊雄さんから電話。今、足立正生さんの映画制作を手伝っているとのこと。えっ足立正生さん?! なんと35年ぶりにメガホンをとって、撮影は快調に進んでいるらしい。田口トモロヲ主演で、ほとんどの場面が牢獄の中だという。足立正生さん自身幽閉者だったが、テロリストの行動と幽閉を正面から見つめ、その精神の在りようを問い直すという問題作。オーギュスト・ブランキ、ネチャーエフ、アントニオ・ネグリらが次々と現われて、幽閉者との対話が繰り広げられていく、想念と狂気のアラベスク。なんてワクワクするストーリーでしょう。季節社の革命家ブランキを最も敬愛する者にとっては、絶対に見逃せない作品だ。山村さん曰く、昨日のシーンには、若松孝二さん、赤瀬川源平さん、加藤好弘(ゼロ次元!!)さんらがこぞって出演したという。荻野目慶子さんの名前もあるけれど、さて彼女はなんの役だろう。今秋公開が待ちどおしい。ところで、山村さんが電話をかけてきたのは「ギロチン街道」はどこにあるかという問い合わせ。もしかして、もしかして、断頭台の美少年サン・ジュストも出てくるのか。

森下大輔さんの写真

以前写真をみせていただいた森下大輔さんがHPを開設された。まだ一緒に仕事をしてはいないのだけれど、近いうちになんとなくどこかでご一緒するような予感がする。こういう感じってなんだろうか。Morishita
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